ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

狩野川薪能、大成功で終了しました!(その7)

2008-08-31 16:44:17 | 能楽

さて『嵐山』ですが、さすがに声がややかすれていたかも? でしたが、最後まで気持ちよく舞う事ができました。この画像はやはり山口宏子さんに撮って頂いたものですが、まさにベストショット! 「同体異名」を表す型で、この型があるから ぬえは『嵐山』を上演曲に選んだようなものです。もとよりシテより子方の方が目立つ曲で、後シテが出演している時間よりも子方が舞っている時間の方が長いという。。(^◇^;) その中で、唯一子方と一緒にやる型がこれなのです。

三人の前には大きな桜の立木の作物が置かれているのに、よくまあ、この角度から、これだけアップの写真を撮ったものです。。数ある ぬえの舞台写真の中でも一、二を争う良い写真ですね~。綸子ちゃんにも送ってあげたし、自分の分はさっそくA4の写真用紙にプリントして飾ってあります。

それにしても豪華絢爛な舞台です。華やかで動きもあり、子方の舞も豪快な神の舞もある。それぞれの役が能の場面を構成するのに最も華やかに見えるように考えられて登場しますね。前シテが定型の脇能の尉と姥であるのに、その演技は地謡も徹頭徹尾ヨワ吟で謡うように作られている非定型。そして桜の立木の作物。子方も桜の枝を持って登場します。およそ神々しい神の来現という印象とは違って、華やかで美しい舞台が繰り広げられる『嵐山』は極楽浄土や高天原を舞台上に再現するのを目的として作られた能であるかのようです。ああ、面白い能だな~。お客さまも楽しめたと思います。シテはあまりやる事がないけれどね。シテ一人を中心に据えてはいるものの、シテに一極集中させていないところが、作者の面目躍如たるところなのでしょう。脇能なのにレビュー的ですらある。観阿弥や世阿弥の時代の能とはまた違った、おおらかでこだわりのない作風が禅鳳のよさなのでしょうね。

じつは『嵐山』は、ぬえは本当は来年の狩野川薪能で上演しようと思っていたのです。来年は薪能もついに10周年を迎えます。その記念の催しにこの華やかな能を上演したら、さぞや華やぐだろうと。でもいろいろな事情もあって、また何といっても今年は綸子ちゃんという子方を得て、この子ならば『嵐山』には似合うだろう、と思って今年の上演に決めたのでした。結果的には予想通りの大成功だったですし、それにも増して稽古の段階から綸子ちゃんは ぬえの予想を超えて進歩したのでした。やはり ぬえの見る眼は正しかった。

綸子ちゃん、当日は緊張しなかったそうです。楽屋でも落ち着いていましたね。「もう『嵐山』を舞うの、飽きちゃった、というぐらいが丁度いいんだよ」と ぬえも常々言っていましたが、それぐらい本人も稽古を積んでいましたですしね。成功は当然の結果でもありました。ただ。。終演後は笑顔で帰った綸子ちゃん、翌日には熱を出しちゃったんだそうです。。やっぱり気が張っていたのねえ。。

ただねえ。。ここまでの完成度を見せられちゃうと、来年の薪能の人選が困ります。。これまでは毎年小学校6年生からすべて「子ども創作能」の主要な役と、玄人能の子方を選んでいました。「子ども創作能」は役割を説明して希望者に挙手をさせて選んでいるのですが、玄人能の子方はそうはいかないです。やりたいという希望だけでは。。そこで ぬえが前年から子どもたちの様子を見ていて、翌年の子方を選び出すのですが。。もちろん、いつか「該当者ナシ」という年だって来ることも覚悟してはいます。そうした場合のその年の6年生の保護者から反発が出ることも予想はしています。

ただ。。今のところ ぬえは来年も綸子ちゃんに子方での出演をお願いしたいなあ、という気持ちを持っています。あれほどの完成度はなかなか一般の小学生に期待するのは難しい。。それがプロとしての ぬえの偽らざる実感です。玄人能はお客さまのためにある。子どもたちのためじゃない。そうであれば舞台の完成度を第一義に考えるのは致し方がないし、むしろそうあるべきでしょう。ぬえも自分の舞台だけは責任をしっかり果たしたいのです。。まあ、これから1年かけて、ゆっくり考えていきましょう。

終演後、子どもたちとの最後のミーティングで ぬえは全員に「100点」をあげる宣言をしました。みんなも ぬえに寄せ書きをくれて。。主催者の大倉正之助さんは子どもたちに、薪能に出演する機会を頂いたことをご両親に感謝するよう言いつけ、生活の中に「感謝」と「礼」を活かすことを語りました。とても良い言葉だと思います。ぬえも「創作能」で小四郎役を勤めた千早ちゃんに、帰宅したらその後見を勤めてくれたお兄さんの義成くんに、ちゃんと手をついて「ありがとうございました」と言うよう申しつけました。義成くんは受験を控えた中学3年生なのに、わざわざ時間を割いて薪能に参加を希望し、小四郎役の妹の世話役の後見を舞台上で勤めてもらったのです。

さてみんなも帰宅し、ぬえも装束を片づけて東京に帰るとき、ふと会場の「アクシスかつらぎ」の正面玄関を出ると。。あれあれ、そこに備えられていて誰でも自由に利用できる「姫の足湯」の方から声が聞こえてきます。行ってみると、綸子ちゃん、千早ちゃん、義成くん。。まさに薪能の主要メンバーがみんなで仲良く足湯につかってる~~(^_^) ぬえも早速混ぜてもらって足湯につかりました。あ~~シテを終えて汗だくなんだけどいい気持ち~。

そんなこんなで伊豆の国の薪能は大成功で終了しました。もうしばらく彼らに会えなくなると思うとさびしいですが。。また来年、新たな気持ちで薪能10周年に向けて、今からもう走り出して行こうと思います!

最後に! 子ども創作能の主要な役を演じた子どもたちの勇姿をご紹介して、このたびの狩野川薪能のご報告を終わらせて頂きます~

      
       <大蛇> =隆貴

      
       <安千代> =真澄

      
       <小四郎> =千早


【おしらせ】
「狩野川薪能」につきましては能楽雑誌の「DEN」より報告記事の寄稿のご依頼を頂戴し、当該誌は渡辺国茂さん撮影の写真入りで10月に発売されるようです。編集部からはお声を掛けて頂き、まことにありがとうございました~。

また ぬえの師家の機関誌「橘香」(きっこう)にも写真と、ひょっとすると報告文を掲載するかもで、これも10月に刊行される予定です。併せてご期待ください~~

                               <了>
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狩野川薪能、大成功で終了しました!(その6)

2008-08-30 02:28:15 | 能楽

ぬえも子どもたちの相手に何度も出演してから慌ただしく装束を着けて、「絶対に間違えない」と固く心に決めて『嵐山』の前シテとして舞台に出ました。というのも、シテを舞う前にいくつもの番組に出演して地謡を謡ったり、後見を勤めたりする、というのは通常考えられない事なのです。

やはりシテを舞うというのは大きな責任だから、通常はシテに専念して、ほかの番組には出ないようにプログラムは組まれるものです。シテ以外のお役に出演するのは、シテとしての出番がその日の番組の中でよほどあとの場合で、しかもプログラムの冒頭に仕舞など短い番組があれば、その地謡に出演することはあります。こういうプログラムはむしろありがたくて、それは自分の能の上演前に舞台で声を出しておく、いわば声慣らしのような意義もありますし、その日の見所をちょっと見ておいて、あとでシテとして登場するためのイメージ作りにも役立つからです。がしかし、シテを舞う前に長い出番があるとか、何番もの曲に出演するという事は、よほど楽屋の人数が足りない場合ならばいざ知らず、およそ考えられない事なんですよね~。

でも「狩野川薪能」だけはそうも言っていられません。なんせ半年かけてずっと子どもたちに教えていたのは ぬえ自身という責任もあるし、ぬえは子ども創作能の作者の一人でもあり、また薪能の総合プロデューサーの大倉正之助さんから依頼されて「現場監督」を仰せつかっている身。それに何と言っても子どもたちのクセというか、万全にお役を勤めてもらうために地謡を謡う上で注意する点を把握しているのも ぬえだから。。他の能楽師には任せられないです。この薪能では事実上、「第一部」と呼ばれる子どもたちの発表会を無事に済ませることができて、はじめて「第二部」の玄人能を勤める意味が生まれてくる、という事もありますね。

だからこそ自分で勤めるシテはミスをするわけにもいかない、という事もあるんです。共演してくださる能楽師は、み~んな玄人能を万全に演じるために、真剣な気持ちで集まって来てくださっているのです。そこで ぬえがシテの演技を間違えたら、ほかの能楽師から「だから言わんこっちゃない。あんなにいろんな出番を勤めてからシテを舞って、それで間違っているんじゃ。。能を勤める態度が不謹慎だ」と言われかねないです。ん~~、ぬえの立場は微妙だ。

でもまあ、ぬえのスタンスとしては、子どもたちにも存分に成果を出して欲しいし、そのためのバックアップは惜しまない。それで、そのあとに勤めるシテは、これはプロとしてお客さまにご覧頂くのだから、最低限のレベルは絶対に保っていなきゃいけないですし、子どもたちにとっても模範演技でなけりゃならない。それに何と言っても ぬえが能を舞う年に何度もないチャンスなんだから悔いは残したくないです。

結局、ぬえとしては子どもたちの舞台のサポートと自分の舞台。。この二つの大切な舞台が同時にある、というだけで、どちらも万全に勤めるのは当たり前。そもそも薪能のプログラムは ぬえ自身が半年前に決めたものです。その当日になってから体力が続かないとか、出番が多いから間違えたとか。。そんな事はあってはならないでしょう。体力づくりもプログラム製作の考慮のうちでなきゃ。

で、結果的には『嵐山』の前シテで、ツレと立ち位置を交換するときに、ツレとの打合せよりも1句早く歩き出したのが間違い、といえば間違いでしょうか(←やっぱ間違ったんかい!)。でもそのほかの文句や型は、能に限らず仕舞の地謡や子ども能の後見でもいっさいミスはなかったと思います。と言うか、自分としては珍しく、楽しく『嵐山』のシテを舞わせて頂きました。たいがい、シテを勤めてから数日は、ミスがなくても「あ~~出来なかった!」と、苦悶の日々を送る ぬえとしては珍しいことでした。。

でも、考えてみればこの「狩野川薪能」でシテを舞って、これまで大失敗をしたり悔いが残ったことは一度もないのです。なんでだろう? 最近考えるのですが、やっぱりこれは「第一部」で精一杯子どもたちのサポートをして、その結果子どもたちが見事に舞台を勤め果せたのを見て。。そこから ぬえ、彼らから力をもらっているんではないか? 彼らの成功が、ぬえに自信と落ち着きを与えてくれて、それが ぬえ自身の成功に結びついているのではないか? そうかも知れない。そうだったなら嬉しいことです。
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狩野川薪能、大成功で終了しました!(その5)

2008-08-29 00:43:41 | 能楽

まずは綸子ちゃんの勇姿を見よ!(^。^)

じつは今日は薪能が終わってからはじめての休日でした。特に今回の薪能は前日も翌日も東京で催しがあって、とても慌ただしいスケジュールでしたね~。少し疲れました。今日は出来上がってきた薪能の写真などを子どもたちのためにコピーしたり、それを発送したりしながらでしたが、ゆっくり過ごしました。

今回の薪能の撮影には能楽写真家の渡辺国茂さんと、山口宏子さんがわざわざ東京からお出まし頂きましたが、わけても山口さんは7月に市内の小学校で行われた中間発表会、およびその前日の稽古にボランティアで撮影に参加してくださいました。山口さんは舞台での演技ももちろんですが、子どもたちの素顔や、ぬえと彼らが触れあっているところを撮影したい、とかねて希望しておられ、稽古の日程をお伝えしたところ、自費で稽古の撮影にお出でになったのです。その時も薪能も、子どもたちのために大急ぎで写真をCDに納めて ぬえに発送してくださいました。当初は子どもたち全員に紙焼きをして郵送してあげる、とまで山口さんはおっしゃったのですが、それは巨費が掛かるので、ただでさえボランティアで撮影してくださっているので、紙焼きは辞謝させて頂き、ぬえがCDで焼き増しすることにしたのです。

薪能の撮影そのものは、渡辺さんも山口さんも、実行委員会からの用命を受けて撮影、という形が整って、交通費程度はお礼することができたようですが、それでもどちらも事実上はボランティアに近いお仕事だったと思います。中間発表会の撮影をしてくださった山口さんには、薪能の当日に子どもたちから寄せ書きが贈られたようですね。ぬえも寄せ書きを頂きました。こういうのを頂くと、長いお稽古もやって良かったな~と思えますですね。山口さんと渡辺さんにはこの場で失礼ながら、子どもたちになり代わって厚く御礼申し上げます。m(__)m

さて、「連管」が上演されている間に、ぬえは紋付から装束に着替えて、能『嵐山』の準備にとり掛かりました。思えばこの薪能ではシテを舞う前に、連調『高砂』の地謡、子ども創作能『江間の小四郎』の地謡担当の後見、仕舞『吉野天人』の地謡、と、短い曲とはいえ3番も出演しているんですよね~。まあ毎年のことですが。。

ただ、それだけに 絶対に舞台上で間違えない、とは心に言い聞かせていましたし、その稽古もしてきたつもりです。薪能にお手伝い頂く能楽師、とくにシテ方は ほぼ全員『嵐山』に出演するためだけに伊豆にお出まし頂いていますし、その方たちは「子ども創作能」や「仕舞」「連管」などの子どもたちの出演の間は楽屋でお待ち頂いています。能の上演の準備をしようにも、シテ(←ぬえ)は子どもたちにつきあって舞台に出ずっぱりで装束さえ着けられない。そのうえこの日は開演が微妙に遅れたことから急遽、子どもたちが出演する番組と、プロによる狂言・能の上演との間に用意してあった休憩時間はナシとなったと告げられました。えっ??その休憩時間は ぬえが装束に着替えるために用意した時間なのに????

能のお後見にはかなり無理を強いる公演スケジュールとなってしまいましたが、後見もプロですね~。イヤな顔ひとつせずにサッと装束を着けて下さいました。いや、前シテが出るには時間的にはむしろ余裕があったほどでしたね。

楽屋で着替えをしているときに見ると、子方はすでに装束が着け終わっていました。天冠や風折烏帽子の具合や紐のきつさ、両手をちゃんと上げることができるかなどを ぬえからも子方に確認して、装束を着け終えた ぬえは幕に向かいます。このとき子方は前シテの間は出番がないのですが、幕の内側で待機するよう言いつけました。こういう場面では大切なことで、出番はまだ先であっても、幕の向こうで前シテが演じている様子を肌で感じて自分の心の中で登場する準備を整えていかせるのです。とくに子方は、前シテの間に楽屋で待機しているのではダメですね。中入で突然真っ暗な幕のそばに連れて行かれ、そしていきなり出番になり、照明が煌々と照り、みんなが注目する中に出てゆく。。それでは平常な心で舞台に出ることはできません。。失敗が起きる原因にもなります。囃子方の音や、シテとワキが問答を交わし、地謡が謡っている様子。幕一枚向こうで行われている舞台を感じながら集中を高めていくのが最も良いと ぬえは最初から子方には幕内で待機させるつもりでした。
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狩野川薪能、大成功で終了しました!(その4)

2008-08-28 03:39:49 | 能楽

仕舞=彩花、ありさ、ひかり、夢知、明日香、悠希

子ども創作能が無事に終わり、おつぎは中学生による仕舞『吉野天人』。

この薪能は小学生の高学年、4年生から6年生を対象に出演者の募集をしているのですが、中には中学生になってからも薪能に参加を続ける希望を持ってくれる子もいて、もう数年間も薪能に携わっている子までいます。今年は受験を控えた中学3年生まで薪能に駆けつけてくれて、さすがに直前にしか稽古に参加できませんでしたが、もうこの創作能も何度も参加していて台本もよくわかっているので、薪能当日には後見を勤めてもらいました。こちらの方が地謡よりも大変だったかも。。

中学3年生は無理としても、まだ受験までには時間の余裕がある中学生には、子ども創作能の地謡を手伝ってもらったほか、仕舞を演じてもらいました。やはり子ども創作能は、みんなが舞台を楽しめるように、チャンバラあり、矢を射る型あり、と、盛りだくさんの派手な演出を取り入れているのですが、その分 能の大切な部分からは遠ざかってしまっているのもまた事実です。だから、小学校を卒業した先輩たちには、後輩たちの舞台を盛り上げてもらうほかに、ぜひ能の古典の曲にも触れて欲しいと考えて、一昨年から仕舞のお役を与えています。で、今年の課題曲は『吉野天人』。稽古や番組構成上の都合もあって、なんと中学生6名の相舞という仕舞でした。

しかし。。中学生はやっぱり忙しいね。中には中学受験をして遠距離通学をしてる子もいるし、部活が厳しくて夏休みはほとんど毎日のように朝から晩まで練習に出なければならない子もいるし。ですから最後には仕舞の稽古が足りずに、また稽古場に借りている会場の予約時間内に稽古に到着できないで、ついに薪能実行委員会がある伊豆の国市観光協会のオフィスでデスクや椅子をどかして稽古したこともありました。それでもやっぱり仕舞の型がよく身に付いた子と、場面によってはもうひとつ微妙な子もいます。今回の仕舞は6名がまとまって舞う形をとったので、それぞれの子どもたちをよく見て、ある子が間違えやすい型をするときには、その型に自信を持って舞っている子が視界に入るように立ち位置を決めたり、じつは微妙な調整を加えながら稽古を進めていったのでした。結果的には誰も間違えずに舞うことができたようですから、ぬえの作戦勝ちだったかも。

さらに続く番組は「連管」。笛の合奏のことですが、前回と同じく笛を除く囃子方も参加しての演奏となったので、素囃子に近い形での演奏となりました。講師は前年と同じく寺井宏明先生で、参加した子どもは圭恵・朱夏・百恵の三姉妹と百夏の4人。ぬえはこのとき能『嵐山』の着付に取りかかるところでしたが、それでも耳は澄ませていて、これはまたよく笛を鳴らすことができるものだと感心しました。なんせ多少対宿バージョンとは言え、緩急のある「中之舞」を吹くのですから。昨年、寺井先生が30分くらいの稽古で初心者だった彼女たちが笛を鳴らせるところまで上達させたのを見て感心したものですが、今回も破綻なくお役を勤められるところまでもっていったのは稽古のやり方が上手だからでしょうね。子どもたちは寺井先生のお稽古場がある東伊豆まで通って稽古を受けたのだそうです。



連管=朱夏、圭恵、百夏、百恵

聞くところによるとそのお稽古場でも思わず増えた小中学生の生徒は大ウケだったそうで、寺井先生のほかのお弟子さんからお菓子をもらったり、薪能に向けての出演の意欲はいやがおうでも盛り上がっていったのだそうな。いやいや、これは ぬえからも御礼を申し上げねばなりませんな~。それに連管に出演した朱夏と百夏は、『江間の小四郎』でも従者役でしたから、思えば薪能で一番暗記することが多い大変な役だったかも。どちらのお役もがんばったし、舞台の成果も努力が実ったかも。

能楽写真家の山口宏子さんから追加の画像も頂き、今回および前回の記事にも画像を追加しました!

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狩野川薪能、大成功で終了しました!(その3)

2008-08-27 02:17:19 | 能楽

武士と小四郎 武士=健人、真央、瞭、克、楓、礼智、小四郎=千早

一方地謡はというと、これが不思議なメンバーだったですね~。毎年地謡には4年生の子に勤めさせます。もとより「狩野川薪能」では参加者を各小学校につのるのに、4年生以上を対象にして募集しているので、地謡は参加者の中では最年少組ということになります。

ところが、参加者の中には弟や妹がいる子もあるわけで、その弟や妹がお兄ちゃんやお姉ちゃんがお稽古しているのを見て「ワタシもやりた~い」と言い出すのです。(^◇^;) これは諸手をあげて歓迎して、「子ども創作能」の地謡だけではありますが、薪能に出演して頂くことにしています。その結果今年は。。小3が2人、小2がひとり、という、近年になく若い地謡になりました。もっとも、小学校を卒業して中学生になってもまだ薪能への参加を希望する子もまた多くいて、彼らの人数は今のところ増える一方。彼らには「子ども創作能」の地謡のリーダーになってもらっていますから、彼らを入れて考えれば、薪能もだんだんと少子高齢化の波が襲ってきているわけではありますが。(^◇^;)

さて若い地謡はどうなることやらなあ。。と思って稽古を始めたのですが、これがっ! その小学2年生の女の子。。綾ちゃんが一番大きな声を出して謡ってる。。う~~ん。。これは。。どういうことだろう。



地謡 後列=悠希、明日香、ありさ、ひかり、圭恵、夢知、彩花
   前列=立夏、将人、瞳偉、亜里沙、百恵、まり菜、珠里、綾

おそらく、まだお年頃になる前で、恥ずかしさの気持ちがあまり出てこないで、力いっぱい物怖じせずに謡えるのですね。ただ、綾ちゃんの場合はそれだけじゃなくて、地謡の文句も、囃子に合わせて謡う間も、どちらも正確なのです。ふむ~~。稽古でも、地謡が文句を間違えたり、謡い出すタイミングが間違っていたりすると、いつも綾ちゃんが大声を張り上げて修正する、という、綾ちゃんが地謡のリーダーのような状態がずっと続きました。というか、こちらも武士の役と同じく、長いこと声を出させるのに散々苦労しましたですね。。通し稽古をする段階になっても、どうも声が出ない。。稽古を始めて数分で「はいやめ。声が出てない。もう一度最初からやり直し」なんて事もありました。しかし薪能が近づいてきた頃にはみんなが発奮してきたのか、声の大きさに関しては問題はなくなりましたです。やっぱり責任感と、それから舞台度胸ってものが芽生えたんでしょうか。

舞台進行では、安千代役の真澄ちゃんが、舞台の設営が完成した薪能当日の最終リハーサルでかなり緊張していて、声を出そうと思うあまり無理をして、何度も咳き込んでいましたが。。本番では見事に勤めました。本番だけミスをしない、って子、いるんですよねえ。ぬえも本番の舞台ではミスはしない人なんですが、それでも申合ではかなり後見を冷や冷やさせてしまいます。お客さまを目に前にしてキレることができる。。変な言い回しですが、そんなことも成功のひとつの条件じゃないかな、と思う ぬえでした。

で、創作能の題名になっている小四郎ですが、今年は6年生の千早ちゃんが勤めました。彼女のお母さんにはもう何年も薪能の細々とした作業を黙々とこなしてくれて、大変お世話になっていて、今回千早ちゃんが小四郎の役を勤められたのはよかったと思います。

で、小四郎の役には ぬえが、本当に矢を射るシーンを作ってあって、これがこの創作能のクライマックスでもあります。地謡の文句に合わせて矢をつがえ、射るので、失敗は許されない難しい役です。思い出すなあ。4年前に、今回の大蛇役の隆貴くんのお姉ちゃん、春奈ちゃんが、矢をつがえたところで、どうしたのか矢が弓から外れてしまって。。地謡の後見役を勤めていた ぬえは心臓が止まりました。。でも春奈ちゃん、あわてず騒がず、もう一度矢をつがえなおして、地謡の文句とはほとんど遅れることなく見事に矢を放ったのでした。うん、しっかり稽古が積まれていればアクシデントには対処できる。小学生ながらそういう鉄則を証明して見せたのでした。

今年は千早ちゃんは落ち着いて矢をつがえて。。そうして放った矢は、あろうことか、舞台の後ろに松が描いてある幕に突き刺さるように当たりました。野外の舞台であれば相当な飛距離でしたね~、すごいすごい。

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狩野川薪能、大成功で終了しました!(その2)

2008-08-26 13:12:15 | 能楽

引き続いての上演は、この薪能の最大の特徴である「子ども創作能」の『江間の小四郎』です。

鎌倉二代執権の北条義時(政子の弟)がまだ当地に住んで「江間の小四郎」を名乗っていた頃の物語。千葉寺へ学問に通っていた嫡子安千代が、江間の大池に棲む大蛇に襲われて落命し、その急報を聞きつけた小四郎は大池に向かい、三日間大蛇の出現を待って、ついに現れた大蛇の左目を射抜いたところ、大蛇は来光川に飛び込んで姿を消します。小四郎は安千代の菩提を弔うために北條寺を建立し、また弓馬の名を挙げたのでした。

。。地元に伝わるこの民話を、ぬえはじめ数人の能楽師の共作として台本を書き上げ、能のエッセンスを取り入れた創作舞台としたのが「子ども創作能」です。『江間の小四郎』は第一回の薪能から数年に渡って上演された『城山の大蛇』に続く創作能の第二作で、毎年少しずつ改訂を重ねて、今年は「波頭の出」という小書?のような演出にしてみました。

この「江間の小四郎」の民話、ぬえが民話集の本で見た原作では上記のような物語だったのですが、4年前にはじめて台本を書くときに ぬえは地元で取材をしていたところ、いろいろと民話集には載っていない伝承が地元に伝えられていることが判明して、一部は台本に盛り込んであります。また千葉寺も北條寺も現存しているうえ、来光川の大蛇が飛び込んで姿を消した地点に掛かる橋には、ちゃんと「蛇が橋」という名が付けられていました。

さて今年の『江間の小四郎』の稽古ですが、う~~ん、最初はかなり苦労した、というのが本音です。大蛇、小四郎、安千代、その従者といった主要な役には毎年小学校6年生を起用していて、これは全員、もう何回か薪能に出演した経験を持つ子ばかりですし、自分たちが6年生になれば創作能で主役級を手にすることが出来る、とわかっていて待ち続けてきた子ばかりなので、ほぼすんなりと稽古に入ることができたと思います。。それでも、先生に甘えて、何度稽古してもまったく型を覚えて来ずに ぬえと一緒でないと動くことができない子もいましたけれど。。これは舞台に立つ責任を自覚していないので、何度目かの稽古からは厳しく接するようにしました。なんたって最後には自分一人でやらなければならないんだから。。結果、だいぶスタートは遅れたけれど、最後には目覚ましい進歩を遂げて立派に演技することができるようになりました。

で、問題は大蛇退治に向かう小四郎の郎等の武士たちの役で、これは毎年5年生に担当させているのですが、今年は男子の参加が多くて迫力が出た反面、薪能にはじめて参加する子が大多数で、指導には苦労しました。なんせ声が出てこない。。まあ、よく意味も分からない古語の、それも慣れない謡の音階で謡うのは初めての経験だし、そのうえ型もあるから自信が持てないのは仕方がないのですが、やはり稽古2ヶ月目を過ぎたあたりから少し厳しく稽古をして。。すると、だんだんと、ではありましたが、堂々と演技できるようになりました。当日はもう、舞台が壊れるかという熱演でしたね。

武士役の子たちで印象的だったのは、ある時の稽古で、6人の武士役全員が、実行委員会から配られた薪能のTシャツを着て稽古場に現れたことでした。ぬえも「ほお。。」とは思ったのですが、それはみんなで示し合わせて、お揃いのTシャツで稽古しよう、と相談したのかと思ったので、とくに何も言いませんでしたが。。ところが稽古を見学するお母さんたちは驚いていたようで、あとで聞いたら、なんと事前に相談はなく、偶然にみんなの気持ちが一致した結果だ、とのこと。

。。言われて ぬえもようやく気がついた。。じつはみんな、お互いの連絡先を知らないのです。

現代の「個人情報保護」の事情から、残念なことではありますが、毎年薪能の参加者名簿は参加者自身に配られないのです。薪能の実行委員会が伊豆の国市の観光協会という公の組織ですから、名簿を公表できないのは仕方のないところですが、実情は共演している参加者同士が、お互いの名前さえ知らないまま稽古していたりする。。そこで、今年はぬえが提案しまして、参加者が自主的に、独自の名簿を作ってはどうか、と保護者に声を掛けました。実行委員会からも自主的な名簿づくりならば問題はないだろう、という意見を頂いて、ぬえがまとめて名簿を作りました。薪能が始まって九年。。ようやくの進歩です。

ぬえは子どもたちの指導者ですから、参加者名簿は一部だけ毎年頂いているのですが、ついつい、自分だけが全員の名前を知っていることを忘れてしまって。。だから、このとき武士役のみんながお揃いのTシャツを着てきたときも気がつかなかったのです。まだ ぬえ、名簿をみんなに配っていない。。それなのにこの子たちがお揃いのTシャツを着て稽古に集まったとは。。驚愕すべきことだったんですね。それほど結束が固まってきていたのです。これも九年間の薪能の稽古で初めての経験でした。すごいぞみんな。

今日、薪能の撮影をしてくださったもう一人の能楽写真家、山口宏子さんから画像が届けられました!
『江間の小四郎』の勇姿を見よ!(大蛇=隆貴)

そして前回ご紹介した連調『高砂』の画像も!


小鼓=綾・珠里(みさと)・将人・瞳偉(とうい)


大鼓=立夏・亜里沙・まり菜

これから参加者のみんなにも画像を送りますからね~
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狩野川薪能、大成功で終了しました!(その1)

2008-08-25 08:59:00 | 能楽

8月23日(土)、伊豆の国市で行われた「狩野川薪能」は大成功のうちに終わりました。半年間の稽古の成果は遺憾なく発揮されて、よい催しになったと思います。

ぬえは前日に東京で能の公演(←やっぱり小学生対象の能楽鑑賞会でした!)に参加してから伊豆に入って子どもたちに稽古をつけて、翌日の薪能当日はやはり子どもたちに最終稽古をしてから本公演。終了後は装束を片づけてから。。東京に戻ったのは午前0時をまわっていました。そのまた翌日。。つまり昨日の日曜は朝から師家のお蔵に装束を片づけに伺い、昼からは観世能楽堂で師家の月例会に参加。。と、まあ目が回るような忙しさではありましたが。。

また、薪能当日は残念ながらの荒天で、伊豆の国市のシンボルの岩山・城山直下の狩野川河川敷特設会場は使えず、やむなく会場はまたしても伊豆長岡の「アクシスかつらぎ」ホールに変更となりました。これで3年間連続の雨天会場への変更で、「狩野川薪能」の唯一の泣きどころなんですよね~。誰が雨男なんだ?。。はい、それは ぬえ自身なんです。。たぶん。

それでも催し自体は、子どもたちも今までの稽古の中で一番良い舞台になったと思います。ぬえが見ている範囲では子どもたちは ほぼノーミスでしたね。声もよく出ていたし。本公演の約3時間前、舞台の設営が終わったところで、公演の第一部となる子どもたちの発表会の最終稽古をしましたが、このときには緊張からか、いつもの稽古よりも少しミスが目立つように思いましたし、またふだんよりも大声を出そうとして咳き込む子もいたり。。大丈夫かな~ と思わせる場面も多かったのですが、本番ではみごとにみんな緊張を跳ね返しての熱演となりました。

実行委員会の責任を一手に引き受けておられる遠藤宏さん、望月良和・伊豆の国市長のご挨拶のあとに、まず第一部として上演された子ども発表会では、小2~4年生による大小鼓の連調『高砂』、小中学生全員。。総勢28名の出演による子ども創作能『江間の小四郎 ~波頭の出~』、中学生の仕舞『吉野天人』、小中学生の連管『中之舞』が演じられました。

連調は『高砂』の待謡の部分を ぬえらが謡い、それに合わせて7名の小学生に大小鼓を打ってもらいました。鼓の手組は少し簡単にしたとはいえ、下は小学校2年生の女の子(←とってもよく出来る。年頃になって恥ずかしさの気持ちが出てこないで、このまま成長してくれるとうれしいな~)から4年生まで、しかもほとんどの子が薪能初体験。。ということは鼓も稽古ではじめて見たような状態なわけで、それにしてはよく声も出て、また鼓も鳴りましたね。ふだんの稽古では ぬえが下稽古をしておいて、大倉正之助氏(薪能の発起人で総合プロデューサー)が伊豆に来られる機会に時折 子どもたちの稽古を見て頂きました。

当日は大倉さんは人数分の鼓を持参したのですが、驚いたことに子どもたちに使わせた大鼓の革はすべて本物でしたね。最近は小鼓も大鼓も稽古用に合成の革があって、これは手入れも要らないし、そのうえ簡単に鳴らすことができるので、アマチュアのお弟子さんの稽古にはとっても重宝しているのだそうです。今回はなぜ、しかも小鼓と違って消耗品である大鼓の革に馬の革の本物を使ったのか。。あとで大倉さんに聞いてみたところ、合成皮革の大鼓の革はとんでもなく固くて、小学生とはいえ思いっきり打つと手を痛めてしまうのそうです。大鼓方の能楽師のように指革を右手の指にはめて打つ、いうなれば稽古が進んできたお弟子さんであればよいのですが、今回のように囃子の体験の延長にあるような発表会に出演して素手で大鼓を打つような場合には向かないのだそうで。。は~、いろいろ専門家の道は ぬえが知らないことがたくさんあるもんです。

画像は ぬえの『嵐山』。
シテ=ぬえ、前ツレ=桑田貴志、子方=増田綸子・八田和弥、ワキ=森常好、ワキツレ=森常太郎・則久英志、笛=寺井宏明、小鼓=久田舜一郎、大鼓=大倉正之助、太鼓=三島卓、後見=中村裕ほか、地謡=中森貫太ほか(敬称略)のみなさんの出演です。(不許複製です)
能楽写真家の渡辺国茂さんからご提供頂きました。深謝致します~
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絢爛豪華な脇能『嵐山』(その18)

2008-08-22 01:53:19 | 能楽
そして、蔵王権現が吉野の千本の桜を植え移したといわれる京都の(といっても当時は都からは依然遠く離れた僻地でしたが)嵐山に影向した、という話は、能以外にはまったく所見がないのだそうです。

とすれば『嵐山』の作者の狙いは、修験道というミステリアスな信仰があがめるご本尊。。日本人が生み出した神のひとつの姿でありながら、非常にベールに包まれた感があり、そのうえこの神は子守・勝手という二神を従え、これがさらに「同体異名」の三体であるという。。観客にとって目新しい、そういう神を、吉野にゆかりの深い、かつ都にほど近く、観客にとって親近感のわきやすい嵐山という舞台に登場させることにあったのではないか、と考えられます。

思えば脇能は、能が社寺の祭礼に奉仕していた時代、民衆とともにあった時代から。。いやまだ能が能としての形式を洗練させてくる以前から、能の中心的な演目であったはずで、能作者としては後進に属する金春禅鳳の時代に新しく生み出される脇能としては、新時代を告げるような、目新しい材料や演出が能の作曲に求められたのかも知れません。

そして前シテ・前ツレを後シテの化身とせず、後に登場するツレ(子方)の化身として設定し、いざ登場した後ツレ(子方)は尉・姥の前シテとはうって変わってまばゆいばかりの若い夫婦の神で、袖を翻して「天女之舞」を見せます。囃子の手組も「下リ端」「渡り拍子」「天女之舞」と盛りだくさんで豪華な趣向。そして彼らが幕に向かって「雲之扇」をして「主神」を待ち受けるとき、そこには爽快な「早笛」の囃子に乗って豪快に登場する異形の神の姿があるのです。そしてその神は「同体異名」と宣言して美しい二体の神と舞台の上に並んで屹立してみせる。。この型、舞台上では本当に豪華絢爛な装いに見えるんですよ。

こう考えるとき、『嵐山』の異質がよく見えてくるようです。世阿弥が脇能に求めた「かかり直なる道」。。それなのに世阿弥作で脇能の代表曲である『高砂』は脇能のとしてかなり異質な部分があります。しかし『嵐山』の舞台の豪華絢爛さが持つ「異質」は『高砂』の比ではないでしょう。なんだか ぬえ、『嵐山』の豪華さには「世紀末のデカダンス」を感じるんですよね~。応仁の乱が収束して戦国群雄割拠の時代、こういう脇能が観客に求められていた時代。。なんだか現代の世界の中での能のあり方にも示唆があるような気がします。

考えてみれば「狩野川薪能」で ぬえが演じてきた能は、作者不詳の『鞍馬天狗』を別にしても、小次郎信光作の『船弁慶』、『嵐山』と同じく禅鳳作の『一角仙人』と、世阿弥時代とは様相が一変した不安定な時代に作られた能ばかり。。そしてその時代の、幽玄美よりもむしろ趣向の興味を引く能が、現代の薪能では喜ばれるのも、これまた事実なんですよね。ぬえはいっぺん薪能で元雅の『隅田川』か『弱法師』を舞ってみたいです。

でもまた、ぬえは禅鳳という人について、この『嵐山』の中で発見もありました。この前シテ、『高砂』から影響を受けて作られたのは間違いないと思うのです。前シテが尉で、前ツレは姥の夫婦。神木をあがめ、それを清掃する箒を持って登場するその姿。そして中入での、脇座よりスルスルと常座に行く型、それが「南の方に行ききけり」と、『嵐山』では後シテも同じ嵐山に現れるのに、わざわざ「主神」の住む吉野の方角に立ち去る演出。

そして『嵐山』の作者・金春禅鳳は、世阿弥を師と仰ぎ、世阿弥も将来を嘱望した禅竹の孫なのです。。彼は、父が何も著作を残さなかったのに比べて、曾祖父・世阿弥や祖父・禅竹を意識して書かれた膨大な伝書類を残しています。『嵐山』の前シテの構成は、禅竹の影響を受けた禅鳳が、世阿弥の『高砂』を念頭におきつつ、時代の要請。。彼の置かれた当時の不安定な時代の観客の要望にも応えなければならず、その苦渋の選択が独自の新しい能を完成させることにのではあるまいか? 端正で「直なる道」を忠実に表現したような前シテから、その本性として後場には意外な登場人物としてツレ、あるいは子方を配し、さらに異形の神が出現すると、今度は三人を「同体異名」として並立して見せる。まさに観客にとってはどんでん返しの連続で、美しい「天女之舞」も豪壮な「早笛」も観客は堪能できる演出の多様性と相俟って、まさに世阿弥が「当座」を重視していた事と呼応して、世阿弥や禅竹の平和な? 時代の能楽論の新たな発展と捉えてよいように思います。

。。さて、いよいよ明日には伊豆に入り、子どもたちの最終稽古をして明後日には「狩野川薪能」の本番です。『嵐山』の子方・勝手明神役を一生懸命稽古してきた綸子ちゃんも、いよいよ一度限りの大役を勤める日が迫りました。どうか神様、がんばった彼らに力を貸してあげてください~~


                        (とりあえず了)
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絢爛豪華な脇能『嵐山』(その17)

2008-08-20 00:30:23 | 能楽
吉野の金峯山寺の金剛蔵王権現像は釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の顕現でしたが、能『嵐山』でシテ蔵王権現と「同体異名」とされているのは「子守明神」「勝手明神」の二人のツレ(子方)です。この神様はいったい誰なのでしょう?

子守明神は吉野の「吉野水分(みくまり)神社」の「みくまり」が「こもり」に転訛したもので、水分神社は金峯山寺に属していた非常に古い神社です。また勝手明神についてはやはり金峯山寺のそばに「勝手神社」があって、ところがこちらは能にも大変縁の深い神社なのです。

まずは『国栖』に描かれるように壬申の乱で吉野宮の離宮に逃れた大海人皇子が、この勝手神社の裏山にあたる袖振山で天女に出会い、そのときに五度袖を翻す天女の舞の有様を写して現在も雅楽に残る「五節舞」を作った、とされる話で、これは『吉野天人』『国栖』をはじめ能ではとってもおなじみのお話でしょう。

つぎに少し時代が下って、源頼朝に追われて都を落ちて吉野に逃げ込んだ義経一行の物語。雪の吉野山で義経と別れた静が追っ手に捕らわれたとき、この勝手神社の神前で法楽の舞を舞った、とされているのです。この話は能『吉野静』にそのまま写されているほか、能『二人静』では、この勝手神社が能の舞台になっていて、勝手明神に仕える菜摘女(ツレ)に静の霊が憑依する、という物語です。

そうじて吉野という場所は往古からの聖地で、熊野もその延長上にあるわけですが、同時に古代から政争に巻き込まれた者が都を落ちて逃げ込むシェルターのような土地でもありました。やがて天子の地位に就いた天武天皇と、兄の嫌疑は晴れないまま非業の死を遂げることになる義経との違いはあるにしても。。

そして吉野といったら忘れてならないのが南北朝時代の南朝の最初の本拠地が、ここ、吉野だったことです。足利尊氏に追われた後醍醐天皇はやはり吉野に落ちて南朝を成立させ、以来半世紀に渡って幾多の戦乱が南北朝の間で繰り広げられ。。そして南北朝を統一させたのが足利義満だったわけですから、ここでも能とは関係がないわけではないのですね。

陰陽の両面がある吉野ではありますが、しかし聖地としての地位は中世まで揺るぎないものだったようで、能狂いとして有名な豊臣秀吉にも、彼が作ったいわゆる「太閤能」のひとつに『吉野詣』というのがあって、吉野に出かけた太閤・秀吉の前に蔵王権現が現れて秀吉の「治世」を言祝ぐ、というストーリーです。

→ 復曲された『吉野詣』の舞台
http://www.osaka-brand.jp/panel/entertainment.pdf

(この能は脇能であろうと思いますが、ここでは「不動」が使われていますね)

それほど蔵王権現への信仰は厚かったわけですが、じつは子守・勝手の二神はその蔵王権現の数多くある付属神のひとつで、その諸神の中では最高位の立場にある神なのです。蔵王権現と「同体異名」とは明言されているわけではないので、これは能の作者の創作であろうと思いますが、諸国に蔵王権現が勧請されるときは、多くこの二神もお供しているそうで、山形県・宮城県の県境にある蔵王山にも末社として二神がおられるのだそう。末社は主神が包括している、という考え方もありますから、まあ、同体異名でもあながち間違いではないのかも。
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絢爛豪華な脇能『嵐山』(その16)

2008-08-19 21:48:34 | 能楽
子方ばかりが目立つ『嵐山』ですが、このキリにもちょっと面白い型のお話があります。

まずはトメの両袖を巻き上げる型について。『嵐山』では

地謡「さながらこゝも金の峰の(正先へ出て左袖を巻き上げ)。光も輝く千本の桜(すぐに左へトリ右袖も巻き上げ)。光も輝く千本の桜の(常座へ行き小廻り袖を払いヒラキ))。栄ゆく春こそ久しけれ(右ウケ左袖を返し留拍子)。

と、まず正先へ出て左袖を巻き上げてから、すぐに右に取って左袖を巻き上げて、ここで両袖を巻き上げる型が完成するのですが、じつはこれ、脇能に固有の型なのです。『高砂』でも『養老』でも『白楽天』でも、脇能であればトメには必ず両袖を巻き上げる型があります。反対に、切能では必ず左袖だけを巻き上げて、それから正面にヒラキなどトメの型に続く事になっています(広袖でない装束の場合はもちろん例外になりますが。。)。

次に『嵐山』に特徴的な型について。

地謡「金胎両部の(右ウケ少し出、扇を左手に取り)一足をひつさげ(ヒラキながら左手と左足を上げ)。

というところなんですが、同じ蔵王権現をシテとするもう一つの能。。『国栖』に、同じ型がありながら、そちらでは右足を上げるのです。

蔵王権現は異相の風貌の神ながら、日本で生まれた純粋に和風の神です。役行者が大和国吉野の金峰山(きんぷせん)で修行中に感得したと伝えられ、修験道の本尊とされているそうです。吉野の金峯山寺には本堂である国宝の蔵王堂があって、そこには7mという巨大な金剛蔵王権現像(重文)が三体祀られています。それぞれ釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の権化として仮にとった姿とされているのです。そしてこの三体の蔵王権現像はすべて同じポーズを取っていて、右手に三鈷杵を持ち、そして上げているのは。。右足なんですよね~。能『嵐山』『国栖』のシテの蔵王権現がどちらも片足を上げるのは、蔵王権現の誓約をそのまま表しているわけで、おそらく金峯山寺の金剛蔵王権現像もモチーフとして作者の念頭にあったのかもしれません。

ちなみに金峯山寺の金剛蔵王権現像は秘仏で、ほとんど公開されることがなく、前立ち本尊さえ撮影禁止なのだそうです。画像はどこかにあるまいか。。と探したら。ありました。

→ 蔵王堂と金剛蔵王権現像

ん~、見るからに恐ろしい形相ですが、三体とも同じお顔、同じポーズというのが珍しい。なお『国栖』の後シテは普通は『嵐山』と同じ「大飛出」を掛けるのですが、ときに「不動」の面を掛けることがあります。「不動」の面は不動明王が登場する能『調伏曽我』(宝生・金剛・喜多流の所演曲)専用の面のように言われていますが、熊野権現が登場する『檀風』(やはり前掲の三流で所演)にも使われることがあるそうです。金峯山寺の金剛蔵王権現像の青い顔、憤怒の表情はまさに不動明王によく似ていますね。この仏像のお顔からの連想でしょうか。

がしかし。同じ蔵王権現の役であっても、『嵐山』に「不動」の面を使うことは考えにくかったりします。ちょっと説明が難しいですが、「不動」はやはり切能に向いていて、脇能にはやや似合わない、というか。。

と思ったら、『嵐山』であっても「白頭」の小書が着いた場合には、流儀によっては「不動」で演じることもある、という資料がありました。観世流もそういう選択肢があるのかわかりませんが、必ずしも脇能には「不動」が避けられるワケではないようですが。。
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絢爛豪華な脇能『嵐山』(その15)

2008-08-17 20:46:27 | 能楽
地謡「和光利物の御姿(七ツ拍子右ヘノリ)。和光利物の御姿。
シテ「われ本覚の都を出でて(謡いながら舞台に入り)。分段同居の塵に交はり(正へサシ込ヒラキ)。
地謡「金胎両部の(右ウケ少し出、扇を左手に取り)一足をひつさげ(ヒラキながら左手と左足を上げ)。
シテ「悪業の衆生の苦患を助け(扇を右に持ち直しながら大小前へ廻り)。
地謡「さて又虚空に御手を上げては(正へ出、ヒラキながら両袖を頭へ返し)。
シテ「忽ち苦海の煩悩を払ひ(六ツ拍子、両袖を払い)。
地謡「悪魔降伏の青蓮のまなじりに(右へサシ分ケ)。光明を放つて国土を照らし(サシて右へ廻り)。衆生を守る誓を顕し(大小前にてヒラキ)。子守勝手蔵王権現(七ツ拍子。ここでツレ<子方>二人は立ち上がり、そのまま幕へ引く)。同体異名の姿を見せて(大きく直し)。おのおの嵐の(正先へノリ込拍子)山に攀ぢのぼり(右に飛返り)。花に戯れ(正へグワッシ)梢に翔つて(右へ廻り飛返り立居)。さながらこゝも金の峰の(正先へ出て左袖を巻き上げ)。光も輝く千本の桜(すぐに左へトリ右袖も巻き上げ)。光も輝く千本の桜の(常座へ行き小廻り袖を払いヒラキ))。栄ゆく春こそ久しけれ(右ウケ左袖を返し留拍子)。

キリの型は仕舞でもおなじみだと思いますが、師家の通常の型は割合とおとなしい感じですね。ところがこの他にいくつかの替エの型が用意されていまして、現在ではその型の方が演じられる頻度は高いのではないかと思います。

すなわち

悪魔降伏の青蓮のまなじりに(右へサシ分ケ)。光明を放つて国土を照らし(サシて右へ廻り)。衆生を守る誓を顕し(大小前にてヒラキ。このところにてツレ<子方>立ち上がり、シテの左右の後ろに立ち並び)。子守勝手蔵王権現(シテは七ツ拍子)。同体異名の姿を見せて(大きく直し)。おのおの嵐の(正先へノリ込拍子。ツレ<子方>は正先へ出)山に攀ぢのぼり(右に飛返り)。花に戯れ(正へグワッシ。ツレ<子方>は桜の作物に向き左袖返しかけ)梢に翔つて(右へ廻り飛返り立居ツレ<子方は幕へ引く)。さながらこゝも金の峰の(正先へ出て左袖を巻き上げ、またはサシて正先へ出て左袖巻き上げるも)。光も輝く千本の桜(すぐに左へトリ右袖も巻き上げ)。光も輝く千本の桜の(常座へ行き小廻り袖を払いヒラキ))。栄ゆく春こそ久しけれ(右ウケ左袖を返し留拍子)。

シテの左右の後ろにツレ(子方)が立ち並ぶさまは「子守勝手蔵王権現、同体異名の姿を見せて」とある地謡の文句に添った型ですね。シテの左右の後ろに立つのはツレの場合で、子方の場合はそれではシテの陰に隠れて見えなくなってしまいますから、シテの前に立つことになっています。

そして、ツレの場合でも、シテが左右のツレの肩に両手をかける型もありまして、この場合もツレはシテより前に立つことになります。今回はこの型、すなわち子方をシテの前に立たせて、その肩に手を掛ける型をやってみたかったために ぬえは『嵐山』を上演曲に選んだようなもので、そのあとシテは伸び上がって両手を左右に大きく拡げて、それこそ「同体異名」のさまを表現するのですよね。

さらに、その型のあとには子方が正先に出て桜の作物の横に立ち、作物にそれぞれ左の袖をかけるのです。この型は替エではありますけれども、子方を出しておいてこの型をさせないのでは、舞台効果には雲泥の差が出るでしょうね。この型のためだけに桜の立木の作物を出すとも言える。桜の作物は中入で引くこともあるのです。そりゃ、『嵐山』の後半はツレ(子方)も登場して舞台は狭くなりますから、作物は中入で引いた方がシテにとってはありがたいのですが、やっぱり花の風情の曲ですし、何と言っても作物を残しておけばこのツレ(子方)が袖をかける型ができますし、ましてやそれが子方であれば、これはまた情緒満点の舞台になるのです。

ん~~、結局『嵐山』で子守勝手を子方にすれば、この曲全体が子方の舞に集約されちゃう、とも言えます。少なくとも舞台で人目を引きつけるのは事実上 子方で、桜の枝を持って現れ、それを扇に持ち替えて「天女之舞」を舞う子方は、そりゃ美しいです。後シテはその添え物に近い存在かも。。実際 ぬえは、子方のこの型のために『嵐山』を選んだのですよねえ。だって、後シテは子方が舞っている時間と比べればはるかに短い時間しか登場していないし、自分の前で子方が舞っているから、やっぱり目立つのは子方。伊豆の国市の薪能だからこそ選んだ演目です。
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絢爛豪華な脇能『嵐山』(その14)

2008-08-15 15:17:03 | 能楽
「天女之舞」が終わると、引き続いてツレ(子方)二人は大ノリの地謡に合わせて舞い続けます。「天女之舞」に限らず舞のあとに大ノリの地謡、または拍子に合わない地謡がある時は、中左右、跡へ打込、ヒラキという定型の型を舞うことになっていて、それよりそれぞれの曲に独自の型が続きます。

地謡「神楽の鼓声澄みて(中左右、打込ヒラキ)。神楽の鼓声澄みて。羅綾の袂を翻し翻す(角へ出て左袖を頭に返し)舞楽の秘曲も度重なりて(左に廻り)。感応肝に銘ずるをりから(大小前よりサシ込ヒラキ)。

『嵐山』の場合は中左右、打込のあとに「羅綾の袂を翻し翻す」という文句があるので、その文意に沿った型、すなわち角にて左袖を頭に返す型があって、その型を中心に型が組み上げられている感じが見えると思います。

地謡「不思議や南の方より吹きくる風の(サシて脇座の方へ行き)。異香薫じて瑞雲たなびき(受ケ流シ)。金色の光輝きわたるは(幕の方へ出)。蔵王権現の来現かや(雲之扇)。

次いで地謡が拍子に合わない謡い方に転じると、ツレ(子方)は脇座の方から幕の方へ向き、舞台の中央あたりまで出て雲之扇の型をします。これまた脇能など、後シテの神の配下にある天女のツレの役が、後シテを待ち受けるときに必ず行う定型の型です。なおこの場合の雲之扇は「はるかに見はるかして待ち受ける」という意味があります。そこで、たとえば『嵐山』では小書「白頭」のとき、後シテはここですでに幕を出て三之松に立ちますが、こういう時にはツレ(子方)は雲之扇の型はしませんで、下に居て両手をついてシテに向かってお辞儀をしたりします。こういうところも型に込められた意味がわかりやすいところだと思います。

ツレ(子方)が待ち受けるところに、囃子が「早笛」という非常に躍動的で緊張感に溢れた、高速なテンポの登場囃子を演奏し、やがて後シテが登場します。

後シテは「蔵王権現」で、装束付は以下の通り。

面=大飛出、赤頭、唐冠または輪冠、襟=紺、着付=紅入段厚板、赤地半切、袷狩衣、縫紋腰帯、神扇。

威厳のある神や鬼神の典型の姿で、面を替えることによって神にも鬼神にもなる扮装です。狩衣はかなりい現のある装束で、単狩衣は『融』や『須磨源氏』『遊行柳』などのシテや『熊野』などのワキなど貴人や貴公子役に使われる一方、袷狩衣は『嵐山』や『高砂』『老松』『賀茂』のような神の役にも、また『鵜飼』や『鍾馗』など鬼神にも用います。鬼神の役で少し位の低い役には袷法被を着ることが多く、『小鍛冶』『野守』などがその好例でしょう。これらの曲でも小書によって位が重く扱われる場合には袷狩衣を着ることもあります。面白いのは『船弁慶』で、この後シテは鬼神ではなく怨霊なので袷法被を着るのですが、小書がつけられると狩衣を着ます。これは怨霊と言えども平知盛は敦盛や清経、経正などと同じく平家の公達で、その貴人としての位から狩衣に替わるのだろうと思います。

「早笛」は本来二段構成の登場囃子で、通例は一段に演奏されます。登場人物はその定められた囃子のキッカケを聞いて幕を上げ、大きく右手を前へサシ出して走り出るのが多くの場合ですが、『安達原』のように右手を出さないで登場する曲もあります。

『嵐山』では大飛出という異相の形相の後シテが扇を前にサシ出して走り出、一之松に止まって正面に向きサシ込ヒラキをしたところで囃子は「早笛」を止め、地謡が謡い出します。
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絢爛豪華な脇能『嵐山』(その13)

2008-08-14 01:46:04 | 能楽

今日は ぬえが師匠に『嵐山』の稽古をつけて頂きました。前ツレの九皐会のKくんも、もちろん子方の チビぬえも、そして綸子ちゃんもちゃあんと参加しての稽古です。綸子ちゃんはこの日のために、お母さんに連れられて伊豆から東京にわざわざ出てきてもらいました。ロマンスカーで来たらしい。(^.^)

綸子ちゃんのお稽古の成果を師匠に初めてお目に掛ける機会で、ぬえも心待ちにしておりました。結果、師匠からは特に直されることもなく、合格点を頂けたようです。ぬえはあちこち直されましたけれど~。先輩も地謡と囃子のアシライに参加してくださり、書生さんも準備やらに奔走してくれて、綸子ちゃんもいよいよ本格的に能楽師に交じっての稽古が始まったわけですけれども、気負った風もなく、緊張でガチガチということもなく、普段の稽古通りの成果を。。というよりも、いつも伊豆の国市の市民会館のホールに、マイクスタンドを並べて舞台の広さを区切って稽古している あの略式の稽古から見れば初めて能舞台で稽古を受けたにしては。。舞台の広さの感覚をよく身につけていて、不思議にうまい立ち位置の取り方をしていたのには感心。あれも研究の成果なのかしらん。

師匠の稽古が済み、『嵐山』もあとは申合を残すのみとなりました。ああ、あれほど長く稽古を続けてきたと思ったのに、もういよいよ来週には薪能の本番が来てしまうのね~。

さて結局、今回の薪能では子方二人に「天女之舞」を相舞で勤めさせることにしました。まあ短縮バージョンで、「三段」と呼ばれる全体で四段の構成の本式の舞ではなく、二段構成に編成し直して勤めてもらうことにはしたのですが、それでも、やっと「下リ端」の譜を覚えたばっかりなのに、今度は「天女之舞」の笛を覚え直さなきゃならない子方たちは。。ご愁傷様でございました。m(__)m

覚えるのは大変ではありましたでしょうけれども、でもさすがに「下リ端」「渡り拍子」で「左右」「打込」「サシ廻シ」「ヒラキ」などの舞の基本の型をほとんどすべて網羅して覚えた(。。こちらの方がよっぽど大変だったと思うけれど。。)ので、舞の稽古は順調に進んで、あれよあれよと「天女之舞」も出来上がった、という感じです。その記憶力を ぬえにくれ。

『嵐山』のツレ(子方)が現れ「天女之舞」を見せる意味は、中入前の前シテ(子守明神の化身)がワキに対して「夜の間を待たせ給ふべし」としか言っていないことから不分明ではありますが、前シテの登場の部分のサシに、帝が千本の桜を植え移したことを「これとても君の恵みかな」と言っていて、間狂言がワキの勅使に参詣のお礼を言い、「三段之舞」を見せることから、勅使、つまり帝からのメッセンジャーに対してのもてなしのようなものでしょう。

ところが後ツレ(子方)の詞章を見るかぎり、二人はひたすらに嵐山の風景を愛で、それに興じて「神遊び」を見せているばかりですね。まあ、泰平の御代で安心して神も降臨し、満開の桜の時期に花に戯れる。。言葉を返せば満開の桜が泰平の象徴であり、神とても神孫たる帝王の善政のもとでそこに遊び戯れ、神の世界の楽しみを謳歌できる、という表現なのでしょう。

日本の神は「荒ぶる神」である一方、婚姻もし、ケンカもする、とっても人間的な存在です。欲界にある天人には五衰というものもあり、桜を守護する子守・勝手の明神は花に戯れ舞を舞う無邪気な存在として描かれているのでしょう。

画像は伊豆での稽古の際に能楽写真家の山口宏子さんに撮って頂いたもの。ぬえ、気に入っています~
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絢爛豪華な脇能『嵐山』(その12)

2008-08-13 01:00:06 | 能楽
「渡り拍子」というのは「下リ端」のあとに必ずあるもので(例外あり)、地謡の拍子当たりとしては「平ノリ」でありながら、もっぱら「大ノリ」の拍子当たりの部分ばかりを演奏しているはずの太鼓が参加する小段のことです。小段の名称、というよりは、拍子当たりの名称なのですが、「下リ端」の直後にはほぼ必ず存在するので小段の名称のように使われている言葉です。

しかし引キを多用するのが印象的なこの小段は、どちらかといえば能の中では『芦刈』の「笠之段」や『放下僧』に出てくるような「小歌」に似ているような気もしますね。いずれにしても太鼓の拍子当たりと地謡のノリをややズレるように作曲されているような印象で、そのシンコペーション感が「渡り拍子」という言葉の由来でしょう。

地謡「三吉野の。三吉野の。千本の花の種植ゑて。嵐山あらたなる(と一之松で左右)神遊びぞめでたきこの神遊びぞめでたき(打込ヒラキ)。
子方「いろいろの。
地謡「いろいろの(と舞台に入る)。花こそ交じれ白雪の。子守勝手の。恵みなれや松の色(サシ込、ヒラキ)。
子方「青根が峯こゝに(二人向き合い)。
地謡「青根が峯こゝに。小倉山も見えたり(サシ込ヒラキ)。向ひは嵯峨の原(行掛リ)。下は大堰川の(サシ廻シ)。岩根に波かゝる亀山も見えたり(遠くを見ながら三足ツメ)。よろず代と(七ツ拍子正へノリ込)。よろず代と(ヒラキ)。囃せ囃せ神遊び(後ろに向いて桜持枝で二つあおぎながら行き、後見に持枝を渡し扇を持ち)。千早ぶる(正面に向いてサシ込、立拝)。

これにて「天女之舞」三段となります。脇能ではツレの舞であっても「天女之舞」は立拝(たっぱい)と言って両袖を高く頭の上で合わせて舞にかかります。『嵐山』では詞章が短い関係からか型がありませんが、本来は女神ならば長絹、男神ならば単狩衣の両袖の露(袖の下端から垂れ下がる紐)を取って立拝にかかることになります。

今回の「狩野川薪能」では、当初「天女之舞」は省略するつもりでした。さすがにアマチュアの小学生、まだ「サシ込」も「ヒラキ」も知らない子にこれを舞うのを要求するのは無理だと思いまして。しかも チビぬえも舞はまだやったことがありませんで。。

ところが稽古をはじめて何回目か、かなり ぬえも厳しい評価をしていた頃ですが、ある日突然、でしたね。綸子ちゃんが苦戦していた「下リ端」「渡り拍子」をいきなりマスターして稽古場に現れたのは。それまで どちらの足から出るのか、どっちの手を上げるのかさえ しどろもどろだった綸子ちゃんが、いきなりすべての型を間違えずに覚えてきました。まあ。。苦労も並大抵のことではなかったと思います。。ご父兄も含めて。ぬえ、綸子ちゃんのお母さんに「ご自宅でも ぬえが送った資料を研究してアドバイスしてあげなきゃ、子どもがかわいそうじゃないですか!」まで言ったもんなあ。

とうとうコツを見つけたか! もちろん ぬえは諸手をあげて誉めてあげました。で、こう言ったわけです。

「そこまで出来るようになったなら! じゃ、省略するつもりでいたもっと難しい舞を、復活させよう!」
「ええ~~~。。。。。」

嬉しそうな綸子ちゃんの笑顔が。消えた。
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絢爛豪華な脇能『嵐山』(その11)

2008-08-12 03:03:35 | 能楽
今回の『嵐山』の子方は、二人とも当初は伊豆の国市の子どもたちにやらせるつもりだったのです。しかしこの「下リ端」を笛の譜を聞きながら、ちょうどよい歩速で橋掛りを歩んで、所定の譜のところで所定の位置にピタリと止まらなければならない。そして止まったならば、今度は「左右」「打込」「ヒラキ」など、「舞」の型を演じなければならない。そのうえまたしても笛の譜を聞きながら舞う「天女之舞」まである。さらに二人の子方は型もシンクロさせなければならない。。

これは無理だ、と判断せざるを得ませんでした。去年の『一角仙人』も子方は大変な役だったけれど、あちらは戦い。こちらは舞。その難しさは去年の比ではないです。型は複雑。それが二人で舞が揃っていて、しかも美しくなければならないですからね~。初めて「サシ込」「ヒラキ」を覚えるアマチュアの小学生を二人とも起用したら、たとえば一人が舞台でパニックを起こしたりしたら、確実にもう一人も巻き込まれて、結果笛の譜を聞き損なって、二人とも舞台上で身動きが取れなくなる可能性すらある。

そんなわけで、子方の一人を チビぬえにやらせる事にしました。チビぬえはまだ小学4年生だけれど、ひと通り型や謡は仕込んであります。もしも相手が混乱しても、もう一人が確実に舞っていれば、なんとかそれに合わせて修復することもできる。その可能性に期待しました。

ま、ただ今回は取り越し苦労だったようで。。最初こそかなり苦労もしたけれども、綸子ちゃんは一時 チビぬえを追い越してしまうほど覚えてしまって。それを ぬえに告げられた チビぬえもかなり闘志を燃やしていたようでした。しめしめ。

毎年 玄人能の子方に抜擢した子は、一度は必ず涙を流す場面が来るものだけれど。。今年はそれはないかもしれない。いや、稽古の当初にすでに(心の中では)涙を流していたかもしれないけれど、いま、綸子ちゃんは ぬえの厚い信頼を受けています。(#^.^#) ここまで出来ちゃうと、来年の『狩野川薪能』の玄人能の子方の人選には本当に困るな。

ただ、このレベルが本当に当日の舞台にまで維持できるか、それは わかりません。神のみぞ知るところでしょう。本人には「薪能当日には『嵐山』を舞うのはもう飽きちゃった、というぐらいが丁度いいんだよ」と言って稽古を重ねるようには言い聞かせてはありますけれども。。舞台には稽古をちゃんと重ねている人にだけ微笑んでくださる神様がおられますからね。。でも同時に、魔物も確実に住んでいるのだけれど。。

さて二人のツレ(子方)は「下リ端」で登場しますが、二人の役の性別が違う場合、観世流では女性の役の方が先に出るように定められているようですね。『鶴亀』のツレも同じ登場順ですし、シテを間にはさんで登場するけれども『絵馬』も同じく天鈿女命が先に出ます。『嵐山』も本文の中ではほとんど「子守勝手」と男神を先に呼んでいるのに、実際のツレ(子方)の登場は勝手が先です。

二人は桜の持枝を右手に持って登場しますが、これがまた華やかなんです。正先の桜の立木の作物。現れた若い夫婦の神。そして手に持った桜の枝。まさに泰平の御代をそのまま体現したような絢爛さ。この風情ですから、ツレよりも子方の方がより華やかに見えるでしょうね。

「下リ端」の終わりで前述のように二人は「左右」「打込」「ヒラキ」の型をし、「下リ端」が終わると、地謡が特殊な拍子当たりで謡い出します。俗に「渡り拍子」と呼ばれている部分です。
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