ねこ庭の独り言

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『大東亜戦争肯定論』 (下) - 3 ( 孫文と日本の志士 )

2016-11-18 18:51:01 | 徒然の記

 本日は最初から、林氏の叙述の紹介で始めよう。

  ・孫文、黄興等の革命運動が、日本の民間志士団と関係の深かったことは、「周知の事実だ。孫文の最初の日本亡命は、明治31年であった。

  ・彼は宮崎滔天を通じて、犬養毅、平岡浩太郎、頭山満を知り、その協力と援助によって、広東、恵州における挙兵、上海における李鴻章暗殺、フィリピンのアギナルド将軍の独立運動の援助などが計画された。

  ・いずれの計画も失敗し、明治37年再び孫文は、日露戦争中の日本に亡命した。葦津珍彦氏によると当時の孫文は、日露戦争をアジアによる、ヨーロッパに対する解放戦であると解し、世界史的な転換の時代が来たと考えていた。

  ・東京赤坂の内田良平邸で、中国革命同志会が結成されたのはこの時であった。

  ・広東系の孫文派と、湖南系の黄興派との合同の会でもあり、両者の他に章炳麟、王兆銘、宋教仁、張継等々を指導者として、一万五千名の在日留学生を基盤に、機関紙「民報」を発行した。

  ・こうして彼らは清朝転覆の革命思想を、海を越えて大陸へ送り込んだ。

 過去の歴史を日本は知るべしとか、「歴史認識が足りないとか、江沢民以来の中国政府が日本を批判・攻撃しているが、彼らの発言がどれほど粗末なプロパンガンダに過ぎないかを、多くの人に知ってもらいたい。

 孫文は現在でも中国で国父として敬愛され、毛沢東より評価されている人物だが、その彼が日本の志士たちとどのように接し、どのように助けられていたかを知れば、左翼反日学者や文化人や政治家が、どれだけ偏向した主張を戦後の日本で述べているかが判明する。

 先のブログでも述べたが、敗戦後の日本学界には「ライシャワーの歴史観」「毛沢東の歴史観」「スターリンの歴史観」の三つが入り込み、学者、教育者、政治家、マスコミがいずれかの勢力に取り込まれている。

 彼らはいずれも「戦前の日本史」の改ざんと、攻撃と批判を続けてきた。研究費という名目で援助をうけていたのか、研究発表時の謝礼だったのか、詳しいことは分らないが、彼らの心根の卑しさを国民は知る必要がある。

  ・時の政府 ( 首相桂太郎 ) は革命同志会の活動を危険視し、徳富蘇峰もまたその共和思想を攻撃したが、頭山満は支那が共和になったからとて、わが国体に影響するなどというのは自ら国体を侮るものだと断言し犬養毅などと共に、革命同志会を庇護激励した。
 
  ・内田良平は、中国革命と日本の大陸政策に利害の一致点があることを確認し、政府と軍部に対し、革命党への不干渉を強固に主張し、説得につとめた。
 
  ・なぜなら革命同志会の標語は「倒満興漢」であり、清朝をその故郷へ追い返すことを主張していたからだ。
 
  ・孫文以下の指導者も、中国にとって満州は外国であり、革命成功後は日本に一任すると公言 ( 公約 ) していた。しかし内田の予測も孫文の公約も、ともに間違っていたことがのちに判明する。
 
 〈 孫文の公約の間違い 〉
 
  ・確かに満州は清朝発祥の地だったが、その実質は変わり、すでに漢民族の満州となっていた。
 
  ・明治の中期までは清朝の「封禁令」により、満蒙族約三百万人、漢民族二百万人の土地に過ぎなかったが、
 
  ・孫文の革命運動の進行中に、二千万または三千万人といわれる山東移民の流入のため、漢民族の土地に変質してしまっていた。
 
  ・朝鮮併合後に日本が満州へ手を伸ばし始めた時には、孫文の公約は時代遅れのものになっていた。
 
 肝心なのは、これから紹介する林氏の意見だ。学校では教えてくれなかった歴史の事実だ。重要と思う部分を青字にした。
 
  ・二千万人の朝鮮民族が、日韓併合に必死の抵抗をしたのと同じく、三千万人の漢民族が日本の侵入を歓迎するはずがない。
 
  ・孫文とその弟子たちは満州放棄の公約を取り消さざるを得ず、張作霖、学良父子の反抗も始まった。
 
  ・これ以後日本の対満政策は、武力侵略の形を取らざるを得なくなった。

 さらに注目すべき意見を氏が言う。日本の学者も保守政治家も、決して言わない事実だから冷静に聞く必要がある。

  ・朝鮮併合以降の日本が帝国主義に変質し、アジア解放の先駆者からアジアの圧制者・略奪者に変わったという論者の見解に、私は賛成しない。

  ・帝国主義といえば、日本は幕末に『西力東漸』( 列強の侵略 )を意識した時から、帝国主義的であった。

  ・ただし私の言うそれは、レーニン的意味の帝国主義とは違い、資本主義の最高段階とも関係がない。

  ・それはネールの言う意味での、自立と解放を求める民族のナショナリズムの発現であり、成長である。

  ・成長したナショナリズムが膨張政策に転化し、牙と爪を発達させ、台湾、朝鮮が被害を受け続いて満州が狙われたという意味だ。

  ・佐藤深淵をはじめとする、幕末の思想家たちの描いた予想国の中には、朝鮮、台湾、樺太、シベリアのみか、東南亜諸国まで日本防護のための「侵略対象」として、明記されている。

  ・私の説を認めない学者たちは、幾つかの時点で日本は立ち止まるチャンスがあり、無謀な大東亜戦争を回避できたはずと主張する。

  ・果たしてそうだろうか。この種の戦後派の学者諸氏を、大東亜戦争勃発前の政治的中心に立たせてみたい。

  ・幕末、明治中期、朝鮮合併と満州事変。いったい彼らはいかなる『理性』と『政治力』によって、日本を立ち止まらせることができたであろうか。

  ・立ち止まらせるための努力は、多くの人物によってなされている。大器量人もいたはずだが、彼らにも、日本を百年戦争の途中で立ち止まらせることができなかった。

  ・往時を批判する、現在の進歩人諸君にできるはずがない。火事場の後の賢者顔ほど、間抜けで嫌味なものはない。

  ・東亜百年戦争は外から火をつけられた大火であり、欧米諸国の周到な計画のもとに、多少の間隔を置きつつ、機会を狙って、次から次へと放火された火災であった。

  ・私は、放火と戦った勇者を非難しない。

 こうして氏は、幕末から始まった「百年戦争」の間に現れた、思想家たちについて語る。佐藤深淵から始まり、藤田東湖、佐久間象山と続き、福沢諭吉、内田良平、徳富蘇峰を経て、大川周明、北一輝、石原莞爾と続く。

 長くなるので沢山の人物を省略したが、どうしても残しておきたい氏の意見がある。

  ・これら思想家・行動家の中には、歴史の栄光に飾られているかのように見える者もいるが、詳しく調べればそのほとんどが悲運の生涯を送り、幽閉と追放、貧窮と病患、投獄と刑死、または暗殺による非業の死をとげている。

  ・戦後の敗戦評論家諸氏が、彼らを帝国主義の源流、天皇制ファッシスト、アジア侵略主義者、超国家主義者、その他、荒唐無稽の舶来悪名を冠し呼称することは随意であるが、彼らが等しく、国運の展開を夢想した理想家であったことを否定する者はなかろう。

  ・歴史の大道では、ナショナリズムは常にナショナリズムである。

 氏はここで彼らが正しかったとか、日本の戦争は正しかったとか、そのような善悪の判定をしていない。氏が語るのは歴史の事実であり、戦後の学者たちの偏見への怒りだ。氏の言う「敗戦評論家諸氏」が、私の嫌悪してやまない「反日左翼」であり、「獅子身中の虫」「駆除すべき害虫」のことだ。

 日本からお花畑がなくなれば、こんな虫は死んでしまう。国民が「真夏の夜の夢」から目覚めれば、お花畑も消え失せる。戦後70年が経ちやっとその時が近づいていると、私は密かに期待している。

 ( ブログで大っぴらに述べながら、「密かに」というのもおかしな話だが・・)

コメント (2)
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