ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

ヴェネツィア日記(6)

2013年10月21日 | イタリア

 9月××日 黄昏迫る午後遅く (快晴) 「アドリア海の真珠」 
 サン・マルコ寺院の鐘楼の前に建つのが、ヴェネツィア共和国の総督邸兼政庁だったドゥカーレ宮殿。

 話はそれるが、稀代の女たらしジョバンニ・ヤコポ・カサノヴァ。
 彼は、宗教裁判所で有罪を宣告され投獄されるのだが、そのカサノヴァもここを渡ったという嘆きの橋。
 裁判所でもあったドゥカーレ宮で判決を受けた囚人が、運河に架かる橋を渡って牢獄へ入ったためにこの名がついたのだと言う。

 A1 A3 A2

 感動を与えてくれた景色に心は残れども鐘楼を降りました
 
運河の奥に架かる橋が「嘆きの橋」です

 その嘆きの橋からサン・ザッカリーア教会に向かった。
 教会の起源は、ベネディクト派の修道院と聖ザカリアに捧げた教会ができた9世紀にまで溯る。
 15世紀末のマウロ・コドゥッシの改修によって、ヴェネツィアン・ルネッサンス様式の特徴的なファサードを持つ現在の姿になったと言う。

 B1_2 B2 B3

 ファサードの中央には聖ザカリアの像がありました
  この鄙びた教会、小さな美術館のようです
 ♪ ルネッサンス発祥の地イタリア、あるところにはあるものです

 左側の第二祭壇にはヴェネツィア派の始祖であるヤコポ・ベッリーニ(1400-1471)の庶子で、ヴェネツィア派を確立した巨匠ジョヴァンニ・ベッリーニ(1433-1515/初期ルネサンス)の「玉座の聖母と聖人たち」が。

 ヴェネツィア派といえば、色彩の錬金術師ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488-1576/盛期ルネサンス)に代表される装飾的で華麗な色彩を駆使することで知られているが、そのひとりで父親が染物師(Tintore)だったことからこう呼ばれるようになったティントレット(1518-1595 /盛期ルネサンス)の「洗礼者ヨハネの誕生」もある。

 C1 C2

 ベッリーニの「玉座の聖母と聖人たち」
 ♪ 左端は聖ペトロその隣がアレクサンドリアの聖カタリナです
  ティントレットの「洗礼者ヨハネの誕生」、右端が父聖ザカリアです
  寝台に母聖エリザベト、後輪の女性がナザレから従姉のエリザベトを訪ねた聖マリアです

 教会と別れ、黄昏迫るヴェネツィアの町を散策。
 マエストロの手になるヴェネツィアン・グラスやヴェネツィアン刺繍などの素晴らしい民芸品がウインドを飾っている。
 その後、口を真っ黒にしながらヴェネツィア名物イカスミのスパゲッティをすっきりと冷えた白ワインで楽しみホテルに帰館、ヴェネツィア観光を終えた。

 D1 D2 D3

 大運河、カナル・グランデに架かるリアルト橋です
 
ゴンドラ遊覧、なかなか楽しいものではありました
 
アドリア海の真珠と呼ばれるに相応しい景色でした

 六回にわたってお届けした “ ふたりだけのヴェネツィア日記 ”、如何でしたか?
 この陽気な国イタリアへは五回、延べ40日ほどいたが、この町は何故か縁薄くたった半日だけ。
 それだけに、ルネサンス期ヴェネツィア派の宝庫アカデミア美術館やサン・ロッコ同信会館など見逃したところが多く、何か忘れ物をしたような思いがある。

 忘れ物と言えば、迂闊にもホテルに眼鏡を忘れてしまったこともあって、素晴しい景色とともに印象が強く残っているのかも知れない。(終)
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.718

 ※ ヴェネツィア日記(5)へは、<コチラ>からも入れます。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴェネツィア日記(5)

2013年10月11日 | イタリア

 9月××日 紺碧に輝く日の午後 (快晴) 「彼の、ゲーテにして・・・」 
 サン・マルコ寺院とドゥカーレ宮殿の向かい、サン・マルコ広場から運河に面した海岸通?スキアヴォーニ河岸へと続く道を隔てて鐘楼がある。

 鐘楼にはエレベーターがあって、誰でも簡単に昇ることができる。
 エレベーターを降りて回廊に足を運んだ途端、ふたりとも絶句。

 空はどこまでも蒼く、そして、藍よりも青い海が見晴るかす水平線となって渾然と、まさに、どの辺りが海と空の境なのか判然としないほど自然に溶け合い、しかも、耀く太陽のもとでキラキラと光っていたのである。

 A3 A1_2 A2

  北に、ラグーナ・ヴェネト
 
南に陽光耀くアドリア海に浮かぶ小さな島々
 
その余りにも美しい景色に感嘆、言葉にならないとはこのことでしょうか

 暫し呆然とみとれ、そして、呆れてしまった。
 遠望するとムラーノやサン・ミケーレ、そして、リドの島々が美しく映え、白い船が波を蹴立て滑るように進んでいるのが見えた。

 イタリア紀行を著した彼のゲーテが、ヴェネツィアへ入るために、サン・ジュリアーノで5日間も待ったらしいのだが、その気持ちちょっぴり判るような気がした。

 B_1 B2 B3

  眼下には白壁と柿色の屋根、お馴染みの町並みが広がっています
 
サン・マルコ広場の人が芥子粒のように見えます
 
アドリア海、空も海も青く、ここはイタリア!を実感しました

 周りを囲む建物とそこで憩う人々、ナポレオンをして「世界で最も美しい広間」、広場ではないところが味噌?と言わしめた理由がそれなりに理解できた。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.714

 ※ ヴェネツィア日記(4)へは、<コチラ>から、同じく(6)へは、<コチラ>からも入れます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴェネツィア日記(4)

2013年09月27日 | イタリア

 99年9月××日 かなりのお昼過ぎ (快晴)「福音書記官聖マルコ」 
 サン・マルコ寺院は、福音書記官聖マタイ、聖ルカ、聖ヨハネとともに、新約聖書に収められた四つの福音書のひとつを著した聖マルコを祭祀するため建立された聖堂で、ロマネスク・ヴィザンチン様式の大聖堂である。

 「キリスト教の旗の下に航海する東方の建物」とも形容されるその姿は、9世紀から18世紀にかけて東方との交易で巨万の富を得たヴェネツィア共和国の歴史を今に伝えている。

 A1_2 A2 A3_2 

  極彩色のモザイクが施された半円形のファサード
 
その上には、五つの巨大な玉葱坊主のドームが覗いていています

 ところで、守護聖人がここヴェネツィアに眠ることになったエピソードをひとくさり。
 9世紀の初め、著名な守護聖人を得て国の格を上げようと目論んだベニスの商人たち。
 所はエジプトのアレクサンドリア、聖人を祀る僧院がイスラム教徒に襲われていることを聞きつけ遺骸を買収、ヴェネツィアに運ぶべく画策したものの、密売が発覚すればただではすまない。

 そこで、件の商人ふたりは考えた。
 イスラム教徒が忌み嫌う豚肉で遺骸を隠し、まんまと持ち出すことに成功、聖マルコは熱狂のヴェネツィア人に迎えられたという。
 何故、アレクサンドリアの僧院に聖人が祀られていたのかって?
 アレクサンドリアの教会の創建者であり、初代アレクサンドリア総主教(当時、最高位とされる聖職)だったからとされている。

 ちなみにアレクサンドリア、ローマ、今のイスタンブールであるコンスタンティノポリス、シリアのアンティオキア、そして、エルサレムとともに総主教座が置かれ、五大総主教座の一角を占めたとされている。

 この聖堂、主祭壇から奥は有料になっていて、そこには、黄金の衝立画・パラ・ドーロやヴィザンチン帝国の栄光を今に偲ばせる遺品が展示してあった。

 B1 B2

  解説書には、金色の板に宝石を散りばめたパラ・ドーロ
 
 御子キリストと聖マルコの物語を描いたヴェネツィアが誇る至宝だそうです

  辺りが薄暗く外が明るいので目が馴染まず、よく見えないのだが、ルビーやら水晶やらが金色の地金の上で輝いているようにも見えた。
 洋の東西を問わず宗教の持つ力、財力に改めて感じ入った。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.708

  ※ ヴェネツィア日記(3)へは、<コチラ>から、同じく(5)へは、<コチラ>からも入れます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴェネツィア日記(3)

2013年09月23日 | イタリア

 99年9月××日 お昼過ぎ (快晴)「世界で最も美しい広間」
 
ゴンドラ遊びを終え、ナポレオンをして “ 世界で最も美しい広間 ” といわしめたサン・マルコ広場へ。

 最近、満潮時に水に浸かることが度々と聞いていた。
 さきほどまで満潮だったよう、広場の廻りに並ぶ土産物屋などの店員さんが土のうなどの水止めを片づけ、モップなどで掃除に余念がない様子。

 A2 A5 A4_2

  広場の真ん中辺りに幅1m、高さ50㎝ほど、桟橋状の通路が置かれています
 
 広場のそこかしこには水溜まりが残っていました

 サン・マルコ広場は、観光客を凌ぐ?おびただしい鳩が群れていた。

 もうとっくに昼の時間は過ぎていて、空腹に何より弱いペトロ、「何か食べよう」とせがむ。
 カタリナ の、「土産話にね」の提案で、ヴェネツィアを舞台にした映画「旅情」、主人公が恋に落ちたシーンで有名になったカフェ、フローリアンに入った。

 B1 B2

  広場を囲む殆どの店はテラスを出していて、オンシーズには生演奏があると聞きます
 
 天気が素晴らしくテラスでと思いましたが、鳩が飛ぶのが嫌と譲りません

 オーダーは、パニーノ、ハム・トーストのようなもの。とビールとエスプレッソという奇妙な組み合わせ。
 機内で出るパニーノはなんとも味気ないが、フローリアンのそれは頗る美味く、我ながらミーハー振りに苦笑、空腹は何よりのご馳走と言うことでしょうねえ、ほんと!

 その後、狭い路地を「我事ながらよく覚えていたもンや」と感心しながら右に左にと曲がり、一旦、ホテルに戻った。
 部屋の掃除は既に終わっていて、預けていたスーツケースを部屋に運び暫し休憩。ロケーションが好いので大いに助かる。

 暫く休憩、向かったのは冒頭のサン・マルコ広場。
 三方を建物で囲まれた広場の東側、大きく開かれた側にふたつの建物、正面にサン・マルコ寺院、その右に、ドゥカーレ宮殿が並んでいる。

 C1 C4 C5

  宮殿の前、河岸にふたつの柱像が建っています
 
 聖テオドロスとヴェネツィアの守護聖人サン・マルコの象徴、有翼の獅子です

 この有翼の獅子、ヴェネツィアの紋章ともなっているのだそうだ。
 ちなみに、宮殿の前、サン・マルコ運河に面した海岸通?スキアヴォーニ河岸と言うのだそうだが、ここからの景色、実にヴェネツィア的?ではあった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.706

 ※ ヴェネツィア日記(2)へは、<コチラ>から、同じく(4)へは、<コチラ>からも入れます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴェネツィア日記(2)

2013年09月20日 | イタリア

 99年9月××日 お昼どき (快晴) 「ゴンドラに揺られて」
 旧く5世紀に、本土から追われたヴェネツィア人がラグーナの上につくった水上都市。
 それが、この町ヴェネツィアの起こりとされていると言うことは、前回書いた。

 この町には狭い路地はあっても筋や通りといった街路はなく、そして、小さな運河と複雑に入り組み、そのすべてが迷路という言葉が似合うほどだ。
 ただ、車が我が物顔に走るという当たり前の形式がなく、その点に関してはむしろ人に優しい町であるようにも思える。

 A1 A2 A3

勿論、ホテル・スプレンティッド・スイスの前は運河、桟橋が設えられています

 一泊だけなので時間がない、荷物をホテルに預け、身軽になって町に繰り出すことにした。
 レナード氏とはここでお別れなのだが、別れ際にカタリナ が、「ゴンドラを紹介してほしい」と頼むと、「お安い御用だ。廉いのを紹介するさかいに付いて来てんか」と気安く応じてくれた。

 案内してくれたのはホテルからそう遠くなく、サン・マルコ広場にも近いゴンドラ乗場。
 新婚さんに悪いから別の舟にと言ったが、新婚夫人が、「廉い方が好いので是非ご一緒に」とのこと。
 今時の若い人は、「しっかりしとるなあ」と思いながら、一番良い席は新婚さんに譲り旧婚さんは舳先辺りに。

 B3_2 B4 B1

 船頭さん?が巧みに操る櫂さばきによって、ゆらり、ゆらりと船着場を離れます
 
空はあくまで青く澄んでいて、初秋の陽が降り注いでいます
 
きらきらと煌めくと、表現するには少し水が汚れてはいます
 
が、その水面をゆっくりゆっくりと揺れながらゴンドラは進みます

 行き交うゴンドラ同士がお互い狭い水路を譲り合いながら、路地毎に架かる小さなアーチ状の橋を潜り、また、建物と建物の間の運河を進む。
 なかにはカンツォーネの歌手などをゴンドラに乗せ込み、賑やかにやっている観光客もいる。
 お互いに手を振りあい、歌い手の歌に拍手を贈りながら、結構な大人が舟遊びに興じているのである。

 C1 C21 C3

 小さな運河を巧みに抜けていきます
 
橋を潜る際には首が自然に縮こまります

 すれ違う船や追い越していく舟が増え、波のあおりを受け時には大きく左右に揺れ、その度に船縁をきつく掴んでしまうのが我ながら滑稽。

 D1 D2 D3

 いよいよゴンドラが、カナル・グランデ、大運河に入りました
 
ヴェネツィアで一番有名なリアルト橋は観光客で賑わっています
 
その橋を抜け、行き交う船を巧みに避けて運河の右端から左端へ大きく旋回

 再びリアルト橋の下を通り、往きの水路へと戻り船着場に着いた。
 ゴンドラ遊び、一艘小一時間で120,000リラ、ひとり30,000リラ、円にして1,800円ほどだろうか。(全て当時のレートです。)
 高いのか廉いのか判らないが、なかなか楽しいものではあった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.705

 ※ ヴェネツィア日記(1)へは、<コチラ>から、同じく(3)へは、<コチラ>からも入れます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴェネツィア日記(1)

2013年09月04日 | イタリア

 水の都ヴェネツィア、アドリナ海の女王、夢の浮き島とも称されている。
 この町は何故か縁薄く、訪れたのは ‘99 イタリアの旅で一度だけ、それも一泊、昼前に着いて翌朝早く出発すると言う慌ただしさだった。

 それでこの町を語るのも聊かおこがましいので、いつかの<モンマルトル日記>風に話を進めてみたい。あなたの旅の一助になれば幸い。
 写真は、例によって銀鉛フィルムからスキャニングしたので、画質は余りよくないがご容赦を。

 99年9月××日 お昼に少し前 (快晴) 「カナル・グランデ」
 この町のことは、「ヴェネツィア案内」(新潮社刊)などで、僅かだが仕入れてきた。
 それに拠れば、蛮族に追われたヴェネツィア人、窮してアドリア海のラグーナといわれる潟に、唐松の大木を何本も打ち込んで土台を作り住居を築いたとある。

  A2 A3_4 A1_2

 ♪ 松の木は水に浸かるとコンクリートのように固くなるのだそうです
 
その松の木の上、なんとまあ、ヴェネツィアの町です
 
仕組みと上空からの町、ユネスコ世界遺産(講談社刊)から拝借しました

 その様は想像をはるかに超えていて、陳腐ながら「凄いなあ」しか浮かばない。
 尤も、乏しい想像力をいくらめぐらしたところで解りっこないのだが。

 海の中道・リベルタ橋を走るバスの車窓からは、潟・ラグーナに点々と杭が立っているのが見える。
 この杭、ブレコレ・木の柱、標柱というらしいのだが、ラグーナは浅いために、行き交う船が座礁しないように杭が打ってあるらしく、これに沿って船は進むと安全なのだそうだ。

 バスは、サンタ・ルチア駅に隣接するローマ広場に到着、迎えてくれたのがイタリア気質の陽気なおじさんレナード氏。
 ここでバスと別れ、JALバスの一行、一行と言っても僅か四人だが、広場にあるタクシー乗場に向かった。

 タクシー、モトスカーフィというのだそうだが、10人ほどが乗れるモータボート。
 満潮時だったので、「運転手が、運河に架かる橋がくぐれないかもと言っている」とレナードは伝える。

 B1_4 2 B3_4   

 広場を離れたタクシー、暫く小さな運河を進み、そして大きな運河に出ました
 
水の都・ヴェネツィアのメインストリート、カナル・グランデ、大運河です

 そこは、ヴァポレットと呼ばれる水上バスやモトスカーフィ、荷物専用船のカーゴ、それに、ゴンドラが行き交う交通の要衝。

 C2 C1 C3_2
 

 カナル・グランデにひしめく船の間を器用に縫って白波を蹴立て進みます
 
両岸には、所狭し?と建物が並んでいます

 最近のヴェネツィア、温暖化と地盤沈下のため、満潮時には水に浸かることが多いと聞く。
 普段は、ホテルの専用桟橋に横付できるのだそうだが、満潮のためリアルト橋の袂にあるヴァポレットの船着場で降りた。

 D1_2 D2 B1_3

 リアルト橋付近のバス停?から、スーツケースを押しながら細い路地を抜けます
 
世界に冠たるヴェネツィア、天気が良い所為も相俟って平日にも拘らず人、人

 人波を縫って、右に曲がり左に曲がりながら路地を進み、5分も歩いただろうか、今宵のホテル、スプレンティッド・スイスに着いたのである。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.69

 ※ ヴェネツィア日記(2)へは、<コチラ>からも入れます。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖カタリナに導かれ

2013年07月04日 | イタリア

 まさに絵の具の Sienna 色とはこの町の色のことだ、と旅のガイドブックは謳う。

 赤褐色の美しい中世の面影が色濃く残る城郭都市シエナ。
 この町の新市街と旧市街の境に聖カタリナを祭祀するサン・ドメニコ教会を訪ね、旧市街のドゥオモや世界一美しいとされるカンポ広場、この手の世界一はイタリアに限らず幾つかもあるような。を訪ねたのが前回。

 今回は、この町の生まれで聖人に列せられた聖カタリナの話。
 聖カタリナ、女性として初めて聖テレサとともに、学識に優れ信仰理解において偉大な業績を残した聖人に与えられる教会博士の称号を贈られている。
 ちなみに教会博士、2000年の歴史の中で僅か35名、うち女性は4名のみだそうだ。

  A2 A1_2 A3

  その世界一美しいカンポ広場、貝の形に広がっています
 
 その要の辺りに今は市庁舎として使われているブッブリコ宮があります
 
 そして、広場のシンボル的存在がマンジャの塔です

 その “ 教会博士シエナの聖カタリナ ”、「ミサの前に読む聖人伝」(C・バリョヌェボ著・サン・パウロ刊)などに拠れば、聖徳の誉れ高く、詩人や音楽家、僧侶や聖職者は言うに及ばず俗人まで、実に多くの人が周りに集まり、聖女はそれを “ 麗しき群れ ” と名づけていたそうだ。

 聖カタリナの名を世に高からしめたのが、“ 教皇のバビロン捕囚 ”。
 ボルドー大司教から教皇に選ばれたクレメンス5世、ローマを嫌い14世紀初頭フランスのプロバンス地方アヴィニョンの町に教皇庁を置く。
 当然、フランス国王に支えられての教皇庁統率となり教皇至上権は破れ、以降フランス人教皇が6代続き、その期間は70年に及んだとされる。

  B1 B2

  ローマのミネルヴァ教会、象の背中に乗ったオベリスクが目印
 
この教会には、聖女の遺体が安置されています

 当時の教皇グレゴリウス11世に会い教皇のローマ復帰を迫り、そして、実現させたのが聖カタリナ。
 このため教皇ピウス9世は、聖女の遺体をミネルヴァ教会に移葬する荘厳な儀式を行い、聖カタリナをローマ第二の守護聖人と定めたとされ、その日(4/29)を祝う。

 聖女のアトリビュート・象徴のひとつが薔薇、カタリナ の入院に際して、多くの方にその薔薇を見舞って頂いた、感謝である。

 ところで聖カタリナはローマ第二の守護聖人、では第一の守護聖人は誰?
 勿論、聖ペテロと聖パウロ、この日(6/29)はローマ中がお休みになるんだって、えっ、なにもペトロ が威張る話じゃないって、ご尤も。

  C1 C2 C3

 ローマのサン・ピエトロ寺院の聖ペトロの像、聖人の右足に触れると仕合せになれます
 四大バシリカのひとつ、サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂の聖パウロの像です
 
オマケは、ヴァチカン博物館の大聖堂のクーポラが望めるテラスで
 
ふたりが並んでの写真、数えるほどしかなくて、ほんとに貴重なんですよ

 お休みを頂いて、シエナの町と聖カタリナのことなど二回に分けて書いたが、次回からまた、“ カタリナ便り ”、お届けできればと思っている。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.650

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

想い出の古都シエナ

2013年07月03日 | イタリア

 イタリアのトスカーナ地方に、中世の面影を今も色濃く残す城郭都市シエナ。
 初めてこの町を訪ねたのはふた昔近くも前、季節は秋真っ最中の10月、その日までのイタリアの空はアズーリ、真っ青に晴れていたことを覚えている。

 JALの定期路線バスでフィレンツェからローマに向う途中、百塔の町サン・ジミニャーノに寄り、その後シエナに向かったが、サン・ジミニャーノを離れた辺りから車窓を雨が打ちだした。
 青空も勿論素晴しいが、雨も石敷きの古道によく似合い心癒されるものがある。

 A1 A2 A3

 サン・ジミニャーノ、サン・ジョヴァンニ門を潜ると一気に中世にタイムスリップ
 
町の中心にチステルナ広場が、その昔はここがフォーラム・公共広場だったようです
 
中央には石組みの井戸が、ちなみにチステルナとは井戸の意だそうです

 シエナは皇帝派の町として教皇派のフィレンツェと、常にトスカーナ地方の覇を競う、永遠のライバルなのだそうだ。

 新市街から旧市街へとバスは走り、立派な城壁が続くマッテオッティ広場でバスを離れ、その城壁に沿って10分も歩いただろうか小さな広場に出た。
 その広場の傍らに建つのがサン・ドメニコ教会、聖カタリナを祭祀する教会である。

 B1 B2_2 B3_3

 教会に入って直ぐ、聖カタリナの胸像があります
 
サン・ドメニコ教会辺りから、小高い丘の上、城郭に囲まれた旧市街が望めます

 旧市街に入ると暫らく坂道が続き、最後の急坂を昇り切ると、左手に巨大な壁がだけがそそり立つ建物?まるで屏風に囲まれたような広場に出た。
 そこが、シエナ市民の誇り、フィレンツェのドゥオモとその威容を競ったシエナのドゥオモである。

 C1 C2 C3

 エナのドゥオモ・大聖堂、薔薇窓を囲む40人もの諸聖人の像に息を飲まされます
 
僅かに傾斜したカンポ広場、石敷きの美しい貝の形をした広場です
 
広場にはガイヤの泉があります

 ところで、聖カタリナの遺体、ローマのミネルヴァ宮殿跡に建つサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に安置してあるらしいが、左手だけこのサン・ドメニコ教会に運ばれたと伝えられている。
 ちなみに、ミネルヴァ教会、二度ほど訪ねたが、小さな美術館に引けをとらないほどの作品が並ぶ。

 銀鉛フィルムなので写りが今一だが、そこはモデルに免じてはご愛嬌かな? カタリナ  若うて輝いてて・・・、あかん、画面が滲んできた!
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.649

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花のマリア大聖堂 ‐ フィレンツェ

2011年10月10日 | イタリア

 クリスマスで賑わうフィレンツェの街を楽しんだ。
 その足で、サン・ジョヴァンニ洗礼堂の前を通り大聖堂・ドゥオーモへ入った。

 旅の掉尾を、花のマリア大聖堂、サンタ・マリア・デル・フォーレで飾るのは相応しいだろうと思う。
 大聖堂の内陣中央には、待降節の献灯台とプレゼーピオが設けられ、降誕祭のその日を静かに待っていた。

121 聖堂が所蔵する美術品の数々、なかでも洗礼堂の東扉ギルベルティ「天国の扉」のオリジナル、<ミケランジェロ「ピエタ」>、彫刻家ドナテッロ「マグラダのマリア」と「聖歌隊席」などは付属博物館に収められている。

 2221このドゥオーモ博物館、99年は大聖年の工事のため門前払い、02年にやっと入場が叶った。

 夕食の後、ドゥオーモの付近まで散歩に出た。
 洗礼堂の天国の扉のレプリカは、相変わらず美しい姿であり、大聖堂は静かに闇に眠っていた。

 その時、賑やかな鼓笛の音とともに、<アカデミア美術館>の方から、騎馬警官に先導された時代装束に扮した人々の隊列が広場を横切って行くのに出会った。
 その時代行列の面々が、軽快なリズムにあわせ、にこやかにも晴れがましい笑顔とともに通りすぎ、シニョーラ広場の方に去っていった。そして、広場にもとの静寂が戻った。

 <3132_2の街 ‐ フィレンツェ>(2011/02/07)から、<斜塔の街 ‐ ピサ>(2011/08/08)への遠足も加え、45回にわたって連載しました。

 「何時まで続くの?との声も聞こえてきそうでしたが、厚かましくも続けました。
 4241カテゴリー「イタリア」をクリックすれば、 《 フィレンツェの旅 》 を通しでご覧頂くことができます。
 
頼りないガイドでしたが、少しでも旅の参考になれば幸いです。

 写真上は、ドゥオーモ広場とサン・ジョヴァンニ洗礼堂の天国の扉、写真下は、大聖堂内陣での献灯とプレゼーピオ、そして、時代行列。(99年10月 / 02年12月)
 
さて、次なる旅は何処へ?
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.389

 このシリーズでは、旅の前に目を通した「フィレンツェ美術散歩」(新潮社刊)「ウフィッツィ美術館」(世界文化社刊)を引っ張り出し参考にしました。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

またまた・閑話休題 ‐ フィレンツェ

2011年10月07日 | イタリア

 メディチ家代々の菩提所である<サン・ロレンツォ教会>。

  この教会、ローマ教皇レオⅩ世が、ミケランジェロにファサードの設計を委ねたが、大聖堂のクーポラの工事でその名を馳せたブルネッレスキの死によって工事が中断、ファサードは未完(写真上)のままとなっている。

 2ところで、7月の終わり頃だったろうか、朝日新聞がイタリア発の「ミケランジェロ構想の教会、実現目指す 伊で住民投票へ」という囲み記事を載せた。

 記事の要旨は、“ ルネサンス期にミケランジェロが思い描きながら未完に終わった教会の姿が、500年の時を経て現実になるかもしれない ” というものだった。

  ミケランジェロは、教会内部の設計や装飾に携わったが、正面部についても1515年、白い大理石で覆われた荘厳な図面Photo(写真中)を描いたらしい。

 ところが、大理石や貴石の細工で埋め尽くされた内装に比べ、正面部は今も質素な煉瓦組みのまま建設されずに未完に終わった。

 記事は、フィレンツェの市長はこのほど、この教会の正面部の改築を目指して住民投票に諮る方針を示したとあり、住民の承認を得た上で、ミケランジェロの構想から500周年にあたる2015年に工事を完了させる方針と続いていた。

 この記事を読んで、ローマのテルミニ駅前の共和国広場に建つ、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会(写真下)を思い出した。

 ミケランジェ3ロが、時のローマ教皇ピオ4世の命で、古代ローマ時代のディオクレティアヌスの浴場跡を利用して設計をしたとされている。

 彼は、古代ローマ文明に大きな敬意を払いオリジナルを重視した。
 そのため外観はまるで廃墟のようで、正面の十字架と銘板がなければ、とても教会とは思えないような雰囲気。

 ただ、内陣は紛れもなくサン・ピエトロ大聖堂>やサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂など、ローマ4大パジリカに引けをとらぬ大伽藍だ。

 話は戻って、サン・ロレンツォ教会、今さら当時の設計どおりに改装しなくともと思う。
 何処の国でも、政治屋さんは何かしら蠢いていないと、利権のおこぼれとやらに与れないのだろなあ。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.388

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする