ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

脳ミソの神様のたたり

2009-03-31 11:15:20 | 雑談
昨日は実家の父の家におりまして、何やかやと手伝いなんぞをしていた ぬえですが。。

もう帰ろうかな、というときになって、家の壁一面に蔦が絡んでいるのを発見。隣家と面して外からは見にくい壁だし、たまにしかここには訪れないから気づかなかったのですが、なんだかすごい事になっています。このままじゃ家が侵略されちゃう~~

そこで壁を登り屋根によじ上って、蔦をはぎとってみました。もう、結構太い幹までできちゃって、ノコギリまで片手に。

その時です。。やっちまった。。
不注意で、金具の角に頭をぶつけてしまいました。
いや。。驚いた。あんなに流血するものなのか。すぐに救急車を呼んでもらって、病院に担ぎ込まれた ぬえ。

結局、頭を縫うことになりましたが、麻酔をしたものの、いや、痛いのなんの。。。゛(ノ><)ノ
痛み止めの薬を頂いてその日は帰宅して、今朝また病院に行きましたが、今日は舞台に出る予定があるので、お医者さまにその事情を話して。なんとか今日だけガーゼを当てることは勘弁して頂きました。

先日サイエンスカフェというところにお招き頂いて、例の通りしゃべり倒していた ぬえなワケですが、う~~ん、これは脳ミソの神様が「お前、勝手なことばっかり話しているんじゃな~い!」とお怒りになったものか。。(・_・、)

ま、肝心の脳ミソの中身は無事だったようで、記憶を司る「海馬」。。でしたっけ? を、先日サイエンスカフェで習ったばかりの ぬえは守り抜きましたっ(←よくわからん)
いや、頭をぶつけたのが豆腐の角でなかったのが まだ不幸中の幸いだったのかも知れない。

で、今日、おそるおそるお医者さまの先生に伺いました。
「あの~。。5月に後頭部から床に倒れる予定があるんですが。。」

先生いわく「あ、大丈夫ですよ。その頃なら」

大丈夫なのか。。そうなのか。。


伊豆日日新聞に載りました(なんと1面トップ!)

2009-03-30 01:49:45 | 能楽

今年も始動した狩野川脳。。じゃない、能(ぬえ家のパソコンでは「のう」とタイプすれば変換される語はずう~っと決まって「能」の1語しかなかったのに~)ですが、じつは昨年の催しのあとに、いろいろと発展がありまして。

昨年の狩野川薪能を、それも子どもたちの稽古の段階から撮影してくださった能楽写真家の山口宏子さん(先日のサイエンスカフェでもご無理をお願いして撮影して頂きました)ですが、戦乱で破壊されたカンボジアの教育を支援するNPO法人「JHP・学校をつくる会」の活動のお手伝いもされておられるそうで、昨年秋に山口さんから ぬえに相談がありました。

いわく、このNPO法人はこの秋にも新しく建設された校舎を寄贈するそうで、その贈呈式・開校式に山口さんも撮影のために参加されることになったそう。その際、参加する日本人側の関係者は何か日本文化を現地の子どもたちに見せることになったそうで、山口さんは伊豆の国市の子どもたちが能に打ち込んで稽古している写真を彼らに見せたい、という事で、そのために伊豆の国市や薪能主催の関係者から許諾を得たい、とのことでした。これは良いことだ、と、ぬえはすぐに関係者に連絡して無事に許諾を頂き、伊豆の子どもたちの写真は空を飛んでカンボジアの子どもたちの目に触れることになりました。

帰国後、山口さんから現地で撮った写真を頂きました。そこには新しい学校で嬉しそうにしている子どもたちの姿、それから能の舞台に出演している日本の子どもたちの姿に興味津々に見入る彼らの姿も。その時に山口さんから知らされたのですが、カンボジアの教育の現状は、戦争の後遺症でそれはそれは混乱を極めているそうで、校舎は日本人の厚意で建てたけれども、教師も不足しているし、そもそも教材がないのだそうです。筆記できれば何とか授業も進められる国語や算数はともかく、音楽や美術といった情操教育は壊滅に近い状態だそうで。。(・_・、) 楽器としては鍵盤ハーモニカやリコーダー。美術では絵の具や絵筆など。こういう教材は現地では調達は難しく、これもこのNPO法人が広く日本国内で寄付を呼び掛けているのだそうです。そこで、これもなにかの縁、と、伊豆の国市の子どもたちとその保護者に ぬえから寄付をお願いしてみました。

しかしやはり現実には難しい面もありまして。。まず、ぬえ自身が伊豆の国市民ではないので、誰がその楽器類を取り集める面倒を引き受けてくれるのか。それに昨年の薪能参加の子どもたちは30名近くに達していたのですが、現実には それぞれの子どもたちが属する小中学校という単位で見れば、それぞれのクラスからは たった1名しか参加していないのです。これを以て、それぞれのクラスで寄付を呼び掛けてほしい、というのは現実的ではない。こんなワケで、ぬえに対してのレスポンスはあまり芳しくなく。。

どうも打つ手を考えあぐねてしまったのですが、ところが先週行われた、今年の狩野川能のための第一回会合。。参加表明した子どもたちとの初顔合わせを前にして、ぬえに1本の電話が掛かってきました。

それはもう数年間、狩野川能に参加していて、今は中学生になった二人の教え子の ありさと明日香の二人からの電話で、いわく彼女らは、所属する大仁中学校のブラスバンド部の顧問の先生に楽器の寄贈について相談してくれたそうで、その結果 20数本に及ぶ、使われていないリコーダーが発見されたのだそうです! その寄贈の許可も彼女らが先生から取り付けてくれたそうで、これを聞いた ぬえは喜んで、これを一つのキッカケとして、広く伊豆の国市民に訴えかけることはできないか? と考えました。なんせ今は卒業シーズン。弟や妹がいないご家庭では卒業を機に、教材が不要になる千載一遇の時期なのです。

伊豆の国市観光協会を通じて新聞社に連絡を取ってもらい、なんとか記事にして頂けるようお願いしたところ、上記の初顔合わせの日に取材して頂けることとなりました。これはありがたい。そうして得られた結果がこれ!

まさか1面トップ記事になるとは思わなかったけれども。。観光協会の担当者も「韮山高架橋という巨大プロジェクトの開通式という一大イベントよりも大きな扱いでしたね~」と笑っていました(ぬえもこの橋が完成すると交通がずいぶん楽になるから心待ちにしていました~)。

これも山口さんの熱意と、伊豆の国市観光協会や伊豆日日新聞社の温かいご協力があっての実現でしょう。為せば成る。為さねば成らぬ。何事も。

JHP・学校をつくる会


「サイエンスカフェ」に出演してきました~

2009-03-29 12:17:38 | 能楽

金曜日、東北大学脳科学グローバルCOEというところの大隅典子さんにご招待を頂いて、文部科学省の「情報ひろば」ラウンジにて催された「サイエンスカフェ」に出演してまいりました~

いやホント、こういうアカデミックな場所に出演するのは初めての ぬえ。一度は打合せをさせて頂いたのですが、やはり当日になるまで、何を話してよいやら、お客さまは何を求めておられるのかわからず、心臓バクバク状態でした~。が、ぬえのこと、始まってしまえばやっぱり喋りっぱなしになりました。(;^_^A すんません、お招き頂いた身でありながら。。

さて開演になりまして、やっぱり ぬえは舞台人ですから、やはり実演を見て頂いてナンボだろうと思いまして、黒頭と面だけを着けて『弱法師』の一部を舞って、これをもとにして大隅先生と討議をする、という形にしました。『弱法師』は親に捨てられ、悲しみのあまり盲目となった境遇でありながら心は仏さまを信じて澄んでいる。そして日想観を勧められて観想しているうちに、心眼が開いたようにあたりの情景を見るようになり、歓喜のあまりあちこちと歩き廻って、通行人にぶつかって転倒、盲目の身の現実に引き戻される。。この、心眼が開いたと錯角していゆく心の変化を「イロエ」という短い舞? で表現します。



この「イロエ」が不思議で、台本上はまったく必要のない舞なんですよね。ところが、この舞は彼の心理状態の変化を感覚的にとっても雄弁に語ります。彼がだんだんと夢の世界。。というか幻想の中に埋没していく様子がよく表現される。こういうところは能の演出の優れているところだと思いますが、心理的にお客さまの心にどういう作用を引き起こすものなのか。。?? ぬえにも興味があるところです。

大隅先生も「脳がどうやって感動ということを生み出すのか」という事をスライドを駆使して説明されました。。が、脳の働きというのはまだまだ解明されていない点も多いのだそうです。なるほど、そりゃあ脳は人間の器官の中でも最も複雑なものでしょうから、なかなか全貌が解明されるまでには年月が掛かるでしょう。それでも今回は大隅先生も ぬえの活動を尊重してくださって、ぬえに歩み寄ってお話してくださったと思いますし、結果的に良い催しだったと思います。あなありがたや。

また、かなり遅い開演時刻にもかかわらず集まって下さったお客さまは、この日の話題になる能についてもよく調べておられたようで、これまた驚きでした。本当に知識欲にあふれている、というか、面について、能の演技の意味について、いや、驚くべき核心を突いた質問も出て、お答えする ぬえも興味津々。最後の方では「美」というものが人間の心の作用であるのか、それとも もともとこの世に先に存在しているものなのか、なんて話題になりました。面白いですね~。大隅先生から、質疑応答は必ず行ってほしい、とあらかじめ言われていましたが、なるほど、これほど活発に質問が出るとは ぬえも予想外で、刺激的な展開でした。

今回は ぬえも能を知って頂くには最高の機会と考えて所蔵品の面や装束、小道具類の展示をさせて頂きました。そのうえ前日あたりに思いついて展示品の解説をさせて頂いたのですが、思いつきのアイデアだったものでその開始時刻も当日になって決めたような有様で。。たまたまその時刻近くにお出でましになったお客さまだけに聞いて頂く形になってしまい、申し訳ありませんでした。

この時も東北大学の方からも展示があったのですが、それはなんと脳神経などの顕微鏡写真で、美しく輝く星空のように見える細胞組織などの写真は、企んで撮ったものではないそう! ぬえは、やっぱり美というものは生命の中にすでに存在するんではないかなあ? と考えたのでした。

終演後、面・装束類を自宅に帰してから、これまた ぬえからお願いしていたのですが、東北大学のみなさんと打ち上げ。もうすでに夜9時半を廻っていて、世間では二次会状態の時間からでしたが、まあ~、とお~~っても遅くまで ぬえが引っ張り回してお付き合いさせてしまいました~。後で知ったのですが、大隅先生は翌日にも発表がおありだったようで。。う~~む、それでも最後までお付き合い頂いた大隅先生のお気遣い。。これまた申し訳ありませんでした~ (・_・、)

そんなこんなで初めての体験だったサイエンスカフェ。ぬえにはとっても良い経験になりました。お客さまには喜んで頂けたかしらん。これが基になって、能楽堂に足を運んで頂けるお客さまが増えるといいなあ。

最後になりますが、今回お招き頂いた東北大学脳科学GCOEのみなさま、同じく主催の日本学術会議、文部科学省の関係各位、遅い時間にお集まり頂いたお客さま、そして写真撮影に快く協力してくださった山口宏子さんに心より感謝申し上げます~ m(__)m

綸子ちゃん東京デビュー!

2009-03-23 03:07:04 | 能楽
そんなわけで始動した新生・狩野川能(仮称)ですが、ご存じ! 去年の現地で ぬえが上演した能『嵐山』に、子方として抜擢して出演してもらった地元の小学生:増田綸子(ますだ・りんず)ちゃんが、この6月に同じ曲目/同じ役で、東京で催される師家の月例会「梅若研能会 6月公演」に登場致します!

これは昨年の薪能の稽古の、稽古の最終段階あたりの時期に師匠から ぬえに言われたことで、いわく「アマチュアの子どもだけど、もう稽古は大体出来上がっているの? 来年『嵐山』を東京で出そうと思っているんだけれど、せっかく一生懸命稽古しているのなら、その舞台に出してあげたらどうかな?」と、にわかには信じられないほどありがたいお申し出を頂戴致しまして。

これはすぐに綸子ちゃん本人にも伝えて、ご家族でよ~く話し合ってもらって。。綸子ちゃんもうれしそうに承諾してくれました。まあ、なんせ ぬえの教え子の東京デビュー、それも伊豆で ぬえの予想を超えた完成度を示してくれた綸子ちゃん。ぬえも嬉しくないはずがありませぬ。今回の東京での公演の『嵐山』のシテは ぬえの後輩で、ぬえは綸子ちゃんとまた一緒に舞台を勤められないことには、軽く嫉妬を覚えつつ (^◇^;)、それでもこの時は後見を勤めて、立派にお役を勤められるよう補佐に廻りたいと思います。

梅若研能会 6月公演

【日時】 2009年6月18日(木・午後2時開演)
【会場】 観世能楽堂 <東京・渋谷>

   仕舞  難 波   加藤 眞悟
       花 月クセ 梅若 久紀
       誓願寺キリ ぬえ

 能  嵐 山(あらしやま)
     前シテ(尉)
     後シテ(蔵王権現) 梅若 泰志

     前ツレ(姥)    古室 知也
     子 方(勝手明神) 増田 綸子
        (子守明神) チビぬえ
     ワ キ(勅使)   梅村 昌功
     間狂言(末社)   山本 則秀
     笛 寺井義明/小鼓(幸信吾)/大鼓 大倉慶之助/太鼓 小寺真佐人

   ~~~休憩 15分~~~

 狂言 蝸 牛(かぎゅう)
     シテ(山伏)  山本 則俊
     アド(主)   遠藤 博義
     アド(太郎冠者)山本泰太郎

能  藤 戸(ふじと)
     前シテ(漁師の母)
     後シテ(漁師) 伊藤 嘉章

     ワキ(佐々木盛綱)安田登/間狂言(下人)山本則重
     笛 小野寺竜一/小鼓 田邊恭資/大鼓 亀井広忠
     後見 梅若万佐晴/地謡 梅若万三郎ほか
                     (終演予定午後5時45分頃)

【入場料】 指定席6,500円 自由席5,000円 学生2,500円 学生団体1,800円
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

※ 自由席は割引できるかも。。です。

帰って来ました~。伊豆へ!(その1)

2009-03-22 02:53:50 | 能楽

また今年も、夏に行われる伊豆の国市の「狩野川薪能」のお稽古が始動しました。ぬえ、伊豆に帰ってきました~(#^.^#) 9年間もこの薪能に参加して、あまつさえ「子ども創作能」なんていう全国でも例を見ない画期的な演目の指導を続けてきて、ふる里を持っていない ぬえにとって、伊豆の国市は「故郷」みたいな場所です。

でもじつは昨年暮れには、予算不足という問題から、一旦は「もう今後は薪能は中止」と決定されてしまって。。このご時世だからしょうがないのかもしれませんし、ぬえはこういう事に関しては無力。。 そんなわけで ぬえはこの正月は本当に落ち込んでおりました。初詣に行っても、神仏に祈願するのはもっぱら薪能のいつの日にかの復活、ってなことばかり。

それが、年が改まってから連絡がもたらされまして、実行委員会の中でのお話し合いで、これまでの薪能の成果が認められて、限られた予算の中ではありますが、出来る限りこれまで通りの形で薪能を続けていこう、ということになったのだそうです(!!)。これからは、もう仮設舞台を建設しなければならない薪能は諦めて、伊豆長岡のホール(アクシスかつらぎ)に会場を固定するなど、いくつかの変更は仕方のないことですが、それでも催し自体は ほぼ例年通りのまま行われることになりました! ああ、神様って本当にいらっしゃるのねえ。。(・_・、)

そういうわけで始動した新生の狩野川能(仮称)。金曜日にその初顔合わせに行って参りました! 見よ、狩野川能に参加表明してくれた子どもたちの笑顔を! 今年の参加者は現在のところ小学生16名・中学生10名の合わせて26名で、何かと学校行事が忙しくなる中学生の比率がやや高いのが気にはなりますが、ほぼ昨年通りの人数が集まり、また新人さんも4人も応募してくれました!

で、この日は ある意味催しの中で一番の難問の、子ども創作能の配役を決めてきました。ここに不満があると全体の志気にも影響があるでしょうから、時間を掛けて決定したのですが、まあこれから多少の微調整は必要かもしれませんが、当面みなさん納得のいく配役に出来たと思います。

この創作能は 地元の民話を題材にした新作の創作舞台を地元の小学生が演じる、という画期的なもので、ぬえら薪能に参加する能楽師が台本を書き、これまでに大仁を舞台とした『城山(じょうやま)の大蛇』、伊豆長岡の『江間の小四郎』を上演してきましたが、今年は韮山を舞台にした新作『竜胆(りんどう)の烽火』(仮題)を上演します。

この曲は、平治の乱のあと源頼朝が流されたのがこの伊豆の韮山にある「蛭ヶ島」で、頼朝はここで北条の娘・政子と結ばれて時政を味方につけ、当地で平家に対して決起した、その物語です。竜胆というのは、史実はともかく能では源氏の家紋として扱われていますので、それを曲名に用いてみたのですが、じつは台本自体がまだまだ半分も出来ていないという未完成状態で、曲名もこの日の顔合わせ~配役決定のために、前夜 ぬえが苦し紛れにでっち上げたものだったりします。これからほかの演者と協力して、正式な曲名を含めて、台本の整備を急がなくちゃ。

そんなわけで なんとか始動した新生・狩野川能(仮称)。今年も楽しい催しになりそうです。Y(^^)



おまけ:伊豆の国市から見た富士山と菜の花。ああ、この景色にまた出会えた~。

翁の異式~父尉延命冠者(番外編。。の2)

2009-03-20 01:11:54 | 能楽
『翁』のシテ。。大夫の役を狂言方が勤める、という伝承については、まずは狂言方そのものの伝書に記されている記事がありまして、それによれば「勧進能は現在は四日であるが、かつては三日であった。現在は四日目には初日の式に返る」という、前述したのと同じ説明のほかに、注記として「三日間の三番叟にはそれぞれ替エの型がある。四日目は初日の替エを用いる。」と目新しい発言があり、さらに「かつては四日目の翁の役は狂言方が勤めた。その後はツレの役者が勤めるようになり、現在では四日間のすべてをシテ方の大夫が舞うように変化した」という記述があるのです。

狂言方が舞う翁の役。。はさておき、四日目の『翁』は大夫ではなくツレの役者が翁の役を勤める、という記事は、ほかにも江戸前期の複数の伝書類にも記されているところで、ところが同時期の実際の上演記録を見ると、ほとんどの場合は四日間とも翁の役はツレではなく大夫が勤めているので、どうやらツレが四日目の翁を舞うのは当時の能楽界のごく一部で行われていたに過ぎないようではありますが。

ツレが翁の役を勤めるのは、その『翁』が本格ではなく略式の上演であることを想像させますが、じつは伝書類の中にはシテ大夫が四日目の『翁』を勤めるときに、その場合は略式に演じることを記したものもあるのです。これがまた驚くべき記述で、いわく四日目には「舞台に登場するとき、また翁還りの際に翁の礼拝はナシ。笛も座付き笛を吹かず、すぐにヒシギを吹いて、鼓も打出の手を打たずに地を打ち、大夫は“鳴るは瀧の水”と謡い出す」とのこと。通常はツレ~千歳が謡う文句を、シテ大夫が謡い出して『翁』の上演が始まるのです。ちなみにこの場合千歳は替エの文句「興がる松かな。。」と謡うことになっているそうです。

そこで狂言方が翁を演じる、という記述に戻ると、囃子方の伝書の一つでもやはり「狂言方が翁を勤める場合は“鳴るは瀧の水”から謡い出す」とある伝書があり、さらにほかの、シテ方関係の伝書でも「四日目にはツレが翁を勤め“鳴るは瀧の水”から謡い出す」「ツレが翁を演じる場合には千歳は狂言方が勤める」などの記述はいくつも見いだすことができます。

総じて上演記録と比べると具体的な演出の細部にまで触れた演者の伝書というのは 数の上では少ないので、これらの演式が四日目の『翁』の演出のメインストリームであるかどうかは、もう一つ確証がありませんが、これらを見ても四日目の『翁』は略式の上演をする、という意識は演者の中に働いていた可能性が高く、それはやはり「モドキ」として捉えられているのではないかと想像することもできると思います。

ちなみに観世流ではこれらの『翁』にまつわる演出は、観世元章の改革と、その後の揺り戻し。。改革の廃止、さらにその際の不完全な復元作業とによって、すべて消滅してしまった、と考えるほかなかそうです。

もとより『翁』は永い歴史と、複雑な変遷の過程を経て今日に至るわけで、やはり原初の姿を目の当たりに知ることは難しいのかもしれませんですね。今回は「父尉延命冠者」の演出について考えているうちに、それにとどまらず『翁』のいろいろな姿を垣間見ることができたのは収穫だったと思いますが、反面、むしろ謎は深まってしまったようです。ん~~、恐るべし『翁』。


                            (了)

翁の異式~父尉延命冠者(番外編。。の1)

2009-03-19 01:05:45 | 能楽
今年正月に催された師家の初会で上演された『翁・父尉延命冠者』についていろいろと考えてきたところ、思いがけず長編の連載になってしまいました。前回も書きましたが、長大な歴史を持ち、源流は日本の民俗風習にまで遡らないとたどることができないかのような『翁』については謎が大きすぎて、今後の研究に期待するほかなさそうですね。。

さて、この度「父尉延命冠者」について調べているうちに、『翁』についていろいろと面白い研究成果が提出されていることがわかりました。中には驚くべきものもあったので、このたびの連載の最後に「番外編」としてご紹介させて頂こうと思います。その内容とは、まさに驚愕すべきもの。すなわち。。

◎●◎● 翁のシテを狂言方が勤めることがあったらしい ●◎●◎

観世流の『翁』の演出の中に初日之式~四日之式の別があるのは有名ですが、これは「父尉延命冠者」や「十二月往来」のような特別の演式というよりは、日数能で毎日『翁』が上演される場合、重複を避けるために(本来的に)用意された替エの演式と考えることができます。能は現在でも同じ日に上演される演目の演出に重複を嫌いますが、それは古来当然の考え方で、狂言方の三番叟にも日数能用の替エの演式が存在しています。

今日 毎年正月に『翁』を上演する会では、このたびの研能会のように、何というか、目先を変えて「父尉延命冠者」や「十二月往来」などの特殊な演式を上演する機会もあるでしょうが、反面 日数能というものが廃絶してしまった現代では、かえって初日~三日之式の上演は、そもそも上演する理由もなく、またこれらが衆目を集める異式でもないために、上演される機会は絶無に近い状態だと思います。

ところが、狂言方が勤める三番叟にも日数能に呼応して初日から数日間用の替エの演出が用意されていまして、それはシテ方の翁や千歳の演技が日を追ってもほとんど変化がなく もっぱら詞章が替わるのに比べると、詞章も演出も常の三番叟とはかなり替わったもののようです。これも翁や千歳が重複を避けるための正格の替エであって、正格を壊さない範囲内に演出に変化を持たせるのに対して、三番叟がそのモドキで、より演出の振幅を大きく取っているのだと捉えれば、むしろ自然なことなのかもしれません。

ところが、どうも往時にあっては、日数能の場合には初日を正格と考え、二日以降をそれと比して略式と考えていた様子が窺えるのです。日本人が尊んだ真・行・草の思想の現れと捉えることもできるかもしれませんし、これもまたモドキの一種なのかもしれません。

その中でも「四日目」というのが問題で、初日~三日までと比べると、翁や千歳にも詞章だけではなく演出にも、「父尉延命冠者」や「十二月往来」ほどではないにせよ、大きな変化があるのです。この現象は、もと勧進能が三日間の連続公演が原則で、その後四日間に延長された事実に由来するものであろうと考えられています。すなわち古来の三日間の式法が、実際の上演の形態の変化に対応せざるを得なくなり、四日目の式法が新たに定められたと考えられています。実際のこのあたり、古格を尊ぶ『翁』に与えた影響がすこぶる大きかったのか、どうも現存する伝書類にも四日目以降の上演の方法には種々の異なった伝承が伝えられ、伝書が書かれた家により、また時代により、一定していないきらいはあります。

オーソドックスな考え方だろうと納得できるのは「四日目には初日に返る」という記述で、これならば、さすがに三日間の『翁』の連続上演のあとでは、初日の演出を再度上演しても演出の重複は気にならないだろうと首肯はされるのですが、そんな中で驚くべき伝承がこれ、四日目の翁の役を狂言方が勤める、という記述なのです。

翁の異式~父尉延命冠者(その21)

2009-03-14 20:56:48 | 能楽
古態の『翁』に露払い・翁・三番叟・父尉・延命冠者が登場し、また往時 翁の役は能役者ではなく、専門の翁猿楽役者が演じていたことを考え合わせ、想像を逞しくすれば。。ぬえはこんな事も考えてみました。

いわく、父尉と延命冠者の役は、往古は能役者、わけても狂言方が担当していたのではないか? ということです。上記の『翁』に登場する諸役は、「主」「従」の関係にある二つの役の組み合わせになる「翁と露払い」「三番叟」「父尉と延命冠者」と大きく三つの役群に分類できます。三番叟だけは現在は一人の役者が勤める役ではありますが、前述の通り三番叟が「揉之段」を直面で勤め、「鈴之段」を黒式尉の面を掛けて勤めることを思えば、この役は二人で演じるのが本来であった可能性は否定できないと思うのです。

そして「延命冠者」の面。この面はこれまた前述の通り、能楽で使われる面としては唯一、シテ方(観世流)と狂言方(金春流の『翁』の場合)の両方が使う、非常に特殊な特徴を持った面です。これも想像ですが、こういう特徴を持った面が本来的に作られたとは考えにくいのです。そして、これもよく指摘されることですが、延命冠者の面は狂言面の「恵比寿」とそっくりですね。元々『翁』の中の登場人物であった父尉と延命冠者の役が退転し、現在の「父尉延命冠者」の演出が後世の復活もしくは新作であるならば、『翁』そのものも登場人物を勤める役者が変遷してきたことをも考え合わせれば、延命冠者の役。。そしてその役と組み合わされる父尉の役も、もともとは狂言方の役者が勤めていたとも考えられなくはないでしょう。そう言えば父尉の面も、白式尉と相通ずる相好を持ちながら、より現実的な表情でもあり、「厳父」を表現するのか、釣り上がって造られたその目も、どこか人間臭いようにも感じられます。これらの面が狂言面として本来造られたものである可能性も捨てきれないのではないでしょうか。これはあくまで想像ではありますが。。

もしも父尉・延命冠者を狂言方が勤め、そして翁・露払いを翁猿楽の役者が勤めていたと仮定するならば、それでは残った三番叟の役はいったい誰が勤めていたのか。。これはまったく補強資料がないですが、ひょっとするとシテ方。。すなわち能役者の大夫が勤めていたのかも知れません。

これも前述の、三番叟が翁のモドキ、すなわち神体の降臨の儀式を表現する翁に対して、三番叟がその儀式の直会というか、神を俗世と一体化させる効果が期待されているとするならば、翁役者に対して芸能部門を司る能役者がこれを勤めるのは至極道理なのではないかとも思えます。現在でも狂言アシライと言って、狂言の中で囃子方が演奏する場合は声を低く掛け、打つ音も軽く囃すよう定められているのですが、三番叟だけはその例外で、全力投球で演奏することになっているのも、それを演じた役者が誰か、ということと関係があるかもしれません。

ただ、その解釈では説明のつかない問題もあります。翁役者が翁と露払いを勤め、能役者が三番叟を(揉之段と鈴之段を二人の役者が分担して)勤め、そして狂言方が父尉と延命冠者を勤めたとするならば、父尉・延命冠者は翁に対してどういう意味合いがあるのか。つまり、モドキのモドキという概念が生じてしまい不自然であること。まあ、これは父尉と延命冠者が、翁とは違って仏式の役であるので、翁とは切り離して考えた方がよいのかもしれず、そうなれば翁との整合はとれるのですが。。

まあ。。資料もないことなので、これ以上の詮索は不可能かもしれません。考えれば考えるほど謎が深まる『翁』という曲。能よりもずっと以前に成立していた曲と考えられるので、歴史が長い分、現代にまで伝わる資料も乏しく、原初の姿に迫るのは難しいのかもしれません。

もひとつ宣伝。5/14「梅若研能会 5月公演」

2009-03-12 02:12:22 | 能楽
師家の月例会「梅若研能会 5月公演」にて ぬえは『殺生石 白頭』を勤めさせて頂きます。こんな派手な能があっていいの?? ってぐらいド派手な演出の連続の小書で、ぬえはもちろん初挑戦。生還できるようにがんばります~(・_・、)

梅若研能会 5月公演

【日時】 2009年5月14日(木・午後2時開演)
【会場】 観世能楽堂 <東京・渋谷>

 能  橋弁慶(はしべんけい)
     前シテ・後シテ(武蔵坊弁慶) 梅若 紀長

     子 方(牛若丸)  梅若 志長
     ト モ(弁慶の従者)中村 政裕
     間狂言(弁慶の家来)高部 恭史
     笛 内潟慶三/小鼓 森澤勇司/大鼓 柿原弘和
     後見 梅若万三郎/地謡 中村 裕ほか

能  梅 枝(うめがえ)
     前シテ(里女)
     後シテ(富士の妻) 青木 一郎

     ワキ(旅僧)森 常好/間狂言(里人)山下浩一郎
     笛 藤田次郎/小鼓 古賀裕己/大鼓 高野彰
     後見 梅若万佐晴/地謡 梅若万三郎ほか

   ~~~休憩 20分~~~

 狂言 文山賊(ふみやまだち)
     シテ(山賊) 野村 万蔵
     アド(山賊) 野村 扇丞

能  殺生石 白頭(せっしょうせき・しろがしら)
     前シテ(里女)
     後シテ(野干) ぬえ

     ワキ(玄翁道人)舘田 善博/間狂言(能力)吉住 講
     笛 寺井宏明/小鼓 森貴史/大鼓 佃良太郎/太鼓 三島 卓
     後見 中村 裕/地謡 梅若万佐晴ほか
                     (終演予定午後5時55分頃)

【入場料】 指定席6,500円 自由席5,000円 学生2,500円 学生団体1,800円
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

※ 自由席は割引できるかも。。です。

今回の上演曲は切能の中でもとくに派手な『殺生石』。那須野を旅する玄翁道人(ワキ)は、その上に差し掛かると鳥も命を失って落ちる不思議な石を発見して、これに近づこうとすると、里女(前シテ)に制止されます。この石はかつて鳥羽院に仕えた上臈・玉藻の前の執心が石と凝ってここにあるのだと語る里女は、じつはその殺生石に宿る悪心を持った魂でした。しかし玄翁があまりの悪心は却って善心となると諭すと、懺悔のために本性を現す事を約束して消え失せます。玄翁が石に向かい喝っし、杖を以て石を打つと、石は二つに割れて野干(やかん=狐に似た怪物)(後シテ)が姿を現します。野干は天竺・唐で次々に悪事を重ね、王法を傾けて来たけれども、日本で美女の姿となって鳥羽院に近づいたところ陰陽師・阿倍泰成に見抜かれてこの那須野に逃げたが、追撃した武士の矢のために命を失いました。しかしなお今も執心が殺生石となって悪事を続けることを玄翁に懺悔して、野干の姿は消え去るのでした。

なんと言っても後場の派手な型が見どころの曲ですが、じつは ぬえは『殺生石』を勤めるのはこれが2度目でして、師匠のお計らいによって今回は「白頭」の小書つきで勤めさせて頂きます。白頭。。といえば後シテの姿が「老人」のイメージとなるわけで、全体にゆっくりになるのかと思えば、『殺生石』の白頭の型は、常の場合よりもず~~っと派手になります(!)。なんせ「矢の下に射伏せられて」のところでは「朽木倒れ」があるんです(!!)。「朽木倒れ」とは別名「仏倒れ」とも言って、身体を伸ばして直立したまま、朽ち果てた木や仏像が倒れるように後方に仰向けに倒れる型のことで、ぬえはこれが初挑戦になります。。しかも、この場面では師家には替エの型はなくて、必ず「朽木倒れ」をしなければなりません(その型を別の立ち位置で行う替エの型はありますけれども。。)。まあ。。白頭をかぶっているので少しは衝撃は和らぐ、と聞かされてはいますが、脳震盪を起こさなければいいけれど。。。。゛(ノ><)ノ ヒィ

ぬえは切能は好きですけれども、これがキッカケになってキライになってしまったらどうしよう。ただ、『殺生石』は切能としても構成がシッカリ作られた曲ですね。白頭の小書で岩の作物は出さず、幕の中を岩に見立てて演技をします。あのパカッと作物を割る耳目を驚かせる演出はなくなってしまうわけですが、それを差し引いて余りある派手な型の連続。面も常の「小飛出」に代えて「野干」か「牙飛出」を使うことになっていまして、後シテの装束も法被ではなく狩衣をエモン付けに着て、総体に白式の装束を選んでも良いことになっています。これからお稽古を詰めてゆく作業をするのですが、ケガをしないように注意して。。(・_・、)

どうぞご高覧賜りたく、よろしくお願い申し上げます~ m(__)m

例によってブログで作品研究。。というか、上演曲目の考察を行いたいと考えております。併せてよろしくお願い申し上げます~~

3/27「サイエンスカフェ」に出演します~ (@_@)

2009-03-11 08:52:11 | 能楽
このところ自宅でこなす仕事が多くて更新しておりません。。すみません~ m(__)m

さてこのたび、「サイエンスカフェ」というトークイベントに出演させて頂くことになりました。

「サイエンスカフェ」とは、主催者による催しの紹介文によりますと「ヨーロッパで始まった活動とされており、飲み物を飲みながら、科学者と一般の参加者が科学に関するテーマについて気軽に語り合い、理解を深めて頂くことを目的としております。テーマについて少しでも興味をお持ちであれば、どなたでも参加できます。」。。というものだそうです。

つまり科学者が「科学をどう、社会に伝え支持を得ていくか、あるいは教育の中でより良く扱っていくか」ということをテーマにした活動の一環で、このたびの対談形式のイベントは日本学術会議と文部科学省が主催となり、実際のイベントを企画・運営されるのは「東北大学脳科学グローバルCOE」(=脳神経科学の研究グループ)という団体です。ぬえもこちらの東北大学の研究グループから出演のご依頼を頂き、対談のお相手も同グループのリーダーのお一人の、大隅典子教授(東北大学大学院医学系研究科)です。

「能楽と脳科学と」をテーマにした今回のイベントは講演会のような格式張った催しではなく、素人でも入り込めるような対談形式の「トークイベント」ですが、異分野。。それも伝統芸能の役者との対談というのがなんともユニークですね~。それで、なぜ ぬえがそのお相手に選ばれたのか?? といえば、どうもこのブログをご覧になってご興味を持たれたらしい。。

ん~~?? それにしても脳科学の研究者から「一緒にお話ししましょ?」と最初にお話を頂いた ぬえは面食らってしまいました。はじめは「脳科学」と「能楽」のシャレなのかと思った。。(;^_^A アセアセ…

しかし大隅さんは芸術分野とのコラボレーションを望んでおられ、また同氏が能楽が観客の想像力に大きく依存した表現の様式性を持ち(=なるほど、これは脳の働きですね。。)、それが600年という世界的にも希有な生命を保ち続けていることに関心を寄せられた結果なのだそうです。

でも ぬえ、アメリカの大学で授業などはしたこともありますが、まあ、学生相手ならばそれほど苦もありませんが、こういうアカデミックな場所は あまり縁がありません。。ドシャメシャな話になったらゴメンなさい。。なにを話せばいいの~~?? (・_・、)

ただ、当日はDVDで舞台の上映をしたり、ぬえ所蔵の面・装束の展示も行います。

参加費は無料ですが、定員は30名で、ウェブでのお申込が必要なようです。
ご興味のおありの方はお出ましくださいまし~m(__)m


「サイエンスカフェ」~能楽と脳科学と~

【主催】:日本学術会議、文部科学省、東北大学脳科学グローバルCOE
【期日】:3月27日(金)19:00~20:30 (関連展示は18:00~19:00)
【場所】:文部科学省情報ひろばラウンジ(旧庁舎1階)
【講師】:ぬえ
【ファシリテーター】:大隅 典子(日本学術会議第二部会員、東北大学大学院医学系研究科)
【定員】:30名
【参加費】:無料 申込が必要です→文部科学省情報ひろば「サイエンスカフェ」



翁の異式~父尉延命冠者(その20)

2009-03-05 01:19:25 | 能楽
結局、観世流の場合でいえば「父尉延命冠者」の演式は『翁』の古態を現代に顕すものではありませんでした。父尉と延命冠者が三番叟のあとに登場した古い『翁』と、江戸中期に「新作」された「父尉延命冠者」とはまったく別なものと考えるほかはないようです。

古態の『翁』は、千歳・翁がそれぞれ舞を舞ったあとに面を掛け(大夫は翁面を脱いで父尉の面に掛け替え、千歳はそれまで直面だったのが延命冠者の面を掛ける)、三番叟のあとに再び立ち上がって祈祷をし、舞を舞うものでした。それではここに登場する父尉・延命冠者とはいったい何者なのでしょうか? じつはそれも元章の新作によって割愛された古い詞章の中に明確に語られているのでした。

現行観世流の「父尉延命冠者」で千歳。。というか延命冠者の舞のあとで大夫。。父尉がはじめて立ち上がるところの詞章を再掲すればこのようになります。

父尉「あれはなぞの小冠者ぞや」地謡「釈迦牟尼仏の小冠者ぞや。生まれし所は忉利天」父尉「育つ所は花が」地謡「園ましまさば。疾くしてましませ父の尉。親子と共に連れて御祈祷申さん」

これによれば延命冠者は釈迦であって、地謡「疾くしてましませ父尉。親子と共に…」は延命冠者の発言と思われますから、父尉は釈迦の父。。浄飯王ということになります。まあ、これでも意味は通るのですが、古来の詞章では以下のようになっています。

延命冠者「御願は何処 小官者殿。釈迦牟尼仏の小官者殿。父をハ浄飯大王と白、母ハ是摩耶婦人。善学長者の娘也。生所ハ功利天、一所は花園、御座つれ父の尉、親子とも置れ御祈祷申さん」(『八帖花伝書』)

古い時代の話とて流儀の違い、時代の変遷、また年預と能役者にそれぞれ伝わる本文に、お互いに異同があるのは仕方ないとして、上掛りの代表例として掲げた上記本文によれば父尉は浄飯王にちがいなく、また母親の摩耶夫人にも言及があるのでした。

親子の縁を断ち切って修行に勤しみ、ついに成道を成し遂げた釈迦に対して、父・浄飯王が「あれはどのような若者だろう」と問うのは自然なことかもしれませんね。しかし、この曲では主役は父・浄飯王なのであり、仏陀となった釈迦牟尼がツレであるのはなんだか不思議な設定ではあります。そのためなのか、古式の『翁』でも父尉、延命冠者のそれぞれに所作はあったようですが、江戸前期には延命冠者は面は掛けても所作はなく、謡を謡うだけという上演も行われた記録が残ります。

ちなみに現行の「なぞの小冠者ぞや」の「なぞ」ですが、これは「謎」ではなくて「なでふ(なじょう)」。。すなわち「どのような」という意味でしょう。通常演じられる「四日之式」に「あれはなぞの翁ども」とあるのも同じで、観世流以外では「なじょの翁ども」と発音されるお流儀もあって、こちらの方が本意に近いと思います。

神道の儀式(と見て差し支えないでしょう)である『翁』の中に登場する浄飯王と釈迦。古態によれば翁を舞った大夫とツレが退場せずに三番叟が演じられる間を待ち、その後変身して父尉・延命冠者となる。。こうなると、いよいよ謎が深まった感のある「父尉延命冠者」ですが、ぬえはこれらの事実から一つの印象を持ちました。

翁の異式~父尉延命冠者(その19)

2009-03-04 08:28:33 | 能楽
観世元章は明和の改正において『翁』の詞章や演式にも大きな改革を施しました。

それまで観世流の『翁』は、三日間あるいは四日間に渡って興行された勧進能に対応する形で、日によって演式を少し違えて上演することは行われていましたが、元章はそれを九種の演式に拡充して、『九祝舞』という書物にまとめました。これが現在の観世流にほぼそのまま受け継がれて『翁』の様々な演式、すなわち「初日之式」「二日之式」「三日之式」「四日之式」「法会之式」「十二月往来」「父尉延命冠者」「船立合」「弓矢立合」となっています。つまり観世流に伝わる『翁』の九つの演式はすべて観世元章が整備した。。というか実際には彼が作詞した『翁』のバリエーションなのです。

『翁』の「初日之式」「二日之式」。。という日次の演式については、よく能楽入門書で「往時は勧進能が数日に渡る場合、翁は初日之式→二日之式。。というように毎日演式を替えて上演し、四日目以後は四日之式を連続して上演した」「そのため結果的に四日之式が最も上演頻度が高くなり、現在では翁を上演する場合はこの四日之式を上演する習わしとなった」などと説明されているのを目にしますが、実際はどうも少し事情が異なるらしい。

前述のように古い形の『翁』は父尉も延命冠者も必ず登場していたり、かつては専門の演者が勤めていた『翁』を能役者が勤めるようになるなど、『翁』の上演史にもかなり大きな変動があるのです。勧進能もかつては三日間の定めがあったらしいのが、その後四日間に延長され、さらに時代を経て長大な日数におよぶ勧進能も催されるように変化したようで、観世流の『翁』の日次のバリエーションも、三日間の演式の違いが最初にあり、その後四日目の演式が増補されたようで、さらに後代に日数の延長に伴ってこれらの四種のバリエーションの組み合わせを工夫して上演したもののようです。

観世元章はすでにあった四種の『翁』のバリーションをすべて新作したのですが、彼の死後 改正は旧に復され、『翁』の通常の演式も「四日之式」という名は残りながら詞章は古来のものに戻されました。

ところが通常上演される「四日之式」以外の演式は退転せずに、元章が新作したそのままの姿で『翁』の小書のような形で残されたのです。元章の新作になる能の新演出が小書で残った例は『采女』の「美奈保之伝」などほかにもたくさんありまして、観世流に能の小書が多い理由になっています。

そういうわけで『九祝舞』の中に納められたほかの『翁』のバリエーションも、『翁』の小書? として現在にまで残っているのです。たとえば「十二月往来」は奈良の興福寺や春日大社で演じられた立合能としての『翁』の演式でありながら、観世流に伝わる詞章は元章の新作ですし、「法会之式」は奈良・多武峰に伝わる独特の演式で、元章はその詞章こそ導入しているものの、その頃には多武峰での上演も絶えていて、演式を忠実に模したものではないようです。

「父尉延命冠者」も、前述のように古来は『翁』に登場していた役を復活させた演式なのですが、現在のそれは翁の代わりに父尉を登場させ、千歳の代わりに延命冠者が登場するもので、「露払(千歳)→翁→三番叟→父尉→延命冠者」という古来の『翁』の登場順とはかけ離れています。これは元章が新作した演式だからなのです。

翁の異式~父尉延命冠者(その18)

2009-03-02 03:10:54 | 能楽
さて『父尉延命冠者』について。。やっとかい。(×_×)

『翁』という曲の歴史が能と同じ。。いや、現実には能よりも長い伝統を持つように、じつは「父尉延命冠者」という演出も長い歴史を持っています。

それは現在では『翁』という曲のバリエーションとして、小書のような扱いで「父尉延命冠者」が演じられるのとは違って、本来『翁』の中に「父尉」も「延命冠者」も登場していたのだそうです。すなわち、現在の『翁』の構成が千歳→翁→三番叟となっているのに対して、往時はそのあとにさらに引き続いて延命冠者→父尉が演じられていたのです(一時は「父尉→翁→三番叟」が最古の上演形態で、その後「延命冠者→父尉→翁→三番叟」、また「露払い→翁→三番叟→延命冠者→父尉」そして「露払い→翁→三番叟」と変遷してきたと考えられてもいたが、現在では否定されている)。

かつて『翁』は能役者が演じるのではなく「年預」とよばれる専門芸能集団(寺社に専属していたわけではないらしい)によって独占されてきたことは近来有名だと思います。能役者は年預が演じる『翁』のあとに能を演じていたわけで、「儀式」としての『翁』のあとに「劇」としての能を演じた、と考えれば、能は『翁』の「モドキ」という性格を本来持っていたのかもしれません。最近 ぬえはこの「モドキ」という日本独特の考え方にとっても興味を持っています。「翁」に対する「三番叟」。『翁』に対する能の曲目。そして能に対する狂言の存在。。聖に対する俗、真・行・草という捉え方は、俗の方を決して蔑むのではなく、不可触な聖を民衆に身近なもとするための「揺り戻し」のような機構なのではないかと ぬえは感じています。神事のあとの「直会」なんてまさに そんな趣ですよね。

ともあれ「斎(いみ)」にあたる『翁』を先例を破って能役者が演じるようになったのは、どうやら観阿弥がその嚆矢であるらしいと言われていまして、この頃か、遅くとも世阿弥の時代には『翁』は現在と同じ「千歳(露払い)→翁→三番叟」という上演順になっていたようです。一方、奈良の神事能では古式を重んじて、幕末まで年預が『翁』を舞う権利を独占し続けていたようで、その『翁』も父尉、延命冠者を備えた古格のものであったようです。こちらは明治維新を機に絶えてしまったようですが。。

そんなわけで能役者が『翁』を演じるようになった頃にはすでに『翁』からは父尉も延命冠者も退転していたらしく、現在「父尉延命冠者」の演式を伝えるのが観世流と金春流だけであるのもそれが理由なのでしょう。それでは現在の「父尉延命冠者」がなぜ存在するのかというと、観世流の場合で言えば、それは江戸中期・明和の時代に活躍した15世宗家・観世元章による新作だからなのです。前述の古来の「父尉延命冠者」とは違って、観世流のそれが父尉・延命冠者が三番叟のあとに演じられるのではなく、それぞれ翁・千歳の代わりとして舞われるのも、古態を踏襲した演出でないことを物語っています。

観世元章といえば「明和の改正」と呼ばれる能の演出や台本に至るまでの大改革を押し進めた大夫として有名で、その性急さ故に 彼の死後ほとんどの改革は旧に復されたのですが、彼が発掘して復曲した多くの曲や、また彼の考案になる新演出は小書という形で現代にまで多く引き継がれています。観世流の「父尉延命冠者」は、まさに観世元章によって新作された『翁』の小書なのです。

そして観世流の『翁』には小書として「初日之式」「二日之式」「三日之式」「四日之式」「十二月往来」「父尉延命冠者」「船立合」「弓矢立合」と、数多くの替エ演出が用意されているのですが、これらはすべて観世元章によって改革されたものがそのまま現在にまで踏襲されているものだと考えられています。