どうして「水」の“肩”に「、」がついたら「氷」になるんでしょうねえ。その「、」を頭に持ち上げて首を曲げたら「永」になるわけも私にはよくわかりませんし、それにさらに水の“仲間”の「氵」をくっつけたら「泳」ぎ始めてしまうのですから、「水」って本当に変幻自在な存在なのでしょうね。
【ただいま読書中】『水からの伝言』江本勝・IHM総合研究所、波動教育社、1999年、2667円(税別)
「水に『きれいなことば』を見せて凍らせたらきれいな結晶ができ、『汚い言葉』を見せたら汚い結晶ができる」と主張している本がある、と噂には聞いていましたが、やっと現物にお目にかかれました。
その前に「結晶」について最低限の確認。水を凍らせてできる「結晶」は、たとえば雪や霜では「核」になる不純物を中心に形成されます。そしてその結晶過程は複雑で、ちょっとした条件の差で出来上がる結晶は様々な形になります。「天からの手紙」である「雪の結晶」が本当に様々な形になっていることは皆さんご存じですよね。
で、本を開いてみたのですが、これは、ある意味楽しめる本ではあります。完全なエセ科学の本として、ですが。
まずは「科学」のお話。何かを比較対照実験する場合に大切なのは、「実験手法を統一する」ことです。サンプルによって実験のやり方を変えたら「きちんとした比較」になりませんから。また「確率」も無視してはいけません。データには必ずバラツキがありますから、十分な数のサンプルを検査した上で「きれいな結晶が○%」「汚い結晶が×%」などと実験ノートに書く必要があります。さらに「きれいな結晶」「きたない結晶」と評価することばの中身を先に定義しておく必要もあります。そして実験そのものは「ダブル・ブラインド」でおこなう必要もあります。「この水はきれいな結晶が出るに違いない」と思って調べたら、人間は観察にバイアスがかかって“そういうもの”を探してしまいますから、自分が何を見ているのかを知らされずに結晶を見つめて評価したら、公正な結果が出やすくなります。
ところが本書ではそういった「手順」は一切無視されています。それどころか「水道水はシャーレに入れて凍らせる」「ヒーリングミュージックを“聞かせる”場合はボトルに入れて凍らせる前にボトルをよく叩く」と明確に実験そのものを別のやり方でやって、できた結晶は「きれい」「きたない」で同じように評価しています。音楽を聴かせた後に瓶を叩けば、結晶生成に大きな影響が出るのは当然だと私は思うんですけどね(もし瓶を叩くのと叩かないのとで変化があるのだったら、結晶に影響を与えたのは音楽ではなくて叩いた振動ということになるでしょう)。
さらに言語的にも問題が。「きれいなことば」って、何でしょう? たとえば「愛」は「きれいなことば」に分類できそうですが「盲愛」「溺愛」はあまり良い響きではありませんし、「純愛」は単語だけ見たら「とてもきれい」な雰囲気ですが「ストーカーがそれを口にしながら被害者を殺した」場合には「とてもきれい」とは言いにくくなります。つまり「ことばの意味」は多義的で文脈に依存しますから、単語だけを水に“見せる”ことに私は何の意味も感じません。
本書は「科学」や「言語学」とは無関係な、「心理学」の話になるのかもしれません。人は信じたいものを信じる、ということの実証実験です。
もちろん「汚い言葉」を使うことを私は推奨はしません。ですから「皆さん、きれいな心で、きれいな言葉を使って生きていきましょうね」という主張は否定しません。そこに科学を持ち込まないでくれ、と言いたいだけです。もしどうしても「科学の文脈」で語りたいのでしたら、私は公開実験を提案します。100くらい水のサンプルを揃えて凍らせて、どの水かを知らせずに信者の人に「きれい」「汚い」を判定してもらってから「実はこのサンプルはどこそこの水で、きれいな言葉を張っていたものです」とか封筒をオープンしたらわかる、というやり方です。本書での主張が「絶対的に正しい」ものなら、百発百中になるはずですよね?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます