ぬえの能楽通信blog

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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その4)

2023-04-04 09:41:28 | 能楽
シテが懐かしい都からの来訪者を受け入れて、自分自身の思い出にひたって涙するのに対して、ワキはまったくそれとは正反対の所望をします。

ワキ「いかに申し候。何とやらん似合はぬ所望にて候へども。いにしへこの所は源平の合戦の巷と承りて候。夜もすがら語つて御聞かせ候へ。
シテ詞「安き間の事語って聞かせ申し候べし。


「何とやらん似合わぬ所望」というのは殺生を戒める仏法の教えを広める立場の僧が戦場の有様を尋ねるのが不似合い、ということ。

能「融」にもありますが、シテが昔を懐かしんで涙する場面のあとにワキに所望されて一転、シテが嬉々として主人公(化身の前シテにとっては自分自身)の栄光の様子を語る場面になるのは少々唐突な感を抱かせますね。一見すると涙するシテが急に気持ちを変えたようで不自然には思えます。

ここについて謡曲の注釈本の中には、打ち沈むシテをワキが鼓舞するように話題を転換した、と言われることがありますが、ぬえが思うのはそうではなくて、シテが涙する場面は脚本としてシテの内情にクローズアップした場面なのであり、涙はシテの心の中でのこと、実際にワキがシテの涙を見たのではない、と考えれば ワキの話題転換も自然に見えるのではないかと思います。

さてこうして当地、屋島での源平合戦の語りの場面になります。
塩屋の主人として床几にかかっていたのがワキを招じ入れて床に着座したシテは、ここで再び床几にかかります。

当地の人の昔話にわざわざ居住まいを正す演出は上手な手法です。卑しい漁師が語るには不似合いなほど勇壮で、その場に居合わせて刃を交えた当事者が語るかのような合戦談。その不自然さを、語りが始まる前にすでに視覚的に観客に訴えかけるのがこの床几での語りです。

シテ「いでその頃は元暦元年三月十八日の事なりしに。平家は海のおもて一町ばかりに船を浮べ。源氏はこの汀に打ち出で給ふ。大将軍の御出立には。赤地の錦の直垂に。紫裾濃の御着背長。鐙ふんばり鞍笠につゝ立ち上り。一院の御使ひ。源氏の大将検非違使五位の尉。源の義経と。名のり給ひし御骨がら。あつぱれ大将やと見えし。今のやうに思ひ出でられて候。

勇壮な「語り」ではありますが、じつは多くの問題があります。

ここで屋島の合戦についておさらいをしておくと、この屋島の直前には播磨の一の谷の合戦があるとされていますが、実際にはふたつの合戦の間には約1年の間が開いています。平家が清盛以来瀬戸内海の水軍を味方につけており、そこで一の谷で破れた平家は船を頼りに海を渡って四国に渡り、屋島に本拠を置いたのです。これに対して関東から下向した源氏は海を渡ることができない源氏はなすすべなく、水軍や軍船の用意に時間がかかったのが大きな要因で、後に伊予や熊野の水軍を味方につけて壇ノ浦での決戦に臨むまでは源氏は常に海に阻まれて平家との合戦に苦労しています。

さて一の谷の合戦のあとすぐに屋島の攻略に出られなかった源氏側は、範頼はいったん鎌倉に戻り、義経も都に戻り後白河法皇から都の警備のために検非違使の尉に任じられ、と様々な展開があり、鎌倉でも頼朝が一の谷で生け捕りにされた平重衡と三種の神器との交換を平家と交渉して決裂し、都では後白河法皇は安徳天皇を廃しその異母弟・尊成親王(後の後鳥羽上皇)を神器がないまま天皇に即位させ、義経は近畿での三日兵士の乱の平定に当たったり、範頼は山陽道に進軍したりと。。目まぐるしく状況が変転しています。

こうして一の谷の合戦から約1年後に屋島の合戦が行われ、能「屋島」で前シテは「その頃は元暦元年三月十八日」と言っているわけですが。。 源平の合戦の中でも壇ノ浦、一の谷に並んで有名な屋島の合戦ではありますが、じつはその正確な期日ははっきりしていないのです。

一の谷の合戦が起こったのが寿永3年2月7日のことで、この年の4月に元暦に改元しました。安徳天皇を擁する平家はこれを用いず寿永の元号を使い続けたため複雑で、義経は当然新帝・新元号を擁する側なので元暦を使っているのですが。。 さらに複雑なのは日本の改元の概念が現代と少し違うということ。一の谷の合戦の直後の寿永3年4月に改元。。元暦が始まったのですから能「屋島」でシテが語る「元暦元年3月」という日付は存在しないように思えますが、日本では明治以前は改元した場合はその年の元日まで遡って新元号を使う習慣がありました。

なので一の谷の合戦は寿永3年のことですが、直後に改元したそのあとから見れば元暦元年2月の出来事であったことになります。もっともこの考え方を能「屋島」でいう「元暦元年3月18日」にあてはめれば、屋島合戦は一の谷の合戦の翌月ということに。。 実際には「平家物語」など物語や記録もすべて屋島の合戦が起こったのは元暦2年とされていますので、これはどうも能だけが元号を間違えているか、もしくは意図的に変えたもののようです。

どうも現代人からすると一の谷の合戦と屋島の合戦は期日が近くて、壇ノ浦の決戦はそれより少し期日が隔たったあとの出来事、というような印象があると思いますが、壇ノ浦が海上での合戦だったのに対して一の谷と屋島のふたつの合戦がどちらも海辺での地上戦で、名将同士の一騎討ちのような場面が似通っているので共通性を感じるほかに、案外この改元が与える複雑な事情がその印象に影響を与えているかも。

実際には 前述のように一の谷と屋島の合戦の間には1年間の空隙があるのですが、屋島以降 水軍を味方につけた源氏の進軍は迅速で、壇ノ浦の決戦は屋島の合戦の翌月のことになります。

また日付の方もちょっと問題で、能では「3月18日」となっていますが、上記の諸本ではみな「2月」のこととなっています。一の谷の合戦からちょうど1年後となりますね。前述の期日がはっきりしていない、というのは「日」のことで、「平家物語」の中でも本により「2月18日」「19日」と記述の異同があり(「20日」と解釈できる本もあり)、「吾妻鏡」「源平盛衰記」では「19日」となっていることから、19日が最も有力候補でありながら正確な期日は不明、ということになるでしょう。

能「屋島」のシテの語りで義経が「大将軍」と称されているのは正しい表記で、当時の合戦では戦力は大手・搦手(からめて)の二つに分けて敵を挟み撃ちにする戦法が取られ、必要な二人の指揮官は、大手のそれは大将軍、搦手は副将軍と呼ばれました。源平合戦では本来の総指揮官は頼朝ではありますが、彼は鎌倉に残ったためその名代が軍を率います。そして多くの源平合戦では兄にあたる範頼が大将軍、弟になる義経が副将軍となっています。ところがこの屋島の合戦では範頼は九州攻勢に出ていて義経一人が大将軍として源氏軍を率いたのです。

が、大将軍と呼ぶにはこの屋島の合戦で義経が率いた軍勢は貧弱だったようで、平家討伐の源氏の軍勢は、まずは前述のように九州攻勢に出た範頼軍と義経軍の二手に分かれていたうえに、ようやく船を調達して摂津の渡辺・福島に勢ぞろいした義経軍も折節の嵐によって船出ができず、有名な「逆櫓論争」の末に梶原景時と袂を分かって嵐を押し切って船出した義経軍は「平家物語」によれば200余艘のうちわずか5艘、乗せた軍馬は50匹で、平家の屋島陣を急襲した手勢も「七八十騎」とされています。

少ない手勢ではありましたが義経の計略は緻密で、まず嵐をついて四国に上陸したのが屋島がある讃岐ではなく阿波国で、夜通し山越えをして平家の屋島陣を背後から急襲したのでした。しかも襲撃の直前には高松の民家に火を放ち、軍勢を小グループに分けて襲うことで大軍勢に見せかけたのでした。一の谷で義経が平家軍を背後から襲った「鵯越え」の記憶もあった平家はこれに驚いてすぐに陣を捨てて、また船を頼って海に逃げ出しました。「平家は海のおもて一町ばかりに船を浮べ。源氏はこの汀に打ち出で給ふ。」とあるのは、じつは海に逃げた平家の陣地を義経軍がおさえ、ようやく相手の軍勢が少数であると気づいた平家が海の上から源氏に対峙した、という場面になります。
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