ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

引っ越し - 3月がゆく

2010年03月31日 | 季節/暦

 近くにショッピング・センターが相次いでできた。
 そのあおりを受け、自宅近くの生協が閉店するという騒ぎもあったが、核店舗に生活雑貨の店を新たに加え、再出発したのが4月ほど前のこと。

 Photo_3その生活雑貨の量販店、開店当初こそ賑わっていたものの、平日は閑散といえば語弊があるかも知れないが、流行っているようにも見えなかったのだが、最近になって親子連れや若い人たちで結構賑わっている。

 就職や入学などで親元を離れ、ひとり暮らしをする若者達が、その準備のためこの店を利用するようだ。

 カート一杯に生活用品を積んだ若者を見かけると、「頑張れよ!」とエールを送りたくなる。

 引越しといえば、我が友R君のこと。
 3年間の楽しい時間を修め、先日、無事?卒園したが、「幼稚園は遊ぶところだよ」と言って憚らず、爺ちゃん婆ちゃんは別にして両親をひとしきり嘆かせたようだ。
 Photo_8そのことは、<クリスマス・イブ>の稿でも書いた。

 5年前、伊予のM市から伯耆のY市に引越し、春秋は滴る緑と燃えるような紅葉、夏は海、冬はスキー、そして、温泉大好きっ子?として「い~い湯だなあ」?を満喫してきた彼、3年前の春、関西のベッドタウンとして造成された伊賀のN市に移った。

 若者の郊外離れ?と少子化で、自宅近くに遊び仲間が殆どいないハンデはあったものの、運動会や学芸会や遠足、そして、苺や葡萄狩りなど田園の日々を楽しんだようだ。

 少し遠い幼稚園に入ったこともあり、地元の小学校へは同じ園からふたりだけが入学、その準備も整っていたようだったが、生憎のことにこの春、父親の仕事で転居することになった。

 Photo_9入学前にして三回の引越しを経験する彼、前回と違って前向きに考えているようにも思えるのが救いだ。

 という訳で今、ペトロとカタリナ、とてもじゃないが重い引っ越し荷物は持てないので、お邪魔虫のR君と弟I君の子守、というより遊び仲間として、新しい町、お城の桜が早くも満開の土佐のK市にいる。

 そんなこんなで、別れの弥生・3月がゆき、新しい出会いが待つ卯月・4月が来る。

 “ 人の数だけの別れと出会い ” があるという。
 卒業や旅立ちにまつわる思い出など、コメントをお寄せ下さい。

 写真の紅梅、蝋梅、沈丁花、春浅き2月、<大谷記念美術館>の庭で撮ったものです。

コメント (2)
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真珠の耳飾りの少女

2010年03月26日 |  ∟ベネルクスの美術館

 マウリッツハイス美術館のフェルメール。
 最後の作品は、彼の最も有名な作品のひとつとされる「真珠の耳飾りの少女」(写真上)「青いターバンの少女とも呼ばれている。

 真珠の耳飾りをつけた少女、その僅かに開かれた唇が少し謎めいて見えるせいもあって、北欧のモナ・リサとも呼ばれているのだそうだ。

 Photo_5この絵にも、彼の「<牛乳を注ぐ女>」(アムステルダム国立美術館)と同じように、ラピス・ラズリ、あのウルトラ・マリン・ブルーが、少女の青いターバンに使われている。

 背景は、漆黒というのだろうか何の細工も施されていないように見える。
 黒い背景の中で光を浴びて浮かび上がる少女は、肩越しにじっと見つめる。その視線の先には、一体、何があるのだろうか?

 画題になった大きな真珠の耳飾り、彼の「手紙を書く女と召使」(写真中/ニューヨーク、フリック・コレクション)、ちなみにこの作品は東京での<フェルメール展>に出品された。を、はじめとして彼の作品に度々現われる。

 Photo_2本作では、少女の襟首が漆黒の背景に溶け込む辺りに、その真珠の耳飾りがあって、少女の一瞬の視線を和らげているかのようにもとれる。

 彼の作品の多くは、彼が生まれ育った町の陶磁器の色、デルフト・ブルーに彩られている。

 窓から差し込む光りを受けて、白と黄と赤と青が柔らかな「牛乳を注ぐ女」。
 黒い背景の中で、青と黄が鮮やかに浮かび上がる「真珠の耳飾りの少女」、光と闇、その手法は異なるが、色彩対比は同じように際立つ。

 マウリッツハイス美術館、「オランダ絵画黄金期という一時代を築いた画家たち、とりわけレンブラントに魅せられ、立ち去り難いものがあった。

 何時か「レンブラントの旅を綴りたい、そんなことを考えながら美術館を後にした。

 1_22_2ビネンホフから旧市庁舎の付近を散策、ホテルへ向った。
 朝のうちは霧がかかっていたせいか、街は閑散としていたが、午後になって人が出てきたようで、デパートが並ぶ辺りも賑わっていた。

 これで、美しい街デン・ハーグ(写真下)と別れ、ベルギーブリュッセルに向かう。とまれ天気に恵まれたオランダだった。

 昨秋、ロッテルダムを訪れた時、ライデンとハーグへ足を延ばした。
 その折、
4年振りにこの美術館を訪れたが、レンブラントもフェルメールも、少しも変らずそこに在ったのはいうまでもない

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デルフトの眺望

2010年03月24日 |  ∟ベネルクスの美術館

 フェルメールを訪ねる旅の続き。

 オランダ第三の街、デン・ハーグのマウリッツハイス美術館にいる。
 回の、現存する彼の絵のなかで、唯一、神話をモチーフにした「<ディアナとニンフたち>」に続き、「デルフトの眺望」のことを書く。

 ェルメPhotoールは、そのほとんど、といっても僅か30数点だが、日常の生活のなかの人物を、いわゆる風俗画として描いている。

 その数少ない絵のなかで、二点だけ風景を描いているが、何れも、故郷デルフトの風景を描いたもので、ひとつが「<デルフトの小道>」(アムステルダム国立博物館所蔵)、もう一点が「デルフトの眺望」(写真上)だ。

 上がりのデルフトの町を描いた「眺望」。 
 「小道」から3年ほど後に描かれたこの絵、「小道」の三倍ほどのキャンバスに、同じ町の風景を切り取っているが、その画趣はかなり異なり、別の表情を見せる。

 Photo_2の「眺望」、子を抱く母と三人の男女、そして、少し離れたところに女性がいる岸辺と舟が舫っているスヒー川。(写真中:部分)

 厚い雲に覆われた空、そして、町を囲う壁の向こうの町、画面を大きく、この四つの帯で構成している。

 中央やや右手、水門の両端に建物があって、左の建物の時計が七時を指している。未明まで降った雨が上って、今は青空が覗いている。

 Photoの切れ間から差し込む光が、教会の尖塔とその奥の赤い甍を明るく輝かせ、水門の辺りの建物や高い樹木の影の部分とを対比、その明暗 効果が景色に奥行きを与えている。(写真下:部分)

 さらに、川面に写る建物や舟の影と画面の半分以上を占める空が、この絵を伸びやかで開放的なものにしている。

 ウリッツハイス美術館のフェルメール。
 次回の「真珠の耳飾りの少女」との出会いを最後にこの街と別れ、ベルギーのブリュッセルへ列車で向かう。

 その道中、思いもよらぬ出来事に出会う羽目になるのだが、それはまた、別の機会に。

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春よこい ‐ 散歩道

2010年03月21日 | 散歩道/山歩き

 一昨日の19日、彼岸の入りの翌日だが、少し風が強いものの快晴だった。
 この時期、いい天気は続かないようで、その日が朝から爽やかな大気に包まれたのも、随分と久し振りのように感じた。

 小さい時分、春分、彼岸の中日は、余り天気がよくなかったような記憶が残る。
 その当時、春分の日は、遊び仲間と朝早くから山に登り日の出を迎えた。
 行事というより子供の遊びといった類のもので、お日さん迎えと呼んでいたが、他所でも似たようなことをするのだろうか?

 12季節を二分するこの日、山に登り朝日を礼拝、子供なりに太陽がもたらす恵みに感謝する意味合いもあったのだと思う。

 しかし、この日はよくよく天候に恵まれず、空を眺め随分と恨めしい思いをしたことも度々だった。
 今年も、昨夜遅くから降り始めた雨に、また・・・と思わせたが、明け方には上ったようだ。

 ところで、この時期に降る雨に、「菜種梅雨」というのがある。
 三月から四月頃にしとしとと降り続く雨のことで、菜の花が咲く頃の雨だそうだが、特に、この時期にかけて関東から西の地方で、ぐずつく天気を指す言葉でもあるようだ。

 その菜種梅雨の頃に降る雨に「春雨」というのがあって、それほど強くもなくしっとりと広い範囲に降る「地雨」(じあめ)ともいうらしい。
 Photo_2この雨、桜の花を散らせることもあって、寂しくも「花散らしの雨」とも呼ばれると知った。

 今年の春先、異常なほど天候が不順だったと聞く。
 そう言えば、3月中旬に夏日になる日もあれば、風花が舞う日もあった

 爽やかなその日、ぶらぶらと図書館への道を歩いていたら、「藪椿」と「柊南天」に「ソメイヨシノの蕾」が重なってあり、聊かの不順はあっても季節は変ろうとしていることを教えられる。

 花にはもう少しの蕾の桜並木の下、急かすお母さんを尻目にあちこちと寄り道をする幼児が微笑ましく、

 春よ来い 早く来い   歩きはじめた みいちゃんが
     赤い鼻緒の  じょじょはいて   おんもへ出たいと 待っている  

 を、知らずうちに小さく口ずさんでいた。( 作詞:相馬御風)                                                                                                                                          

 朝日俳壇  箱の中小さき靴も春を待つ (佐賀市・吉田キミ子さん/長谷川櫂選)

 に、心が和んだ。                                                                                                                                         

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ディアナとニンフたち

2010年03月19日 | イタリア

 レンブラント・ファン・レイン。
 この17世紀オランダが生んだ不世出の天才画家、光と影の魔術師が紡ぎだす魂と技法、かつて<レイクスミュージアム>と<マウリッツハイス>で満喫した。

 ところで、今回の主役はそのレンブラントではなく、勿論、ヨハネス・フェルメール。

 Photo彼は、画家中心のギルドである聖ルカ組合の理事に選ばれたことからも、生前は高い評価を得ていたようだ。

 43歳で世を去ったとされているが、その生涯がはっきりとしていないことは、<フェルメール>でも書いた。

 生涯に僅か三十数点しか残さなかった彼、この美術館に三点ある。
 そのひとつが、現存する唯一の神話、狩猟と月の女神ディアナをモチーフにした 「ディアナとニンフたち」(上)だ。

 頭に月の飾りをつけたディアナは、狩を終え休息している。
 そこへ、狩に出た若き王子アクタイオンが通りかかり、偶然に沐浴をしているデイアナを見つけてしまう。

 森の妖精・ニンフたちは、デイアナの裸体を隠そうとするのだが、はからずも覗いてしまった彼の運命やいかに、という場面を描いている。

 Photo_7この後、女神はアクタイオンに水をかけ牡鹿に変えてしまう。
 そして、哀れにも彼自身が連れてきた猟犬に噛みつかれ死んでしまうのである。

 フェルメールは、ディアナの傍らに男らしさの象徴である薊の花を描き、アクタイオンが間もなくここに来るであろうことを示唆している。

 この絵は、古代ローマの詩人オウィディウスの 「変身物語」にその画題を得たとか。
 
物語は、登場人物が動物や植物など、様々なものに変身する15のエピソードから構成されているのだそうだ。

 そう言えば、カラヴァッジョとベルニーニを訪ねる旅の最終日、ローマのバルベニーニ宮の国立古典絵画館で、カラヴァッジョの 「ナルキッソス」(下)を見たが、この絵のテーマも、やがて水仙になるナルキッソス木霊変るエコーなどの変身物語なのだ

 余談だが、<悔悛するマグダラのマリア>(210/01/29)で中断しているカラヴァッジョとベルニーニの旅、また何時の日か再開したいと思っている。
 フェルメールの残るふたつの絵次回に。

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長崎・信徒発見の日

2010年03月17日 | 聖堂/教会/聖書

 長崎での一日のことを長々と書いた。

  浦上教会の信徒会館だったか、教会と別棟にあるショップのピエタでロザリオなどを眺めていると、シスターから、「聖年の巡礼ですか?と声を掛けられた。

 Photo_4頷くカタリナに、「今晩の大浦のミサに出席しますが、あなた方も?」と訊かれ、「お伺いします」と答えると喜んで下さった。

 夕刻、路面電車で再び大浦天主堂(写真上)へと向かった。車中で聖職の方を何人か見かける。

 坂道に手こずったふたりが天主堂に着いた時、仄かなロウソクの灯りにつつまれた内陣からは、入祭唱♪ キリエが流れていた。

 1865年、プチジャン神父が、長崎に居留する人のためのミサをしていた時、浦上から小船に乗って大浦まで来た何人かの日本人がいたという。
Photo_5  ここからは些か芝居めくが、彼らはプチジャン神父に、“ マリア様の像は何処にありますか? ” と聞いたのが話の発端。                                                                                        

 彼らは、訥々と、それとも堰を切るように話したのか知らぬが、“ 浦上のキリシタンは、七代経てば黒衣のパードレ・神父様が黒船に乗って現れ、良い世の中にして下さると信じ、200年の間ひたすら隠れて信仰を守ってきた ” と話したという。                                                                                           

 このニュースは、時のローマ教皇にもたらされ、世界のキリスト者を歓喜の渦に巻き込んだとされている。

 イエズス会創設者のひとりフランシスコ・ザビエルが、日本で布教を始めて310年余り。厳しい弾圧によって根絶やしにされた筈の信仰が、庶民の暮らしの中に脈々と受継がれてきたという事実に、宗教のもたらす何かに驚く。

 カPhoto_3トリックではこの日を「信徒発見の日」として、記念すべき日、任意の祝日にされている。

 ミレニアム・大聖年の小さな巡礼の途中、国宝の浦上天主堂で長崎大司教が祭祀するミサに与れたのも何かの縁だと思う。
 その聖マリアの像(写真中)は、礼拝堂の右脇の祭壇に静かに安置されている。                                           

 その日が、今から145年前の今日、3月17日なのである

 長崎と別れたふたり、西海公園の九十九島(写真下)に遊び、有田焼を楽しみ、田んぼの中の有明佐賀空港から、JAS、日本エアシステムで帰路についた。
(写真の一部、天主堂のHPから)

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長崎・浦上教会

2010年03月16日 | 聖堂/教会/聖書

 2000年の春、長崎の大浦天主堂を訪ねた。
 石段下の新教会で、その日の夜に大浦天主堂でミサがあると聞いたが、そのことは前回に書いた。

 大浦天主堂から、日本最古の木造洋風建築というグラバー邸を廻り、坂道を下って路面電車で浦上に向かった。

 Photo好天に恵まれせいかなのか、何時ものことなのか知りようもないが、長崎市街、意外にも人が多く、ほぼ満席の電車で松山町へ向かった。

 その代わりでもないのだろうけど、平和公園、煩わしくもゼッケンを纏った人の他、人影が少なく淋しい。
 平和の像と長崎の鐘を見て、そそくさと公園と別れ、坂道を下った。先方に赤い煉瓦造りの大きな教会、浦上教会が丘の上に望める。

 ここで少し回り道を。
 カトリック中央協議会のハンドブック2000版によれば、信徒数は44万人ほど。
 教会は820余り、その教会を束ねる教区が、北は札幌から南は那覇まで16あって、それぞれ司教が配置されているとある。

 16Photo_5教区のうち東京、大阪、長崎のみ教会管区として大司教が任命されている。
 その長崎大司教区、司教座が置かれた浦上教会、カテドラル・聖堂とも呼ばれる。

 広島についで原爆が投下されたこの町は灰燼に帰し、教会も倒壊したそうだが、聖マリアの像の頭部が、奇跡的にも瓦礫の中から発見されたという。
 このマリア像のモデル、ペトロの好きなスペインの画家、ムリーリョの傑作、「無限罪の御宿り」(プラド美術館蔵)とも聞く。

 素晴らしい教会であるが、惜しむらくは、観光客が多い所為か祭壇の前まで進むことが叶わなかったこと。

 ホテルの部屋からは、長崎港の夕景が一望、眼下には、26聖人の碑などが望めた。

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長崎‐大浦天主堂

2010年03月15日 | 聖堂/教会/聖書

 ミレニアム・千年紀、もうひと昔も前のこと。
 西暦で99年、カトリック暦では区切りの00年の降誕祭に、カタリナは洗礼を受けたのだが、ペトロは、「復活祭まで待って」と、「カタリナと一緒に」と勧めるシスターを困らせた。

 そPhotoんなことや、その年の春に仕事にひとつの区切りがつくこともあって、00年の春浅き3月、カトリックと縁が深い、そして、ふたりにとって初めての長崎への小旅行を計画した。

 往復ともJASを利用、この航空会社暫くしてJALと合併したので今はない。したが、そのJALの経営が危うくなるなどとは、当時、思いもよらなかった。

 その日の長崎、空は冴え、眩しいほどに海が光っていた。
 空港からバスで長崎駅に出て、何はともあれ大浦天主堂へと路面電車で向かった。

 この町は、異国情緒に溢れると聞いていたのだが、もとより花より団子の口、どこにして異国情緒が溢れているのか、さっぱりの体たらく。
 ただ、浦上川の河口、長崎港の入江深くまで両岸に山が迫り、その中腹からの眺めには心が和んだ。

 そしてこの町、<坂の街ポルト>ほどでないにしても、矢鱈坂道が続き、お年寄りや体の不自由な人には随分と暮らしにくかろうと、いらざる同情などもした。

 話2_2はそれたが、大浦天主堂下で市電を捨て坂道を登った。
 その途中、甍のあいだから大浦天主堂の鐘楼の十字架が見え隠れする。

 国宝に指定されているこの教会、棕櫚か椰子か分からないが常緑の木々が石段に並ぶ。
 木造の内陣は歴史を感じさせ、脇祭壇の聖マリアの像が清々しかったことを覚えている。

 ただ、堂内に設えられたスピーカから絶えず流れる声が煩わしく、そのお節介ぶりに呆れる思いで、早々に天主堂の横手にある、羅典(ラテン)学校へ向かった。

 帰途、天主堂下にある新教会に入る。
 そこで教会の人から 今晩、天主堂で特別のミサがあることを聞いた。
 そのミサのことなどは、次回に。

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マウリッツハイス(下)

2010年03月13日 |  ∟ベネルクスの美術館

 ハーグから、ベルギーの首都ブリュッセルへ。
 その道中、思いもよらぬ事態になるのだが、その顛末は後日に。

 ブリュッセルの二日目だったか、オランダとの国境の街アントワープに、王立美術館と聖母マリア大聖堂を訪ねた。

 1その大聖堂の主祭壇を飾るのがルーベンスの 「聖母被昇天」(上)。

 ハーグのマウリッツハイスに架かる 「聖母被昇天」(下)はその原画だとされている。

 彼は、ルーブル美術館の連作 「マリー・ド・メディシスの生涯」に代表される、見上げるような大作を含め実に多くの絵を描いている。
 が、その多くは、ルーベンス工房で弟子たちと描いたものだという。

 ただ、美術書などによれば、大聖堂の祭壇画もマウリッツハイスの原画も、弟子を使わずにひとりで描いたとされている。

 今まさに天に昇らんとする聖母マリア、彼独特の柔らかい線使いと彩色でふくよかに描かれている。

 この原画は、注文主であるアントワープの大司教に、完成品のイメージを伝えるために描かれたものとされ、この祭壇画にかけるルーベンスの意気込みが伝わってくる。

 ルーベンスは、王の画家にして画家の王と呼ばれ、その名声を広くヨーロッパ中に轟かせたという。

 2彼は、当時アントワープを統治していたハプスブルク家に宮廷画家として仕え、フランス王妃マリー・ド・メディシスなどの権力者とも交友関係を築くなど、画業以上?に外交能力に長けていたという。

 早い話が身過ぎ世過ぎが巧みで、アントワープの目抜き通りにあるアトリエ兼住居は、彼の裕福さを窺わせるに十分なものだった。

 とは言え、フランドルが誇るこの画家、その作品は天才のみがなし得るもので、<アントワープ大聖堂>を飾る 「聖母被昇天」 「キリストの昇架」 「キリストの降架」は、紛れもなくルーベンス昇華の傑作である。

 ルーベンスを 「好きじゃないと言って憚らないカタリナ も、この祭壇画を前にしてさすがに声もなかった。

 アントワープのことなどについては、また別の機会のこととしてマウリッツハイスに話を戻す。
 ファン・アイク、ヤン・ステーンなどの絵に続いて、レンブラントの部屋、そして、フェルメールの部屋へと進む。

 二回に亘ってのマウリッツハイス、随分と長くなってしまった。

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マウリッツハイス(上)

2010年03月12日 |  ∟ベネルクスの美術館

 オランダ王室の宮殿があり、ロイヤルシティーとも呼ばれるハーグ。
 
政治の街でもあるこの街に見るべき観光スポットは少なく、観光客の多くは17世紀オランダに花開いた絵画、珠玉の名品を見るためにこの街を訪れると言ってもいい。

 その中心は、マウリッツハイス美術館。
 
行政府の集るビネンホフとフリーマーケットのテントが並ぶプレイン広場の間の通り、ホフフェイファの池を背に、その王立絵画陳列室がある。

 Photo_2美術館正面の石敷きの道は、国会議事堂への車の往来があって警備がものものしい。
 
建物の右横手、通りに面し小さな階段の奥、勝手口のようなところから入って右手、建物中央の締め切られた正面玄関から真っ直ぐに延びる階段を昇る。

 最初の部屋は、バロック期を代表するフランドルの画家ルーベンス。
 
フェルメールの作品に入る前に、生涯に約1200点ともされる膨大な作品を残し、ヨーロッパ狭しと活躍した、この多能多芸な画家について少し触れたい。

 最初の絵 「楽園のアダムとイブ」は、ヤン・ブリューゲル(父)とのコラボレーション。

 Photo_3ルーベンスが、彼独特のふくよかな線でアダムとイブを、花や動物などに秀作を表し花のブリューゲルとも称されるブリューゲルが、動物と風景と、それぞれ得意とする対象を描いたもので、とても二人の画家が描いたとは思えない。

 余談だが、画家一家に生まれたヤン・ブリューゲル。
 
父が 「バベルの塔」などの傑作を数多く残し、農民の画家とも称されるピーテル・ブリューゲルで、尊敬を込めて大ブリューゲル、もしくはブリューゲル(父)と呼ぶ。

 で、その大ブリューゲル、つまり(父)の長男、(父)と同じくピーテルと名付けたのか呼ぶのか知らないが、こちらをピーテル・ブリューゲル(子)と呼ぶ。
 話を分かりにくくしたのは、(父)の次男のヤン・ブリューゲル、自分の息子が同じようにヤンと呼ばれるためにややこしくなった。
 この子をヤン・ブリューゲル(子)と呼び本作のヤン・ブリューゲル(父)と区別、とまあこういうことなのだ。

 話を戻して、この部屋にはルーベンスの 「聖母被昇天」もあって、続きはマウリッツハイス(下)で。

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