【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

ヨーロッパ史

2019-12-17 07:19:21 | Weblog

 高校で世界史は習いましたが、私は苦手でした。覚えることも多いし、なにしろ「地理」と連動させないと理解できないことが多かったものですから。いや、理解せずに丸暗記すれば良かったのでしょうが、私はそういった学習は嫌いだったのです。19世紀のヨーロッパも複雑ですね。フランス革命とナポレオン戦争があまりに強烈なものですから、その後の1世紀はほとんど私の記憶に残っていません。そこで“補完"するために、ちょっと読んでみることにしました。

【ただいま読書中】『フランツ・ヨーゼフ ──ハプスブルク「最後」の皇帝』江村洋 著、 東京書籍、1994年、2800円(税別)

 おやおや、東京書籍と言ったら、私が習った世界史の教科書を出していたところじゃないかな。
 1835年フランツ帝薨去に伴い、宰相メッテルニヒの強い推挙で戴冠した長男フェルディナントは「温和な皇帝」と呼ばれました。これはつまり「蒲柳の質で病弱で、政治にも後継者づくりにも期待できない」という意味です。ちなみに次男のフランツ・カールは凡庸で政治にはまったく関心を示さない人でした。しかしフランツ・カールの妻ゾフィーは意欲満々で、自分が産んだ王子フランツ・ヨーゼフに皇位継承の期待をします。過剰なくらいたっぷりと。メッテルニヒの厳しい締めつけで、帝国内は平穏に見えましたが、火種はぶすぶすと言っていました。たとえばハンガリー、イタリアではけっこう公然と反オーストリア感情が渦巻いていました。ボヘミアでもドイツ人支配を嫌ったスラブ民族の独立運動が行われていました。その火種を大きくあおったのが、1848年パリで発生した2月革命です。民衆は暴動を起こし、警察長官の更迭とメッテルニヒ打倒とフェルディナント帝の退位(フランツ・ヨーゼフ大公の即位)を要求します。フランツ・ヨーゼフはまだ未熟な未成年、政府は時間稼ぎに出ます。メッテルニヒはイギリスに亡命、検閲制度は廃止・出版の自由が宣言されます。フランツ・ヨーゼフはラデツキー将軍(「ラデツキー行進曲」の人。作曲は1848年ですが、この曲で讃えられたラデツキーの勝利は1813年のナポレオン軍を相手としたライプチヒ会戦でのものです)が苦戦しているイタリア戦線へ。かろうじて優勢な敵軍を退けミラノを一時奪還しますが、帝都の方はもっと深刻な状況に。労働者たちは普通選挙法などを要求して王宮前広場に集結。皇帝一家はチロル州に避難します。首都と違って田舎は皇帝を歓迎します。情勢が落ちついたように見えたので都に戻るとまた不穏に。皇帝たちはこんどはモラヴィア(チェコ)に避難。この行ったり来たりが事態をさらに悪くします。「今の皇帝では保たない」と政府首脳は判断し、皇帝の退位とフランツ・ヨーゼフの即位を決定します。18歳の新皇帝が選んだモットーは「一致団結」。つまりオーストリア帝国はバラバラだった、ということです。
 ハンガリーの反乱鎮圧のためにロシアに支援を要請、ニコライ一世は大喜びで出兵します。いや、オーストリアの内憂は取りあえず押さえたにしても、外患を自ら引き込んでいません? 以後クリミア戦争までロシアはヨーロッパの自由主義弾圧の「憲兵」として機能するようになりました。
 1850年代には「ドイツ」が、オーストリア帝国の一部になるか、(オーストリア抜きの)「ドイツ」として統一されるか、の問題が大きくなります。
 ロシアは不凍港を求めて弱っているトルコに侵入。オーストリアは中立を宣言。ロシアを警戒する英仏はトルコの味方に。クリミア戦争の勃発です。プロイセン国王はオーストリアに「中立を保て」と忠告しますが、これはロシアとオーストリアの仲を裂いてプロイセンが主導するドイツ統一を実現する腹でした。そしてその狙いは現実の物となります。クリミア戦争で参戦しなかったのにオーストリアは国境警備で6億グルデンを出費し、ロシアからは「裏切り者」と怨まれ、英仏独伊からは軽蔑されることになったのです。この国際的孤立が、オーストリア帝国の滅亡を導くことにもなります。1866年に普墺戦争でドイツに敗退、独立を求めるハンガリーとの二重帝国成立。これによってオーストリアの「国家」としての枠組みが変質してしまいます。外では負け続け、中ではマジャール人の自治を認めざるを得ない……オーストリア人はやりきれない挫折感を味わっていました。さらに普仏戦争でオーストリアの期待と逆にフランスはもろくも敗戦。浮かれたプロイセンのヴィルヘルム一世はドイツ帝国の樹立を宣言し、あろうことかヴェルサイユ宮殿で戴冠式を挙行します。これはフランス人にとてつもなく深い恨みの感情を抱かせることになりました。その感情的反発を恐れたドイツは、以後「反フランスの同盟国」を求め続けることになります。喜ぶのは良いのですが、浮かれすぎてはいけない、ということでしょう。
 なんともややこしい世界情勢の中、没落しつつある帝国の皇帝として、いかに「現状」を長引かせるか、が最大の職責となるのは、なんとも不幸な立場だと思います。徳川慶喜も似た立場でしたが、彼の場合は期間が短かったけれど、フランツ・ヨーゼフは在位68年。苦痛の68年。長男は心中し、妻は暗殺され、帝位継承者に指名した甥は貴賤結婚を望んでフランツ・ヨーゼフの反対を押し切って結婚を強行、さらに彼の暗殺から第一次世界大戦。いやもう、勘弁してくれ、です。そして「フランツ・ヨーゼフの不幸」はそのまま「オーストリア帝国の不幸」にそのまま重なっているのです。つまり19世紀は「オーストリア帝国没落の1世紀」だったのでした。




コメントを投稿