ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

震災10年雑感(その11)~いろいろな上演場所①

2021-05-31 09:14:53 | 能楽の心と癒しプロジェクト
楽屋の話が出たので、震災10年を機に ぬえたちプロジェクトが被災地で慰問上演してきた場所の数々を振り返ってみました。

震災当初はご存じの通り被災した住民さんは避難所で生活しておられたので、ぬえたちの上演も必然的にそこになりました。





避難所にも大小いろいろありましたが、ぬえたちが上演したのはもっぱら公立の小中学校の体育館でした。これはその後の仮設住宅での上演でも感じた事なのですけれども、ぬえたちプロジェクトの活動は意外にスペースを必要とするので、小さな避難所や集会所を備え付けていない仮設住宅では活動は不可能でした。一人だけでフレキシブルに活動するマジシャンの慰問ボランティアさんが ぬえたちの倍は公演回数をこなし、ホテルに企画を持ち込んでディナーショーまで行っておられるのを見て羨ましく思っていました。

さて避難所は、当時活動の主な拠点であった石巻の場合震災の年の10月末に解消され、ぬえたちの活動場所は仮設住宅の集会所と仮設商店街に移りました。この時期が一番長くて、活動のほぼすべての期間は仮設住宅と仮設商店街で行ったといえます。







仮設住宅では2度、年越しイベントを企画しました。こちらは住民さんと「紅白歌合戦」を観ているところ。



仮設住宅はプレハブで割とどこも同じ造りでしたが、ときには個性的な建物もありました。一方この頃から女川や気仙沼、釜石などへ活動の場所も広がりましたが、仮設商店街はそれぞれ個性的でじつに楽しい上演場所でした!









ときには仮設商店街の「売り出しイベント」に協力させて頂くこともありまして、なんと我々のためだけに「能舞台」を作って頂いたことも!!



で、こちらは同じく商店街のイベントで、地元アイドルのショーのために用意されたステージ・トレーラーの上での上演です。さすがに面をかけたままステージによじ登るのは無理で、そういう難しい状況はしばしばあります。そういうときはお客様の前で面を掛けるところをお見せしてからの上演になります。



震災10年雑感(その10)~東北での楽屋と舞台

2021-05-29 03:53:58 | 能楽の心と癒しプロジェクト
先日の記事でプロジェクトの活動の宿泊場所についてご紹介したら、意外に興味を持ってくださった方がありましたので、それなら、ってんで、これまでに被災地での恐るべき(笑)楽屋をご紹介しましょう。

この記事のカバーに掲げた画像は ぬえが一番好きな画像で、名取市の閖上地区にある閖上中学校の教室を楽屋として使わせて頂いた時のものです。閖上地区は仙台平野の中でも仙台市若林区の荒浜と並んで海のすぐそばまで集落が迫った地区で、それだけに震災の被害も甚大でした。この閖上中学校も被災して生徒にも犠牲者が出たそうです。この画像が撮影されたのは2015年の震災の日。。3月11日ですが、中学校は震災の後立ち入り禁止になっていて、教室は津波が襲ったときのまま、床といわず壁といわず泥だらけでした。出番を待つ間にどこかに座って休むことはおろか、そこらに物を置くことすらできない中で、立ったまま面を掛け(本来なら厳禁!)寺井さんに装束を直してもらって頂いているところです。その後この校舎は解体されて、中学校は別の場所に「閖上小中学校」として再建されています。

次にご紹介するのは気仙沼の楽屋。



こちらは気仙沼で震災後いろいろな目新しい活動をされた伊藤雄一郎さんのプロジェクトのひとつ、被災した店舗で立ち上げた「WINE BAR風の広場」でのライブイベントに参加させて頂いた時の楽屋です。照明設備が完全には復旧しておらず、楽屋としてあてがわれたお部屋は真っ暗(!)。この、かろうじてある照明は ぬえが自前で持ち歩いていた携行ライトです。真っ暗な楽屋は ぬえも初めての体験。。あちこち明かりを求めながら装束の着付けをしましたっけ。なお伊藤さんは今年急逝されました。生前のご厚情にあらためて感謝を申し上げます。

次は湊小学校避難所での初期の活動の一コマです。



小学校の体育館の上階ランニングバルコニーで上演前の「お調べ」を吹く寺井宏明さん。たしかこのときは住民さんに上演を見て頂くための宣伝だ、とボランティア団体のリーダーから言われて、校庭の真ん中に椅子をひとつ置いて、そこでお一人で独奏しておられましたw

こちらは同じく湊小学校で、震災から2年後の画像です。


(撮影:加藤昌人氏)

避難所としては解消されて、しかしながら津波の被害の補修のためにいまだ学校は再開できないという宙ぶらりんの状態の体育館で、3月11日にはボランティア団体の主催で避難所の「同窓会」が開かれました。ここで上演をした ぬえたちプロジェクトの楽屋は緞帳を下した体育館のステージ上でした。



上演を終えて狭い通路をお囃子方の手を借りて楽屋に戻る ぬえ。

いまは仮設住宅でバラバラですけれども、震災当時は命からがらここに逃げ込み、そのまま長く窮屈な共同生活を耐え忍んだ仲間でもある住民さんたちが再会した瞬間でもありました。



こちらは震災6年後の3月11日。場所は先ほど書きました仙台の荒浜です。


(撮影:茅原田哲郎氏)

砂浜にあるテントが ぬえたちの楽屋で、その前で前説をする寺井さん。もちろん上演も砂浜でした。うう。。ハコビ(すり足)をする足が砂に潜っていっちゃう。。


(撮影:茅原田哲郎氏)

こちらは福島第一原発事故のために町ぐるみで埼玉県加須市の廃校・騎西高校に引っ越ししてきた双葉町避難所。



もはや通路が楽屋です。。

最後は仮設商店街での上演で、空き店舗が楽屋に指定されました。



ここまでくると平和に見えるのが不思議~

震災10年雑感(その9)~第2回目の活動と宿泊場所のこと

2021-05-26 14:18:26 | 能楽の心と癒しプロジェクト
第1回目の慰問活動から1カ月後の2011年9月、発足した「能楽の心と癒やしプロジェクト」はメンバーがそれぞれにスケジュールをやりくりして1週間ほどをかけての本格的な慰問上演活動を計画しました。。おや? 当時の記録を見ると、このときまだ団体名は決定していなかったようで「能楽の心と癒しを被災地へプロジェクト」と名乗っていたようです。自分でも忘れていましたが。。この当時は自分たちの団体の名称を決めるなどという事よりも、まず集まった能楽師だけで被災地へ能楽を届けなければ、という思いが強かったのだと思います。

実際は、このときは本当に大変な思いをしました。スケジュールはみんなで合わせて空けたのに、活動を始める直前まで受け入れしてくださる場所が見つからなかったのです。そりゃそうで、東北になんの地盤もない ぬえに知人はなく、慰問公演をする場所を紹介してもらえるあてもないままの、見切り発車でした。結局「明友館」の千葉さんや「チーム神戸」の金田さんにご紹介を頂き、また早めに東北入りした寺井さんが友人を通じて宣伝して下さり、5日間で計7回の上演を行うことができました。

東北入りした初日は、せっかく現地に到着したのに上演場所が見つからず。。仕方なく笛の寺井さんと南三陸町の堤防で海に向かって二人だけで舞囃子「融」を手向けました。それが表題の画像で、その後もプロジェクトの活動の報告によく使っている画像です。

こうして ぬえたち能楽師有志による被災地支援団体「能楽の心と癒やしプロジェクト」は手探り状態のまま活動を開始しました。それでもその後は何人かの能楽師から協力の申し出を頂いて被災地での活動にゲスト出演して頂いたり、現地のボランティア団体や住民さんたちと協力しながら、非力ながら10年間におよぶ活動を続けて来られたのは本当に幸運だと思います。もちろん、このような能楽師や現地の住民さんの協力や応援なくしては活動を続けることは不可能でした。

活動の費用を抑えるために、一番大きな出費である宿泊費をどうするかがとくに大きな課題でしたが、これも幸いにしてボランティア団体や現地の個人の厚志を頂いて、避難所である湊小学校の音楽室に宿泊したのをはじめ、ボランティア団体の事務所に泊めて頂いたり、個人宅に泊めて頂いたり。震災の年はとくに宿泊施設がなかった時期ですから大変助かりました。

なかなか興味深いと思いますので、ぬえたちプロジェクトが活動するときにどういう場所に宿泊していたのか少し紹介してみたいと思います。

最初は湊小学校避難所の音楽室。五線譜が書かれたホワイトボードには、ここに集ったボランティアさんたちから後に続く者たちへのメッセージが描かれていました。





こちらはとある街の住民ボランティアさんの住居兼事務所。まず津波の被災を受けていることと、ボランティア事務所ということは同時に支援物資の倉庫にもなるわけで。。とくに個人や少人数のボランティア団体ではこういう感じの事務所が多かったです。もちろん宿泊させて頂く方も寝袋持参。



こちらは呉服屋さんのご厚意でお店(被災して閉店中)に泊めて頂いたところです。畳の上で寝られるなんてかなり贅沢な感じでした。もちろん雑魚寝で寝袋持参。このときは総勢4人で泊めて頂きました。



こちらは避難所が解消されてからの「チーム神戸」の事務所。避難所で仲良しになった被災者さんから「自宅は被災しているけれど、自分たちで手を入れて直せるなら事務所として使って」と許可を得て独力でリフォームしたのですって。すばらしい!!



最後は仮設住宅に泊めて頂いた貴重な体験です。仮設住宅は空室があっても、それは自治体の所有物だからボランティアといえども宿泊はできませんでした。こちらは某所の住民さんが自宅再建中に空けている間だけ仮設のお部屋を宿泊所として提供してくださいました。





東日本大震災では5万戸を超える仮設住宅が建設されたそうですが、しかし仮設住宅生活は長く続きました。本来法定ではプレハブの仮設住宅の耐用年数は2年ですが、公営災害住宅の建設の遅れなどから国と自治体の協議によって仮設住宅の供用期間の延長が繰り返し行われ、現在ではほぼ解消しているものの、福島の原発事故による避難をしている双葉町などでは今年になってからさらに延長が決められています。

(続く)

震災10年雑感(その8)~「能楽の心と癒やしプロジェクト」の誕生

2021-05-17 03:36:11 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽師有志による慰問活動を終えて東京に戻り出演者で話し合い、たった1回だけだった今回の活動をさらに拡大していくことを確認し、ここに被災地支援団体としての「能楽の心と癒やしプロジェクト」が発足しました。「能楽の心と癒やしプロジェクト」という団体名を発案したのは寺井宏明さんで、同時に慰問公演の標準的なイベント名も「能楽の心と癒やしをあなたへ」と称することを提案されましたが、あとで聞いたところによればこの名称は湊小学校避難所の体育館に掲げてあった横断幕? に書かれていた言葉から取ったものだそう。



「癒し」ではなく「癒やし」と表記するのも寺井さんのこだわりで、なんでも「や」を入れるのが正しい送り仮名なのだそうで、こういう こだわりは「能楽師あるある」かも。おかげで「癒やし」をパソコンで単語登録していない ぬえは今でも「癒し」としか変換されないので、 わざわざカーソルを戻して「や」を追加しなければなりませぬw

そして狂言の大蔵千太郎さんの提案でメンバーに千太郎さんの門下の小梶直人さんが加わりプロジェクトは4人体制となりました。前回の慰問上演では千太郎さん一人では狂言が上演できなかったので、これで能も狂言も上演できることになったのです(が、千太郎さんは狂言大蔵流の宗家の嫡男のお立場の重責もあり多忙でもあるので、被災地での狂言の活動はこの翌年の正月までで事実上休止となりました)。

活動資金の調達も始め、千太郎さんが小さな狂言のチャリティイベントを開催してくださったり、東北大学の大隅典子先生のご厚意で横浜の国際学会で募金を募ったり、プロジェクトの活動を知った個人から寄付が寄せられたり。この個人の寄付はその後相当長く続いた例もありました。毎月の11日。。それは震災のあった日。。つまり犠牲者の月命日に当たる日に毎月1万円を、数年に渡り寄付してくださる方もありました。





じつは、驚異的なことではありますが、プロジェクトの活動は震災から10年経ったいまでもこのような寄付や被災地での上演の際に住民さんからねぎらいの意味で頂戴したご祝儀などで活動を続けております。

震災の翌年だと思いますが、ほかのボランティア団体と話をしていて、「え! いまだに寄付だけで活動している団体なんてほかにないですよ」と驚かれた記憶がありますが、プロジェクトはその後も9年間こうして活動を続けて来られました。

それというのも能楽師は上演する肉体と技術、そして面装束や楽器などの道具があれば活動は可能なわけで、しかしボランティアなのですからもちろん出演料をもらうのなどはもっての外で、面装束や楽器の損料ももらいません。すると出費は交通費と宿泊費、そして食費程度で済むことになって、そもそも活動自体がとってもリーズナブル。

そのうえこの当時は ぬえの車にメンバーが同乗して交代で運転して被災地に向かうことでガソリン代を節約したり、自治体から「災害支援活動」の認定をもらって高速道路の通行料を免除してもらうこともできました。宿泊も避難所やボランティア団体の事務所に雑魚寝したり個人宅に泊めて頂いたりして、ホテルなどに宿泊費を支払うことはほとんどなかったです。さらにはプロジェクトの方針として食費はメンバーの自己負担と決めていました。これは ぬえのこだわりですが、支援活動のためとして募金をお預かりした以上、そのお金は被災地支援に直接結び付く目的に費やされるべきで、酒食の区別がつかない食事の費用には消費するべきではない、と思ったからです。

これじゃーお金使わないですねー。 しかし事態が落ち着いてくるに従って ぬえたちボランティアを取り巻く状況も変わって行きました。

まず自治体によって「災害支援活動」の認定を受けると高速道路通行料が免除される制度は、震災から半年もしないうちに廃止になりました。当時はそれでも「深夜割引」を使うと通行料が半額になる制度があったので、能楽師は深夜0時に集合して徹夜で運転して被災地に向かう、なんて事もしました。

宿泊についても、震災の年の秋には避難所も解消されましたし、ボランティア団体も順次撤退して事務所が閉鎖されたり、被災地が落ちつきを取り戻すにつれて個人宅に宿泊させて頂くのが難しくなったりして、現在ではホテルに宿泊するのが普通になりました。

それでも宿泊費は5,000円を上限と取り決めたり、交通費は ぬえの車に同乗できない場合でも夜行バスを使うなど節約に心がけました。食費についても、ゲストの能楽師が参加された場合のみ楽屋弁当としてコンビニ弁当を配ったり、と節約に努めております。

震災10年雑感(その7)~湊小学校避難所で初の上演

2021-05-13 12:41:30 | 能楽の心と癒しプロジェクト
こうして ぬえの最初の被災地訪問は終わりました。

この訪問によって、「慰問」という形の支援があるのだ、と ぬえは気づかされました。泥掻きや義捐金など被災地支援にはいろいろなやり方があるでしょうが、能楽師として「慰問」という支援の方法があるのだ、それは我々にしか なしえない方法なのだ、と気づいたのは大きな収穫でした。東京に帰った ぬえはすぐに仲間の能楽師に ぬえの体験を伝え、慰問訪問に協力してもらえないかを相談しました。

その相談の相手というのは笛方森田流の寺井宏明さんと狂言方大蔵流の大蔵千太郎(現・大蔵彌太郎)さんです。彼らは ぬえが長年伊豆で指導している「伊豆の国市子ども創作能」の公演に協力頂いている方々で、ぬえがこの相談を持ちかけたのも伊豆での子どもたちの公演の楽屋でだったと記憶しています。

ちょうどその頃 ぬえが指導する「伊豆の国市子ども創作能」の公演があり、このとき来演頂いた仲間なら、と ぬえは思ったのでした。伊豆の「子ども創作能」は、出演者は地謡も含めすべて小学生で、これがプロの能楽師の囃子方の先生に合わせて謡い舞うことができる、という、国に出しても恥ずかしくないレベルを誇る ぬえが自慢の「児童能楽劇団」です。しかしあくまで素人の小学生が上演するものですし公演会場は神社の神楽殿など。こういう通常の能楽の公演とはかけ離れた不規則な上演を嫌がらずに、協力してくれる彼らならば、と協力をお願いしたのでした。

能楽での慰問公演というのは、まさに能楽が本来持っている上演の本質的な目的とも合致する行為で(この辺は ぬえが能楽に関わっている経験から導き出された確信で、これについては後日改めて詳述しようと思っています)、これを行うのは能役者としてあるべき姿だと思います。

がしかし一方、能舞台ではなく避難所となった小学校の音楽室を会場にしての上演、また出演料どころか交通費も宿泊費も出ないような活動を行う無理をお願いできるのは、よほど被災地に寄せるお気持ちがある人でなければならず、お二人には大変感謝しております。

お二方とも二つ返事で快諾くださり、早速ミーティングを重ねて被災地での慰問公演の計画を練り、石巻の湊小学校避難所の「チーム神戸」のリーダーの金田さんにも相談して、1カ月後の8月に同避難所において初めての慰問公演を行うことが決まりました。

8月15日、こうして行われたたった1日だけの第1回の慰問公演。会場は湊小学校避難所の体育館で、ここも津波に遭い泥だらけの床を掃除するところから始まりました。



雑巾がけをする千太郎さん。狂言方大蔵流宗家の嫡男という恵まれたお立場なのに、こんな汚れ作業も率先してできる方です。

このとき上演した曲は『石橋』です。ぬえと寺井さんの二人だけの上演で、千太郎さんは主に司会をして頂きました。



このとき『石橋』を上演することを選んだのは ぬえです。シテと笛だけによる『石橋』の上演は、もちろん ぬえにとっても初めての経験ですが、なにより能楽の世界で大切に扱われている曲をこうした あまりに変則的な場所で、変則的な形で上演をすることには ぬえにも葛藤がありましたが、これも ぬえがよくよく考えて選んだ曲なのです。その理由についてはまた改めて詳しくお話したいと思います。
(続く)

震災10年雑感(その6)~何もできなかった気仙沼

2021-05-10 15:29:19 | 能楽の心と癒しプロジェクト
この震災後初めての石巻訪問のときは、前泊した塩釜市のホテルだけはネットで予約できたのですが、石巻や次の目的地である気仙沼、その途中の南三陸町などの宿泊施設で営業している情報はありませんでした。なので行きあたりばったりに石巻を後にして気仙沼に向かったのです。

忘れもしない。。カーナビを頼りにはじめて走る真っ暗な夜道。対向車もほとんどないまま海岸線に沿って、所々は道路も陥没していたり、倒壊した家屋が道路の半分を塞いでいたり、自衛隊が架設した橋を渡ったり。。道路の状況に気を付けながら、ときには通行止めで延々と道を戻って迂回路に向かったり。すると突然、それまで海岸線に沿ってカーブを描いていた道路が、ぬえの目前で直角に曲がるのがライトに照らし出されました(!)。

とくに建物もないのになぜ。。と思いながらカーナビを見てみると。。そこは南三陸町の志津川の街の中心部にいつの間にか入っていたのでした。ライトに照らし出されたのは津波によって流された建物の残された基礎でした。そして車の中から外をよく見透かしてみると。。平野かと思ったその場所は一面、建物が消え去って土台ばかりが残った志津川の街でした。ひとりきりの ぬえは慄然。。

その後歌津の被害状況を見て、さすがに深夜になる前に宿泊場所をカーナビで探すことにしました。志津川や気仙沼の海に近いホテルは営業しているはずもなく。。いや、あとで知ったところでは実際には海に近くても高台にあったホテルの中には被害が比較的少ないものもあったのですが、この頃はそういう宿泊施設はほぼ例外なく避難所となっていましたから、旅行者が泊まれる状況ではありませんでした。結局 ぬえがこの夜泊まったのは30km離れた登米市のラブホ。。でもこれは正しい判断だったのです。そして翌日に気仙沼に入りました。

気仙沼を目的地に選んだのは、石巻と同じく震災の前に学校公演のために新月(にいつき)中学校に訪れたことがあったからです。とにかく宮城県の児童・生徒は挨拶が礼儀正しいな、とそのとき感じた ぬえは、震災で彼らがどうなったのか気になっていたのです。

しかし石巻のときと違って気仙沼ではボランティア団体を見つけることができず、また本当に当時の ぬえは学校公演の記憶があるだけの、被災地にとっては「よそ者」でしたので、避難所に足を向けるのもはばかられて。。結局このときは被災状況を 指をくわえて見ているだけになってしまいました。その後 気仙沼ではかなり長く活動を繰り広げることになりましたが、それは震災の年の年末、東京の「演劇倶楽部 座」の代表である壌晴彦さんから気仙沼の児童劇団「うを座」の関係者をご紹介頂いてからのことになります。

しかし。。気仙沼は驚くばかりの惨状でした。震災から3カ月も経っているというのに。







この年の暮れに「能楽の心と癒やしプロジェクト」として訪れた際に同行頂いたワキ方宝生流の野口能弘さんは「この光景。。東京に帰って説明しても信じてもらえないかもしれませんね。。」とつぶやいたのが印象的でいまでも良く覚えています。

(そうそう、話は脱線しますが、今年震災10周年がすぎてから野口さんと楽屋で話していたら、ワキ方下掛宝生流では熊本の震災の際に流儀をあげて阿蘇神社に支援物資を送るなどの活動をされたのですって。それはワキ方の役者は能『高砂』で「阿蘇の宮の神主・友成」の役を頻繁に上演しているので、震災の際に少しでもお役に立てたら、と考えられたのだそうです。まったく知らなかったですが素晴らしいことだと思います!)

結局 ぬえはこの日気仙沼の被災地区を見て、昼食に「かっぱ寿司」でカツオを食べて帰りました。カツオ。。そう、震災前の学校公演でもうひとつ気仙沼で強烈に印象に残ったあの味をもう一度と思って。。「この味じゃない。」(←当たり前)

あとで知ったことですが じつは学校公演で気仙沼を訪れたのはちょうど秋の「戻りガツオ」の時期でして、その美味しさは衝撃的でした。これは気仙沼で水揚げされてすぐ、地元のお店でしか味わえない味で、それも秋のほんの2週間程度の限られた時期しか食べられないのだそう。後日このことを気仙沼の方から聞いて、夏に「かっぱ寿司」で戻りガツオが食べられると思っていた この当時の ぬえの行動について存分に笑って頂きましたー。

こうして最初の、一人きりでの活動を終えて ぬえは東京に戻りました。行きははじめて被災地に向かうので緊張していたのか疲れは感じませんでしたが、帰りは500kmの道のりを一人で運転して、もうサービスエリアごとに休憩して眠り込むような感じで、10時間近くもかけて帰ったように思います。
(続く)

震災10年雑感(その5)~避難所で舞囃子、とプロのボランティアのこと

2021-05-08 14:09:09 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ぬえはこのテノール歌手さん。。小栗慎介さんに名刺を差し出して能楽師であることを伝え、小栗さんの慰問コンサートの前座として少しの時間を使わせて頂けないかお願いしました。小栗さんは快諾くださり、ぬえはすぐさま車に戻って、念のため用意してきた紋付に着替え、舞囃子『高砂』の音源(当時まだカセットテープだったかも。。)とラジカセを携えて音楽室に向かいました。

およそ30名ほどだったでしょうか、住民さんが集まってくださいましたが、さっきまでポロシャツ短パン姿で掃除をしていた ぬえが紋付に変わって驚かれたようでした。小栗さんのコンサートを目的に集まった方にとっては紋付姿の ぬえはさらに異質だったでしょう。こういうわけで ぬえは集まった住民さんの前で舞囃子を披露し、みなさんと一緒に『高砂』の待謡を謡い、楽しい体験でした。

ところが翌年(2012年)、なんとこの時の舞囃子を撮影してくださっていた方があることがわかり、ご厚意により映像を頂戴しました。







(撮影:kaori kashiwagiさん)

こうして石巻での初めての避難所掃除と舞囃子の披露を終えて、夜8時近くになって次の目的地・気仙沼に向かいました。当時はまだ避難所に宿泊する、なんて想像もしていなかったのです。ボランティア団体さんからご紹介を頂いて湊小学校など避難所に宿泊して活動をはじめるのは震災の年の9月からになります。そうして、そのときに初めて宿泊したのもまたこの湊小学校避難所の音楽室でした。

さてこれで震災後初めて石巻を訪れての活動が終わったわけですが、ここで避難所の清掃と舞囃子の披露までできたのは、「明友館」と「チーム神戸」、そして小栗慎介さんのそれぞれのご厚意があったおかげです。このような人々がいなければ ぬえのその後の被災地での活動はありませんでした。改めまして厚く御礼申し上げます。

これらの方々は各地から駆けつけたり、被災地の住民さんによるボランティアさんであるわけですが、ここで特筆すべきは中越地震や阪神淡路大震災で被害を受けた新潟や神戸からやって来た、いわば「プロのボランティア」がいたことです。

前述した湊小学校避難所の校庭にそびえる巨大なテント。。それは仮設の浴場だったわけですが、これは震災の被害を受けた新潟の人々が、自分たちが味わった苦労をさせまいと、次の災害に備えて用意したものでした。ぬえはそのテントに掛けられていた横断幕の文字を見て驚いた。。



そこには「がんばってください」ではなく「ありがとうございました」と書いてあったのです(!)。

そう。。自分たちの支援をしてくれた全国の人々の善意のお礼としてこの浴場は用意され、ずっと出番を待っていたのですね。。すばらしいことだと思います。

前述した「チーム神戸」も神戸の震災のあと結成された専門家で、こちらは最初は避難所で、ついで住民さんから被災家屋を借りて修繕して事務所として、このあと数年にも渡って石巻に常駐して支援活動を繰り広げておられました。

(追記)この記事を書くために調べたのですが、ぬえの恩人になるテノール歌手の小栗慎介さんは現在音楽活動を休止しておられるようです。。



(続く)

震災10年雑感(その4)~湊小学校避難所

2021-05-05 02:22:33 | 能楽の心と癒しプロジェクト
かくして ぬえは2011年6月、はじめての被災地支援活動として湊小学校避難所の清掃活動を行ったのでした。

まず1階から始めて、ホウキで廊下の埃を払いモップ掛けをし。。 避難所の1階は津波が到達したところで、さすがに震災から3カ月を経て泥が溜まっているということはありませんでしたが泥だらけなのには変わりはなく、1階はボランティア団体の事務所や支援物資の備蓄倉庫として使われていました。



掃除をしている ぬえは内弟子修業時代の経験から掃除には自信を持っていましたからかなり懸命に掃除をしていましたが、そんな ぬえとは別の次元で避難所を駆け回る20歳前後の多くのボランティア団体のメンバーさん。。大きな団体のメンバーはゼッケンを着けインカムを装着して「土嚢はあといくつある?」「急いでこちらに持ってきて!」と大忙しの様子で、ややもすると掃除をしている ぬえはその交通の妨害に。。

それでもボランティアさんたちは ぬえとすれ違うたびに「お疲れ様です!」「お掃除ありがとうございます!」なんて元気に挨拶なさるのです。これを聞いているうちに、なんだか ぬえは惨めな気分になってきました。被災者のお手伝いをしようと思って来たのに、ぬえはこんな若い子たちの活躍の下働きになるどころか邪魔にさえなっているよなあ。。

それでも1階の掃除を仕上げて、次は2階に上がります。ここで ぬえの心臓がバクバクと音を立てて緊張しました。

というのも、避難所の1階は事務所や倉庫でしたが、2階と3階は避難者の居住区になっていたのです。初めて震災の被害を受けた住民さんと間近に触れ合うことになる。。 ぬえはどういう顔で住民さんと接したら良いんだろう。。

が、実際はなごやかな雰囲気でした。すれ違う住民さんは高齢者ばかり。ぬえの顔を見ては「ご苦労様」「ありがとうねえ」なんて声をかけてくださいます。今年の3.11の日、「石巻日日(ひび)新聞」が震災翌日から市内の避難所に掲示した手書きの「壁新聞」が市内で展示されているのをはじめて見ましたが、その報道によれば震災直後 湊小学校避難所には1,300人の避難者がおられたそうです。しかし震災から3カ月を経て若い世代はすでに自宅に戻ったり、仕事がない石巻を離れて大都市に引っ越しをしたりで、この当時避難所にはそういう手段がない、いわば弱者の高齢者ばかり200人が残っていたそうです。

ぬえに掛けられる被災者からの優しいお言葉。。本当は大変なのに感謝を忘れない、これは東北のみなさんに共通している温かい人柄だなあ、と ぬえは経験的に思っていて、これはその後ずっと被災地で ぬえの活動の力にもなってきたのですけれども、その一方 ぬえが通り過ぎたあとにその後ろでは「いまは気が張っているけど、ここを出たら生きていけない。。」「そんな事を言うじゃないよ! 寂しいのはみんな一緒だよ!」というような会話も聞こえていました。

複雑な思いも抱えながら、掃除は7時間に及びまして、ちょうど2階の掃除が終わるころに「校内放送」を使ってボランティア全員に「本日の作業の終了」が告げられました。ちょうどそのとき、ぬえの掃除の終わりは「音楽室」の前だったのですが、そのとき。ぬえは蝶ネクタイを締めた若い男性と鉢合わせのように会いました。

こちらは汗まみれのポロシャツに短パンというような姿だったので、あまりに場違いな姿の差に驚いて伺ったところ、この方は小栗慎介さんというテノール歌手の方で、石巻に「慰問」のために通っているとのこと。

「慰問」。。その手があったか!
(続く)

震災10年雑感(その3)~湊小学校避難所と「チーム神戸」との出会い

2021-05-04 10:51:22 | 能楽の心と癒しプロジェクト
住民ボランティアの明友館の千葉さんのご紹介を得て ぬえはその日、湊小学校避難所でお手伝いさせて頂くことになりました。初めて避難所というところに伺うのでドキドキしましたが。。

湊小学校は石巻市の市立小学校で、いわゆる「公設」の避難所です。到着してみると校庭はどろどろにぬかるんでいました。ぬえが伺った頃にはすでに片付けられていましたが、後日 学校のプールに自動車が突っ込んでいる写真を見ることがありました。この避難所も津波の被害を受けていたのです。

そして校庭には巨大な。。サーカス小屋か? と思わせるような大きなテントが威容を現していました。詳しくはあとで触れようと思いますが、これは仮設の浴場だったのです。それから校庭に陣取る何台もの自衛隊の車両。もちろん施設の規模も違うから一概には言えないとしても、「明友館」のような私設の避難所と公設の避難所との支援体制の違いは明らかでした。



もっとも、これも後になって段々と分かってきたことですが、規模が大きく行政の支援が(比較的)整っていた公設の避難所では、それがゆえに小回りの効かないこともあったようで、たとえば200人の避難者がいて199個の物資が届けられた場合、公平の観点から物資そのものが避難者に配布されない、というようなこともあったそうです。その点、逆に私設の避難所では住民ボランティアさんが中心になって自主的に避難所を運営されていたので、そりゃ交渉は大変だったかと思いますが、避難者のニーズを取りまとめて物資を調達することがフレキシブルに行われていた印象があります。聞いたところでは、上記のような理由で大きな避難所に届けられながら避難者に配ることができず、とうとうこっそりと廃棄されそうになった支援物資を、小さな避難所のボランティアさんが駆けつけて引き取ったり。。ということもあったそうな。綱渡りのような作業が日常だったのですね。。

さて湊小学校避難所に到着した ぬえは、千葉さんにご紹介頂いて、ここで避難所を運営するボランティア団体のひとつ「チーム神戸」を訪ねました。当時、公設の避難所でも市役所が直接避難所を運営するのは職員の人数からいっても無理で、市役所とは連絡役のような方が1人程度あるだけで、実質的には民間のボランティア団体が運営を担っていました。湊小学校避難所にも「チーム神戸」のほかに「ピースボート」など大小2~3の団体が入っていたと思います。

彼らは震災直後に被災地に入った人たちで、避難所に住み込んで常駐していました。あとで知ったことですが、ピースボートのような大きな組織では各地から集まったボランティアさんが2~3カ月の交代制でここに住み込み、いわゆる「泥掻き」といわれる瓦礫の片付けなどの重作業を大人数で行っていました。また「チーム神戸」のような小さな団体では、ぬえのように各地から何か被災地の手助けをしたい、と思って駆けつけた若者がスタッフとなっていったようです。

ぬえは「チーム神戸」が設置していた「ボランティア受付」に行き、千葉さんから紹介されたことを若いスタッフさんに恐る恐る伝えました。「明友館」に先に行ったこともあり、すでに「泥掻き部隊」は出動したあとで、そのうえ恥ずかしいことに ぬえは「体力的に泥掻きは無理かもしれません。。何かそれでもお役に立てることがありますか。。?」なんて言いましたね。

その、まだ20歳台の若者は ぬえを上から下までジロジロと見て「ああ。。そうですか。。」と、ちょっと困った様子でしたが、それでも「大丈夫ですよ。それではこの避難所の中の清掃をお願いします」と言ってくれました。

忘れもしない、その後も長くお世話になる「チーム神戸」の若手スタッフの無尽洋平くんとの出会いでした。彼もまた被災地の手助けがしたくて東京から石巻に行き「チーム神戸」の一員となったボランティアさんです。そのほかに同様に京都から来た水島緑ちゃん、そしてチームリーダーで震災直後に神戸から駆けつけた金田真須美さん。「チーム神戸」とはここから長いお付き合いが始まります。
(続く)

震災10年雑感(その2)~「明友館」と千葉恵弘さんのこと

2021-05-02 00:22:50 | 能楽の心と癒しプロジェクト
「明友館」とは本来石巻市が運営する施設で、当時は「私設避難所」となっていました。私設の避難所とは、災害に備えて自治体があらかじめ指定してある公立学校や公民館などの「公設」避難所に対して、やむを得ない事情で公認がないまま設置された避難所のことです。

東日本大震災では津波に追われた多くの人々が公設の避難所にたどりつけず、とりあえず付近の安全な場所に避難した事情があり、住宅を失った人々がその後長くそこで生活し、事実上の避難所として機能することになりました。こうして自然に発生した私設の避難所は各地に数多く存在して、石巻市だけでも当時143箇所の私設避難所があったそうです。

「明友館」は石巻駅からは旧北上川の対岸にある不動町にある市民会館に隣接した建物で、背後には牧山が迫り、川を遡上した津波による被害が大きかった地区にあります。私設避難所でありながら、そこで施設の名称をそのまま用いて ぬえが石巻を訪れた当時すでに住民ボランティア団体として被災地各地の支援を広く行っておられました。支援物資の募集などの情報も盛んに発信していて、当地に知人もいない ぬえはその情報を頼りに訪問したのでした。そこでお会いした「明友館」のリーダー・千葉恵弘さんは突然の無茶な訪問者であった ぬえを諭すように、被災地の現状といま必要な活動を教えてくさいました。この当時の詳しいやりとりは当時のブログ記事で見ることができます。→

石巻市の在宅避難者支援団体『明友館』【支援希望】 - ぬえの能楽通信blog

石巻市でぬえが出会った市民団体はこちら。→石巻明友館明友館はもと市の「勤労者余暇活用センター」で、震災により被害を受けて、現在は避難所になっ...

石巻市の在宅避難者支援団体『明友館』【支援希望】 - ぬえの能楽通信blog

 


そうして千葉さんに東京から積んできた野菜を受け取って頂き、また避難所でのボランティア作業を紹介頂いて、はじめて湊小学校避難所でボランティア活動をしたのでした。

「明友館」はその後 ぬえたち能楽師有志が被災地支援団体「能楽の心と癒やしプロジェクト」を立ち上げてからも、石巻市内の避難所や仮設住宅での活動場所をご紹介頂いたり、千葉さんとは長くおつきあいをさせて頂き、ぬえたちプロジェクトの活動に大きなご協力とご支援を頂きました。

ちなみに千葉さんらの団体としての「明友館」はその後湊小学校の向かいにあるやはり市営の総合福祉会館「みなと荘」に拠点を移して、ぬえたちもそこに宿泊させて頂いたり、プロジェクトの活動で相変わらずのお世話になっておりましたが、現在は団体としての「明友館」の活動は休止して千葉さんが個人として支援活動を続けておられるようです。また施設としての「明友館」は現在はないようで、「みなと荘」は2015年に元の場所の少し南の八幡町に「湊こども園」などとの複合的な施設として新築されました。湊小学校向かいの旧「みなと荘」の建物は現在も残っていて、石巻市の社会福祉協議会が入居しているようです。

今年の3月11日に石巻に行ったときは南浜の被災地区に広大な震災メモリアルの公園。。「石巻南浜津波復興祈念公園」が整備され完成間近だったのを見て、日々に変わっていく石巻の姿を驚きをもって見ました。

石巻南浜津波復興祈念公園

震災当時、このあたりは壊れた家屋の残骸が無残な姿をさらし、何かを探す人のほかには日本各地から集まったパトカーが巡回しているのを見るだけでした。





こうした中「明友館」のように、みずからも被災しながらも自治体や自衛隊からの救援が始まるより以前に自分たちで立ち上がって被災者支援をはじめた「住民ボランティア」が数多くあったのです。
(続く)