life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「旅はときどき奇妙な匂いがする アジア沈殿旅日記」(著:宮田 珠己)

2017-12-28 22:23:03 | 【書物】1点集中型
 タマキング久々のアジア紀行ということで、例のぶっ飛んだ感覚を期待していた。帯にずらっと並んだ諸々のお題もタマキングらしい肩透かし的表現が満載だったし。
 ……が、いざ読んでみるとその期待が見事に裏切られた。他の著作でも触れられたことのある謎の足の痛みを著者はこのたび〈ペリー〉と名づけており、その〈ペリー〉と自身にとって経済的な意味で生きる糧ともなっている「旅」のあり方に向き合うことが主題なのである。のっけからいきなりMRIかなんかで宇宙に富んでいくとか、いつものように普通の顔して変な表現を織り交ぜているが、笑わせようとする雰囲気は全く感じられず、真面目な顔して自分の中へ中へ入り込みながら語っているとしか思えない。
 哲学的とまでは言わないが、思惟する旅。って、実は「おわりに」で「私の旅は思索的深みの足りない観光旅行に過ぎない」ときっぱり書かれてるんだけど(笑)もの思う感覚がそこここに溢れているように、私には思えたのである。それがたとえタマキングらしい妄想であろうとも。いちいちネタを挙げていたらきりがないのだが、特に「シュノーケリングボートの男」「お前の存在など、単なる関数に過ぎない」あたりはすごく好きだ。

 繰り返すが、私はこの本に、過去の著者のアジア紀行文にあったようなくだらな系爆笑旅行記を期待していたのである。なのに、爆笑ネタなんてほとんどないのである。にも関わらず猛烈に再読したくなったのである。
 何気なさの中に適度な(ここ大事)深みを感じさせるのは、著者の経験のなせる業だろうか。自分自身、現実逃避したくなると目的もなく飛行機に乗りたくなる質なので、著者がこれらの旅に求めた感覚はとても納得いくものだった。
 あと、ときどき表現が更に捉えどころのないSF風味になるところも個人的にはとても好き。そういう雰囲気も含めて、タマキングものとしては紀行文より日常エッセイに近い空気感があると思う。なんか結局そういう空気感に触れたくてこの人の本を読んでるのかもしれない。まあ、その一方でやっぱりアホアホ紀行文も読みたいわけだけど。とりあえずタマキング、早く小説書いてください(笑)

「謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア」(著:高野 秀行)

2017-12-21 22:41:23 | 【書物】1点集中型
 その昔、「アヘン王国潜入記」を読んで以来のご無沙汰になってしまった高野氏の探検もの。ようやっと読んだが、これもまた評判通りの破天荒ぶり。アヘン王国でもアヘン作ってたし、まあワセダ時代の諸々を知ると、高野氏だったらこのくらいやっちゃうよね! と納得してしまう痛快ルポである。
 とはいえ私自身は本当に社会人としてどうなのかというくらい世界情勢を勉強していないので、そもそもソマリランドって何? ソマリアの別名? とかそのくらいの無知である。そもそもソマリランドとはソマリランド共和国といい、「崩壊国家」ソマリア共和国内にある。で、共和国といっても国際社会では「国」として認められてはいない、謎の国なんだそうである。松本仁一氏の「カラシニコフ」でも言及されていたというのに、しかも読んだときに自分でも多少なりと感銘を受けていたようなのに、もう全然記憶にない。ううう。

 なのでもうまっさらの状態で臨むソマリランド話である。曰く、「デタラメ」で「超速」。人々は覚醒植物であるカートを日常的にやっている。カネにうるさい。基本は遊牧民。そして猛々しい。しかし、首都ハルゲイサは夜に外国人が普通に街を歩くことができる治安の良さ。「辺境作家」高野秀行ですら当初理解に苦しんだ国なのだから、素人である読者はなおさらである。
 社会構成は基本的には「氏族」が基になっていて、まるで住所のように細かく分かれる。氏族の仲間意識は、同じく氏族=クランといえば……という感じでケルトの人々を思い出す。そしてその氏族のいろいろを高野氏は理解しにくいってんで平安貴族に置き換えたが、結局わかるようなわからないような……(笑)。

 内戦を終結させるほどの力を持つ氏族の伝統ってすごいなあ、と思うけどソマリランド人でも氏族主義を良く思っている人ばかりではない。ソマリランドの存在を認めないソマリ人もいる。ただ、氏族間の扮装に決着をつける「掟」は明確なものだし、その一方で政治に氏族を持ち込まないようにする仕組みがしっかりしている。「西欧民主主義敗れたり」と書かれている(笑)のはこのためである。
 なぜ氏族というものがそれほどまでに機能するのか、その種明かしは、「ソマリの伝統の核心は血ではなく、契約である」という点にあった。氏族は確かに血縁関係が基本であるが、「血縁結社」でもあり、複数の氏族が共通の利益のもとに連合することもあるという。柱は通っているがその反面、一つの考え方だけに縛られない、必要な範囲で非常に柔軟な仕組みであると言える。だからこそ「政治に氏族を持ち込まない」という仕組みも成立しているのであろう。
 一読したぐらいではすべてを把握できない濃い内容だが、高野氏がまさに身を以て体験したソマリランドの「ハイパー民主主義」のあり方は、今度こそ私も少なくとも大枠は理解できたように思う。

 体当たりとしか言いようのない旅の最後に、最初はあれだけカネばっかりだった(笑)ソマリ人に「一日いくらとかどうでもいい」と言わしめ、ついに「氏族」の一員と認められた高野氏。同じ視点でソマリを理解して、溶け込みたいと思ってぶつかってきた高野氏の果てしなく突撃する探究心が報われたのは、やっぱり素晴らしいことだし、単純にすごいと思う。
 余談だけど、例え話で宮田氏とか杉江氏とかの名前が出てきたのはちょっと笑た。なんとなく仲間感出てるよな、いいな、と思った次第ですよ(笑)。

「母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記」(著:松浦 晋也)

2017-12-11 23:02:52 | 【書物】1点集中型
 日経ビジネスオンラインで少し読んで、本になってると知ったので図書館から。かなり高い確率でいずれ自分にも訪れるであろう「介護する者」という立場、それも「独身者が実家にて」というのも想像でき得る限り自分に非常に近いシチュエーションの実体験話である。これを知らずにおれようかと。
 恥ずかしながらぼんやりとしか理解していなかった介護制度について、著者の体験から少しずつ繙かれていき、なんとなくではあるが今さら知ることができたことも多い。もっと勉強せねば。

 家族が介護の責任を負うことは、もちろん当たり前のことではあると思う。ただ、責任を持つことと実際に介護を行うことは別の話であるということが、筆者の体験をなぞっていくうちによくわかった。だからこそ公的制度があるのであって、基本的にはそのための「国民皆保険」だろう。今さらだが、その意味では健康保険も介護保険も根本的には同じだ。
 そう考えると、介護を家族だけですべて取り仕切るというのは端から無理筋ではないか。介護によって労働力が失われると社会も回らなくなる。著者は「介護は本質として家族と公的制度が連携しないと完遂できない」「介護する側が楽をしないと、される側も不幸になる」と記しているが、本質的にはそこなのだろう。身体的にもそうだし、この本を読むと精神的な面で「楽をする」ことが、より重要だとに思う。介護の末の不幸な事件が昨今、枚挙に暇がないことを見るだけでも明らかな話なのだが、こうして詳細な体験の例を知るとなおさらそう感じた。
 介護する相手である家族が、身体的に老いることはまだ(あくまで相対的に、であるが)受け容れられるとしても、認知症による退行を見守り続けることの辛さは、体験したことのない自分には到底わからないだろう。介護する相手を思うからこそ、自分にできないことはできないと見切らなければいけない。介護そのものの実施に当たっては介護福祉の専門家の力を存分に借りながら、意思決定には家族として責任を持つ。そういうあり方が理想なのではないだろうか。

 第20章「『予防医学のパラドックス』が教える認知症対策」は特になるほどと思った。確率の話である以上、病気になるときはなるし、ならないときはならない。でも健康を保つために一人ひとりが予防に取り組むからこそ、社会全体での罹患率が下がる。結果、社会全体として安心できる確率が上がる。何かをすることによって病気になる確率やら痩せる確率やら太る確率やら(笑)、統計上の数値にいちいち左右されるより、何はともあれ健康的な生活を心がけるのが一番だということだ。

 結局、生き続ける以上、自分も近い将来確実に老いる。いや、老いそのものはとっくに始まり、現在進行形であると感じている。ただの程度の問題だ。
 超高齢化社会という現状はもはや一朝一夕に変えることができないのであるから、悪者をつくるのではなく一蓮托生であることを直視しなければならない。特に、自分が年を重ねるにつれ自体はどんどん進み、高齢者としての社会福祉を受けることが今この時代よりも難しくなっていくであろうことが、現在すでにほぼ見えているのだから。
 誰もがいずれ老いるのだから、人は自分自身のためにも、老いを社会悪にしてはならないのだ。 「情けは人のためならず」。いつの世も、どんな事態でも、この言葉に尽きるということなのだろう。

「去年を待ちながら[新訳版]」(著:フィリップ・K・ディック/訳:山形 浩生)

2017-12-08 23:40:39 | 【書物】1点集中型
 「ブレードランナー」は見たことはないし新作を観る予定もないが(興味がないわけじゃないが)そういう時期だからというわけでもなく、たまたま図書館で見つけたので読んでみた。

 星間戦争におけるろくでもなさそうな同盟相手との交渉を一手に引き受ける国連事務総長の主治医になったエリック。彼の妻キャシーは、どうにも手のつけられない浪費癖と不安定な精神状態である。彼女が手を出し、つれない夫への腹いせにこっそり盛ったドラッグは中毒性が高く、時空を超えることのできる代物だった。エリックは、自らの破滅を回避するため、また世界の破局を回避すべく、そのドラッグによるトリップで得た情報から奔走する。
 タイムトラベルとパラレルワールドと星間戦争と、SF要素は盛りだくさんである。敵側のリーグ人は虫のような容姿で翻訳機を抱えて歩いていたりもする。とはいうものの、読んでみるとSF的な空気よりもむしろ人間ぽさを強く感じる物語であった。星間戦争は状況として描かれているだけで戦闘シーンがあるわけではなく、どちらかというと政治的な動きやそれによる社会情勢が(それぞれの時間軸で)表現されている。
 そして、エリックには常にキャシーの問題がつきまとう。そしてエリックの患者である事務総長モリナーリの肉体に潜む秘密と星間戦争に起因する政治情勢が絡み合い、世界規模の危機と個人の苦悩が交錯する物語になっている。敵であり、かつ人間とはほど遠い姿のリーグの捕虜との短い関わりからも、最後にエリックに残ったのはキャシーだけ。彼女と自分の関係をどうするかだけ。どんなに広い宇宙の話も、人が生きている限りその人の物語へと収斂していくほかないのだ。

 タイムトラベルもののお約束として「自分と出会ってはならない」みたいなことはあるように思うので、未来の自分と、相手が自分を「過去から来た自分」だと認識したうえで普通に話をしている様子というのはなんだか新鮮だった。
 訳者あとがきで当時のディックの置かれていたプライベートな状況と世界情勢(つまるところベトナム戦争)について言及されてあり、それを知って読むと少なからずその状況になぞらえているところはあるのであろうという感じ。現実世界のディックは離婚を選んだそうだが、この作品におけるキャシーに対してのエリックの選択は、ディックの一つの理想だったのかもしれないなあ。