「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

(新神戸オリエンタル劇場、20160702)

2016-07-03 | live2002-2024

〇明後日プロデュース Vol.1「日ノ本一の大悪党」(新神戸オリエンタル劇場、2016 7/2 18:00~)

 これは最初、話には聞いていたが、東京公演など日程的にも距離的にもまずとても行けないだろうと思っていた。しかし、神戸の方の当日券が出るというのを幸運にもつい先日ネットで知って、やってみたらチケットを取ることができた。多分、Paul McCartney先生の時もそうだったように、人生では(自分ではその時はよく理解できないものの)おそらく知るべき時にそれを知るというか、行ける時には偶然かどういうめぐり合わせだかで行けることがあり、その場合は、その時に見ておけってことなんだろう。


 新神戸駅のすぐ脇にある会場も、演者も全く初回だし初見なので、まず話が四谷怪談らしい、という情報以外は、一切ネット上からもネタバレを防ぐため、情報を遮断して(爆)臨むことにした。それでよかったと思う。
 自分の中では鶴屋南北の東海道四谷怪談がオーソドックスなイメージだったから、この今回の芝居自体がそういう定番に対して、「ハムレット」に対する「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」みたいなスタンスなのかもしれないし、ちょっと漏れ聞くところによると、むしろ定番「で」知っていた方が逆説的で面白いのかもしれない、と思い。

 そろそろ千秋楽が終わってるのかな?な時刻だから、書いてもよろしいでしょうか。
 直助権兵衛とお袖を除いたような、オリジナル設定?も含めての登場人物たちの全員が、みなどこか何か傷というか事情を抱えているようで、それがかなり一種の性格悲劇的な要素になってて、一見コスチュームプレイだけど、非常に現代劇っぽい内容になっているのでしょうな。ちゃんと怪談ぽく気持ち悪いところも美しいところもあるし。


 たれぱんだ「パンフレットです」これと同じデザインのポスターも、一種の、ミスディレクションとまではいかないがネタバレにならないよう、内容を知らせすぎないようなものになっているのは、見た後でわかる。
 (誰も悪くない、とは思わない。やっぱり、どっか悪いでしょう、そりゃw。でも下手に単純な勧善懲悪よりは、今まさに起こっている国内外の現代社会のあらゆる問題は、こういうごくちっちゃな欲とか自分勝手みたいなところから、行き違って抑圧されて深刻に発生しているような感じもある。またそれらがすべて、人の思惑も何もかも、許されるも許されないもなく、ただ水の中に深く澱みながら、遠いところのどこかへ流れていくような感覚もある)


 観客的には全体を俯瞰していてもいいし、抑圧された人々のどの誰側の観方でもいいように出来ているようなのだが、自分みたいな観客は「わりとお梅さん視点」に近くなってしまいそうなところに、山野海さん(脚本の竹田新さんでもある)と小泉今日子さんの制作の現代的意義というのか、あえて四谷怪談の再解釈を、な狙いのようなものを、感じながら見ていた。最初の発端のところとかが、若干すぐわかりにくかったところもあったと思ったけど、後半で各人の謎がそれぞれ解けていくので、ミステリーみたいなもんなんだろう(結構緊張感あった)。狂気にそういう意味を持たせてそう来たかと。それで言うなら南北じゃなくて、近松とマクベスと牡丹燈籠がこきまぜられていくような感じになっていくという(うーむ、それってかなり、欲張りなw)
 なお、突然の「多分、越後弁」にはびびったw(←いちおう新潟県人として微妙に)や、おもっしぇかったからいんですけど。
 でもラストシーンは、そうは言うけど空間的には「上」なのね。というところに優しさみたいなものも感じたw

 個人的なことを言うと、思えば1996年頃に「夜曲」の舞台で稲垣吾郎さんを初めて見てから約20年後に、初めて安田顕さんを生の舞台で近くで見ました。生年月日が同じだっていうのはそれもあって知ってた。そういうこともあるもんです。なんだか不思議な気分がする。
 天知茂氏の出演映画やドラマを新東宝まで遡ってダッシュで探して一気に見てしまった時の勢い的に、なんだかこのところやたら安田さんの出てる作品を遡って自分が見てるのは、何故なんだろう?と、こないだからずーっと疑問に思ってたけど、なんとなくその理由が、今回見て、少しわかってきたような気がする。
 それぞれの配役の出演者の方々や舞台で、他にもいろんな感慨があるのですが、ひとまず。まだもうちょっとしばらく、ひたらせてくださいw

 ※今回の敗因(もしくは勝因)?
 
 初めて生で見るんだ…という緊張感かつ動悸にいたたまれず(赤面)いい歳の大人の照れ隠しというわけではないが。
 この際、ZeppのLIVEの時のドリンクのシステムと同じ要領でってことで、始まる前に表のナマステ・タージマハルに飛び込んで、コロナ・エキストラを一本だけ、ひっかけてしまった(爆)。すまぬ。ほんとうに、すまぬ。だが陶酔感はさらに効果的に増したかもしれないと思っている。ありがとうございました。
 カツオ人間&キイロイトリ「コマッタ モンダ」 (20160703)



(追記)<※核心に触れるネタバレかもしれないので注意>


 戻ってきてからも、何だか残っていて、なにやら二日酔いのように(笑)思い出してしまうのですよ。(というより、映画みたいにフィルムに残っているわけでもなし、どこか「あの幻のような記憶の二日酔いが残っていてほしいような」気分が、自分の中に無意識的にあるのかもしれないw。)それでずーっと考えていたのだが、ようやく、本多劇場もはじめ各所の公演を見た人々の感想をネタバレ解禁であちこちで読んでみて、そして思った。

 ヒロインが伊右衛門(爆)かも、てのはよくわかりましたw
 中性的じゃなくて、両性的というんですかね(←この二つの言葉の違いの区別をやっと理解できたように思う)。言ったら「若い子には出せない味」なんでしょうな。むしろ、自分もやっとその領域のそういうのがわかる年齢になってきた、というべきなのか(非常に遅すぎるともいえるが…)
 この布陣でオファー正解GJ。ひょいっ、ときたKISSにはどっきりしたが、せつないと同時にこのsituationが物凄く怖くなった瞬間でもある。じわじわ怖いでしょう、呪縛的にも。何か体感的に「空気が震える」感じ、熱の伴ったその感じは、(これ自分の場合でいうと、幼児期の「一種甘美なトラウマ」に匹敵するような結構深い所の感覚で)ずっと覚えていたりしちゃうんじゃないだろうか?とすら思う。決してわざとらしくなく、さりげなくタナトスの領域っちゅうか、虚と実の皮膜ってやつですか。生で3次元で見るとそういう感じになる、ってのは、そういうことだったのか、と知りました。
 印象的な効果音を使う以外で、音楽が「多すぎない」のもよかった。演者の演技とか演劇的に構成される怖さなどがより集中的に伝わってくる。(旋律が多すぎると、自分などはどうしてもその都度それを聴いてしまって、そこに注意が行ってしまうため、つい気を取られて俯瞰的になってしまい、一点に集中する感じでなくなってしまうような気がするのだ。)自分は、演劇を見に行く機会は音楽のコンサートと比べると多くはないので、たまに生で見ると、シンプルなものほどそういう勉強になるなあ、と感心したところである。
 この影響なのか…?と思われることとして、(addictiveでまずいなあwと思ってるんだけど、)テレビで2次元映像としてのドラマでその人を見ている時でも、時々ふと感覚が勝手に甦ってしまうことがある(そういう時、すいません、すいませんっ(赤面)、とか心の中で言いながら、思い出してる)。これは「絶品をいただきました」。ありがたくいただきますw。
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20160703

2016-07-03 | 矮小布団圧縮袋

〇…というわけで昼には福岡に帰ってきました。昨夜以来、なおも心を残したまま

 
 新神戸オリエンタル劇場はちょうど千秋楽絶賛公演中ですね。応援しております。
 今回初めてだったんだけどね。あ、思い出すと、またちょっとどきどきしてきた。いかんな。
 (キイロイトリは新神戸駅前を歩いているところだ)

 家について、まず昨日の「The Music Day 夏のはじまり。Part2」(日テレ、7/2 18:00~)から、HDDの全部留守録分をダッシュで一気見している。(こういうことがあるから、先だってHDDレコーダーを新しいのにしといてよかったんだなあ、としみじみ思う)
 そっちも東京では同時刻頃、こんなLIVE中継だったのか。KinKi Kidsの薔薇と太陽が、こないだもたまたま書いたけどほんとに画面の左右でPrinceとMichael状態だったのが面白いw。これは録れててよかったぞ、と、ほっとする。

 昨日昼前出発して、今日昼頃着いたから約26~28時間程度脱出してきた(いずれにせよアオイホノオ一挙放送(ホームドラマch、7/3 14:00~)開始までには戻ってきた。矢野健太郎=浦井さんwwが何度見てもおかしい)。風雲急を告げる国際情勢の報道は旅先で聞きつつ移動していたが、何か夢の中にいるような不思議な一日である。(20160703)
 
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