ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その11)

2023-04-19 20:07:18 | 能楽
「弓流し」のエピソードが義経の豪胆さの証明となり、「平家物語」では「つまはじき」だったものが能では見事に家来の武士一同の「感涙」と昇華したところで作者の筆も一段と勢いを得て進んでいきます。

シテ「知者は惑はず。
地謡「勇者は恐れずの。彌武心の梓弓。敵には取り伝へじと。惜しむは名のため惜まぬは。一命なれば。身を捨てゝこそ後記にも。佳名を留むべき弓筆の跡なるべけれ。


もう完全に凱旋する勇者の言葉ですね。能「屋島」の作者はまさにこの文言を書きたいためにこの曲を作ったのだと ぬえは考えています。

名誉を尊びそのためには命を惜しまない、という武人の勇ましさは、前シテが予言したように暁近くになって義経を追ってきた修羅道に対しても対決する姿勢です。

シテ「また修羅道の鬨の声。地謡「矢叫びの音。震動せり。 翔(かけり)
シテ「今日の修羅の敵は誰そ。なに能登の守教経とや。あら物々しや手並みは知りぬ。思ひぞ出づる壇の浦の。
地謡「その船軍今ははや。その船軍今ははや。閻浮に帰る生死の。海山一同に。震動して。船よりは鬨の声。
シテ「陸には波の楯。地謡「月に白むは。シテ「剣の光。
地謡「潮に映るは。シテ「兜の。星の影。
地謡「水や空空ゆくもまた雲の波の。打ち合ひ刺し違ふる。船軍の懸引。浮き沈むとせし程に。春の夜の波より明けて。敵と見えしは群れゐる鴎。鬨の声と。聞えしは。浦風なりけり高松の浦風なりけり。高松の朝嵐とぞなりにける。


かくしてシテは僧に救済を求めるでもなく、暁とともに消え失せるだけで、義経は源平合戦のライバルである平教経と死後も永久に闘争を続けているわけですが、能「屋島」はもっぱら義経が合戦で奮戦した有様を生き生きと描写し、凱歌を上げる英雄としての義経像が描かれていて、それが作者の目的なのだと思われます。

ちょっと気になるのが能の舞台は讃岐の屋島であるのに、いつの間にか長門の「壇ノ浦」に言及されていることですが、じつは讃岐の屋島の近くにも同じように「壇ノ浦」という地名があるのです。現在は本土と陸続きになっている屋島は高松港の東側に、小豆島や倉敷がある北の方角に岬のように突き出しているのですが、その東側の合引川の河口に、公園の名称にわずかに往時の名前を残しています。

だから「屋島」のこの場面でシテが「思ひぞ出づる」と回想するのは屋島の壇ノ浦なのか、とも思いますが、ぬえは、やはりここは長門の壇ノ浦の源平の決戦の場だと考えたいと思います。理由としては単純に義経が教経と「船軍さ」を行ったのは屋島ではなく壇ノ浦だからということもあります。船軍、つまり海上戦が繰り広げられたのはこの屋島ではなく壇ノ浦の合戦なのです。

そして考えるのは、じつは屋島合戦は義経が本当に光り輝いていた人生の頂点だったのか、ということです。ここでの義経の勲功はじつは皆無で、屋島合戦で高名を馳せたのは扇の的を射た那須与一や錣引きの景清、戦死した佐藤継信らなのです。

いやむしろここでの義経は、奇襲攻撃に成功して結果的に平家を駆逐することは出来たものの、まず四国への船出で梶原景時と口論して同士討ちになりかかったり、教経の矢先に率先して進んで身代わりになった佐藤継信を死に追いやったり、あげくは海に乗り入れて弓を落とすミスを犯して危険を冒しながら取り返したり。。と、軍の大将としては軽率と言われても仕方のない行動が目立ちます。

となれば、やはり能の作者が最も光り輝いていた義経を描くのであれば、それはやはり「八艘飛び」など実際に彼の活躍した「壇ノ浦」での合戦であるべきだとも思えます。

が、それは無理かもしれません。「壇ノ浦」の合戦はもちろん源平の合戦の最終地点で決戦であったわけですが、ここでの出来事は見事に戦勝を飾った源氏の姿よりも、安徳天皇や二位尼、建礼門院や知盛など、追い詰められて次々に自ら命を絶ってゆく哀れな平家の末期がどうしてもクローズアップされてしまう合戦ですから。。

こうして能の作者は義経の活躍を舞台化する題材をあえて「屋島合戦」に求め、その最後に「思ひぞ出づる」と霊魂の記憶が屋島に留まらず遠く壇ノ浦にまで飛翔することで、この能の世界に広がりを持たせたのだと ぬえは考えています。

最後に、義経は平家を滅亡させた功績にも関わらず、その後は兄・頼朝に謀反を疑われ、自分が追い落とした平家のあとをたどるように西海に逃げることになり、あげくは東北・平泉で頼った藤原氏からも攻められて悲壮な最後を遂げたのは誰もが知っていることです。

能「屋島」はあえて義経の「その後」を描かず、彼の人生の頂点だけに焦点を当てているのも、これも誰もが気づくことでしょう。この作品が義経への能の作者からの限りないオマージュであることは論を待たないと思います。

で、もう一つだけ ぬえが考えていることがありまして。

この能の前シテは老人で、修羅能や脇能では典型的な化身像なのですが、よく考えてみると、義経は「老人になれなかった」のですよね。彼の享年は31歳。ぬえは、ここまで義経を英雄に描こうとした作者なのですから、能の舞台の上でだけでも、せめて平和に釣りをしながら老後を送る彼の姿を作ってあげたのかもしれないな、と考えております。

【この項 了】
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