【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

雨傘をさす理由

2015-12-04 07:41:13 | Weblog

 雨が降ったら私は(持っていたら)必ず自動的に傘を差しますが、なぜ雨に濡れたらいけないんでしょう。冬に遭難しているときに冷たい雨に濡れたら死ぬ危険がありますが、都会だったらまずそんなことは考えられません。どんな短時間でも濡れないことを選択するとは、もしかして私は「快不快」で自動的に動いているのかな?

【ただいま読書中】『「スイス諜報網」の日米終戦工作 ──ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか』有馬哲夫 著、 新潮社(新潮選書)、2015年、1400円(税別)

 第二次世界大戦末期、中立国、特にスイスで終戦工作がおこなわれていました。これまでの通説ではその日本の努力は不首尾に終わった、とされていましたが、著者は、これまでのアメリカの一次資料に加えて、イギリス・スイス・日本の一次資料を使用して、スイスでの日米のトップ間のコミュニケーション成立によってポツダム宣言が受託された、としています。「相手がどのような存在でどのようなことを考えているのか」を根拠なしに想像するのはただの「妄想」ですが、コミュニケーションによって確認しながらの想像ならそれは「理解」につながります。スイスでの終戦工作は、とても不十分な理解ではありましたが、妄想ではなくて理解をベースにした工作だった、と著者は考えています。
 アメリカは無条件降伏以外は認めない、としていて、その情報を日本外務省は中立国の公使館から得ていました。日本としては、国体護持は譲れない、となんとかその一点に絞っての交渉を考えます。5月14日(当時中立国の)ソ連を仲介に終戦工作を、と長文の電報が打たれます。6月8日には内大臣木戸幸一が「時局収拾ノ対策試案」を天皇に提出。戦争を終わらせる気がしっかりあります。
 そうそう、6月5日ベルン海軍武官室発の電報には、ヤルタ会議の情報(8月にソ連が参戦)がありました。つまりソ連参戦もすでに日本は知っていたのです(そして暗号解読で、日本がそれを知っていることをアメリカも知っていました)。それでも日本はソ連に終戦工作を依頼しなければならないのは、辛いですねえ。
 ここで著者は1943年に戻ります。ドイツで武器などを手広く商売していたハックは、ナチスに非協力的だったためにらまれて投獄されそうな所を日本海軍に救われてスイスに亡命していました。ハックは日本の駐在武官や朝日新聞の記者にアメリカとの繋がりを作るように説いていました。そこにOSS支局長としてダレスが赴任。その手足となって働くアメリカ国籍のユダヤ人ゲフェルニッツは、その父が大学でハックを教えていた緣で、アメリカと日本がつながることになります。そこに横浜正金銀行や国際決済銀行もからんでいるのが目を引きます。ただ43年はまだ戦争の帰趨は明らかではなく、和平交渉はおこなわれません。ただダレスは私信で、スイスが絶好の「極東の観測ポイント」であると述べています。
 ダレスにはまず「北イタリア駐留ドイツ軍の降伏交渉」という大仕事がありました。しかしダレスはその情報を大統領に上げ、その結果軍やソ連から横やりが入って降伏は2箇月も遅れてしまいました。ダレスは「秘密工作は秘密厳守」という教訓を得ます。さらにローズヴェルト大統領が死に、ダレスは、というかOSSは打撃を受けます。ローズヴェルトはOSSの後ろ盾でしたが、後を継いだトルーマンはOSSに反感を持っていたのです。ダレスなど共和党保守派は、戦後日本には共産主義の防波堤として機能してもらいたいから、天皇制は残して良いと考えていました。しかし民主党のトルーマンは無条件降伏以外認めません。さらに原爆開発とソ連の対日参戦という大きなテーマもあります。このへんで、内外をにらんでの複雑な「政治」が展開します。どの条件からクリアするかで終戦後の世界の形が違ってきます。アメリカにとっては「戦争を終わらせること」ではなくて「どのように対日戦争を終わらせたらその後の対ソ連を有利な態勢に持ち込めるか」が重要なテーマだったのです。
 5月31日ポルトガル公使館の井上一等書記官がOSS局員に「無条件降伏という表現を使わない限り、降伏の条件はあまり重要ではない(=天皇制存置は絶対条件ではない)」と述べたインテリジェンスがトルーマン大統領に届けられます。アメリカ政府は色めき立ちますが、結局この話は立ち消えになりました。
 5月28日ダレスはスイスを去りワシントンで国務次官グルー(かつての駐日大使)の終戦工作に参加しました。しかしこれはトルーマンの許可を取っての行動ではありませんでした。アメリカ国内で複雑な折衝がおこなわれ、ポツダム会議に向かって(日本ではなくて)ソ連に対してどのような条件をのませるかの決断がおこなわれます。そしてスイスでは、様々な人を介して日米のトップレベル(つまり、天皇とアメリカ大統領)をつなぐチャンネルが機能していました。
 日本がソ連に和平交渉仲介を依頼していることは、連合国の間では公然の秘密でした。7月17日日本は「絶対に無条件降伏はしない」と決定。その情報はすぐにトルーマンの元にもたらされます。そこにトルーマンが「天皇制存置」を提案するのは明らかに弱腰の態度になります。当然トルーマンの選択肢は「無条件降伏」だけに、そして原爆使用に限定されてしまいます。さらに原爆目標として、京都を破壊したら日本人の憎悪は根深くなるから別の都市を選択、ソ連が満州に侵攻したら憎悪がソ連に向かうからその分アメリカが受けいれられやすくなる、というスティムソンの予想も紹介されます。
 7月26日ポツダム宣言。これが「我等の条件は左の如し」で始まっていることから、鈴木首相と東郷外相は「無条件降伏ではない」と喜びます。しかし、スイス経由の情報や対日短波ラジオ放送の「ザカライアス放送」の情報を持たない人(特に軍部の人間)は、別の捉え方をしていました。鈴木は軍の要求に屈し「ポツダム宣言を黙殺」と発表します。スイスの日本人たちはポツダム宣言の真意を求め、「軍だけが無条件降伏、天皇制は存置される」という確信を得ます。その情報は再度日本に送られました。
 御前会議は真っ二つに割れます。スイス情報とザカライアス放送を知っている人間は「皇室存続」だけを条件としますが、情報を知らない人たちは「皇室存続」だけではなくて「日本軍は自主的に復員」「戦争犯罪人は日本側が裁判」「占領はなし」と次々条件をつけます。相手が条件をつけたのだからそれは相手が弱みを持っている証拠。だったらこの際どんどん要求をしよう、という態度です。そして、議事進行を司る鈴木首相は、優柔不断。ついに天皇の聖断でポツダム宣言受託が決定されます。
 その情報を暗号解読で知ったアメリカでも議論が起きます。原爆使用でアメリカの立場は強くなりました。それなのにここで妥協するのか徹底的に日本を叩こう、という強硬派が議論をリードします。しかし最後にトルーマン大統領が妥協して、「天皇が武装解除の命令をする」という形で天皇制存置を示します。
 もしも天皇にまでスイスからの情報が届いていなかったら、一体どうなっただろう、と私は思います。もしかしたら御前会議の紛糾はそのまま「弱腰の人間」の粛清になり、戦争はさらに長引いていたのではないか、と。「インテリジェンス(情報)」は重要ですねえ。そもそもインテリジェンスが十分あったら、戦争にはならなかったのかもしれませんが。



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