ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

吉祥天女 ‐ 浄瑠璃寺(3)

2014年10月25日 | 神社/仏閣

 爽やかに晴れた日(10/17)、浄瑠璃寺まで出かけた。
 農家の庭先、色づき始めた柿がたわわに稔り、稲刈りを終えた田圃の畦道には彼岸花が風に揺れている。

 紅葉と馬酔木(あせび)で知られているこの寺、今、「秘仏・吉祥天女像」が秋季特別開扉されている。
 紅葉が進み堂宇が混雑する前に、静かに拝見したいと思い訪ねた。

 A_2この天女様、カタリナ がこよなく愛していた。
 彼女が敬愛して已まなかった父が、彼女の誕生を喜びその一字を名前に戴いたと聞く。

 九体阿弥陀堂、像前に端坐し対面した。
 雅と表現するよりも、むしろ童女のような、おおどかなお貌が好ましく心癒される。
 厨子に佇まわれる三尺ほどのそのお姿、あどけなく大らかで眺めていて飽きない。

 多くを語ることはない、五穀豊穣、天下泰平、豊かな暮らしと平和を授ける幸福の女神、吉祥天女。
 重要文化財 「厨子入木造吉祥天立像」、その厨子の内部には梵天、亭釈天、四天王、弁財の四神、天部にも諸像が表されている。

 帰依するところは異にするが、ただ見つめるだけ、見つめられるだけで、罪科(つみとが)から救われる、そんな心持にさせられる。

 当尾(とうの)の里は浄瑠璃寺で、カタリナの面影を天女の面差しに見た、と言えば過ぎるだろうか。
 あたかも、今週は、その彼女の誕生週でもあった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.885

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当尾の里 ‐ 浄瑠璃寺(2)

2014年10月23日 | 神社/仏閣

 小春日和の穏やかな日(10/19)、当尾(とうの)の里、紅葉と馬酔木(あせび)で知られている浄瑠璃寺へ。

 寺名は薬師如来の居所たる東方浄土、「東方浄瑠璃世界」に由来、本堂、九体阿弥陀堂(国宝)に、九体の阿弥陀仏(国宝)を安置することから九体寺(くたいじ)の通称がある、と前号で書いた。

  B1 A1 A2

 ご本尊は二体、東方の浄瑠璃浄土たる三重塔に薬師如来(毎月8日開扉)、西方の極楽浄土たる本堂に阿弥陀如来がおわす。

 その阿弥陀如来像、“ 九品往生(くほんおうじょう)、努力や心がけなど様々な条件で、下品下生(げほんげしょう)からはじまり、下の中、下の上と最高の上品上生(じょうほんじょうしょう)まで、九つの往生の段階があるという考え(観無量寿経)から、九つの如来を祀った ”(同寺案内冊子)とある。

  B2 C1 C2

 九体の坐像の中心、丈六の中尊は來迎印(下生印)を結び、八体は半丈六で定印(上生印)を結んでいる。
 ちなみに丈六とは、お釈迦様が1丈6尺(約4.85m)あったとところからその丈(たけ)の像のこと。

 陽の沈む西方浄土へ迎えてくれる阿弥陀仏を、西に向かって拝めるよう東向きに置かれた本堂、一体一体が堂前に板扉(いたとびら)を持っているが、勿論、この日は閉ざしていた。

  D1 E2 D3 

 ところで紅葉には少し早いこの時季、それでも夏の名残りや秋の気配を感じさせる花が、浄土を表す池の周りにある。

  E1 E3 D2

 馬酔木に秋桜などのほか紫陽花や秋明菊、それに、名も知らぬ実をつけたものも。
 それぞれが、短い秋の当尾の里の優しい陽たまりのなか、佇んであった。(この稿、続く)
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.884

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小春日和に ‐ 浄瑠璃寺

2014年10月21日 | 神社/仏閣

 小春日和の穏やかな日(10/19)、秋桜(こすもす)の花が見たくなった。

 秋桜の寺と言えば大和の般若寺が知られているらしいけれど、少し足を延ばし、当尾(とうの)の里は浄瑠璃寺で秘仏に会ってきた。
 真言律宗の総本山・大和西大寺の末寺となるらしいこの寺、秋桜ならぬ馬酔木(あせび)で知られている。

  A1 A2 A3

 この日、7時に起床、カーテンを開けると六甲の山が穏やかな日差しの中にあった。
 少し経てば京も大和路も紅葉狩りで混雑する、で、思い立ったが佳日、身支度もそこそこに車を転がした。

 日曜の朝、阪神高速も空いてい、開門される9時少し過ぎに着いた。
 馬がこの葉を食べると脚が痺れ動けなくなることからそう呼ばれる常緑の低木、早春に白い壺(つぼ)形の花を総状に付けるが、勿論、この時季、花はない。

 その馬酔木が並ぶ細い参道の中ほど、とろろ蕎麦を売る食堂のおばあさんに、「おはよう、いい天気ですね」と声をかけると、「ほんに、こんな日は歩くのが楽しい」と応えてくれる。

  B1 B2 B3

 山号を小田原山と称し、ご本尊は、浄土を表す池を挟んで東、つまり此岸の三重塔におわす薬師如来、それに西、彼岸の本堂の阿弥陀如来の二体、開基は義明上人とか。

 寺名は、薬師如来の居所たる東方浄土 「東方浄瑠璃世界」に由来。
 本堂に九体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた、と拝観料に付属(つい)た薄い冊子で知る。

  C1 C2 C3  

 紅葉は少し早いけれど、僅か乍らに色づいた梢が青い空に映えて美しく、それにもまして、清明な朝の光を受けて耀く水煙に息を呑む。
 参拝客は僅か、本堂に座し、西方九体仏としばし静かなうちに対面した。

 余談だが、寺と別れ駐車場に行くと大型観光バスが着いたばかり、ささやかな僥倖に感謝した。 (この稿、続く)
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.883

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おみくじ

2014年09月14日 | 神社/仏閣

 まるで祟られたかのような大雨に、聊かへこたれたかのような8月の末の頃だった、久し振りのお天気に誘われ広田神社の辺りまで歩いた。

 本殿への石段の横、杭に張られた紐におみくじがいっぱい括られていたが、この景色、この国の原風景のひとつだと改めて思う。

 そのおみくじ、漢字では、“ 「御御籤」または「御神籤」 ”(大辞泉)と書くとある。

 Photo由来は諸説あって、“ 「くじ」に接頭語の「おみき」や「おみこし」の「おみ」が付いたと言うのが定説になっているようだが、「み」を「神」とするのは当て字だとする説 ”(言語由来辞典)もある。

 諸説ある語源は別にして籤とは、“ 紙片や竹片などに文句や記号を記し、その一つを抜き取って事の成否や吉凶を判断したり、当落・順番などを決めたりする方法 ”(大辞泉)の意。

 不届き者の誹りは免れ得ぬが、おみくじとは、神主さんやお坊さん、神様・仏様じゃない。が、胴元の籤引き?

 おみくじには、総合判断の吉・凶の他、願望、健康、恋愛・縁談、出産、金回り、仕事・商売、学業・受験、技芸、方位、旅行、争事などそれこそてんこ盛りに運勢が記されているとか。

 Photo_2待ち人は来たらず失せ物も見つからずなどとある「凶」 、どの程度の率であるのか知らないが。を、引けば、その運気は今が底、「吉」に転ずる前触れ、と細かい心遣いもみせる。

 これまでに何度も書いたが、吉田兼好は徒然草で、“ 吉凶は人に拠りて日に非ず ” と。

 が、新しき事の始めとか、何かと心細き折など、その先何となく覗いてみたい、そんな心境を上手く掴んでいるとも思う。

 大方の人は、それにどれほどの信憑(しんぴょう)があろうや、と知りつつ幾許(いくばく)かの夢を引くのだろうと思う。

 それにしても、そのおみくじの傍らで絵馬や護符を買って「願」の成就を託す、細かいことは言いっこなし!その融通無碍なる国民性、いかにも面白い。

 とまれ、酔狂老人には今更のおみくじ、若い人への専売品?なんだろうなあ、多分?
 それで、あの括られたおみくじ、何時まで置いとくのかなあ? えっ、詰まらンことはそのぐらいにしとけって!
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.864

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続々・同行二人 ‐ 金色の寺

2014年07月14日 | 神社/仏閣

 表参道、杉の大木が迫りうっそうとした月見坂。
 だらだらと続くのかと思っていたら、結構、勾配がきついところもあって酔狂老人には応える。

 A1 A2 A3

 弁慶堂、薬師堂やら観音堂、仏様や縁の人を祀る祠を滴る緑のなかに埋めて坂道は続く。
 人影もまばらな上り、なのに下りはぞろぞろと団体さんが続く、昼餉(おひる)の時間帯なのかな?

 B1 B2 B4 5 

 天台宗東北大本山、慈覚大師円仁が850年に開山したとされる中尊寺、本堂には丈六の釈迦如来がおわす。
 奥州藤原氏初代清衡(きよひら)が1124年、前九年と後三年のふたつの役(いくさ)で亡くなった無名の兵(つわもの)どもを供養するため大伽藍を造営、開基したとか。

 C1 C2 

 ちなみに、平安時代後期に奥州を舞台に、陸奥の国の豪族安倍氏と出羽清原氏が争い、清原氏が覇者となったのが前九年の役(1051-62)。
 その清原氏が消滅、藤原氏が平泉を中心に奥羽一帯に勢力を張るきっかけとなったのが後三年の役(1083-87)。

 紺紙に金字行、銀字行が一行ずつ交書された清衡発願の中尊寺経、「金銀字交書一切経」をはじめ、国宝・重文などを含む三千を超える宝物を収蔵するのが讃衡蔵(さんこうぞう)。

 Cc1 Cc2 

 さて、関山(かんざん)中尊寺の中核をなすのが国宝・金色堂。
 14世紀になって堂塔の殆どが焼失したものの、創建当時の姿で遺った唯一のものとか。

 本尊は阿弥陀如来、脇侍に観音と勢至の両の菩薩、六体の地蔵菩薩と持国天と増長天が護持する。
 今は新覆堂(おおいどう)に納まって黄金に輝いているが、かつては旧覆堂、鞘堂(さやどう)にあった。

 D1 D3 D2 D4

 時代は270年ほど下がって1397年、京の北山(ほくざん)に室町三代足利義満が開基したのが鹿苑寺。
 その舎利殿・金閣を拝観しているので驚きはないが、金色堂が初めてならば目を瞠ったと思う。

 E1 E2 E3

 ところでここ平泉は、紀行文「おくの細道」にも俳聖芭蕉の足跡が。
 初句は中尊寺の近く、義経の居館があった高舘(たかだち)で詠み、次句はここ中尊寺で、句碑も遺る。

  夏草や 兵どもが 夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
  五月雨の 降り残してや 光堂 (さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)

 F1 F2   F4

 その俳聖の像を過ぎた辺りで皮肉にも驟(はし)り雨が、大急ぎで寺内の白山神社の能楽堂を廻って、這う這うの体で退散した。

 復路、しんどくなって一ノ関から仙台まで新幹線を馳走、往路2時間余が僅30分ほどで着いちゃった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.834

 ※ 「続・同行二人 ‐ 各駅停車」へは、<コチラ>からも入れます。

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阿修羅

2014年03月10日 | 神社/仏閣

 興福寺の食堂(じきどう)跡、国宝館の真ん中、お釈迦さんの十大弟子を引き連れ鎮座まします丈六(じょうろく)もの巨仏は、本尊の木造千手観音菩薩立像

 参考までに丈六とは、お釈迦さんの身長が1丈6尺(約4.85m)あったと言うところから1丈6尺、また、その高さの仏像のこと。
 座像の場合は半分の8尺に作られるのだそうだが、それも丈六と言い、それより大きいものを大仏と言う(大辞泉)とある。

 本A尊に対面して、大破して胸から下の体部が失われているが象の冠を被った五部浄(ごぶじょう)、鶏の面容の迦楼羅(かるら)、乾闥婆(けんだつば)など乾漆八部衆立像(かんしつはちぶしゅうりゅうぞう)が並ぶ。

 八部衆とは、印度で古くから信じられてきた神話のなかで、悪霊鬼神とされた八つの神のこと。
 その生い立ちや性格、また姿や容(かたち)は様々に説かれ、複雑で不明な部分が多いとされるらしい。

 竜や大蛇や鳥の半人半獣の姿をし、人間界で恐れられた超人的神通力を持った神々は、やがてお釈迦さんの教えに従い、仏教を保護し仏に捧げ物をする役目を与えられる善神となったとか。

 その八部衆の中で、最も争いを好んだのが中央におわす阿修羅。

 同寺の解説では、“ 古代印度語とされる梵語のアスラ(Asura)の音写で、生命(asu)を与える者(ra)とされる ” らしい。
 また、” 非(a)天(sura)とも解釈 ” され、まったく性格の異なる神にもなるらしい。

 とPhoto_2まれ、仏教の守護神のひとつとされ、元鬼神に相応しく? 東南西北に持国天、増長天、広目天、多聞天(毘沙門天)が仕えることから四天王天と呼ばれる帝釈天と戦争をするものの、常に負ける存在でもあるのだそうだ。
 ちなみに、この戦いの場を修羅場と呼ぶとか。

 像は三面六臂(さんめんろっぴ)、第一手は胸前で合掌している。
 前号に書いた「魅惑の仏像 ‐ 阿修羅」(毎日新聞刊)に拠れば、第二手は左手に弓、右手に矢を持ち、第三手は左掌に日輪、右掌に月輪を捧げていたとされる。

 鎌倉時代の作とされる京都・三十三間堂の阿修羅象は、まさに阿修羅らしくいかにも武張って勇ましいお姿らしいのだが、奈良時代に彫られたとされるこちらの像は、手も足もしなやかで余りにも優しく、純真な少年そのものに見え、手のつけられない暴れ神である(だった)との想像もつかない。

 が、向かって左のお顔(下)に、果てもなく闘う神の片鱗を見た、ような気がした。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.777

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興福寺 ‐ 散歩道

2014年03月08日 | 神社/仏閣

 万葉荘で同窓会をした翌日、興福寺に阿修羅を見に行った。
 修羅場とか阿修羅の如くとかの言葉は聞くものの、仏像のことは殆ど知らなかった。

 86年と言うから25年ほども前に発行された「魅惑の仏像」(毎日新聞刊)の第一巻が阿修羅。
 それを引っ張り出し予備知識を入れて臨んだものの、前夜の深酒がたたって殆ど失念しているお粗末さ。

 ところで、像が安置されている興福寺、華厳宗や律宗など南都六宗のひとつ法相宗の大本山として知られている。

 A_2その法相宗、中国創始の宗派のひとつで、西遊記でお馴染みの玄奘三蔵が開祖、その弟子の慈恩大師基、一般には窺基(きき)と呼ばれているらしい。が、初祖とされる。

 大化の改新で、後の天智天皇、中大兄皇子の腹心として活躍、藤原氏繁栄の礎を築いた藤原鎌足とその子不比等ゆかりの寺院で、古代から中世にかけて強大な勢力を誇ったとされ、比叡山の延暦寺とともに南都北嶺と称されたという。

 明治以降、神仏分離令、廃仏毀釈などによって、境内は奈良公園の一部となったらしいが、かつては境内東側には五重塔、東金堂、食堂、中央には南大門(消失)、中門(消失)、中金堂(再建中)、講堂(消失)、西側には南円堂、西金堂(消失)、北円堂が並ぶ大伽藍だったらしく、今にその様子を窺わせる。

 この日の奈良公園、穏やかな日差しに恵まれ、東大寺・二月堂のお水取りの行もあって、平日にも関らず観光客で賑わっていた。

 その食堂(じきどう)跡に宝物収蔵庫として建てられた国宝館へと向った。(この稿、続く)
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.776

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新薬師寺 ‐ 古都散策

2011年09月12日 | 神社/仏閣

 汗みずくになった<秋篠寺>からの帰り道、たまらず大和西大寺駅までバスに乗った。
古都散策などと粋がっておれるのは、季節のいい時期だけのことのようだ。

 <万葉荘>に近い停留所でバスを降りると、その傍らに新薬師寺まで400mの看板が。
 約束をした5時まで30分ほどあり、さっと行けば間に合うと思ったのだが、看板に偽りあり?歩いても、歩いても道は続くように思えた。

 Photoようやく南門に着いたものの、チケット売り場が閉まっている。
 売り場から出てきたおばさん、「5時で閉めるんですけど・・・。遠い所から?」と訊く。
 西宮から来たことを告げ、「また来ます」と答えると、暫く黙した後、親切にも「10分しかないけど駆け足で」と言い、拝観料を払おうとすると、「お賽銭を少し・・・」と中に入れて下さった。

 十二神将とは、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる武神、この新薬師寺の塑像が最古のものらしい。

 この寺の十二神将と対面するのは何年振りだろうか?

 3_2初めてここを訪れた頃、周りは田んぼが広がり、崩れかけた土塀が本堂(写真上)を寂しく囲んでいたことを思い出す。

 今、南門と踵を接するように新しい住宅が混み合い、高円山の麓、萩の寺・白毫寺(びゃくごうじ)に続くらしい道路を挟んで僅かに田んぼが残るだけ。

 話は戻って、薄暗いお御堂の真ん中、円壇のご本尊薬師如来坐像を囲む十二の神将、いずれも甲冑を身に纏い厳つく虚空を睨む。

 とりわけ有名なのが、髪を逆立て目を見開いて怒号する伐折羅(ばさら)大将像(写真下)。
 この日も、激しい怒りもあらわに圧倒する力強さで立っていた。

 僅か10分足らずの拝観だったが、感謝の気持ちで幾ばくかを置き辞した。

 大和をこよなく愛したという写真家・入江泰吉さんの写真美術館の前辺りから雨が落ちてきた。
 日傘を持っていたが、濡れる? のが嫌で差さずに歩いていたら、すれ違う人が薄く笑っていたような。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.377

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伎芸天 ‐ 古都散策

2011年09月09日 | 神社/仏閣

 地蔵盆の暑く気だるい日の午後、<秋篠の道>を歩いた。

 汗みずくの身体に、苔むす庭と青紅葉の梢を渡る風が涼しい、と言いたいのだが、一雨来そうで来ない空模様は容赦なく汗を搾り取る。

 A2A1秋篠寺、チケットとともに貰った「小誌・尊像略記」に、開基(創立者)は、奈良時代の南都六宗のひとつ法相宗の僧・善珠を招じた光仁天皇の勅願寺だったとある。

 山号はなく、宗派は法相宗から真言宗に転じ、明治の頃に浄土宗に属した時期もあるが、昭和二十四年に単立となり、どの
A4A3宗派・宗旨にも偏していないともある。

 山門から続く小径は緑が滴り、その脇に “ 苔の寺 ” と別称されるに相応しい苔むす庭が広がってい、その向こうに小体ながら堂々とした本堂(国宝)があった(写真上)。

 本堂には、ご本尊の薬師如来を挟んで日光菩薩と月光菩薩がおわし、その両脇に十二神将が六体ずつ並ぶ。その薬師三尊、国の重要文化財に指定されているそうな。

 Photo_4そして、祭壇に向かって左端、目指す “ 伎芸天 ” (写真中)がおわした。

 先の「尊像略記」には、大自在天(シヴァ神)が天界で器楽に興じている時、その髪の生え際から化生せられた天女で、衆生の吉祥と芸能を主宰、諸技諸芸の祈願を納受し給うと説かれる、とある。
 単独での信仰がそれほど広まらなかったこともあり、現存する古像はここの一体のみとも。

 堂内は撮影禁止、求めた写真葉書の封筒に、「<風立ちぬ>」の堀辰雄さんの掌編「十月」の抜粋があった。

 この少し荒れた御堂にある伎芸天の像をしみじみと見てきたばかりのところだ
 朱(あか)い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香にお灼(や)けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏し目にこちらを見下ろされ

 Photo_6とあり、「なるほど、巧いものだ」と感じ入る。

 此処はなかなかいい村だ、寺もいい
 いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい
 いま、秋篠という寺の、秋草のなかに寝そべって書いている

 と、続いているが、彼が「十月」を書いた頃の風情は、残念ながら今は残ってないようだ。

 ところで、この寺の別尊、一面六臂の憤怒相 “ 大元帥明王像 ”(写真下)、毎年6月6日の大祭にのみ開扉されるのだそうだ。(続く)
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.376

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弥生三月

2010年03月01日 | 神社/仏閣

 6日からは、冬眠をしていた虫が穴から出てくる頃という啓蟄
 それが過ぎればいよいよ季節の分け目、春分

 奈良東大寺二月堂修二会
 3月中頃お水取りの行があり、大きなたいまつに火が点される。

 Photo_4関西ではこの頃に、時ならぬ雪に見舞われることが間々あって驚かされたものだが、地球温暖化の影響なのか、ここ数年はとんとお目にかからない。

 花屋の店先で、「フサアカシア」の花を見つけた頗る好天の日、廣田神社まで散歩の足を延ばした。
 官幣大社廣田神社の参道、松の並木のすぐ隣まで民家がひしめく。

 案内によれば、御所の西にあることからお公家さんたち、「西の方の宮しゃんへお参りに」と、廣田神社に参詣したことから西宮の地名が生まれたとあり、なるほどそうかと、いともたやすく納得させられてしまう。

 そして案内Photo_5は、由緒あるこの神社、昔、境内に分祀していた戎社を分社してやった、と続く。
 世間では、「西宮神社、えべっさんが、戎社の総社として賑わって?おるが、元を糺せばこっちが本社じゃ」と何やら威張っている風にもとれ可笑しい。

 境内では、赤い袴の巫女さんが掃除に余念がない様子。
 拝殿で何を祈るのか長い時間手を合わす女性がいて、何やらゆかしい。

 祈るは夫の病気平癒、愛し子の合格祈願、はたまた、道ならぬ恋の成就? 「阿呆くさ、ペトロじゃあるまいし」と誰かの声!

 Photo_6阪神タイガースが、例年必勝祈願をここ廣田神社で行っているらしく、今年は3月2日にお参りするそうな。
 それなりに努力すれば、せめて優勝争いに絡む程度のことは神様も、まあそこそこ報いてくれまっしゃろ。

 絵馬が沢山架かっていて、切実な思いが伝わる。
 人事を尽くして天命を待つのもいい、苦しい時の神頼みもいい、その心境や大いに分かろうというものだ。

 ところでこの神社、立身出世にもご霊験あらたかとある。
 それを見たペトロ、カトリックであることを忘れ、「お参りに来るのが遅かった!」と天を仰ぐ。

 今日から弥生・三月、受験生の諸君、努力する君に神は微笑む、ファイト!

   受験子の絵馬より馬の駆け出しぬ  (朝日俳壇/横浜市・しまだひかる氏/大串章選)

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