ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第10次支援活動<松島町・女川町>(その3)

2012-11-29 21:01:00 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて今回は松島のホテル「大観荘」での石巻市立女子高の同窓会での上演が最初の活動です。ぬえらプロジェクトの活動が口コミで広がり、上演依頼にまでこぎ着けたのはひとつの成果かもしれません。

同窓会は還暦のお祝いの集まりでもあり、また震災の犠牲になったお友達の追悼でもあり。。難しい場面ではありますが、しかし ぬえには「前を向いて進んでいくしかないのですから、お祝いのおつもりで曲を選んで頂いて結構です」というお言葉を頂いていまして、それで『嵐山』を上演することに致しました。

さて今回 ぬえの活動の協力をしてくださるFさんの運転で会場に到着して関係者に挨拶をし、上演準備に取りかかると、パーティーの会場のお隣りの部屋では、同窓会の開式前に震災の犠牲となった級友の追悼の法要が行われました。喜びと悲しみと。。同窓会の会場は松島ですけれども、集ったみなさんは石巻の方。難しい1年を過ごして来られた事と拝察します。。

しかし同窓会が始まると、みごとに! 女子会になってました。ま~みなさんお元気で、にぎやかなこと! 懐かしい先生と再会して写真を撮ったり、談笑に花を咲かせたり。ぬえたちも 賑やかな『嵐山』を選んで正解でしたね~。

ぬえたちのお手伝いも大変喜んで頂き、しかしながら今回の訪問は時間との戦いといえる過密スケジュールでしたので、上演後は同窓会の途中で失礼させて頂きました。石巻市立女子高同窓会のみなさん、お招き頂きまして本当にありがとうございました!

さて着替えをすませた ぬえら一行はFさんの車に乗せて頂いて石巻を目指しました。今回はこの翌日に女川町での活動を予定していたのですが、あまりに過密なスケジュールで石巻の関係者にお会いするのは無理、ということで、ご挨拶だけでも、と思い立ったのでした。

石巻では観光協会さんと「チーム神戸」にご挨拶することができました。「チーム神戸」は、現在の事務所「ふれあいサロン」が年内に取り壊しが決まって事務所の移転で大変な時期でした。もともと「ふれあいサロン」は、湊小学校が避難所の指定を解除されてから、「チーム神戸」の拠点として被災した家屋。。歯科医さんの建物をオーナーさんの厚意で借り受けて、内装を自分たちで修復して事務所として使っておられたのです。しかし今年の年内に修復不能の被災家屋として撤去されることが決まっていました。

その後の事をリーダーの金田真須美さんに伺ってみたのですが、すぐご近所の、やはり被災家屋を拝借することが決まったそうでした。しかしその家は震災後一切手入れがされていないそうで、これから泥掻き(!)をし、建物を修復し。。それから事務所の引っ越しです。なんだか気が遠くなる。。お手伝いできないのが残念ですが、協力者もたくさんおられるので、着々と予定が進められていくことでしょう。

。。もっとも、これは後日のことですが、ぬえが今回の活動を終えて東京に帰って来てから、「チーム神戸」が「どなたかご不要の窓枠を持っていませんか~」とアナウンスをしていました。つい。。笑っちゃいけないんだけど、笑っちゃった。「窓枠ください」って~?? (^^) なんでもその後すぐに窓枠は手に入ったらしい。さすがの人脈です。これだから ぬえも「窓枠ください」と聞いてもあんまり心配しなかったです。

石巻では「チーム神戸」の協力をしながら独自に石巻で店舗を開いて生活基盤を建てて活動しておられる方の店舗「ガレージ湊」を覗いたり、「明友館」で機動力を発揮した活動を展開されておられる千葉恵弘さんの事務所などに行ってみたのですが、いずれもお留守。突然の思いつきで参上したので仕方なかったですが。。ちゅんさんや東助さんにもお会いしたかったな~。

こうして駆け足で石巻でのご挨拶を済ませて、この日の宿。。今回は家族連れなのでビジネスホテル。。に向かうべく仙台に移動しました。Fさんには一日中お手伝い頂きました。車の運転から松島のホテルでの上演時の後見役まで。本当にありがとうございました~
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第10次支援活動<松島町・女川町>(その2)

2012-11-28 20:29:19 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【10月21日(月)】

朝自宅を出発、新幹線にて仙台を目指しました。いつもならば装束の運搬もあるし車で移動。。それも高速道路の通行料を節約するために深夜に走行するのですけれども、この日は10月ということで東京での舞台も多く、まさにスケジュールの合間を縫っての活動になりました。とくに出発の前日には東京で師家の大きな催しがありましたので、これに出演してから終夜運転して東北地方に向かうのは無謀。。しかも同窓会の実行委員さんとの交渉で、交通費をご負担くださる、ということでしたので、ありがたくお言葉に甘える事に致しました。それでも限られた予算ですので、新幹線も割引キップを利用し、現地でも格安レンタカーを借りることにしていました。

この日の夕方に予定されていた石巻私立女子高の同窓会の会場は、松島のホテル「大観荘」でした。松島に行くためには仙台駅で新幹線を降りて仙石線に乗り換え、「松島海岸駅」を目指すのが普通です。仙石線は仙台と石巻を結ぶJRの路線で、松島付近までは震災後も通常の営業をしています。しかしここから先。。東松島町のあたりでは線路も津波被害に遭って、現在でも復旧の見通しが立っていません。

今回もこの仙石線に乗るつもりだったのですが、この日だけ ぬえらのサポートを引き受けてくださった松島在住のプロジェクトの活動の協力者のFさんのアドバイスもあって、東北本線を利用して「松島駅」を目指すことになりました。というのも、時間節約のため昼食は駅弁を買って移動中の電車内で頂くことにしたのですが、Fさんにそれを伝えると「仙石線はベンチ型のシートで駅弁食べづらいですよ。東北本線ならボックス・シートです」というアドバイスが! こういう、現地の人ならではの情報は貴重ですね~~。感謝して東北本線でお弁当を食べながら松島に向かいました。すでにレジャーの気分じゃね。。

松島町。ぬえはすでに昨年6月からずっと状況を見てきております。言葉の選び方が適切かわかりませんが、この松島町と塩竃市は、震災時にもほかの沿岸地域と比べて津波による被害は比較的軽微だったのです。膨大な量の水が押し寄せて家々がなぎ倒されて流される、というよりは、洪水による浸水の被害があった、という感じでしょうか。人的な被害も比較的少なかったようです。

そういえば昨年4月、静岡市清水の三保の松原に行った際、すでに「松島は無事だったらしい」という情報を得ていました。それは観光地同士のネットワークを通じて関係者が持っていた情報で、テレビ番組のニュースなどで東北の沿岸地域があまりに広範囲に壊滅的な被害を受けた報道を見ていた ぬえには最初それを信じる事ができませんでした。

そうして、ぬえは昨年6月に一人で取る物もとりあえず当地に来ましたが、当時ネットですでに塩竃のホテルは宿泊予約を取ることができました。松島も旅館等の営業は始まっていたように思います。不思議に思いながら松島にやって来ると、五大堂も瑞巌寺も無事、観光船も営業中、海辺の屋台では 焼き牡蛎を売っていて(美味でした!)、そこここに観光客の姿もあったのです。

ぬえはこの時仙台の若林のあたりで高速道路を降りて、そこからずっと下道を走ったのですが、若林や名取市のあたりでは通行止めも多く、一般車は海岸に近づくことはできませんでした。それでも畑や空き地のあちらこちらに車が転がっている有様は異様でした。ところがそこから塩竃~松島と進んでくると、ほとんど被害の跡というものは目に入らず、報道よりも被害は軽微なのかと錯覚したほど。

でも、松島を超えて東松島町に入り、奥松島と呼ばれる宮戸島や野蒜のあたりの惨状を見て絶句。。初日は石巻まで見てから塩竃に戻り、予約してあったホテルに宿泊し、翌日から石巻の避難所のお手伝いを開始しました。

。。考えてみると、人間が造った防波堤は津波によって壊滅的に破壊されたのに、自然の島々が連なる松島は、人の目からは小島が隙間も多くぽつりぽつりと浮かんでいるように見えても、大きく自然の防波堤となって波を押し返し、松島湾を守ったのですね。。気仙沼でも「津波にやられた港の地域はみんな埋め立て地なんです。津波によって元の地形に戻った、ということでしょうかね」という言葉を聞きました。陳腐な表現ですけれども、自然の力の偉大さに今さらながら驚嘆します。もっとも塩竃や松島の被害が比較的軽微だったといっても、この時塩竃で聞いたところでは、浸水の被害は飲食店の設備を直撃し、営業を再開できた店は半数にも満たない、ということではありましたが。
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第10次支援活動<松島町・女川町>(その1)

2012-11-26 01:26:39 | 能楽の心と癒しプロジェクト
『邯鄲』の稽古と公演準備のために時間を奪われまして、だいぶご紹介が遅くなってしまいました。。今年10月に「能楽の心と癒やしプロジェクト」として第10次になる支援活動のご報告です。

今回の活動の発端は、なんとお呼ばれによる能楽の上演でした。ぬえらプロジェクトは何度か石巻を中心にして活動を展開して参りましたが、そんな中から、ひょんなご縁から石巻市立女子高の同窓会の場での出演のご依頼を頂いたのでした。同窓会といっても「還暦記念」とのことでしたが、いや、みなさんお若いこと! そうして元気! こちらまで元気を頂戴してしまいました~。

石巻市立女子高。。この名を聞いたとき ぬえは「あ。。あそこの高校か。。」と思って身を固くしてしまいました。市立女子高は石巻市の日和山の南端に位置していて、ちょうど、津波が押し寄せてきた時に焼けてしまった門脇小学校のすぐ上に位置しているのです。日和山と門脇地区。。その高低差がある地形によって、津波の被害はまさに明暗を分けてしまい、市立女子高は津波の被害を免れました。

焼けた門脇小学校(2011.6撮影)その背後の高台(日和山)に見えるのが市立女子高



それでも女子高自体は甚大な被害を受けなかったのですから、ほっと安心していたのですが。。じつは現在、その市立女子高の校庭には仮設校舎が建っていて、そこには渡波にあったために甚大な被害を受けた市立女子商業高校が間借りして授業を行っているのですって。。

石巻市立女子商業高校の体育館(2012.8撮影)



今年の春頃でしたでしょうか、プロジェクト協力者の方からこの同窓会のお話が ぬえらに持ち込まれたのは。趣旨としては、還暦を記念して去年行うはずだった同窓会。それが震災のために開催できなくなり、1年遅れで今年ようやく開催することになった。還暦を祝う会でもあり、しかしながら震災によって亡くなったお友達もあり。。震災から1年を過ぎて、ようやくお祝いと、追悼を兼ねた同窓会を挙行することになったとのこと。そこで、この同窓会の実行委員の方のご友人を経て、同窓会のイベントとして能楽の上演の依頼があったのでした。

う~ん、今回はいろいろ考えましたね~。なんせ指定された同窓会の日が、プロジェクトのメンバーのスケジュールの都合がつかないため、ぬえ一人しか参上できないこと。これには参りました。プロジェクト始まって以来の問題。とはいえ、せっかくお声を掛けて頂いたのにお断りするのも忍びなく。。結局 ぬえ一人でお引き受けすることにし、家族で話し合って、今回は子方を卒業したばかりの チビぬえと、装束の着付け要員としてママぬえと、3人でお伺いする事に致しました。

震災から1年7ヶ月。。ぬえの経験では まだまだ子どもが不用意に近づくのはどうか、と思うこともある場所なのですけれども、ひとつには ぬえが引率するから細心の注意は払うことができるであろう、と。もうひとつは、リスクもあるのだけれど、これまで ぬえが行ってきた被災地での活動に理解を示して応援してくれた家族だからこそ、一度現地を見ておいてほしい、とぬえが考えたこと。これが今回お引き受けした理由です。

同行者の体調も把握しながら行動すること。。最近になってようやく ぬえもそこまで気を配ることができるようになりました。。遅すぎっ! まあ、ぬえも笛のTさんも体力には自信がある方なので、ついつい強行軍のスケジュールになってしまっても気にしないで限られた滞在時間のうちに多くの仮設住宅や商店街などをまわる計画を立ててしまうのですよね。それが時としてシビアな計画に。。いろいろな意味で。。なってしまう事に気がついて、せっかくのプロジェクトの協力者の体調管理まで考えるようになったのでした。

次に問題となったのは、家族で上演する曲目がかなり限られてしまうこと。う~んと、う~んと。。
でも夏頃に石巻での活動の合間に同窓会の主催者の方と直接ご相談する機会がありまして、追悼もするけれど、気分は本来還暦を迎えた喜びの催し。未来に向かって進んで行きたい、それが亡くなった友達への供養でもある。。と、このようなメッセージを頂きました。こうして 考えた末に ぬえは喜びの曲でありますけれども、チビぬえが勤めた経験がある『嵐山』を上演曲に選ぶことに致しました。
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廬生が得たもの…『邯鄲』(その14)

2012-11-23 19:52:56 | 能楽
さて本稿の最後の話題は、邯鄲の枕から学んだこととは一体なにか、ということ。「身の一大事をも尋ねばやと思ひ」と故郷を離れた廬生は、邯鄲の里で遭遇した不思議な枕の力で見た夢を見たことによって「望み叶へて帰りけり」と、楚国の羊飛山に住むという「尊き知識」を訪ねることを止めて、旅をも中止したのでした。

しかしねえ。。この能の終末部の静けさといったら。諦めにも似たネガティブな感情が舞台に漂うのはなぜなのでしょう。

これすなわち、栄華の夢が一瞬に消えた事から、現実世界で起きる現象は水泡のようなものだという「悟り」を廬生は得たのでした。一瞬で夢が消えたのは、間狂言の宿屋の女主人が炊きあげた粟の飯が完成したからではないでしょう。何かの原因で夢が覚めたのであって、その理由は台本には はっきりとは書かれていません。

しかし、前述のように超現実的な時間の加速があって、「かくて時過ぎ頃去れば。五十年の栄花も尽きて」とある点に ぬえは注目しています。どうしても「まことは夢の中なれば。皆消え消えと失せ果てゝ」…と、夢が覚めた、という事件にばかり気を取られますが、ある事件があって、シテの夢が覚めたのはその結果にしか過ぎないのではなかろうか。。じつは ぬえが考えているのは帝王の「死」によって夢が覚めたのではないかと思っています。

帝位に就いてこれ以上の喜びはなく、しかも政権は安定していて、すでに五十年の月日が平和に流れたようです。この帝位の夢が破局するのは、他国との戦に敗北して国が滅亡するとか、まあ平和裡に子孫に譲位したということも考えられますが、いずれも『邯鄲』の台本には暗示される言葉はありません。一方「五十年の栄花も尽きて」「百年の歓楽も。命終れば夢ぞかし」。。これらの詞章から ぬえが考えるのは「死」のイメージです。『邯鄲』は、少なくとも帝位に廬生が就いている間の場面は祝言性に満ちているために、表現は婉曲ではありますが、廬生が直面したどうしようもない宿命としての「死」…すなわち天寿を全うしたところで夢は覚めたのだ、と ぬえは考えています。ワキツレ臣下がせっかく用意した「天の漿」も「瀣の盃」も功を奏せず、帝王の寿命は五十の賀のあとほどなく尽きてしまったのでした。

であるとすれば「百年の歓楽も。命終れば夢ぞかし。五十年の栄花こそ。身の為にはこれまでなり。五十年栄花の望みも齢の長さも。五十年の歓楽も。王位になれば。これまでなりげに。何事も一炊の夢」という詞章の意味は、「たとい歓楽が百年続いたとしても、寿命が尽きれば自分の身とともにたちまち霧散してしまう。自分が仮初めに得た栄華の期間はその半分の五十年であったけれど、寿命が来ればすべては終わりと思えば十分な長さであった。出世の望みも長寿の願いも、ともに五十年の長きに渡って得たけれども、王位にまで上り詰めれば、もうこれ以上の望みはない。しかしそれは俗世の望みが達成されたに過ぎなかった。たしかに、その長さは寿命の内にしか留まらないと知れば、現実にこれが実現したとしても、いま粟の飯が炊きあがる間に見たはかない夢とかわらない」。。ということでしょう。

ああ、これが「諦念」となって廬生の気持ちを暗くするのでしょうか。言うまでもなく仏教では現世の執着を捨てて輪廻からの脱却を勧めるのであり、『邯鄲』の本文にも「よくよく思へば出離を求むる知識はこの枕なり」と、邯鄲の枕にはそれを使って夢を見た者に煩悩の迷いの苦海から離れることを勧める機能があった事が描かれています。

しかし出離の道を志すことは喜びであるはず。。ましてや「我人間にありながら仏道をも願はず」と自己反省し「身の一大事をも尋ねばやと思」って旅だち、夢を通じて悟りに導いてくれた邯鄲の枕に対して「げに有難や」と感謝する廬生であるはずなのに、「望み叶へて」という割にはうれしそうでもありませんね。今自分が生きている現実世界は夢のようにはかないもの、というニヒリズムと、来世をも視野に入れた人生の指標を見つけた静かな安堵感。。これらが ないまぜになった複雑な感情が、廬生が得たものであって、この曲の終結部分の静けさもそれを表しているのかもしれません。

でもまあ、ぬえは廬生という人の悩みは、生活臭のまったくないブルジョア階級の憂鬱にも感じるので、まずは現実世界の中に帰って来て欲しいかな。悟りを得た廬生が現実世界の中でどう社会と接しながら生きてゆくのか。ちょっと興味があったりします。

【この項 了】
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廬生が得たもの…『邯鄲』(その13)

2012-11-20 21:16:53 | 能楽
心理描写よりも情景の描写に比重が多くかかる、これが『邯鄲』の、目立たないけれど、ほかの能と大きく違う点なのではないか、ぬえはそう思っています。それは、自分でも思わぬ帝位という境遇にいきなり放り出されるシテ自身の立場の激動、というこの能の特色そのものの故に必然的に導き出される舞台経過なのですが、この理由のためにシテの演技は心理の内面を濃密に描くよりも、むしろ呆然と経過を見守る、いわば消極的な演技に終始せざるを得ないことになります。

これが子方の舞童の舞を見ているうちに段々と我を忘れて、自らのために設えられた饗宴の快楽の中に埋没してゆく。。これがこの能に仕組まれた仕掛けでしょう。このシテの心情は取りも直さずお客さまの心情であって、夢の中でいきなり帝位に就く非現実感を、子方の舞の美しさをもって曖昧なものとし、その地点から夢と現実との端境を、シテの心情からも、お客さまのそれからも消し去る、という手法なのではないかと思います。考えてみれば『邯鄲』の舞台進行上で子方を出す必然性は必ずしもないわけで、子方の存在は、その舞が衆目の興味を集めると同時に、その前後の舞台進行とは切り取られた、別の興味をもって見られるべきもので、台本に現れるシテを巡る非現実な状況を、現実世界と錯覚させる。。それはシテにとってもお客さまにとっても。。ための、ひとつの仕掛けなのだと考えることができるのです。

こうして初めてシテが夢の世界から急転直下、現実の世界。。邯鄲の宿屋の一室。。に戻される場面は印象的になるのであって、いうなればこの能は、この大転換の場面ひとつのためにそれまでの演出が用意されていると考えることができます。

そこで作物の位置が重要になってくるのですが、子方とワキツレが突然座を蹴って立ち上がるように舞台から姿を消し、その代わりにシテが宮殿であったはずの一畳台に飛び込む。。作物はその瞬間に宮殿から邯鄲の宿屋の寝台へと瞬間的に変化する。。この場面の表現には、作物はやはり脇座に置かれているのが最も効果的なのです。

仮に大小前に作物が置かれたとして、それならば台の上の「楽」の視覚的効果は、脇座に作物が置かれてある場合とさほど変わらないと思います。むしろ廷臣が集っている宮殿の豪華壮麗な有様を表現するには、シテがそれらの中心、大小前に座している方がはるかに有利であるはずです。そうして、脇座に作物が置かれた現行の演出の場合では、前述のように横臥する型では正面に頭頂しか見せないことになり、大小前に置かれた場合より不利であるのも明白。

それではなぜ作物が脇座に出されるか、ということなのですが、これは稽古を重ねた ぬえの印象としては、ひとえにこの急展開の場面ひとつに最大の効果を得るための必要にして不可欠な条件だったのではないかと思うのです。

大小前に置かれた作物の中に、突然夢が覚める、という舞台展開のためにシテが横臥するには正面に背を向けたままで型をせねばならず、さらにそのうえ、そのシテの動線を考えると、子方やワキツレはシテの演技の前か後かに舞台から消え去らねばならず、これらの型を同時に行うには無理が生じます。これらのシテや子方、ワキツレの型を同時に処理し、一瞬のうちに宮廷の情景が霧消するという舞台効果をあらわすには、作物は大小前ではなく、脇座に置かれていなければならない。。それは台本の詞章が成立当初から現行とほとんど変化がない場合、作者が最初から導き出したであろう、必然的な演出だったのではないかと思うのです。
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廬生が得たもの…『邯鄲』(その12)

2012-11-20 01:26:06 | 能楽
ワキツレの臣下が「御位に就き給ひては早五十年なり」とシテの帝王に奏上するのは いかにも唐突ではありますが、舞台装置を極力出さずに言葉だけで場面展開をする能では常套の手法。でもじつは、ここには一つの仕掛けがあります。

この文句の直前に置かれた地謡の文句は「たとへばこれは。長生殿の内には。春秋をとゞめたり不老門の前には。日月遅しと言ふ心をまなばれたり」というものであって、これは栄華の御代が永久に続く、という意味の裏返しとして、時間の経過が遅くなるという喩えの意味です。この直後にワキツレが、五十年が経過した、と言うのは矛盾のように見えますが、これは明らかに作者の意図でしょう。後世に文言が改変されたのならば話は別ですが、五十年という帝位の年月は『邯鄲』では重要な時間なので、改変すると全体の構成に影響を及ぼすし、あえて改変する理由もないため原作の通りに伝えられていると考えるべきで、そうなると作者の意図は「五十年」という時間経過を、現実の時間の変化ではなく、すでに時間の経過が遅くなったその上で経過した時間。。要するに永久のように長大な時間の経過したあと、という意味に用いているのだと思います。

この長大な時間の経過は、とりもなおさずシテや、この能をご覧になっているお客さまが、夢の世界をいつの間にか現実と錯覚するのに必要な分量として作者が用意した時間だと ぬえには思われるのです。引立大宮がシテやお客さまにとって寝台から玉座になるのに必要な時間。。これを表す言葉が「五十年」なのではないでしょうか。

こうして晴れて玉座となった作物が急転直下、寝台に戻る瞬間が『邯鄲』のクライマックスで、その緊迫した場面の前には「四季折々は目の前にて。春夏秋冬万木千草も一日に花咲けり。面白や不思議やな」と、前に見てきたように超現実的な時間の加速が描かれている。。すなわちワキツレの「御位に就き給ひては早五十年なり」という言葉のあと、それまで停止していた夢の中の時間はどんどん加速しているのです。であればこそ、瞬間的に玉座が寝台に戻る場面が引き立ってくるのであり、まさに作者が期待する舞台の急展開の効果も現れてくるはずでしょう。

つまり、『邯鄲』の作者は、現代の我々が思うのと同じように、やはりシテが一畳台に飛び込む、あの夢が覚める瞬間の効果をこの曲の眼目に考えたに違いないはずです。『邯鄲』の古い形付に、「まへのごとく枕をし候てふし候」「枕をしてねて、うちハをかほにあつる」と書かれてあることから、往古は飛び込む型がなかった、もっと単純に、最初と同じように眠る型をするだけだった、と考える論考もありましたが、飛び込む、という表現ではなくとも、少なくともこの表記から、のんびりと、ゆっくりと横になる、という演技を限定的に指示したものとは ぬえには読めないです。

「まことは夢の中なれば。皆消え消えと失せ果てゝ。ありつる邯鄲の枕の上に。眠りの夢は。覚めにけり」という地謡の文句が、この能が成立した当初からの文言であるとすれば。。そうしてそれは、後世に改変される理由が見あたらないことから、ぬえは改変はなかったと信じているのですが、そうであるとすれば、形付の表現はどうであれ、古くから子方やワキツレが退場する、そうしてその間にシテが再び横臥する、その場面は急迫した表現でなければならないはずです。具体的な型はどうあれ、やはり現代と同じように、シテは素速く作物の中に入って瞬間的に眠りについた型を再現したに相違ないと ぬえは考えています。

すなわち、『邯鄲』の台本に描かれた世界は、ほかの能とはかなり違っているとは思いますが、心理の内側を描写するよりも、主人公を取り巻く環境の変化を描く割合が大きいために、演技をかなり限定的にしていると思います。そうであれば、『邯鄲』の型は、長い歴史の中でもその成立当初のものから大きく逸脱してはいないのではないか、と ぬえは考えるのでした。
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廬生が得たもの…『邯鄲』(その11)

2012-11-18 02:26:54 | 能楽
ようやく終わって稽古の日々から解放されてホッとしております。

しかしこの『邯鄲』という曲、練りに練り上げられた曲だと思うのですが、稽古を進めるたびに、これは。。ひょっとして作品成立当初から ほとんど演出面での変化がない曲なのではないか? と考えるようになりました。ぬえのその思いは、それぞれ具体的な証拠はない、甚だ演者としての主観の範囲を出ないものなのではありますけれども。。

まずは引立大宮の作物が脇座に出されること。これは異例中の異例でしょう。なんと言っても主人公であるシテが、ほとんど終始舞台の片隅にいて、しかも正面のお客さま。。往古は貴人に正面の姿を見せていないのですから。眼目の台上の「楽」も、これは楽屋内でも話題になっていますが、柱に衝突しないように、さりとて型が小さくならないように、と演者が苦労している割にはお客さまにアピールする効果は薄いでしょう。なにせシテが舞う空間は広い舞台から見れば1/10くらいしか使っていないのですから。。

さらに言えば、脇座に作物を出した故に、臣下(ワキツレ)はそれに対する位置。。角柱からシテ柱にかけての脇正面に着座せざるを得ない。これは現代の能楽堂では脇正面席のお客さまの視界の妨げになって、甚だ不利な上演形態と言わざるを得ません。

作物を脇座に出す理由については小田幸子さんが考察しておられて、「シテは、動きは少ないとはいえ、橋掛りを含めた本舞台全体をずっと見渡すことのできる位置にいる。そのため(中略)彼が支配している広大な王国をイメージさせる。しかし、そのためにだけ作り物をワキ座に置くのではあるまい。シテがワキ座にいるのは、舞台上が彼の夢の世界であること、彼がずっと夢を見続けていることの暗示ではないだろうか。夢の中で行動する自分と、それを見ている自分が同時に存在する。実際に夢の中で味わう、このような二重性が、主人公に付与されていると思うのである。作り物も同様に、夢の中では玉座であるが、寝台本来の意味を失うことがない。」(「『邯鄲』演出とその歴史」『観世』平成13年3月号)と述べておられますが、ぬえはこういう台本のテーマに意識が向けられて、このような演出が採られているのではないと考えています。もっと即物的な、舞台上の必要性に対応したものなのではあるまいか。

まずもって『邯鄲』は、夢の中の世界に入り込んだシテと一緒に、お客さまにもいつの間にか夢の中に巻き込んでいくように意図されて演出が考えられていると思います。夢の中の場面で作物が「寝台本来の意味を失うことがない」と小田氏は述べられますが、いや、寝台としての意味を失って、玉座にしか見えないように仕組まれてはいませんか? それは大藁屋の作物ではなく大宮として最初に舞台に出されたところから、仕掛けはすでに始まっていると ぬえは思っています。まずシテが、続いてお客さまが、いつの間にか夢の中の宮廷の有様を「現実」と錯覚するように仕向けられている、と感じるのです。それだからこそ「皆消え消えと失せ果ててありつる邯鄲の枕の上に眠りの夢は覚めにけり」と舞台が急展開を遂げる効果も現れてくるのではないでしょうか。

そうして、作物が脇座に出される理由も、ぬえは、この急転直下の夢が覚める場面ひとつの効果のためだけに選択された方法。。演出のひとつなのではないか、と考えています。

小田氏は作物の置かれる場所の可能性について「作り物は、なぜワキ座に据えられるのだろう。見やすさという点では大小前に置く方が有利なはずだし、シテが長時間舞台の右端に居るというのも、かなり異例にうつる。」と述べられていて、これは ぬえも賛成です。前述しましたが、脇座の作物の中での演技は、絶対的に正面席。。往古の貴人に代表されるように、いわば主賓席に対して圧倒的に不利なのです。枕を凝視する型は活きてくるかもしれませんが、それは大小前に作物を置いて横向きに演技をしてもさほど効果は変わらないでしょう。しかし横向きに眠る型となると、正面席には頭頂しか見せないのですから、「眠っている」というシンボル以上の演技は不可能です。

ところが、これ以後脇座にいるシテの位置は大変重要になってくるのです。遠くの幕から橋掛リを通って登場してくる夢中の勅使も、帝位についたシテのために集まってくる廷臣や舞童も、シテに対して横向きに演技をすることで、何というか表現が難しいですが、人格を持った登場人物というよりは空虚な夢の「部品」になり得るのではないか、と思うのです。

然るべくして、これ以後シテの演技はほとんどなく、シテを取り巻く状況だけが克明に描写される。シテはその傍観者に過ぎません。ここではシテはまだ帝位に就いた自分の立場について半信半疑なのであり、お客さまにとってもそれは同じ事でしょう。

ところがワキツレの臣下が「御位に就き給ひては早五十年なり」と発言するあたりから様相が変わってきます。
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『邯鄲』、終わりました~

2012-11-16 11:16:10 | 能楽
『邯鄲』、昨日勤めて参りました。台上の「楽」も、空下りも、台への飛び込みも、まあまあ。。もっと若い頃、20代の頃の身体の動きには戻れませんけれども、まずまず大過はなく勤められたと思います。個人的には面の表情を割と引き出せたのではないかな、と思っています。

面については稽古段階からずっと迷っていました。結果的にオーソドックスに「邯鄲男」になったのですが、これ、申合の際に決めた面ではなかったのです。師匠は最初に「邯鄲男」を勧めてくださったのですが、ちょっと思うところあって。。弟子の分際ながら「若男」を所望し。。ところが、それからずっと ぬえは考えていまして、ついに当日の朝に師匠家に伺って。。ご迷惑ながら 再び「邯鄲男」に戻して頂いたのでした。稽古の段階から装束や面を細心にシミュレートする ぬえには珍しいことでしたが。。やっぱり当日になってからの変更はご迷惑でしたね~

装束は師家所蔵の、ちょっと趣味の良い紫地と金の横段の法被と、紺地の石畳と七宝の入った厚板がありましたので、これは以前から狙って (^_^; 拝借させて頂きました。全体的には地味な中にも品がある装束と思います。

子方は、この日の番組が『忠度』と『邯鄲』で、ちょっと女っ気がなかったので、先輩のお勧めもあって女児という設定に致しました。男児の舞童とほとんど装束は変わらず、大口に長絹の姿で、わずかに風折烏帽子が垂髪(すべらかし)に替わる程度の差なのです。が、本来は女児であっても長絹は前後を折り込んで腰帯でおさえる、いわゆる「男長絹」の着付けをするところ、楽屋で装束を着付けている様子を見ていると、『羽衣』のように長絹を羽織るだけの、女性役の着付けも似合うかもしれない、と考え直して、師匠のお許しを得てそのような着付け方に急遽変更しました。

台上の「楽」の舞い方や「空下り」のコツなど、今回は技術的に難しい能だったゆえに、いろんなアドバイスを先輩から頂戴しました。周囲も ぬえのことを心配してくださったのですね。

分けても。。師匠のご長男・ご次男の若先生方お二人には、折に触れアドバイスを頂きました。それで ぬえも甘えて、研究のためにご次男の若先生が『邯鄲』を上演された際の映像を拝借したのですが。。これが超絶技巧の『邯鄲』で驚愕! 今から10年以上以前の上演で、そのとき ぬえも地謡を謡っているのですが、『邯鄲』は地謡座からシテの型はほとんど見えないためか、失礼ながらそのときの印象は ぬえの中にはありませんでした。映像を見ても身体のシャープな動きは鮮烈だったので、実際のお舞台は素晴らしかったことでしょう。今回の ぬえは、悔しいけれど、これを凌駕するのは不可能かも。。? という点からスタートしてしまった。それでもこういう良いお手本が身近にあったのは幸せなことです。若先生の工夫を ぬえもだいぶ盗み取りましたし、その事をご本人に告げると、笑って、それこそ それ以後は会うたびに多くの助言を頂きました。今回の実質上の ぬえの「師匠」はこの若先生でしたね。ときには「あの~、ここのところが出来ないんですけど~(^^)V」「ああ。。そこは稽古の経験。。僕は1年掛けて稽古しましたから。。」「。。ありがとうございました。。(T.T)」ということも。。

あとは。。ちょっとアクシデントが多い舞台となったのが残念ではあります。。とはいえ人ごとではない。ぬえも責任感を忘れない能楽師でありたい。
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廬生が得たもの…『邯鄲』(その10)

2012-11-14 21:49:52 | 能楽
シテ「いつまでぞ。栄花の春も。常磐にて。(と上扇)
地謡「なほ幾久し有明の月。(と中左右、打込、ヒラキ)
シテ「月人男の舞なれば(と正へ出ながら左袖巻き上げ)。雲の羽袖を(と左へウケ左袖に唐団扇を重ね見)。重ねつゝ(袖を払い右ウケ唐団扇の上に左袖を返し拍子二つ踏み、そのまま正へ向き拍子二つ踏み)。喜びの歌を(とユウケン二つ仕)。謡ふ夜もすがら(と直し)。
地謡「謡ふ夜もすがら日はまた出でて。明らけくなりて(と角へ行き直し右上を見上げ)。夜かと思へば(と左へ廻り)。
シテ「昼になり(と正へ向き)。
地謡「昼かと思へば(と正ヘ出)。
シテ「月またさやけし(と雲ノ扇)。
地謡「春の花さけば(とサシ)。
シテ「紅葉も色濃く(と角にて右へ小さく廻り)。
地謡「夏かと思へば(唐団扇にて下より右上を見上げ)。
シテ「雪も降りて(と面正へ切り左へ廻り)。
地謡「四季折々は目の前にて(笛座前より中へ出サシ分)。春夏秋冬万木千草も(サシ右へ小さく廻り)。一日に花咲けり(一畳台の前より正先へ斜に出)。面白や。不思議やな(とユウケン二つ仕ながら下がり一畳台に腰を掛け)。
地謡「かくて時過ぎ頃去れば。かくて時過ぎ頃去れば(と立ち上がり大小前へ行き)。五十年の栄花も尽きて(と正ヘ向き)。まことは夢の中なれば(と正ヘ出ヒラキ。このあたりにて後見が台の上に枕を出す)。皆消え消えと失せ果てゝ(サシ右へ廻り脇正の方より一畳台へ胸ザシ。子方とワキツレ一同は立ち上がり手早く切戸に引く)。ありつる邯鄲の枕の上に(台の上へ上がり)。眠りの夢は。覚めにけり(と前の如く横に臥す)。

「楽」のあとは一気呵成にクライマックスになります。とくに台の上に上がって枕に臥す型はしばしば『道成寺』と比較されるほど緊迫感のある見どころですね。突然急調になる囃子と地謡。子方とワキツレが一気に切戸へ引くと、シテは舞台を横切って一畳台の上に上がり、眠りについた時と同じ形に横になります。

この型、他流では一畳台の中に飛び込むアクロバティックな型があるそうですが、観世流ではそこまでは致しません。とはいえ、ゆっくりと台に上がってゴロリと横になるわけではなく、いかに突然夢の世界が崩壊したように見せるかが舞台成果として問われるところ。このあたりは演者の工夫によるところが大きいと言えるでしょう。

しかし、この型の前が面白いところなのです。以前に「たとへばこれは。長生殿の内には。春秋をとゞめたり不老門の前には。日月遅しと言ふ心をまなばれたり」と、楽しみを極める御代の時間がゆっくりと過ぎ、栄華の生活は永遠に続くように思われる、と王宮の有様が描かれたのに、ここでは急転、まるで早送りするビデオのように、くるくると時間が経つのです。「万木千草も一日に花咲けり」など、なんて面白い表現なのでしょう。「面白や。不思議やな」。。夢の中だからこそ起きる超自然的な現象も、もうその夢の中に埋没したシテ廬生には気になりません。たしかに、私たちも夢の中では不合理な出来事に出会っても、それが夢なのだから、と納得したり、そのために夢が覚めたりはしませんね。不合理をそのまま受け入れてしまうものです。合理から不合理へ、シュルレアリスムの絵画のような世界に舞台面を段々と移行させてさせて行き、そのクライマックスに破綻を用意するなんて。。この能の作者の手腕は本当にすさまじいほど冴えています。

シテが台に臥すと、それまで橋掛リ一之松の狂言座に着座していた間狂言が立ち上がり、ゆっくりと台に近づくと、先ほどワキ。。夢の中の勅使がシテを起こしたように、扇で台の縁を二つ打ってシテを起こします。夢から現実へ、夢の中から外へシテが移ろう場面です。

狂言「あら久しと御休み候や。粟の飯の出来て候。とうとうおひるなり候へや

間狂言はこうシテに告げると、すぐに切戸に引いてしまいます。この間狂言は本当に辛抱役ですね。能の冒頭から登場して、この場面のために一之松の狂言座でずっと着座したまま舞台の進行を待ち続けるのです。もっとも、一畳台に近づいてシテを見ると、眠っているはずが ぜいぜいと肩で息をしている状態ですから、笑いをこらえるのが辛いかも。(^_^;

間狂言が去ると、シテはおもむろに、茫洋と起きあがります。このあたりは稽古でも厳しく直されるところですが、やはり最後はシテのセンスと工夫によるところ。先ほどワキに起こされた時とはまったく違う様子で起きなければなりません。。以前『邯鄲』を勤めた先輩からは「腹筋を鍛えておけ」というアドバイスが。。

シテ「廬生は夢さめて。

起きあがったシテが低く謡います。まだこれまでの出来事が半信半疑、夢うつつの状態なのでしょう。師家の形付けにも「謡い出しの間合いが大事」とわざわざ注釈がつけられていました。先ほどの激しい場面のあとなので、シテのみならず、囃子も地謡も苦しい場面です。ぬえの場合、不思議とこの場面で息が上がってしまって調子が高くうわずってしまう、ということは稽古の中では起こりませんでした。当日はまたどうなるか、ですが。。

地謡「廬生は夢さめて。五十の春秋の。栄花も忽ちにたゞ茫然と起きあがりて。
シテ「さばかり多かりし。
地謡「女御更衣の声と聞きしは。
シテ「松風の音となり(と橋掛リの松を見)。
地謡「宮殿楼閣は。
シテ「たゞ邯鄲の仮の宿(と作物の柱を見上げ)。
地謡「栄花のほどは(以下、段々と面を伏せて考える心)。
シテ「五十年。
地謡「さて夢の間は粟飯の。
シテ「一炊の間なり。
地謡「不思議なりや測りがたしや(と左膝を両手にて抱え)。
シテ「つらつら人間の。有様を。案ずるに。
地謡「百年の歓楽も。命終れば夢ぞかし。五十年の栄花こそ。身の為にはこれまでなり。栄花の望みも齢の長さも。五十年の歓楽も。王位になれば。これまでなりげに。何事も一炊の夢(と膝を下ろし唐団扇にて台の縁を一つ打ち)。
シテ「南無三宝南無三宝(と台より下りてシテ柱の方ヘ歩み)。
地謡「よくよく思へば出離を求むる。知識はこの枕なり(と振り返り再び台に乗り、枕に辞儀を仕)。げに有難や。邯鄲の(と台より下り、受ケ流シ)げに有難や邯鄲の(とシテ柱にノリ込み拍子を踏み)。夢の世ぞと悟り得て(と正ヘヒラキ)。望みかなへて帰りけり(と右へウケ左袖を返しトメ拍子を踏む)。

静かに謡い出した地謡は次第に急調に変わり、ついにシテは「身の一大事」について彼が求める「答え」を得ることになります。

じつはこのあたり、シテにとって最後の難関なのです。「南無三宝南無三宝」と膝を打って(型としては台の縁を打って)台から下りますが、枕こそが自分が探し求めていた「身の一大事」への答えを教えてくれる「貴き知識」だったのだと思い直して台に戻り、枕に深く拝をする、さらには別の型では枕を持ち上げて戴く型もあります。さらにまた台から舞台に下り、受ケ流シをしてシテ柱にノリ込、正ヘヒラキをしてトメ拍子。。これら一連の型をこなすには、なんとしても地謡の文句の分量が足りないのです。このへんをどう処理するかが、やはり演者の工夫でずいぶんいろいろなやり方が行われているようです。

大切な舞台装置の枕が、舞台をシテが舞い留める定式の場所。。シテ柱とは対角に位置し、さらにその枕に近づくには一畳台に手間を掛けて上る必要がある。。そうして最後に舞台が静寂の中で終わるため、型を急ぐわけにもいかない。。これが最後の大切な場面を演じることを難しくしています。

ぬえは『邯鄲』の稽古を通じて、この能が作られた時代からほとんど型そのものは変化していないのではないか、という感想を持っています。「楽」の中の固有の掛かりの譜も、「空下り」も、演出として面白さを追求して後世に付与されたものではなく、能の成立当初からの型なのではないかと考えているのですが、それだけにこのキリにはある種の違和感を持っています。ひょっとしたらシテ柱で留める、能の定型だけが、式楽時代の類型化の中で『邯鄲』にも持ち込まれたのかも。ということは、それ以前の、もっと大らかに自由な演出が試みられていた時代に『邯鄲』は作られたのかもしれません。

今回は時間切れですが、このあたり、少し掘り下げて考えてみる価値があるかもしれませんね。
と言っているうちに、ついに明日が『邯鄲』の公演日となりました。まずは失敗のないように、悔いのない舞台を勤めようと張り切っています!
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廬生が得たもの…『邯鄲』(その9)

2012-11-13 02:01:41 | 能楽
さて『邯鄲』の楽は、その大部分を一畳台の上で舞うのがなんと言っても大きな特長ですね。台の上で舞うだけなら特に難しいことでもないのですが、問題は一畳台に立てられた引立大宮なんですよね。柱に衝突しないように注意しながら、さりとて型が縮こまらないように舞うのは本当に難しいです。

これは先輩からのアドバイスなのですが、柱も支障ではありますが、意外に天井。。大宮の屋根の部分に唐団扇をぶつけてしまうのですって。こういうのは経験者でなければわからないことです。能の稽古は、師匠にお稽古を受ける際とか、稽古能、申合などでは着物を着ますけれども、通常の自習ではほとんど洋服のままで稽古しています。ですから作物を毎度組み立てて稽古するとか、装束を着て稽古する、ということは ごく稀です。このときに「本当はここに作物があって。。」「本来はここで袖を返して。。」とシミュレートしながら稽古するのが常で、装束を着、作物を据えるのは ぶっつけ本番だけ、というのが普通。

実物を用いなくてもそのつもりでシミュレートして稽古するのは、もちろん経験値に裏打ちされているわけで、初心の頃は師匠から装束を拝借して稽古したり、作物もある程度形を拵えて稽古したものです。現在では ぬえもそういう事はなくなりましたが、今回ばかりは別。一畳台の広さの寸法を測ったロープを持ち歩いて、暇さえあればそれを使って引立大宮の柱を再現して稽古しています。

この稽古で柱に衝突しないで舞うコツをいくつかつかんで。。そうなると次には面を掛けて、視界が遮られた状態での稽古になりますが。。いやかえって不安が増しました。シミュレーションが出来上がってくるにつれて、装束を着た場合の違いなど、未経験の要素がどんどん膨れあがってくるんですよね。こうして今は装束も、面も着けて稽古をしています。それでも作物の天井の高さまでは想像しながら稽古をしなければなりませんけれども。。

よくよく柱と自分の立ち位置との関係を頭にたたき込んで、遮られた視界から得られる情報を頭の中でフル回転で計算しながら舞うのですが。。それでも予想外のところで右手が柱にぶつかったりする。自分のシミュレーションではぶつかるはずがないのですが、それは計算違いなのです。でも、自分では予想もしていなかったところでの衝突ですから、びっくりしますね。最初の頃はよく、手が柱に触れると「おぁっ、びっくりした」…って、どうしても声に出して言っちゃう ぬえ。ようやく最近は声が出る事はなくなりました。(^◇^;)

さてそれから三段目には有名な「空下り」(そらおり)があります。

三段目のヲロシが過ぎてから(作物の中で)角へ出て、左に廻って常座に戻り、ヒラキをした後に、それはあります。楽に特徴的な数拍子を踏んだ直後に左足を踏み外して台から舞台の床へ下ろし、すぐにこの足を引き上げて片足で立ち、右手は柱をつかんで下の方を見回す。。『邯鄲』に固有の型です。時々お客さまには本当に足を踏み外したのかと誤解されてしまいますが、もちろんこれは わざと演じるので、失敗ではありません。意味としてはシテの夢が一瞬だけ覚めかかる、と解されていますが、これはその通りでしょう。

。。ところが今回初めて「空下り」を勤めてみて、その複雑さに驚嘆しました。東京にある笛方の森田流と一噌流とではその部分の譜がまるで違いますし、そのうえ太鼓の観世流と金春流とではそこに打つ「空下りノ手」が、これまた違う。この笛と太鼓のお流儀のコンビネーションによって、シテが足拍子を踏むタイミングも違いますし、その足拍子の数さえ違う。。都合、2×2で4通りの足拍子の踏み方のバリエーションがあるのでした。

ぬえは今回の『邯鄲』を、笛・森田流と太鼓・観世流の取り合わせで勤めさせて頂くのですが、このお流儀の取り合わせが最も複雑になるようです。太鼓に「空下りノ手」のバリエーションがあったり、型に合わせて打つ太鼓の手が、笛のちょうど良い譜に当たるようにしなければならない。。すなわちシテが舞い方を調節して笛と太鼓とが うまく当たるようにしなければならないのでした。囃子オタクを自認する ぬえでも今回は頭を抱えながら型の配分を考えています。

さらにさらに、師家の型では「空下り」のあと二足に飛び下がって、呆然とこの「事故」の原因を探るかのように下を見回す型があるのですが、流儀の中では一足に飛び下がる型の方がポピュラーのように思います。難易度は同じようなので、どちらのやり方を取るか。。

「空下り」のあとシテは一畳台の後ろ。。脇座の後方に向いて台より下り、一畳台に腰掛けてしばしの休息を取ります。このところ、「遠見」(えんけん)と呼ぶようですが、楽屋言葉としてあまり定着していない、というのが ぬえの感想です。シテ方のお流儀によって違いがあるのかしらん。ぬえの師家の形付にも「遠見」という記述はありませんでした。

しばし休息の間に笛は2クサリの繰り返しを吹き続けて、これを「吹き返し」と呼んでいます。やがてシテが立ち上がり、一畳台の前方を通り過ぎて舞台の中で舞い始めると、太鼓が知らせの手を打ち、これにて笛も通常の譜に戻ります。とはいえ、シテが台から下りて舞台で舞い始めるのは「楽」の三段目のほとんど終わりに近いところで、そのあと短い四段目を舞うと、すぐに「楽」は終わりになります。
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廬生が得たもの…『邯鄲』(その8)

2012-11-12 02:32:02 | 能楽
さて。。いよいよ「楽」ですね。ここにはできるだけ触れたくなかった(笑)。

とにかく、難しいですね。いや、「楽」もそうなのですが、これから後に続く一連の型が。。

『邯鄲』の「楽」には固有の笛の譜を持つ掛かりがあります。「ホー、ヒーー」という「楽」に特徴的な譜から始まらないのは、ひとつには「楽」の直前の地謡が謡う節が「呂音」で終わり、それを受けて「楽」が低い呂の音から始まる、という定型に『邯鄲』が当てはまらないから、という事もあるでしょう。これは能楽入門書等でそのように説明されている例がありましたし、同じく地謡が「呂音」で「楽」に渡さない『富士太鼓』にも固有の譜で吹き出す例があるので ひとつには正しい説明だと思います。

しかし ぬえには『邯鄲』の掛かりの譜が別に作曲されているのには もう一つ別の理由があると思います。
すなわち、『邯鄲』のシテ廬生には「楽」を舞い出すための心理の変化を満たす「時間」が必要なのではないかと思うのです。

「楽」は舞の中では特長的で、シテが喜びや興趣のあまり「思わず」、あるいは「つられて」舞う舞という性格が、潜在的にあるように思います。脇能の老神が舞う「楽」も御代の祝福、という大きな意味に捉えれば、この範疇に入れて良いように思います。

『邯鄲』の「楽」もこれと同じなのですが、ほかの能とちょっと違うのは、シテが「仮の」姿としての帝王である、という、この能の本質に関わる舞台設定でしょう。もちろん、「楽」の前に据えられた子方の舞を見ているシテの姿、さらにその前に置かれた、仙薬によって栄華の生活がさらに千年間延長される、というワキツレとのやりとりも、すべてシテは帝王として振る舞ってはいるのですが、突然帝位を譲られた廬生が「天にも上がる心地して」即位したその帝位に対して、常に持ち続けているであろう「疑い」…これは夢ではないか、という思い。。現に夢の中の出来事であり、眠りに就く以前に廬生は“不思議な夢を見る”と宿の女主人から聞かされているのではありますが。。は払拭されずに残っている。。いや、これはシテ廬生がどう思うか、というよりは、観客に呈示された宮殿での廬生の帝王としての生活を表現する物理的な時間が、廬生が帝位を“現実のもの”と誤解するに至るまでの心理を納得させるには どうしても不足するのではないかと思うのです。

それで、子方の舞を見ながら、シテが幻の栄華に酔いしれてゆく、ついには帝王を喜ばせる節会の機構の中にシテの心が埋没してして行ってしまう。。言うなれば、シテ自らがついに夢の一部に同化するのを許してしまう、そういった心の隙を描く場面が『邯鄲』には必要なのではないかと思うのです。そうしてそれには『鶴亀』のような「君も御感の余りにや、舞楽を奏して舞ひ給ふ」という地謡の文言では、いかにも空虚になってしまう。。ここは音楽でシテの心理を描写する方が、ずっと有利なのではないかと ぬえは思います。

ちょっとうがった考え方かもしれませんが、型の上でも上記の「ホー、ヒーー」という常の「楽」の冒頭の笛の譜が吹かれる時にシテは立拝して、すなわちシテがこれから舞うことをしっかり認識して舞い始めるという印象が強いのです。上記の「思わず」という説明とは矛盾するようですが、「思わず」というのはいつの間にか舞っている、という意味ではなくて、「つい」自分も遊興の一員として加わろうとする、ある意味積極的な動作であろうと思うのです。

『邯鄲』の譜でもやはり「ホー、ヒーー」はあるのですが、その前に2クサリの静かに奏される譜が置かれています。この曲では感興に乗るべき帝王の位の必然性自体に微妙な不安定さがつきまとっていて、シテはその不安定さの上に常にいるのではないか。そして、この2クサリはシテは自分の置かれている立場を考える時間、と ぬえは解しています。その結果シテは興趣に乗る。。この2クサリは帝王を喜ばせる節会への喜びへの俗世的な快楽に、「身の一大事をも尋ねばやと思」うような廬生の自己への反省の指向が負けた瞬間だと考えています。この2クサリのあとの「ホー、ヒーー」の譜でシテは常の通り立拝をして立ち上がって舞い始めるのであり、これ以後シテは自ら夢の中の世界を現実として肯定してしまいます。夢はさらに超現実的な世界を描いてゆき、この後に用意されている破局へ自然に導かれてゆきます。短いけれどこの2クサリが、観客もシテの心情に納得できる仕掛けなのかもしれません。
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伊豆の国市「子ども創作能」沼津御用邸公演

2012-11-11 02:34:18 | 能楽

5日間に渡る関西方面での学校公演で、子どもたちの純粋で探求心にあふれた様子を見て…喜びに満ちた今週でしたが、夜遅めに帰宅してすぐに準備をして、今日は伊豆の国市の子ども創作能の公演でした!

朝6時、子ども能に毎回多大な貢献をしてくださっている笛のTさんとともに東京を出発。。それでも多少渋滞につかまりまって10時頃には今回の公演会場の沼津御用邸に到着しました。

沼津御用邸では何度も結婚式のお手伝いをさせて頂いたり、ぬえにはなじみの深い会場です。今回は「ジャパン・アート・フェスティバルin沼津」の一環として開かれている「第42回沼津御用邸記念公園 菊華展」に関連する和のステージイベントへの出演でした。

まあ、まずはステージの立派なこと! 毎年草月流華道の宗家が組み上げられるそうで、今回も現宗家の勅使河原茜さんの手による青竹を用いた巨大なオブジェのようなステージとなっていました。

子ども創作能の出演は午後の回で、今回はなんと2回公演です。本人は運動が苦手だそうで、それでも持ち前の声量を活かしてずっと地謡をリードしてきてくれたサラが、意を決して挑んだ主役の頼朝。先月、久しぶりに復帰を果たして、最高学年の6年生になっていた故に、さらに住んでいる地区の催しだったために急ごしらえに主役を勤めたユウが演じる準主役の山木兼隆。どちらもお役を勤めるには覚悟と努力が必要だったと思いますが、立派に、見事に演じきってくれました。





また今回は6月に参加したばかりの1年生の仕舞『玄象』があったり、さらにその中から何人かは源平それぞれの郎党役で切組を演じたり、盛りだくさんでもあり、そのために子どもたちも苦しんだ故の、成果が現れた舞台だったと思います。

6月に、いきなり参加者が倍増した 伊豆の国市子ども創作能ではありますが、正直、なかなか団結。。というか、そこまでもいかない、まとまりにさえ到達できない日々がありました。ぬえも何度か子どもたちに怒鳴って叱りつけたし。要は責任感が持てるか、というところなのですが、一人の身勝手が全体を瓦解させることだってあります。これをどう教えるかは、13年間子ども創作能の指導を続ける ぬえにも王道はありませんね。でも、ようやく今回、全員がまとまって 一つの舞台を作り上げる機運が醸成されたと思います。平家方の子どもたちが第1回公演で間違った謡を、2回目の公演では(ぬえが指摘を忘れていたにもかかわらず)自分たちで反省して修正してきました。そもそも、学校公演などで忙しいこの季節、子どもたちへの ぬえの稽古も今回は直前の稽古はかなわず、1週間前に稽古したのが最後だったのに。






今回はそれをふまえて…しかし終演後のミーティングでもあえて子どもたちに満点はあげずに、スタートに立ったばかりだ、と申し渡しました。厳しいようですけれども、大人数が団結して一つの大きな成果を挙げる、今回はその喜びが見えてきたばかりだと思うのです。今回は自分が主役でなくても、自分に求められている役割をきちんと理解して、最上のものを実現できて、はじめて舞台として大きな括りの全体が成立する、その喜びを見いだせれば十分に満足できるはず。保護者も含めて、それが見えてきたところだと思うんですよね。ブログでは「子どもたち」と書いておりますけれども、ぬえは彼らを「大人」として扱っています。

この意味で今回は、もう上演にもすっかり慣れた古参?の子どもたちと新人さんたちが、ようやく垣根なく同じ立場に立てたのではないかと思います。これなら ぬえもひと安心。

出来たから、それなら、と ぬえが上げてみる演技のハードルの高さ。それでも彼らは死にものぐるいで さらによじ登って来ますよ。あ、出来るか。それなら次はもう少し難しくするよ? 瞬時に曇る子どもたちの顔。…それでも嫌気が差して辞めた子は、過去13年間で皆無なんですよね。やり遂げた達成感。それに対する万雷の拍手と賛辞。…でも、人のために演じる喜びがわかってもらえれば、彼らはもう大人なのです。

先ほど諸手を挙げて誉めてあげなかった ぬえですが、いま、ここで褒め称えてあげましょう。よくやったね、みんな。最高の舞台だったよ!




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廬生が得たもの…『邯鄲』(その7)

2012-11-09 08:34:52 | 能楽
地謡の終わりにワキツレの一人が立ち上がり、舞台中央でシテに向き、座って両手をつき、以下シテとの問答になります。

ワキツレ「いかに奉聞申すべき事の候。御位に即き給ひてははや五十年なり。然らばこの仙薬を聞こし召さば。御年一千歳まで保ち給ふべし。さる程に天の濃漿や瀣の盃。これまで持ちて参りたり。
シテ「そも天の漿とは。
ワキツレ「これ仙家の酒の名なり。
シテ「瀣の盃と申す事は。
ワキツレ「同じく仙家の盃なり。
シテ「寿命は千代ぞと菊の酒。
ワキツレ「栄花の春もよろず年。
シテ「君も豊かに。
ワキツレ「民栄え。

場面はいつの間にか即位五十周年の賀の宴に変わっています。登場人物は変わらないままで時間を超越できるのは能の独壇場ですね。舞童は即位式や帝王の通常の生活に近侍する侍童でもあり、節会で舞を披露する舞童でもあるのですね。現にこのあと子方はシテの杯に酒を注ぎ、また舞をも舞います。

地謡「国土安全長久の。国土安全長久の(とワキツレが子方に酌をする)。栄花もいやましになほ喜びは増り草の。菊の盃とりどりにいざや飲まうよ。(子方はシテの前に行き酌をする)
シテ「めぐれや盃の。
地謡「めぐれや盃の。流れは菊水の流に引かれて疾く過ぐれば(以下子方の舞。大小前にて足拍子を踏む)。手まづ遮る菊衣の(とサシ込ヒラキ)。花の袂を翻して(と左袖を引き見る)指すも引くも光なれや(中に廻りサシ込ヒラキ)。盃の影の。めぐる空ぞ久しき(左右)。
子方「わが宿の(上ゲ扇)。
地謡「わが宿の。菊の白露今日ごとに。幾代つもりて淵となるらん(大左右、正先へ打込ヒラキ)。よも尽きじよも尽きじ薬の水も泉なれば(角へ行き直し脇座前へ廻り)。汲めども汲めども弥増しに出づる菊水を(常座で下を掬い正へ出ヒラキ)。飲めば甘露もかくやらんと(角へ行き扇を左手に取り)。心も晴れやかに(常座に廻り)。飛び立つばかり有明の(正先へハネ扇)夜昼となき楽しみの(角へ行きカザシ扇)。栄花にも栄耀にもげにこの上やあるべき(元の座に戻り左右打込ながら下居。

この子方の舞を「夢之舞」と呼びます。仕舞としても演じまして、そのときには「夢之舞」と注記することもあります。仕舞で子方が出る曲はほかに『橋弁慶』がありますが、子方が単独で舞う仕舞は『邯鄲 夢之舞』だけですね。

シテは子方が酌をするとき唐団扇を両手に持ってこれを受けます。その後子方の舞を見ている心で舞台に向いていますが、上端を過ぎたら後ろに向き、後見によって法被の右袖を脱いで巻き込み、右の腰の後ろに差し込みます。この後に子方の舞を見て感興が増したあまり、帝王自らが舞を舞う場面になる、その準備ですね。

右肩を脱ぐのは帝王としての品位を損なうと思います。『鶴亀』や『高砂』、また『融』などを見ても貴人の舞で肩を脱ぐ例はほかにないように思いますし、舞うために肩を脱ぐ必要もないと思います。肩を脱ぐのは能では専ら労働や作業をしている象徴でして、従って比較的身分の低い者を表してもいます。このへんが『邯鄲』のシテに特徴的な部分のひとつで、黒頭(や唐帽子)の姿と相まって、どこまでも俗人が夢の中で仮に帝王となっているのだ、という印象を常に外さないように工夫されているのかもしれません。
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廬生が得たもの…『邯鄲』(その6)

2012-11-07 00:55:24 | 能楽
子方 舞童の装束付は金風折烏帽子(黒にても)、襟=赤、着付=紅入縫箔、白大口、長絹、縫紋腰帯、黒骨紅扇、となっています。これは男の子の扮装ですが、女児にすることもあって、その場合は垂髪、翼元結、緋大口、紅入唐織とすることになっています…が、女児の場合も長絹を着ることも多いです。

なお師家の型付にはなおこの他に鬘、鬘帯、天冠(月ナシ)という記載もありました。もちろん女児の舞童ですが、これは本格的な…皇女のような姿ですね。『楊貴妃』のシテ、『皇帝』のツレの楊貴妃をつい連想してしまい、ちょっと舞台の上のバランスが取れないようにも思いますが。。まあ、一つの考え方として、シテが夢の中の仮の帝王であることを黒頭の姿で暗示するとするならば、その帝王を受け止める宮殿はどこまでも豪華である方が効果的ではあるかもしれません。美の極致の世界と、それに属しながら、その対極に位置しているような不似合いの俗の男。。ちょっと『一角仙人』に通じる趣向です。

これに対してワキツレは洞烏帽子、厚板、白大口、袷狩衣、男扇という姿で、そのうち主になるワキツレ一人が紺の狩衣、残りの二人が赤地の狩衣を着ます。要するに脇能のワキとワキツレと同じ扮装になるわけなのですが、狩衣は日本独自の装束なので、中国が舞台の『邯鄲』では本当はおかしいのですが。

子方、ワキツレ一同が着座すると太鼓が「真之来序」の終わりの手を打ち、シテはこれを聞いて見所の方へ向き直ります。

シテはここは玉座に座って臣下の礼を受けている場面だと思いますが、これ以降、シテにもワキツレにもほとんど動きはありませんが、意外にシテ方の流儀や家によって違いがあるところです。すなわちシテが見所に向き直るその向きに違いがあって、真正面に…見所に正対する場合と、角かけて…斜め右に向いて着座するかの違いです。一見些細な違いのようにも思われると思われがちですが、シテが描く世界の大きさが、向く方角によって大きく変わるところだと思います。ぬえの師家の型ですと、ここは真正面に向くことになっていますが、工夫によって角かけて向く事も多いようです。

地謡「有難の気色やな。有難の気色やな。もとより高き雲の上。月も光は明らけき。雲龍閣や阿房殿。光も満ちみちてげにも妙なる有様の。庭には金銀の砂を敷き。四方の門辺の玉の戸を。出で入る人までも。光を飾るよそほひは。誠や名に聞きし寂光の都喜見城の。楽しみもかくやと思ふばかりの気色かな。
地謡「千顆万顆の御宝の数をつらねて捧物。千戸万戸の旗のあし。天に色めき地にひゞく。礼の声も。夥し礼の声も夥し。
シテ「東に三十余丈に。(と左の方を見)
地謡「白金の山を築かせては。黄金の日輪を出されたり。
シテ「西に三十余丈に。(と右の方を見)
地謡「黄金の山を築かせては。白金の月輪を出されたり。たとへばこれは。長生殿の内には。春秋をとゞめたり不老門の前には。日月遅しと言ふ心をまなばれたり。(と両手を上げる)

庭には金銀の砂を敷き、東には銀の築山と金の太陽、西には金の築山と銀の月。。ちょいと成金趣味のような気もしないではありませんが、ともあれ豪勢な宮殿の様子。こういうところは舞台セットを持ち出さずに言葉だけで描写をする能の真骨頂ですね。『鶴亀』『咸陽宮』の方が宮殿の豪華さの描写は際だっているとも思いますが、『邯鄲』では宮殿に出入りする人々や貢ぎ物、帝王を礼賛する庶民にまで描写が及んでいて優れていると思います。ところで「千戸万戸の旗のあし。天に色めき地にひゞく」を広大な領地を持つ諸侯がはためかす幡、と解することが多いようですが、ぬえはここは、この後に続く「礼の声も夥し」という表現から考えて、単純に「庶民の門々にも帝王を賞賛するための旗が掲げられ、その翻る有様は天を染め、地面が揺れ動くかのようだ」…というあたりでよろしいのではないかと思います。

この長い地謡…実際にはかなり急調に謡うのでそれほど時間が掛かるわけでもないのですが…の中で、シテはわずかに築山を左右に見る型をするほか、最後に両手を挙げる型をします。能として珍しい型と思いますが、ほかにも『枕慈童』に同じ型があります(少々意味合いは異なっているとは思いますが…)。

この型は簡単に言えばこれは見た目の通り「ばんざい」をしている型だと ぬえは思っていますが、もちろんそれほど単純な言葉ではくくるべきではないでしょう。ここまで地謡が言葉を極めて豪華な宮殿の有様、人民が帝王を敬愛し、支持している安定して繁栄する帝国の描写を尽くした上での、完璧な栄華を楽しむ最大の喜びの心でありながら、感情を抑制し、尊厳と慎みをもった静かさでその喜びの表現だと考えています。
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廬生が得たもの…『邯鄲』(その5)

2012-11-06 09:49:41 | 能楽
『邯鄲』は特徴の多い曲ではありますが、ひとつの大きな特徴がここで演奏される「真之来序」でしょう。

四拍子が揃って演奏するこの囃子は、もっぱら帝王の登場の場面で演奏されるもので、『鶴亀』や『咸陽宮』などで演奏される機会も多いのですが、それらはすべて能の冒頭で演奏されるのです。能の途中で演奏されるのは『邯鄲』だけだと思いますが、これはシテ廬生が一介の市民の立場から夢の中で楚国の帝王の位に変わる、ということで演奏されるものです。

本来であれば幕から帝王役のシテが臣下一同を引き連れて登場し、『邯鄲』と同じように宮殿に擬せられた一畳台の上に乗って着座するまでを演奏する「真之来序」はかなり長い演奏ですが、『邯鄲』ではシテはこのとき舞台の中央に着座していて、ほんのすぐそば…先ほどまで着座していた一畳台に立ち戻るだけです。

しかしながら、シテが静かに立ち上がって一畳台に乗り、これを見てワキツレが幕を上げて子方を先立てて登場し、さて常の「真之来序」と同じように舞台に居並ぶので、結果的には「真之来序」はある程度の長さになります。「真之来序」は非常に荘重な囃子なので、分量としてもある程度の長さがあった方が効果的ですね。

この場面、ワキツレ輿舁はすでに退場してしまっていますが、ワキはシテの後ろに着座しています。そしてシテが立ち上がるのに合わせて一緒に立ち上がり、シテが一畳台に向かって歩み出すと、それに合わせて目立たぬように切戸に退場します。

このあたり、演出としてよく考えられていると思いますね。ワキ勅使に促されて一畳台…邯鄲の宿屋から出たシテ廬生は輿舁に輿を掲げられて舞台中央に立ち、ほんの3足ばかり正へ出ます。これが邯鄲の里から遙かの楚国の宮殿への道のりであり、シテが一度座って区切りを示すと、すぐに輿舁は退場、いよいよシテが宮殿の玉座に座るために一畳台に上るときに「真之来序」が演奏される。。これは即位の記号なのでしょう。ワキは輿舁が退場してもなお シテのお供をして居残っていますが、これも即位を見届けると退場。それぞれの役の移動は短い距離ですが、邯鄲の里~道中~帝都~玉座と、すべての場面が略されることなく、しかし凝縮して描かれるのです。

ところで「真之来序」の演奏には、その冒頭にシテに大小太鼓の粒に合わせた足遣いがあって、それは現在『邯鄲』にしか残されていない、という説明がされることがあります。これ、たしかに観世流の上演でも足遣いをしておられるシテを ぬえも実見したことがあるのですが、ぬえの師家の型では現在、この部分に足遣いは致しません。ぬえの実見ではシテに足遣いがある場合、その後ろに立つワキも同じように足遣いをしていました。そうしないとワキばかりが先に進んでしまうのですからこの処理は当然でしょうが、ワキ方にここで足遣いをする習いがあるのでしょうか。たしか能『皇帝』はワキ方が「真之来序」で登場すると記憶していますが。。これは機会を見てワキ方に聞いてみようと思っています。

「真之来序」でシテは一畳台に上ると、後ろ向きに座って首に掛けていた掛絡を取り去ります。求道者から、あくまで俗人である帝王への変化です。じつは左手に持っていた数珠は、すでに一畳台から下りる際に目立たぬように捨てていまして、これは後見が引いてくださいます。掛絡はこの場面では取り去りにくいので、再び一畳台に上ってから取り去るのでしょう。同じく後見は、シテが輿に乗って王宮をめざして歩みを進める間に一畳台の上から枕を取り去ります。

ところでシテは帝王役であっても『鶴亀』『咸陽宮』のように床几に腰掛けることはありません。これも能『皇帝』に例があると思いますが、後の動作のためでありましょうがと、ここはやはり作者の工夫による夢の中の仮の帝位の表現、と考えたいところです。帝位についてもシテは冠をかぶるわけではなく黒頭、または唐帽子のまま。不思議と違和感がありませんが、これも「仮の帝位」の表現なのでしょう。

シテが一畳台に上ると、幕から子方の舞童とワキツレ臣下(3人)が登場、舞台に入り角から常座の方へかけてシテに向いて居並びます。これにて「真之来序」が打ち止められ、豪華な宮殿の描写へと場面は移ります。
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