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映画・演劇のレビュー

ヨヴメガネ『海月息子の帰るとこ』

2007-10-29 22:33:02 | 演劇
 きちんと作りこまれた美術(西本卓也)と、考えられた演出(伊藤拓)のもとで、作られたヨヴメガネの第2作はとても完成度が高い。しかし、その分、彼らが持っていた野放図な魅力が、少し損なわれてしまった気もする。

 台本は、それぞれかなり荒削りで、よく解らないものがある。そのわからなさが、作品をどんなふうにも理解させる。それをある種の方向に向かわせるのが、演出だと思うが、今回の伊藤さんは、そのスタイリッシュな舞台作りのため、作品自身の孕んでいたものをあまりに整理しすぎてしまった気がする。とても難しいものだ。

 この演出のもとでは、森本洋史さんの描くまるで子供の遊びのような世界が、とても意味深なものに思えてくる。内容は、10歳の少年と20歳の女性がバイクに乗り海に行く。バイクが壊れてしまって、身動きが取れなくなる。それだけのことである。しかし、それをあんなに大きな男と、エキセントリックな女が演じてしまうことで、別のものに見えてくる。彼らの年齢差は劇の終わり近くにならないと明確にされないから、それまで2人は、ただの若いアベックに見える。さらには、『屋上からの、水ぶんぶん』というタイトルを後で知った時、これはそういうことなのか、と初めて理解する。ここは海ではない、ということを理解する。この無茶苦茶さは、まるで子供の遊びである。しかし、これは同時にそれ以上のものをしっかり提示する。子供も大人もやっていることには大きな違いはない。

 松永恭昭さんの描く世界(『他人の鯰』)も、とてつもない事件を起こし逃亡するカルト宗教団体の男女の物語を通して、彼らがただここで戯れているだけのような、遊びの世界を感じさせる。バイクを改造して、ラジオを作るなんていう無茶なエピソードを挟んで、物語は綴られる。事件を起こして、逃げ隠れしているはずの女と男は、ここで逃亡犯ごっこをしているように見える。男は顔を隠すことで、存在すら白紙にしてしまう。男と、その兄は入れ替わり、気付くと2人とも別人になってしまう。この幾分シュールな展開が面白い。

 最後の栗田俊之さんの作品は、この芝居全体を示す『コドモノアソビ』というタイトルを有する。しかし、この作品だけは、遊びの時間は描かれない。子供の時間を卒業して、社会人となった4人の男女の姿を描く。秋の花火大会をかって彼らがたまり場にしていた廃墟で見る。社会人になって1年。がむしゃらに働いて生きる男と、首をくくり死んでしまった男。2人がもうすぐ取り壊されるこの廃墟で見る最後の花火。そこに2人の友だちだった女たちもやって来る。死んでしまったものと、生きているものが、同じように季節はずれの花火という幻を見る姿が、美しく描かれていく。

 こんなにも別々の方向をむいた3本の短編戯曲をうまくひとつの作品として纏め上げた伊藤さんの手腕は高く評価されていい。それなのに、勝手な話だが、丁寧にきちんと作られたこの作品が、なんだか上手すぎて、物足りないと思うのは欲張りなんだろうなぁ。

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