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映画・演劇のレビュー

桃園会『うちやまつり』

2015-02-24 21:52:30 | 演劇
4度目の『うちやまつり』だ。深津さんが今回、何をここで見せたいと思ったか、今ではもうわからない。ただ、深津さん亡き後、今回の演出を委ねられた空ノ驛舎さんは、今までの『うちやまつり』で深津さんのしたようなアプローチはしない。桃園会の公演を任されたにも関わらず、いや、それだからこそ、自分に出来る『うちやまつり』を目指す。それが深津さんへの鼻向けにもなる。

彼の取った自分の切り口は、この不条理劇を論理的で理路整然としたものとして見せようとすることだ。しかし、それはわかりやすく整理することではない。はっきりとはわからないものを、そのままに示して行くことだ。だから何だかすっきりした作品に見える。同時にそれは無謀な行為にも見える。しかし、そうすることで深津世界の闇の中に切り込むことが出来ると信じた。

明確にすることは、答えを出すためではない。わかることと、わからないこととの間には差がない。あいまいにする勇気と、はっきりさせる勇気。その先には同じような闇が広がるから、『うちやまつり』の解釈として結果的には同じものとなるのかもしれない。それでいい。というか、そうあるべきだ。

当然主人公である男は犯人ではない。橋本健司演じるこの男は、最初から怪しくもない。しかし、彼がただの狂言回しではないことはあきらかだ。彼はこの物語の核となる。彼を中心にしてお話は展開する。彼がこの心の闇の迷宮をさまよう物語だ。

シンプルな舞台美術は、団地の壁の色。抽象的で作り込まない。なぜか自転車が一台。(それはそこに棄てられてあるようなのだが、なんだか不思議に場違いだ)「こやまさんちのにわ」があるこの空き地に、人々がやって来る。そこを通る。横切る。立ち止まる。声を掛け合う。だが、お互いに親しい間柄であるわけでもない。ただ、同じようにこの団地に暮らす人たちだ。

この団地で連続殺人事件があった。3人の女性がここで殺されている。犯人は捕まっていない。だから、団地はひっとそりしている。人々は出歩かない。しかも、今は、正月。とても静かな日。(1月の3日、4日)時間は曖昧だ。最初は夕方、夜、翌日の朝。というように流れていくのだが、照明は時間の推移を明確にはしない。

 犯人探しであるわけもない。事件についてなんらかの展開もない。まさか、新たなる殺人は起きない。ただの静かな時間がそこには流れていくばかりだ。当たり障りのない会話だけ。

だが、そんな知らない者同士のやりとりなのに、そこからいろんなものが見えてくる。彼らの中に何食わぬ顔して犯人が紛れ込んでいても何も不思議ではない。普通の顔して普通に生活して、殺人を犯す。怪しい人はいない。大量のテープが無造作に棄てられる。盗聴した声が録音されてある。そのテープをここにあるベンチで聴く。そこから事件の謎が浮かび上がるわけではない。何も明確にはならない。

 とてもストレートに演じられていく。彼らには何の謎もない。ただ、普通にそこにいる。やってきて、去っていく。のっぺらぼうな芝居になった。メリハリのない。そして、それが不気味な印象を与える。白い闇が広がる。それが今回、空ノ驛舎の見せる『うちやまつり』だ。

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