ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

何某の院の物語…『夕顔』(その10)

2017-07-26 22:26:35 | 能楽
この、能『夕顔』のシテが天上して消える終曲のあたりは、同じ本三番目物の能の中でもかなり特異だと思います。多くの三番目物の能。。いや、曲柄に限らず多くの、所謂「複式夢幻能」では本性を現した後シテはワキ僧の回向に感謝しつつ、往時の出来事を仕方話として語ることによって懺悔としますが、このためについにシテが「往生を遂げた」という大団円で終曲を迎える能はそれほど多くないように思います。

『井筒』にしろ『東北』にせよ、こうした能の多くは僧の夢が覚めたところで終曲するのであって、主人公が僧の回向と本人の懺悔によって救済されたという印象は残るものの、本当に死後の安寧が主人公にもたらされたのかどうかには含みが持たせてあって、観客の想像に任されているのです。こうした能の終曲の場面は、静謐な能であるほど余韻が深まるので、能の作者は当然そこを狙ってこのような終曲を用意したのだと思われます。

一方、多くはないけれども、能『夕顔』のように主人公が成仏できた喜びを表して、浄土に? 赴く様を表して終わる曲もありまして、『江口』や『誓願寺』、『当麻』『海士』などがその部類に入ると言えると思います。じつはこれらの曲に共通した特長があって、それは主人公そのものの生死を物語るストーリーでありながら、その能のテーマが経文や、あるいは仏法そのものの礼賛にある曲で、少なくとも最後の場面ではそうした経や仏神が高らかに賛美されて終わるのです。

『夕顔』はこうした一連の能ともまた少し違っていて、あくまで僧の回向があり、シテはそれに帰依した事によって成仏するのであって、終曲部分では単純にその喜びを表現するという趣向になっていますね。僧が唱える具体的な経文の文句も『夕顔』には出てきません。しかし、シテが僧を頼りに仏の教えに帰依する、ということは序之舞の前にはっきり書かれていて、キリでは「雲の紛れに失せにけり」と、シテが昇天していく様子が描かれています。

まるでシテが菩薩に変身したかのような錯覚さえ覚える終曲部ですが、その前に「変成男子の願いのままに」とありますし、ワキも待謡でわずかに「法華読誦の声絶えず」と言っているので、ここは『法華経』に見える八歳の龍女が男性の姿となって南方無垢世界で成仏した、という説を念頭に置いているのでしょう。もっとも夕顔が男性や龍の姿に変身した、と読むよりは、やはり菩薩のような姿となったと解したいところですね。

閑話休題。

能『夕顔』については少々問題もあるようで、後シテが登場してすぐに「物の怪の人失ひし有様を現す今の夢人の跡よく弔ひ給へ」と言っているのに、実際には人。。すなわち夕顔上自身が物の怪によって命を奪われる件が舞台上で表現されない、という指摘があります。

これについて、ぬえも最初は同じような疑問を持っていたのですが、じつは後シテが登場した姿が、そのまま「人失ひし有様」。。つまり犠牲者のそれなのですよね。実際には若女の面を掛け、長絹に緋大口という優美な姿で後シテは登場しますから、印象としては凄惨な姿を想像することは出来ませんが、後シテは続けて「見給へ此処もおのづから気疎き秋の野らとなりて」と言い、ワキも「池は水草に埋もれて。古りたる松の蔭暗く」と同調すると、さらにシテが「また鳴き騒ぐ鳥の嗄声」と言い、ワキが「さも物凄く思ひ給ひし」と夕顔の心を気遣っています。

この「気疎き秋の野ら」「池は水草に埋もれ」というのは『源氏物語』の中で源氏と夕顔が「何某の院」に早朝に到着し、日が高くなった頃に起き出して格子を上げて見た庭の光景で、また「鳥の嗄声」は夕顔が物の怪に襲われて人事不省になったときに源氏が聞いた梟の声です。

すなわち後シテが登場した場面は、場所こそ「何某の院」ではありますが、ワキ僧が訪れた時から一気に時間が遡ったように、源氏と夕顔とが愛を語らいあった、そして物の怪が夕顔を襲った「あの時」の様相が現前したのでした。

これを見てワキは「さも物凄く思ひ給ひし」。。「さぞ恐ろしく思われたことでしょう」と夕顔を気遣ったわけで、そう考えてみると、じつは後シテは実際の舞台に現れる優美な姿ではなく、命を奪われた苦しみの姿で登場した、と考えることができます。実のところシテ自身も「心の水は濁り江に引かれてかかる身となれども」と言っているわけで、物の怪を遠回しに言った「濁り江」に引かれて「かかる身」。。この世ならぬ身となった姿を現したと考えるのが自然でしょう。

そうであれば定めの取り合わせに逆らう事にはなりますが、後シテの面装束には工夫の余地があるかもしれません。

が、作者の狙いは陰惨な夕顔の死の事件の再現にはありませんね。
こうしてワキ僧の前に夕顔の死は示されたわけで、「物の怪の人失ひし有様を現す今の夢人」というシテの言葉に矛盾はないことになります。

そして、そこからシテは気持ちを変えて「かかる身となれども、優婆塞が行ふ道をしるべにて。来ん世も深き契り絶えすな」と言います。これは前述の通り、夕顔邸で夜を明かした源氏が、明け方に夕顔を「何某の院」へと誘うときに詠みかけた歌で、原作では近所から聞こえてくる行者・御嶽精進の礼拝する声に自分の夕顔に対する思いを重ねて、来世も深い契りを結びたいものだ、と言っているのですが、能では御嶽精進をワキ僧に置き換えて、シテはその教えに帰依し来世に導く便りとしよう、と自らに向かって言っているのです。

すると。。このあとに置かれた序之舞はシテ夕顔がワキ僧の弔いを神妙に受けている姿なのであって、能でシテが舞う理由としてしばしば挙げられる「報謝の舞」というものよりも、ずっと精神的なものだと考えるべきだと思います。

考えてみれば夕顔が僧の弔いに感謝して。。「舞を見せる」のは不自然ですよね。ここは僧の教化をありがたく受けている姿と考えたいです。

さらに序之舞が終わるとシテが言う言葉も「お僧の今の弔ひを受けて数々嬉しやと夕顔の笑みの眉」。シテは僧の弔いによって成仏できることが限りなく嬉しいのです。ですからこの序之舞は、最初は有難く読経を聞く敬虔で静かな心であり、その後だんだんと、浄土に生まれる確信を得て喜ぶ心なのでしょう。序之舞は『夕顔』の場合10~15分も掛かりますが、これほど長い舞の場合、途中からシテの気分が変わってくる、ということは能ではままある事です。長い舞の中でシテの心情の変化を表現するのは簡単ではありませんが、そのような心持ちを忘れずに舞いたいと考えています。
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何某の院の物語…『夕顔』(その9)

2017-07-21 03:30:08 | 能楽
後シテは若女の面が建前となっていますが、増を使うこともあります。装束は長絹に緋大口の姿。長絹は夕顔の花の色の印象から白地を選ぶ演者が多いと思いますが、もう少し工夫の余地はあるように思います。

後シテ「さなきだに女は五障の罪深きに。聞くも気疎きものゝけの。人失ひし有様を。現す今の夢人の。跡よく弔ひ給へとよ。とワキヘ向き
ワキ「不思議やさては宵の間の。山の端出でし月影の。ほの見え初めし夕顔の。末葉の露の消え易き。本の雫の世語を。かけて顕し給へるか。
シテ「見給へ此処も自づから。気疎き秋の野らとなりて。
ワキ「池は水草に埋もれて。古りたる松の蔭暗く。
シテ「また鳴き騒ぐ鳥の嗄声身に沁み渡る折からを。
と面伏せて聞き
ワキ「さも物凄く思ひ給ひし。
シテ「心の水は濁江に。引かれてかゝる身となれども。
とワキへツメ足
シテ「優婆塞が。行ふ道をしるべにて。と正へ向き
地謡「来ん世も深き。とサシ込ヒラキ 契り絶えすなとシテ柱にクツロギ 契り絶えすな。 と正面に向き これより序之舞

後シテも ひたすら動作が少ないですねー。ぬえの経験としても後シテが登場して舞にかかるまでにシテ柱から動かないまま、というのは初めての経験かもしれません。『井筒』が同じようにシテ柱から動かないけれど、「形見の直衣。。」あたりに型もありましたが、『夕顔』ではワキとの問答の中から舞に移ってゆく感じです。

序之舞でようやく動き出すシテ。可憐な夕顔がシテでありながら、能『夕顔』はひたすら重厚に、彼女の恋というよりは その死に焦点を当てたような曲ですね。この場面も夕顔が舞を舞う、というよりは僧の弔いに対する報謝として描かれていると思います。

やがて序之舞が終わると終曲に向かいます。

シテ「お僧の今の。弔ひを受けて。とワキヘ向き
地謡「お僧の今の弔ひを受けて。数々嬉しやと。と正へ出
シテ「夕顔の笑みの眉。とヒラキ
地謡「開くる法華の。
シテ「英も。
とツマミ扇にて扇を前へ上げ
地謡「変成男子の願ひのまゝに。 と左へ廻り、解脱の衣の。袖ながら今宵は。何を包まんと とワキの前でヨセイ、言ふかと思へば音羽山。 と正へ出、嶺の松風通ひ来て。 と脇座の上の方を見回し、明け渡る横雲の と雲ノ扇にて見上げ、迷ひもなしや。東雲の道より と脇座よりサシにて舞台を大きく右に廻り、法に出づるぞと。暁闇の空かけて とシテ柱にて正へヒラキ、雲の紛れに。失せにけり。 とトメ拍子踏み幕へ引く

夕顔が舞を舞う。。前述したように、これは報謝の舞ではありますが、それはそのまま夕顔が僧の弔いに感謝してダンスを見せた、という訳ではないでしょう。ぬえは、ここは本来「イロエ」を舞う心なのだろうと解釈しています。

本三番目物、鬘物の能の定石として能『夕顔』にも序之舞が置かれており、ここまで動きの少ない能であれば、この序之舞が唯一 この能の見どころという事になりますが、この舞は夕顔上が実際に舞ったのではなく、僧の弔いに感謝を述べ回向を受けている、ということを舞台芸術として視覚的に表現した、と解するべきだと思います。

夕顔の感謝の気持ちと、僧による教化を敬虔な気持ちで受けているはずのこの場面であれば、この舞はこの夕顔の心の動き、と読むべきでしょう。とすれば実際には ゆったりしたテンポでノリのない囃子、動作の方が似合うはずです。拍子に合わない囃子による舞というものは能の中にはないと思いますが、これに一番イメージが合うのが「イロエ」なのです。

イロエはごくゆったりと地を打つ大小鼓と、拍子に合わずに演奏される笛による舞ですが、いまひとつ定義が定まっていません。ときに太鼓が参加する「イロエ」もありますが、シテ方では太鼓が入った場合は「イロエ」と称せず「立廻り」と言う方が多いのですが、『歌占』や『百萬』のそれには太鼓は入らないのにシテ方でも「立廻り」と唱えますし、『巻絹』は太鼓が入るのに「イロエ」。このように同じ舞をシテ方と囃子方とでは呼び方が違う場合さえあるのです。

上に「舞」と書きましたが、「イロエ」でのシテの動作には 積極的な意味はない場合がほとんどです。静かに舞台を一巡する程度で、多くは主人公の心の揺らぎとか、茫洋とさまよう動作を表します。これに対して「立廻り」には動作に積極的な意味がある場合が多く、前述の『百萬』では母親が生き別れた我が子を探す動作です。シテ方はこの動作に意味があるかないかで「イロエ」と「立廻り」を区別している、とも考えられますが、その基準に合わない場合もあって、結局このふたつの定義は曖昧だと言わざるを得ません。

能『夕顔』でこの場面に「イロエ」ではなく「序之舞」が舞われるのは、台本全体の中では後場が短いので「イロエ」ではバランスが取れない、ということもありましょうし、やはり格式を備えた本三番目物の能として、重量のある「序之舞」が必要だった、ということもあるでしょう。

しかし、序之舞が置かれているから、と言って舞踏としての舞を舞うのは、この曲の場合そぐわないはずです。あくまで僧に対する感謝と、仏法に帰依する敬虔な気持ちの表現であるべきでしょうね。

もうひとつ、ここに序之舞が置かれた理由として ぬえが考えることがあります。それは10分近くにおよぶ序之舞の長さ。この中でシテの心情は変わってきています。

それを如実に語るのがキリの冒頭。。つまり序之舞を舞い上げたシテが発する最初の言葉です。「お僧の今の弔ひを受けて、数々嬉しやと夕顔の笑みの眉。。」 シテは弔いに対する感謝だけではなく喜びを表していて、これが能『夕顔』のひとつの特長であると思います。

それどころか夕顔のシテは成仏までをも果たしているのですね。地謡「変成男子の願いのままに解脱の衣の袖ながら今宵は何をつつまん」。。シテがワキ僧に対して包み隠すことがありましょう、というのは、その回向によって成仏できた喜びのことで、この曲の終盤は主人公が成仏する清浄な世界と、その法悦にひたるシテの喜びに満ちあふれています。終曲は「雲の紛れに失せにけり」という文句で、主人公は昇天して消え失せるのですよね。
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何某の院の物語…『夕顔』(その8)

2017-07-19 04:15:14 | 能楽
中入で前シテが幕に入ると間狂言の里人が登場してワキと問答します。

(注)以下の詞章は大蔵流に拠る「かやうに候者は。都五条辺りに住居する者にて候。この間は久しく何方へも出で申さず候間。今日は東山の辺りへ参り心を慰まばやと存ずる。いやこれに見慣れ申さぬお僧の御座候が、何処より何方へ御通り候ひて。この所にて休らふて御座候ぞ。
ワキ「これは豊後の国より出でたる僧にて候。御身はこの辺りの人にて渡り候か。
間「なかなかこの辺りの者にて候
ワキ「左様に候はゞ。まず近づ御入り候へ。尋ねたい事の候。
間「心得申して候。さて御尋ねありたきとは、如何様なる御用にて候ぞ
ワキ「思ひも寄らぬ申し事にて候へども。光源氏の古。夕顔の上の御事につき。様々子細あるべし。御存知においては語って御聞かせ候へ。
間「これは思ひも寄らぬ事を御尋ねなされ候ものかな。我等もここには住ひ候へども。左様の事詳しくは存ぜず候さりながら。およそ承り及びたる通り、物語り申さうずるにて候。
ワキ「近頃にて候。
間「さる程に。夕顔の上と申したる御方は。三位中将殿の御息女にて御座ありたるが。さる仔細ありて。人目を包み深く忍びてこの五条辺りに御座ありたると申す。あるとき源氏、六条の御息所へ通ひ給ひ。この辺りを御通りありしに。何処ともなく上臈の歌を吟ずる声聞こえしかば。源氏不審に思し召し。しばらく佇み給ひけれども。定かに所も知れず候間。そのまま帰らせ給ひ、またある夕暮れに。惟光の方へ御出あり。門前に御車を立てられ。辺りを御覧ずれば。小家に夕顔這い掛り。花も盛りなるを御覧じて。御随身にあの花取って参らせよと宣へば。御随身小家に立ち寄り。花を折りて帰らんとすれば。内よりも童を出し。暫く御待ち候へとて。白き扇のつま いとたうこがしたるに歌を書いて。是に添へて参らせ給へとありければ。御随身請け取って惟光へ渡されければ。惟光源氏へ参らする。源氏御覧ずれば。一首の歌あり。
心あてにそれかとぞ見る白露の 光りそへたる夕顔の花
とありしかば。源氏の御返歌に
寄りてこそそれかとも見めたそかれに ほのぼの見ゆる花の夕顔
と遊ばされ。夫よりとかく言ひ寄り給ひ。深く御契りなされたると申す。頃は八月拾五夜の御事なるに。源氏この所へ御出であり。夕顔の上に宣ふ様は。この辺りは何とやらん物凄敷く見え候とて。何某の院へ誘ひ給ひ。あけの夜不思議なる御事ありて。夕顔の上は空しく成り給ひたると申す。是と申すも御息所の御業の様に皆人申し習はし候。惣じて源氏などの御事は、上つ方に御沙汰ある御事なれば。委細は存ぜず候。
間「まづ我らの承りたるは斯くの如くにて候が。只今の御尋ね不審に存じ候。
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。尋ね申すも余の儀に非ず御身以前に。女性一人来たられ。夕顔の上の御事只今御物語の如く懇ろに語り。何とやらん由ありげにて。そのまま姿を見失ひて候よ。
間「これは言語道断 不思議なる事を承り候ものかな。それは疑ふ所もなく。夕顔の上の御亡心にてあらうすると存じ候。夫れを如何にと申すに。筑紫より御上りと承り候へば。玉鬘の御縁にひかれ顕れ給ひたると存じ候。左様に思し召さば。暫く御逗留ありて。有難き御経をも御読誦なされ。重ねて奇特を御覧あれかしと存じ候。
ワキ「近頃不思議なる事にて候ほどに。暫く逗留申し。有難き御経を読誦し。かの御跡を懇ろに弔ひ申さうずるにて候。
間「御用の事候はば。重ねて仰せ候へ。
ワキ「頼み候べし。
間「心得申し候。


源氏と夕顔のなれそめが、まず源氏がたまたま五條を通りかかった時に家の内より歌を吟ずる声が聞こえてきた、というのは能『夕顔』の中で前シテが登場するときにワキが言う言葉とも一致し、間狂言の語りでは、その時は「源氏不審に思し召し。しばらく佇み給ひけれども。定かに所も知れず候間。そのまま帰らせ給」うた、となっていますが、これは『源氏物語』には見えない話です。

もうひとつ、源氏に命じられて随身が夕顔邸に咲く花(夕顔)を手折ると、家の中より童が出て扇を参らせますが、この扇の描写を能では「白き扇のつま いたうこがしたりしに」と書いていますが『源氏』では「白き扇の いたうこがしたりしを」という表記です。

細かいことですが、前者。。能では「つま」が追加されているわけで、「つま」とは「褄」。。すなわち「端」を意味する言葉です。これは着物の褄など現代でも使う言葉ですが、扇の場合は広げた扇の角を言い、我々の世界では普通に使う言葉です。

ところが意味の上では「褄」の語の有無はかなり違ったものになり、「白き扇」を「こがしたる」のであれば、これは香を焚きしめた、という意味になり、「褄こがしたる」のであれば、これは白一色の扇なのではなく、広げた扇の左右(あるいは一方の)の角が赤く染められた。。というように解釈され、そのまま想像すればその扇には褄だけでなく扇面に雅やかな絵が描かれているという印象を観客に与えると思います。

『源氏物語』の扇の描写は、あくまでも純白の扇であり、これは清楚で可憐な夕顔の上を象徴する小道具として用意されたものでありましょう。ところが能の作者はこれを極彩色の、とまでは言わないものの、にぎやかな図が描かれた扇と解釈して、「褄」を追加しました。これは能の作者にとって、もとより扇を主要な小道具とする能に登場する扇が白一色の無地の扇という設定にするのに抵抗があったのかもしれませんね。

間狂言が橋掛リの狂言座に退くと、ワキとワキツレは「待謡(まちうたい)」という謡を謡い、月下に読経して夕顔を弔う法事を行います。

ワキ/ワキツレ「いざさらば夜もすがら。いざさらば夜もすがら。月見がてらに明かしつゝ。法華読誦の声絶えず。弔ふ法ぞ誠なる 弔ふ法ぞ誠なる。

これに付けて囃子方が「一声(いっせい)」という登場音楽を奏し、やがて後シテ・夕顔の霊が現れます。
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何某の院の物語…『夕顔』(その7)

2017-07-15 00:15:17 | 能楽
惟光は夕顔の遺骸を東山の知りあいの寺に預け、翌日には葬儀をする手配を済ませたこと、右近は絶え入るばかりに嘆き悲しんでいることなどを伝えます。源氏はもうひと目だけ夕顔の遺骸に対面したいと願い、惟光は困ったことだとは思いながら仕方なく、急いでお出かけになって夜更け前にお帰りください、と言ってお供をするのでした。

東山の寺に着くと源氏は夕顔の遺骸の手を取って「我に今一度、 声をだに聞かせたまへ」と嘆き悲しみ、同じく悲嘆に暮れる右近には二条邸に身を寄せるよう言うと、惟光にせき立てられて二条邸に戻ります。途中、悲しみのあまりに馬から落ちるほどだった源氏は惟光に助けられながらようやく二条邸に戻ると、そのまま床についてしまいました。

源氏重病の知らせは内裏はおろか天下の人の大騒ぎとなり、帝はじめ左大臣家などでもお祓いや祈祷が行われ、これを聞いた源氏は強いて気を強く持ち、これが功を奏したのか次第に回復してゆきます。ようやく源氏が床を離れたのは、ちょうど夕顔の三十日間の忌が明ける日でした。源氏は宮中の宿直所まで出かけますが、このときも左大臣は源氏の参内のためにわざわざご自分の車を用意したのでした。

さてすっかり回復された九月二十日頃、気分ものどかな夕暮れに、源氏は二条邸に留まっている右近を側近く召して、夕顔について語り合います。

夕顔が名乗らなかったことについて、夕顔はふとした機縁で結ばれた源氏との仲を夢のように思い、また源氏が名乗らなかったので、戯れ事にしか過ぎないのかもしれない、とお悩みの様子でした、と右近は話します。源氏は自分も名を隠すつおりはなかったのに、つまらない意地の張り合いだったと後悔し、改めて夕顔の本名を右近に問います。

しかし右近は、隠すつもりはありませんが、あの方ご自身が包み隠されたことを、その亡き後に軽々しく申し上げるのが憚られまして。。と言葉を濁して、その代わりに夕顔の、前述したような生い立ち。。三位中将の娘で、両親には早くに死別し、ふとした事から三年ほど頭中将と契ったが、右大臣家から厳しい言葉がかけられたため、夕顔は恐ろしさに姿をくらましてしまった。遺された子は西の京の夕顔の乳母に預けてある。。が語られ、源氏は薄々は感じていながらも、ここでついに頭中将が言った「常夏の女」こそ夕顔であったことを確信するのでした。

空が曇って冷たい風が吹くのを寂しそうに眺めていた源氏は

見し人の煙を雲と眺むれば 夕べの空もむつましきかな

と詠みますが右近は返歌も差し上げられません。あの五条の夕顔邸で朝に聞いた庶民の喧噪もいまは懐かしく思い出されて源氏は伏せってしまいました。。

。。

久し振りに『源氏物語』をじっくり読んでみましたが、いやはや読みにくい。。
謡曲を読める人なら鎌倉時代以降の文章はまずほとんど問題なく読めると思いますが、中古国文学は読解からして難しいですね。

さて長々と『源氏物語』「夕顔」巻を紹介したのは、能『夕顔』の多くの部分。。とりわけクセの文章が、この「夕顔」巻の描写を多く取り入れている。。というよりは、「夕顔」巻をすでに読んでいることが前提になって書かれているからです。

あらためて能『夕顔』のクセの詞章と現代語訳をご紹介しますが、「夕顔」巻を知らないと、到底理解できる文章ではありません。

地謡「物の文目も見ぬあたりの。小家がちなる軒の端に。咲きかゝりたる花の名も。えならず見えし夕顔の。折すごさじと徒人の。心の色は白露の。情置きける言の葉の。末をあはれと尋ね見し。閨の扇の色異に互ひに秋の契りとは。なさゞりし東雲の。道の迷ひの言の葉も。この世はかくばかり。儚かりける蜉蝣の。命懸けたる程もなく。秋の日やすく暮れ果てゝ。宵の間過ぐる故郷の松の響きも恐ろしく。
シテ「風にまたゝく灯の。
地謡「消ゆると思ふ心地して。あたりを見れば烏羽玉の。闇の現の人もなく如何にせんとか思ひ川。うたかた人は息消えて。帰らぬ水の泡とのみ。散り果てし夕顔の。花は再び咲かめやと。夢に来りて申すとて。ありつる女もかき消すやうに。失せにけり かき消すやうに失せにけり。


【現代語訳】
地謡「分別もない卑しい者たちの小さな家が並ぶその軒に咲く花の名もこの上なく見えたその夕顔を手折らせると、その折を逃さずに浮気性な女が心ざしは浅いが情けのこもった歌を詠みかけたのを面白いと思い、通うようになったが、班女の閨の扇とは違って深い契りを誓って東雲の道の歌を詠み交わしたところ、この世はこのように蜉蝣のように儚いもので命をかけて契った甲斐もなく秋の陽は早く暮れ、宵を過ぎる故郷の松が恐ろしい音を立てて
シテ「灯が風にまたたいて
地謡「消えたかと思うとあたりは闇となり、今まで生きていた人もはかなくなり、どうしようかと思い惑っているうちに川面の泡のように息を引き取った。その水の泡と消えた夕顔の花は二度と咲くことはないのだ、と夢の中に参って申しますと言うと女はかき消すように姿を消した。


夕顔上が「浮気性」とは、ちょっとイメージと違うかもしれませんが、「折すごさじと徒人の」の主語は源氏ではないですね。そもそも源氏と夕顔のなれそめというのが、夕顔から源氏に「心あてにそれかとぞ見る白露の 光添へたる夕顔の花」と歌を詠みかけたのが最初で、能『夕顔』の表現も この積極的な夕顔の行動を念頭に置いているのでしょう。

ところで内気でナイーブな夕顔が本当に自分から源氏を誘ったのか? については古くから論じられてきたところで、たとえばこの歌は頭中将の来訪と誤解して詠まれたものだ、とか(この説はこのあとの「夕顔」巻の展開から考えて不自然ではありますが)、この歌は夕顔自身ではなく、彼女を取り巻く女房たちが、頭中将の代わりに自分たちの女主人が頼りにすべき男と見定めて、その仲立ちのために贈ったのだ、とか。。

ともあれ、能『夕顔』。。の全般的に言えることではありますが、特にこのクセは「夕顔」巻の言葉を散りばめて王朝文学のニュアンスを醸しだすように工夫して作られているように思います。そしてシテはクセの前半は着座したままの所謂「居グセ」で、まさに『源氏』を物語る。。考えようによれば『源氏』の舞台化を意図して作られているのではないかとも思えるのです。

とは言いながら、この能は本三番目としては略式に作られていて、クセの後半ではシテは立ち上がり、ワキに向かって「夕顔の花はもう咲かない」と悲劇的な彼女の結末を、僧の夢の中に現れて申したのだ、と言うと姿を消します。

このあたり、ちょっと他の能とは違う行き方で、シテはワキに弔いを頼みませんね。執心を残しているという感じもなく、断定的に「(死んでしまった)夕顔はもう戻らない」と、いわば吐き捨てるかのように言って消えてしまう。。お客さまには、クセで語られた詳細な夕顔の物語が、激しい言葉で突然打ち切られたかのような印象を与えるのではないかと思います。

本三番目能の定式では、クセで語られた物語のあとにロンギが置かれ、シテはじつは私こそ この物語の本人なのだ、と明かすと、弔いを願って姿を消す、という段取りを踏むのですが、『夕顔』では主人公は変死したのであり、いわば源氏との愛の絶頂の瞬間に彼との愛も、自分そのものの命も、突然失うという急転直下の不幸に突き落とされました。

この曲にロンギがなくクセで中入になるのも、ひとつには重厚なこの能が無駄に長大になるのを避ける目的が作者にあったのかもしれませんが、もうひとつ考えられるのは、このように突然に幸せを断ち切られた夕顔の数奇な最期とその悲しみを表現するために、シテとワキが言葉を交わす落ちついたロンギを避けて、夕顔の恋から死へ至る物語をあえて急停止させるように仕組まれているのかもしれません。
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何某の院の物語…『夕顔』(その6)

2017-07-14 01:59:08 | 能楽

源氏は次第にこの女が頭中将が言った「常夏の女」なのかもしれない、と考えるようになり、それならばこのままお互いに素性もわからないままで逢瀬を続けると頭中将の場合と同じように夕顔が自分の前からこの女が姿を消してしまうかもしれない、と不安を感じるようになりました。一度は自分の邸宅へ迎えることも夕顔を誘いますが、夕顔ははぐらかすようにこれを断ります。

八月十五日、満月の光も隈なく照らす夜、もう暁が迫って周囲の貧しい家々から生活の物音が聞こえ始めると、源氏は騒々しさに閉口して、夕顔を「いざ、ただこのわたり近き所に心安くて明かさむ」と誘います。やはり急なことで夕顔も困りますが、源氏が自分の事を真剣に思ってくれていることを感じて、頼りに思っても良いのかと不安を感じながらも、今度は誘われるままに右近を召して源氏の車を邸内に引き入れました。

折ふし近くの家で御嶽精進(吉野の金嶺山神社に参籠する前に行う精進修行)の声が「南無当来導師」と弥勒菩薩を称えるのがしみじみと聞こえてきます。源氏はこれにたとえて

「優婆塞が行ふ道をしるべにて 来む世も深き契り違ふな」

と、来世まで契ることを夕顔に約しますが、なお夕顔は不安な気持ちを「前の世の契り知らるる身の憂さに 行く末かねて頼みがたさよ」と返歌をします。

明け方の美しい空の下、源氏は躊躇する夕顔を軽々と車に乗せ、右近もこれに同乗しました。こうして源氏と夕顔は「そのわたり近きなにがしの院におはしまし着」くことになります。能『夕顔』に「紫式部が筆の跡に。たゞ何某の院と書きて。その名をさだかに顕はさず」と言うのがこれですね。

荒れた門には忍草が生い茂り、また茂った木によって邸は薄暗い様子です。霧も深く露けき中、門の前で邸の管理人をを呼び出す間に源氏は夕顔に「いにしへもかくやは人の惑ひけむ 我がまだ知らぬしののめの道」と詠みかけますが、夕顔は恥じて

「山の端の心も知らで行く月は うはの空にて影や絶えなむ」

と、なお源氏の真意をはかりかねる様子です。ほのぼのとあたりが見えはじめる頃に御座所が整えられ、源氏と夕顔は邸に入ります。

。。日が高くなった頃 源氏は起きあがると格子を上げて庭の様子を見ました。ひどく荒れて人影もなく、木立は気味悪く鬱そうと茂っています。まるで秋の野らと変わるところがなく、池も水草が覆ってしまって恐ろしげな有様です。

夕顔も怯えた様子ではありますが源氏を頼った風で、これを見て源氏は夕顔に名を問います。しかしそこは夕顔も心を許さず「海人の子なれば」と言葉を濁してしまいます。源氏も自分を「われから(藻に住む虫)」に擬して、二人はあるいは恨み、あるいは語らい、一日をそこで過ごします。

夕方。。たとえようもなく美しい空を眺めながら、二人はずっと添い伏しています。夕映えが照らす顔をお互いに見つめて、幸福を感じる二人。しかし。。

宵が過ぎて二人が少し眠りかかった頃、ふと枕元に美しい女が座っているのを源氏は見咎めます。

「私がこれほどお慕いしていますのに、こんなどうともない女を寵愛なさるとは悔しくつらい」と女は言うと夕顔を引き起こそうとします。源氏はすぐに起きると灯も消えています。源氏は太刀を抜くと魔除けのために枕元に置き、それから右近を起こしました。

右近も怖がっていて、渡殿にいる宿直人を起こして紙燭を持って来させるよう源氏が言いつけても役には立ちそうもなく、右近に夕顔のことを託すと源氏は自ら西の妻戸に出て渡殿を見ると、そこも灯が消えています。

風が少し吹き、仕える者はみな眠っている様子。源氏が呼ぶと管理人の息子の若い男が起き出してきたので、紙燭を点して来ること、また随身にも弓を打ち鳴らして絶えず音を立てるよう言いつけました。夕方に源氏の行方を尋ね当ててこの邸に来ていた惟光も、お言いつけがないので暁にお迎えに参ります、と言って帰宅したようです。

人々も起き出してきて、源氏は寝室に戻ります。夕顔ばかりか右近までもが恐ろしさに伏せっている有様。暗がりの中で源氏が夕顔を探ってみると、息をしていません。管理人の息子が紙燭を持ってきたので近くに取って見ると、枕元に先ほどの女が幻のように現れて、ふっと消え失せます。

右近が泣き惑うなか、身の危険も省みず源氏は夕顔を起こしますが、夕顔の身体は「ただ冷えに冷え入りて、息は疾く絶え果て」ています。源氏は夕顔をかき抱いて「あが君、生き出でたまへ。いといみじき目な見せたまひそ」と嘆きますが、先ほどの男に命じて惟光やその兄の阿闍梨を呼ぶよう命じます。

いつの間にか夜中も過ぎたようで、風が荒々しく吹き、松風の響きも木深く聞こえて、異様なしわがれ声の鳥の声は これが梟というものかと思われます(このあたりの描写は能『夕顔』にも反映されていますね)。右近は源氏にひしとしがみついたままで、こうしてようやく夜が明けてきたところに惟光が到着すると、源氏もようやく安堵して泣き出します。

惟光の兄の阿闍梨は前日に比叡山に帰ってしまっていて読経は果たせず、惟光は醜聞から逃れさせるため源氏を二条邸に帰すことにします。夕顔の亡骸は上等な敷物に包んで車に乗せて、右近も同じ車に付き添いますが、このとき源氏は遺骸をくるんだ敷物の端から夕顔の髪がこぼれ落ちるのを見て目がくらみ惑って、最後まで付き添いたいと思いますが、惟光が馬を参らせて二条邸に帰りました。

二条邸の女房たちは帰宅してそのまま伏せってしまった源氏を不思議がり、一方内裏からは前の日に姿が見えなかったのを心配した帝の使いが源氏を訪れ、左大臣家からも公達の御子たちが次々に見舞いに訪れる騒ぎ。これらには「ふとしたところで穢れに遭ったので」と言い訳をして、日暮れになってようやく惟光が参上しました。
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何某の院の物語…『夕顔』(その5)

2017-07-12 11:19:07 | 能楽
『源氏物語』「夕顔」巻では、ここでいったん話題が変わって、「夕顔」巻のすぐ前の「帚木」「空蝉」で描かれた、空蝉の物語になります。

有名な「雨の夜の品定め」の翌日、左大臣邸を訪れた源氏は本妻の葵上とどうも打ちとけ難く、方違えと称して紀伊守の邸宅に泊まります。そこに紀伊守の父・伊予守が迎えた若い後妻が来合わせており、夜に紛れて源氏はこの後妻。。空蝉の部屋に忍んで「年ごろ思ひわたる心のうちも聞こえ知らせむ」と言って強引に契りを持ったのでした。

そのうえ源氏は空蝉のまだ幼い弟・小君を自分の邸の召使いとして召して、空蝉との仲を取り持つよう命じます。ある日、小君は紀伊守が任国に下った隙を見て、源氏邸に通うための自分の車に源氏を乗せて紀伊守邸に誘います。折節来ていた紀伊守の妹の軒端荻と碁を打つ空蝉の姿を垣間見た源氏はその夜 小君の手引きで寝室に忍び込みますが、それと気づいた空蝉は薄衣の単衣だけを着たまま寝室を抜け出します。

それと知らずに女と添い寝をした源氏でしたが、その相手は先ほどの軒端荻でした。どちらもそれと知って驚き、源氏は空蝉を恨めしく思いますが、「この人の、 なま心なく若やかなるけはひもあはれなれば、さすがに情け情けしく契りおかせたまふ」と。。軒端荻とも契る源氏。 それでも空蝉が脱ぎ捨てて寝室に残された小袿を持ち帰ると、自邸でこの小袿を寝床に入れて眠るのでした。

。。ああ、なんだか疲れてきた。ここまでは「夕顔」巻のすぐ前にある「帚木」「空蝉」の段のお話で、「夕顔」巻では夕顔の素性を知るよう惟光に命じたあと、この空蝉の事が再び語られるのです。

なんとここで空蝉の夫である伊予守が都に帰ってきました。伊予守はすぐに源氏に挨拶に参上し「娘(軒端荻)をしかるべき人に嫁がせて、自分は家内(空蝉)と一緒に任地に下ろうと思っています」と言います。源氏は心乱れて。。そりゃそうだ。一方空蝉もこのまま源氏に忘れ去られるのも悲しく思って、源氏の手紙に細やかな返事を書きます。。ええっ? 源氏もこれを見て「つれなくねたきものの、忘れがたきに思す」そうです。さらに軒端荻については、たとえ夫が決まっても源氏に心を許しそうに思えたので「とかく聞きたまへど、 御心も動かずぞありける」。。

。。現代であればこの浮気性の源氏は女性の敵と思われるのでしょうが、『源氏物語』は紫式部。。つまり女性が書いたのよねえ。

さてさて、これらの空蝉の挿話のあと、「夕顔」巻は再び夕顔上の物語に戻り、そして彼女と源氏の恋から、その翌朝に物の怪に襲われて夕顔が命を落とす、能『夕顔』の中心的な物語でもあり、「夕顔」巻のクライマックスに話が進んで行きます。ああよかった。

秋になり(旧暦ですから7月から秋)、左大臣邸では葵上へ源氏が通うのが途絶えがちになっているのを恨めしく思っています。一方 六條御息所も思い詰める性格で、源氏との年齢の差なども気にして煩悶を続けていました。それ、見たことか。

それでもある夜、源氏は御息所に通っていました。夜が明ける頃、深い霧の朝、御息所にせかされて源氏が寝室から出ると、御息所に仕える女房の中将の君がお帰りのお見送りのために従います。源氏は眠たげでしたが、中将の君と一緒に渡廊を歩いていると、ふいに足を止めて中将の君の姿をしげしげと眺めて「鮮やかに引き結ひたる腰つき、たをやかになまめきたり」と見ると、そばにある高欄に腰を掛けさせました。黒髪のかかる有様も美しいと感じた源氏は中将の君に恋の歌を贈り。。

。。さあ、きりがないので先に進みましょう!

さて惟光は例の夕顔の家の女主人について源氏に報告しました。「あいかわらず主人については家人もひた隠しにしていて、その正体は知れません。牛車が近づくと若い女房たちが誰が来たかとのぞき見をするようですが、あるとき頭中将が通られる、と女房たちが騒いで、右近と呼ばれる大人びた女房が呼びにやられました」

右近は夕顔上の側近くに仕える女房で、のちに夕顔の死の際もそれを目撃することになります。一方ここであの日源氏の車が近づくと女房たちが簾越しにのぞき見していた理由がだんだんと分かってきます。女房たちは女主人に通うべき男が来るのを心待ちにしていたのです。そして、どうやらその男は頭中将であるようです。

ネタばれですが、ここで夕顔上が何者であるのかを見ておきましょう。夕顔が亡くなった後に源氏は右近に問うて、次のような事情を聞かされることになります。

夕顔は三位中将という方の娘で、娘を大変に可愛がった両親は早くに亡くなってしまいました。その後夕顔はふとした事から三年ほど頭中将と契りましたが、その事実は頭中将の妻の知るところとなり、妻の実家である右大臣家から夕顔に厳しい言葉がかけられたため、夕顔は恐ろしさに宿を引き払い姿をくらましてしまいました。一昨年には子もできていたのですが、それは西の京に住む夕顔の乳母に預けてあるのです。。

これを聞いて源氏もようやく頭中将が「雨の夜の品定め」(「帚木」巻)で言っていた「常夏の女」というのが夕顔のことだったのだと知ることになります。頭中将は「雨の夜の品定め」で夕顔のことを、こう話していました。。親もなく心細い様子で、自分を本当に頼りにしている様子はいじらしいものだった、右大臣家から厳しく言われたことは知らないままで久し振りに通っても音信のなさを恨むでもなく、しかし悲しげな様子で「涙をもらし落としても、いと恥づかしくつつましげに紛らはし隠して」いた、そうしてある日突然女は姿を消してしまった。幼い子もできていたため頭中将は心乱れますが、つらさを表に出さず平気な装いであった彼女の本心を見抜けなかった頭中将は「益なき片思ひなりけり」と思い、今でも彼女を捜しているが、ようとして行方は知れない。。

「夕顔」巻のこの場面ではまだ、夕顔は頭中将を心待ちにしているらしい、という事が源氏にはぼんやりと見えてきただけですが、先に惟光が「物憂げに手紙を書いていた」と源氏に報告したのも、また源氏が大弍の乳母邸の門前に車を寄せたときに隣家の夕顔邸から簾越しに女房たちがのぞき見たのも、じつは心ならず別れることになった夕顔が、いまだに頭中将を想い続けているからでした。

ともあれ、惟光も夕顔邸の女房に言い寄って家の様子もわかっており、いろいろと算段をして、ついに源氏を夕顔の許に通わせることに成功します。

このあたりも不思議な場面で、自分の許に通いはじめた源氏が女の素性を尋ねても、女は一切自分のことを語ることをしません。それで源氏も自分の顔を隠して、素性がわからないようにわざとみすぼらしい格好で、惟光のほか少ない従者だけを連れて、自身は馬に乗って通う有様。夕顔の方でも源氏の素性を知ろうと、文を持ってきた使者の跡をつけさせたり、暁に帰る源氏のあとを追わせたりしましたが、これも途中で見失って果たせぬ始末です。

こうしてお互いの素性はまったくわからないままに源氏は頻繁に夕顔を訪れ、二人の不思議な恋は燃え上がるのでした。
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何某の院の物語…『夕顔』(その4)

2017-07-09 01:27:44 | 能楽
能『夕顔』では要所しか描かれていないものの、源氏と夕顔の出会いから別れまでの経緯を、ここでちょっとおさらいしておくと。。

源氏が五条の大弍の乳母の家に到着すると、門は閉ざされていました。そこで供の者を門内に差し向け、源氏の腹心の家来である惟光(これみつ)を呼びます。惟光は大弍の乳母の子で、源氏とは乳兄弟の間柄。この惟光を待つ間に源氏は牛車の中から ふとその隣家を見ると、かたわらに新しい檜垣をしつらえ、半蔀を吊り上げた内には美しい額の女たちが何人もの涼しげな白い簾を透かしてこちらを見ているのが見えます。

源氏はお忍びの渡りなのでみすぼらしく、お供もない車に乗っていましたので、少し気を許して車の簾からさし覗いて見たところに。。彼の目に白い花が飛び込んできたのでした。

「えならず」。。尋常でない美しさで「おのれひとり笑みの眉開けたる」。。その咲く花の名を源氏は知りませんでした。そこで『古今集』の「うち渡す遠方人に物申す我そのそこに白く咲けるは何の花ぞも」と口ずさむと、お供をしていた随身がひざまづいて「あの白く咲ける花を夕顔と申します」と教えました。そうと知った源氏は「口惜しの花の契りや」。。気の毒な定めの花だ、というと随身に「一房折りて参れ」と命じます。

さて随身が門の中に入ってひと枝を手折ると、邸の内からかわいらしい女童が出てきて随身をうち招き、香を焚きしめた白い扇を与えて「この扇に載せて参らせなさい。枝も風情のない花ですから」と、主人の言葉を伝えます。

そのとき大弍の乳母の家からちょうど惟光が出てきたので、随身が手折った花と隣家の女主人から贈られた扇は惟光の手によって源氏に渡されました。惟光の登場により、源氏が本来ここにやって来た用件。。大弍の乳母の見舞いが優先されることになり、源氏は扇を持ったまま、その車は大弍の乳母邸の門内に引き入れられることになります。

邸内には惟光の兄の阿闍梨などの親族も集まっていて、往生を願って尼の姿になっていた大弍の乳母と対面した源氏は、養育してくれた礼を言い、乳母はそれをもったいない事と畏れて互いに涙ぐみます。

重ねて祈祷などを行うよう言って、やがて源氏は乳母邸を辞しますが、そのとき惟光に紙燭を持って来させて、源氏は先ほどの扇をご覧になります。

 心あてにそれかとぞ見る白露の 光添へたる夕顔の花

なんとその歌は、車に乗って現れ、姿こそやつしているものの、貴公子は紛れない姿を推量して「光さまではありませんか?」とそれとなく問う内容でした。それも「そこはかとなく書き紛らはしたる」。。自分の素性は判らないように わざと筆跡を書き紛らわせている、というのです。

隣家の主人に興味を覚えた源氏は惟光に隣人のことを問いますが、惟光はなにも知らなかったので、なお乳母邸の者に聞くように命じると、「地方の役人の家で、その主人は田舎に行っています。この家に住むのはその若く派手な事が好みの妻で、女房勤めなどをする姉妹がよく出入りしています」との答えでした。

源氏は先ほど簾越しに外を見ていたのはこの女房たちであるかと納得します。それにしても自分を見透かしたような歌をよこした女主人を憎からず見過ごし難く思った源氏は、さらに主人の素性を探れと言いつけ、懐紙を取り出して、こちらもわざと字を紛らわせて返歌を詠みます。

 寄りてこそそれかとも見めたそかれに ほのぼの見つる花の夕顔

もっとお側に寄らないとお互いによくわからないでしょう。。 さすがっス。源氏兄貴。

これが源氏と夕顔のファースト・コンタクトですが、しかもアニキは、先ほどの随身に命じてこの返歌を届けさせると、「御心ざしの所」。。お目当ての場所。。乳母の病気見舞いよりも本来の目的の場所。。六條御息所の家に通いに行ったのでした。さすがっス。

ちなみにアニキは。。当時まだ17歳っす。夕顔がこのとき19歳。六條御息所が24歳。。みなさんお若いのに、なんと利発な。。

御息所の家で少し寝過ごして、朝日が射し入る頃に退出した源氏は、帰る途中に夕顔の家の前を通りかかりました。すると、昨日の歌の贈答の一件で心惹かれて、「どんな人が住んでいるのだろうか」と、その後はこのあたりを通るたびに源氏はこの家に目がクギヅケになるのでした。。そうですか。もう何も言いますまい。。

数日が経って惟光が源氏のもとに参上し、乳母の見舞いへのお礼を申し述べると、言いつかっていた隣家の女主人のことを話しました。どうやらこの五月頃から滞在しているらしい女主人の素性は、その家に仕える者たちにも知らせない有様とのこと。それでも惟光が心をつけて見ていると、この前の日の夕方、なにやら手紙を書いている主人の横顔が見えました。物憂げな横顔はとても美しかったです。

あ、言っちゃったね。惟光。

惟光はさらに、周囲の女房たちも忍び泣いている様子でした。と報告します。なにか不幸なことが女主人のもとに起こったに違いないのに、源氏は。。

うち笑みたまひて、「知らばや」と 思ほしたり。

もっと彼女の事が知りたい、と微笑んだのでした。

。。

さらに惟光は「なにか分かることがないかと存じ、ちょっとした機会を作って恋の歌を贈ってみました。優れた女房がついているらしく、すぐさま返歌が来ましたよ」

。。ええっ!?

源氏はそれを聞いて「そうか。もっと言い寄れ。尋ね寄らないでは(求めて得られないのでは)物足りない気持ちになってしまう」

。。ああ、もうよく分からなくなってきました。
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何某の院の物語…『夕顔』(その3)

2017-07-04 12:09:32 | 能楽
シテが言う「何某の院」とは融の時代とは隔たった後の世に『源氏物語』に書かれ、光源氏が「上なき思ひ」。。この上なく恐ろしく悲しい思いをした夕顔急死事件の現場に来合わせたと知り、興味をかき立てられます。

ワキ「嬉しやさては昔より。名に負ふ所を見る事よ。我等も豊後の国の者。その玉鬘のゆかりとも。なして今また夕顔の。露消え給ひし世語りを。語り給へや御跡を。及びなき身も弔はん。

ワキが「玉鬘のゆかり」というのは、玉鬘が夕顔(と頭中将の)娘であり、母の死後、乳母に従って筑紫に下ったこと。。豊後ではないにしろ、九州で育ったことを、ワキが豊後の出身であるために「ゆかり」と言っているのでしょう。あえて関係を求めれば、美貌に育った玉鬘が肥後の大夫監(たゆうのげん)に求婚を強いられたとき、乳母の長男である「豊後の介」が、自分の家庭をふり捨てて乳母や玉鬘を都に逃がした事も関係しているかも。

いずれにせよワキはこの場所が『源氏物語』の「夕顔」巻の舞台であることに感慨を覚えて、シテに夕顔の物語を語り聞かせることを所望し、僧の身として亡き夕顔を弔うことを約します。。かくして複式夢幻能の常套。。すなわちワキが主人公の詳しい物語をシテから聞き、その語り手たるシテこそ実は主人公その人であることが明かされるや消え失せ、ワキはその主人公の成仏を願って弔いをし、やがてそれを感謝して主人公が後シテとして 在りし日の姿で現れる。。という図式が成立することになります。

シテ「そもそも光源氏の物語。言葉幽玄を本として。理 浅きに似たりといへども。
地謡「心菩提心を勧めて義 殊に深し。誰かは仮にも語り伝へん。
と、シテは舞台中央に着座し
シテ「中にもこの夕顔の巻は。殊に勝れてあはれなる。
地謡「情の道も浅からず。契り給ひし六條の。御息所に通ひ給ふ。よすがに寄りし中宿に。
シテ「たゞ休らひの玉鉾の。
地「便りに。立てし御車なり。


語釈を進めながら舞台進行を見てゆくために、少し本文をこま切れにしなければなりませんが。。それにしても動きが少ない能ですね。シテはワキとの問答が終わると、ようやく動き出したかと思うと、夕顔のことを語るためにすぐに着座して動かなくなってしまうのです。

『源氏物語』が「言葉幽玄を本(もと)として理浅きに似たり」だというのは、要するに叙事的ではなく叙情的な散文というような意味だろうと思いますが、古くは「優」「艶」と評されていた『源氏』が盛んに「幽玄」と評されるのは中世になってからのようで、「心菩提心を勧めて」というような中世的な表現を見るにつけ、やはり能『夕顔』は中世の作者の視点から描かれていることが窺えます。

とはいえ文章そのものは『源氏』から採っている部分が多くて、中古文学の世界を舞台に表現しようとする作者の意図が見え隠れします。『源氏』の「夕顔」巻の頃、光源氏は十七歳くらい。その当時は2歳年上の六條御息所のもとに通っていました。その六條のもとに通う「よすがに」は「ゆかりに、ついでに」という程度の意味、「中宿」は休憩場所で、「たゞ」は「ほんの」、「玉鉾」は「道」の意味(道の枕詞だったのが道そのものを表すように転じた)、「便りに」はやはり「ゆかりに」、「立てし御車」は牛車を停めることです。はあ、難解な文章だ。

それにしてもこの部分。。<クリ><サシ>と呼ばれる小段は興味深い文章ですね。『源氏物語』を題材とする能は多いと思いますが、それらの曲は『源氏』が虚構の小説であることは無視して、あたかも登場人物が実在している現実の物語として上演したり(『葵上』『住吉詣』など)、それどころか小説を離れて、主人公の幽霊が昔物語をする(『野宮』『半蔀』など)という趣向で作られています。

これは『源氏』に限らず、『平家物語』などほかの古典文学から題材を得ている能でも同じことで、基本的に舞台芸術というものは、本説を持っていても、それが虚構であるかどうかには触れずに、その物語世界を「現実」であるかのように舞台化し、その上で主人公の言葉や動作を通じて新たな解釈を付け加えてゆくものでありましょう。その意味で前述の『野宮』『半蔀』などの能も『源氏』の登場人物を現実の者として描いているわけで、『葵上』『住吉詣』などの「現在能」と本質的には替わるものではなく、その延長上に位置していると言えるでしょう。

ところが『夕顔』は、『野宮』などと同じように『源氏』の登場人物を登場させていながら、一方ではこの<クリ><サシ>で『源氏』を文学作品として捉えていて、なおかつ「夕顔」巻を「勝れてあはれ」と批評しています。ちょっと観客を煙に巻くような文言で、その後は何事もなかったように夕顔を現実に現れた人物として描いているので、少々混乱を招く表現でしょう。

この<クリ><サシ>は作者の筆が滑っただけなのか? いや、そうではないかもしれません。総じて能『夕顔』は大変難解な文章表現で、それが多く『源氏』本文の引用を巧みに能の文章として翻案してあるのが大きな特徴です。作者は『源氏』に傾倒して愛読していた様子が想像されますし、また作者が文学的に大変高い教養と才能を持っていることを窺わせます。そんな作者だからこそ、不用意にこの<クリ><サシ>を書いたとは考えにくく、あるいは『源氏』が小説であることを知っている観客の気持ちに添った一文を書き足したのか、また逆に虚構と現実との狭間にわざと観客を誘い込んで混乱させる意図があったのかもしれません。

地謡「物の文目も見ぬあたりの。小家がちなる軒の端に。咲きかゝりたる花の名も。えならず見えし夕顔の。折すごさじと徒人の。心の色は白露の。情置きける言の葉の。末をあはれと尋ね見し。閨の扇の色異に互ひに秋の契りとは。なさゞりし東雲の。道の迷ひの言の葉も。この世はかくばかり。儚かりける蜉蝣の。命懸けたる程もなく。秋の日やすく暮れ果てゝ。宵の間過ぐる故郷の松の響きも恐ろしく。

現在では京都駅がかつての八条にあるので、五条や六条は大変なにぎわいですが、かつて御所を中心とした時代の都ではこのあたりは下賎な者が多く住む僻地でした。「物の文目(あやめ)も見ぬ」とは「分別もわからない」、「小家がち」とは貧しい小さな家が建ち並ぶ様子で、『源氏』にも「いと小家がちに、 むつかしげなるわたりの、このもかのも、怪しくうちよろぼひて」と書かれています。余談ですが「何某の院」。。融の「河原院」があった場所とされている現在の「枳殻邸」は鴨川より少し西側。。鴨川と東本願寺との中間あたりにありますが、京都市内を東西に横切る「六条通」というものは現在は残っていません。ほんの短い、そして東西に正しく向いていない小路が「枳殻邸」の北側にある程度。

そんな「むつかしげなるわたり」に源氏が行ったのは、もちろん六條御息所に会うためでしたが、偶々源氏の乳母であった「大弍(だいに)の乳母(めのと)」が重い病に伏せっている見舞いのために五条の家を訪れたからで、夕顔の家はその大弍の乳母の隣家でした。
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何某の院の物語…『夕顔』(その2)

2017-07-03 01:43:37 | 能楽
シテは「山の端の。。」の歌を一之松で謡うと、次いで以下のように謡いながら舞台常座に歩み行きます。

シテ「巫山の雲は忽ちに。陽台のもとに消えやすく。湘江の雨はしばしばも。楚畔の竹を染むるとかや。

言葉の意味が難しいですね。総じて『夕顔』の詞章は難解ですが。。ここの「巫山の雲。。」というのは楚国の懐王が巫山で見た夢の中で神女と愛し合い、神女は「旦(あした)には朝雲と為り、暮には行雨と為りて、朝朝暮暮、陽台の下におらん」と王の側に寄り添うことを誓った、という故事。「湘江の雨は。。」は、古代中国の伝説的な名君・舜が亡くなったとき、妃の娥皇と女英の二人が悲しんで湘江に身を投げ、彼女たちの涙雨がかかったため、斑竹の表面には斑紋があるというお話です。

どちらも女性からのひたむきな愛情を表すお話ではありますが、『夕顔』で「巫山の雲」が「陽台のもとに消えやすく」となっているのは、源氏との愛を全うできずに死を迎えた彼女の運命の故に、「雲」を移ろいゆくものの象徴として捉えて、本来の意味とは変えて、この文章の全体の意味としては恋の破綻の悲しみを謡っていることになります。

いずれにせよシテが一之松で謡う「山の端の。。」和歌は、ワキの言う「あの屋端より。女の歌を吟ずる声の聞え候」という心でしょうし、その後「巫山の。。」と謡いながら舞台に入るのは、彼女の独白でしょうし、そうしながら、どこからともなく聞こえた歌の主が ワキの前に姿を見せた、という意味でしょう。しかし実際には橋掛リを歩んでくるシテの姿からは、家の軒で歌うという風情はわかりにくいかもしれませんね。

そこで、この場面を視覚的に表現する演出として「山ノ端之出」という小書があります。この小書のときは能の冒頭に藁屋の作物を大小前に出し、前シテはその中に入っています。ワキとワキツレは道行の終わりに脇座へ行き立居、そこにシテが「山の端の。。」と謡い出して、これを聞いたワキは作物に向き「不思議やな。。」と謡う、という趣向で、ほかにもシテが「巫山の雲は。。」をこのワキの謡のあとに謡ったり、上歌「つれなくも。。」は地謡が謡ったり、と常の演出と比べて違いはいくつかありますが、要するに「家の中から歌が聞こえてくる」というワキの言葉に視覚的に合う演出でしょう。

もっとも、シテが作物に入って登場するとなると、今度はその作物から出てくるタイミングが難しくなりますね。「山ノ端之出」ではクリで作物を出ることになっていますが、能『夕顔』は居グセの曲ですから、作物から出たシテは数歩前に出ると再び着座することになります。ただでさえ動きが少ない能ですから、少なくとも橋掛リを歩むことがない分だけでも、この小書ではさらに動きが少なくなることになりますが。。

シテは舞台常座に止まるとなおサシ、下歌、上歌を謡います。

シテ「此処は又もとより所も名も得たる。古き軒端の忍草。忍ぶ方々多き宿を。紫式部が筆の跡に。たゞ何某の院とばかり。書き置きし世は隔たれど。見しも聞きしも執心の。色をも香をも捨てざりし。
シテ「涙の雨は後の世の。障りとなれば今もなほ。
シテ「つれなくも。通ふ心の浮雲を。通ふ心の浮雲を。払ふ嵐の風の間に。真如の月も晴れよとぞ空しき空に。仰ぐなる空しき空に仰ぐなる。


「忍ぶ方々多き宿」とは。。まるで人目を忍ぶ恋をする人々がしばしば利用する邸であるかのように読めてしまいますが、この場合の「方々」は「さまざま」という意味でしょうね。「忍ぶ」を「偲ぶ」と考えれば、後にシテがこの邸が源融の「河原院」だ、と言うので、「さまざまな昔の栄華の有様が想像される場所」という解釈もできそうですが、「様々に忍ぶ恋のいわれがあった所」と読めば。。すなわち源氏と夕顔上の逢瀬とその後の夕顔の急死という、この能が描く事件が観客に最初に暗示されてるのであろうかと思います。

シテは続けて、「紫式部が”何某の院”と書いた場所ではあるけれど、それも遠い昔の話。しかし(それを実際に体験した私=夕顔=が)見聞きした、その恋の色香をも忘れることができない」と、現れた女が成仏できていない夕顔であることを暗示します。

「涙の雨。。」は、その恋の執心のために後生。。後の世に至る、その生涯となって、今も。という意味。

「つれなくも」は、「素っ気ない」という意味ではなく「変化がない」で、「今も昔のように(源氏との逢瀬を忘れられずにこの場所に)通っている自分の心が憂いに思う。そんな浮雲のような心に強い風が吹いて妄執を吹き払ってくれ、仏の悟りを表す月が現れてください、と願って虚しく空を眺めています」。。というような意味です。ああ、難解な詞章だ。。

これらの独白が終わったところでワキはシテに声を掛けます。

ワキ「いかにこれなる女性に尋ね申すべき事の候。
シテ「此方の事にて候か何事にて候ぞ。
ワキ「さてこゝをば何処と申し候ぞ。
シテ「これこそ何某の院にて候へ。
ワキ「不思議やな何某の山何某の寺は。名の上のたゞ仮初めの言の葉やらん。又それをその名に定めしやらん承りたくこそ候へ。
シテ「さればこそ初めより。むつかしげなる旅人と見えたれ。紫式部が筆の跡に。たゞ何某の院と書きて。その名をさだかに顕はさず。然れども此処は古りにし融の大臣。住み給ひにし所なるを。その世を隔てゝ光君。また夕顔の露の世に。上なき思を見給ひし。名も恐ろしき鬼の形。それもさながら苔むせる。河原の院と御覧ぜよ。


「何某の院」が源融の河原院である、ということは『源氏物語』には明記されておらず、夕顔の邸があった五條の「そのわたり近きなにがしの院」としか書かれていません。これを能『融』でも有名な「河原院」とする説は『源氏物語』の古注に拠るもので、その古注は能が大成された室町期まで遡れるようですから、能『夕顔』の作者はこのような古注の影響の下に能『夕顔』を作ったのでしょう(現在までの研究では特定するまでに至っていないので”作者不明”。。従って能『夕顔』の成立年代も確定はされていませんが。。)

河原院を作った源融は、紫式部よりは100年近く昔の人で、光源氏のモデルと考えられています。融は嵯峨天皇の皇子で臣籍降下して源姓を賜りました。頼朝などとは別系の「嵯峨源氏」で、この家系は名前が一文字であることが特徴です。歌人の「源順(みなもとのしたごう)」や、頼光の四天王と呼ばれた渡辺綱などもみな名は一字ですね。風流人だった源融の行状が光源氏のモデルとなった、というような曖昧な印象ではなく、源光という名前が嵯峨源氏を想定したものであったのはおそらく間違いのないところでしょう。

その融が作った壮大な邸宅・河原院はいまの甲子園球場の2倍近い広さがあったそうで、融の死後は維持が難しく、いくばくもなく荒廃してしまい、『今昔物語』では物の怪が住む廃墟として描かれています。紫式部が河原院の廃墟を見たのかどうかはわかりませんが、河原院は六條にあり、夕顔が住んでいた家は五條にあったという設定ですから、「そのわたり近きなにがしの院」とも符合します。重ねて言えば『源氏物語』の中で、これは夕顔巻からはずっと後のことですが、光源氏が構えた邸宅が「六條院」。。あながち『源氏物語』の古注の説が間違いとは言い切れないのかもしれません。
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何某の院の物語…『夕顔』(その1)

2017-07-01 03:22:31 | 能楽
さて毎度 ぬえが勤める能の曲について鑑賞のための見どころと、舞台進行の解説をさせて頂いております。今回の『夕顔』は詞章が難解なうえに動きが少なく、難しい能のひとつではないかと思いますが、調べるほどに人生を見つめる作者の冷徹な目が感じられて。。ぬえは『夕顔』を臈たけた「大人の能」というイメージで捉えています。こういう能もあるんだな~

さて舞台に囃子方と地謡が着座するとすぐにワキが幕を上げて登場、それを笛が「名宣笛」と呼ばれる譜を吹いて彩ります。

ワキは所謂「着流し僧」で、従僧(ワキツレ)が通常二人、ワキに引き続いて登場しますが、ワキ方福王流ではワキツレは登場せず、「一人ワキ」という場合もあるようです。

ワキ「これは豊後の国より出でたる僧にて候。さても松浦箱崎の誓も勝れたるとは申せども。なほも名高き男山に参らんと思ひ。この程都に上りて候。今日もまた立ち出で仏閣に参らばやと思ひ候。

ワキツレを従えている場合はワキは舞台中央で名乗り、ワキツレは橋掛リに下居て控えます。一人ワキの場合は通常のように舞台常座で名乗りになり、以下の謡もずっと常座で謡います。次いで「サシ」という小段をワキが謡うと、橋掛リに控えていたワキツレも立ち上がって舞台に入り、ワキと向き合って三人で「道行」を謡います。

ワキ「たづね見る都に近き名所は。まづ名も高く聞えける。雲の林の夕日影。映ろふ方は秋草の。花紫の野を分けて。
ワキ/ワキツレ「賀茂の御社伏し拝み。賀茂の御社伏し拝み。糺の森もうち過ぎて。帰る宿りは在原の。月やあらぬとかこちける。五条あたりのあばら屋の。主も知らぬ所まで。尋ね訪ひてぞ暮しける 尋ね訪ひてぞ暮しける


豊後国(いまの大分県)から石清水八幡宮参詣のために都に上った僧は、連日あちこちの寺社に詣でています。北山にほど近い雲林院、紫野。そこから東山の方面に歩いて賀茂宮、糺の森へ行き。。徒歩ではかなりな距離だと思いますが、そのうちにたどり着いたのが五條。あとの文言を見るに、ここは五條ではなく六條のはずではありますが。

ワキ「急ぎ候程に。これは早五条あたりにてありげに候。不思議やなあの屋端より。女の歌を吟ずる声の聞え候。暫く相待ち尋ねばやと思ひ候。

ワキは「急ぎ候程に」は正面。。見所に向かって謡うのですが、その後「不思議やな」は幕の方。。このあとシテが現れる方向に向かって謡います。そのところ、ワキ方下掛宝生流と高安流では「急ぎ候程に」~「ありげに候」の部分。。所謂「着きゼリフ」と呼ばれる本文を欠き、すぐに「不思議やな。。」という文句になるので、「道行」の終わりにワキとワキツレは位置を入れ替わり、ワキツレはすぐに地謡の前に行って着座し、ワキは舞台中央またはシテ柱のそばまで行って幕の方へ向かい「不思議やな。。」云々を謡ってから脇座に着座します。

ワキが着座すると、大小鼓は「アシライ」を打ち、やがて前シテが登場します。「アシライ」は大鼓と小鼓が交互に「三地」という手を打ち続けるもので、ほとんどの能の中で、たとえばシテとワキの問答や「サシ」という拍子に合わない長文の叙述の場面で彩りとして演奏され、登場音楽として使われる場合は「アシライ出し」と言われますが、例はあまり多くはありません。また「アシライ出し」で登場するのはほとんどが前シテの登場の場面で、『夕顔』のほかにはこの曲と姉妹曲のような『半蔀』、また『砧』『巴』『熊野』『草子洗小町』など。。それでも意外に人気曲がありますね。後シテの登場としては『大原御幸』が唯一の例ではないかと思いますが。。

「アシライ出し」は、ぬえは登場音楽としては人物が登場するにあたって明確な意志や性格づけが希薄なものだというイメージを持っています。ふと、いつの間にかそこに現れた、とか、茫洋とさまよい出た、といった風情。前述のように「アシライ」は問答やサシの彩りとして多用されますが、そういう時には謡われている文言の叙事的な補強というよりは、むしろ場面の雰囲気を醸成する。。言葉は悪いがBGM的な使われ方をしています。「アシライ出し」もその延長と考えられ、積極的に登場人物のキャラクターを主張する、というよりは、透明感を持ってその人物がそこに「存在」する、ということを叙情的に描写する、という音楽であろうと思います。

付言しますと、この「アシライ出し」、登場音楽でない「アシライ」では笛が参加することはないのですが、登場音楽「アシライ出し」のときにはちょっと様子が違っています。笛の流儀により、一噌流では参加しませんが、森田流は笛が彩りを添えてくださいます。ぬえは『砧』を勤めた時に思ったのですが、ここはお笛があると ぐっと引き立ちますね。もとより叙情的な登場のしかたでもあり、「アシライ」ではなく登場音楽である、という区切りがあると、演者としても出やすいということはあるのではないかと思います。

シテ「山の端の。心も知らで。行く月は。上の空にて。影や絶えなん。

登場した前シテの扮装は典型的な里女のそれで、唐織の着流し姿です。面は流儀の決まりでは若女、または深井、小面とありますが、若女よりは少し凛々しい。。増でも似合うと思います。大人の能ですから(笑)

前シテは一之松に止まると上記の詞章を謡い出します。この和歌が、そのまま『夕顔』の能の”意味”というものを体現していますね。これは夕顔上が詠んだ歌で、8月16日の夜明け、源氏が「何某の院」に夕顔を誘い出したとき、その門前で源氏が詠みかけた歌の返歌です。

一般的には「山の端」が源氏の心で、その本心も知らないままに誘われて行く夕顔が「月」と解されています。上の空で月影が消えてしまうかも。。夕顔の不安が表されているこの歌ですが、事実、この日のうちに夕顔は物の怪に襲われて落命してしまうのですよね。。

僧が聞きつけた「女の歌を吟ずる声」は、まさに死を予感したかの歌だったのです。
『源氏物語』の研究では「予感」ではありえないでしょうが、中世に作られた能『夕顔』は、当時の『源氏』の解釈の上に成り立っているわけでもありますし、また能『夕顔』の作者は この歌に夕顔の運命を読み、ひょっとしたらこの歌一首が契機になってこの能を作ったのかも。

ともあれ、この歌ひとつ取っても能『夕顔』は語句の難解が鑑賞の大きな壁ではありますね。
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