夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

学力低下

2007年10月16日 | profession
藤木直人が好きなので、おしゃれイズムという番組をよく見るのだが、先日、須賀健太という子役がゲストのとき、のけぞるほど驚くことがあった。

ゲストのかばんの中身拝見ということで、かばんから漢字ドリルが出てきた。
上田が「ちょっと泉ちゃんやってみてよ。藤木君、問題出してあげて」といい、森泉(森英恵の孫でモデル)にある漢字の読みの問題を藤木君が出した。(藤木君は性格がいいので、易しいのを選んでいた)
しかし、森泉は、その漢字=「妥協」が読めなかったのである。

「あんきょう?」とかいうのである。

彼女は確かに母親がアメリカ人だが、日本生まれ日本育ちで母国語はもちろん日本語、大体「妥協」のようによく使う漢字が読めないということは、番組の進行表なども読めないし、新聞だって読めないということではないのか?

それで曲がりなりにも社会人が務まるのか?

それよりも驚いたのは、この番組はかなり編集でカットされる部分が多いはずなのに、このシーンがカットされていないということだ。
つまり、「妥協」という字が読めない司会者でも恥でもなんでもないということなのだ、その認識の方が恐ろしい。

内田樹(この名前って、読み方は違うけど今でも多数の香港人を小樽観光に駆り立てている映画『ラブレター』の主人公と同じだ)の『下流志向』にも、学生の学力低下のことが描かれていたが、私が深くうなずいたのは、教員と学生の関係について。

昨今、大学と学生、教員と学生の関係は、教育というサービスを提供する契約であるという考え方が非常に意識されており、民法学界でも、とくに前納授業料返還をめぐる一連の裁判例で「裁判所は『在学契約』という新しい類型の契約を樹立した」なんていわれている。

しかし、契約だからといって、お客様は神様であり、なんでもお客様である学生が主観的に望むとおりにしなければならない、という結論になるのはおかしい、とかねがね思っていた。

そのことについて、内田氏は、「普通の契約なら消費者がその商品の品質を評価する能力をもっているが、教育の場合は、その時点で学生が契約によって提供されるサービスの品質を適正に評価する能力を持っているとは限らない。むしろ、だからこそ教師が教え導くのだ。教育の内容を適正に評価できるほどはじめから学生に能力があるならそもそも教える必要などない」というようなことをいっている。

私は、これに英米法上の信認関係の法理を付け加えたい。
信認関係については、「学界など」というエントリーで触れたが、大陸法的な契約ドグマでは実質的に適切な解決ができない問題に有用な概念である。
はじめから対等でない契約関係のいくつかの類型を信認関係として規律するのである。Englandの判例では、大学教員と学生の関係は信認関係であるとしている。

信認関係ははじめから対等ではない。私が教えている学生のことはここに書かないと自戒しているのはそのためである。しかし、と同時に、信認関係ということは、専門家に信じて任せるという要素を含んでいる。パターナリスティックな要素もある。つまり、「主観的に」学生が喜ぶことが、必ずしも教育的に効果があるわけではないということが、法的にも正当化できるのである。
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