【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

お袋の味

2018-06-24 07:31:08 | Weblog

 「お袋をばらして食べたときの味」の意味、ではないですよね?

【ただいま読書中】『大衆めし激動の戦後史 ──「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』遠藤哲夫 著、 筑摩書房(ちくま新書)、2013年、760円(税別)

 まず登場するのが「クックレス食品」。インスタントや冷凍食品など、調理をせずに(あるいはほとんど調理をせずに)食べることができる「製品」としての食品が1960年代から日本に普及し始めました。食品加工技術、添加物、容器などの技術革新によって様々な「製品」が工場で作られるようになります。家庭には「ダイニングキッチン」という「洋風の台所」が普及。社会には外食産業が。「新しいライフスタイル」としてファーストフード店やファミリーレストランがどんどん増えますが、それとは違った形で、大衆食堂も増えていました。理由は、地方から働きに出てきた独身者の食事提供。
 「米余り」と「食糧自給率低下」が同時進行し、「米食低脳論」と「米食礼賛」とが“議論"をするようになります。著者はここで「日本の伝統食って、何?」とぽつりと言います。だって「白米の飯」を日本の庶民が腹一杯食べられるようになったのは、高度成長期以後のことなのですから。
 「一億総中流」という言葉がありましたが、著者は「中流気分」と見ています。実態も明確な意識も欠いた「なんとなく中流」。「中流の食事」は70年代にはクリームコロッケ、海老フライ、外食のハンバーグ、ハンバーガー、ポテトフライ。それが80年代には、ワインやナチュラルチーズ。そういえばグルメブームも80年代でしたね。
 「フランス料理」というのは日本人にとっては「レストランで出る料理」ですが、フランス人がふつう家庭で食べているのは別のものではないだろうか、という疑いを私は持ったことがあります。で、「日本料理」は「料理屋料理」に過ぎない、と本書では主張されています。たまに料理屋で食べる「ごちそう」は確かに家庭料理とはまったく別物です。で、この「二重構造」によって、「日本料理」は「西洋料理」「中華料理」「グルメ」などに簡単に屈服してしまった、というのが著者の見解です。
 カレーがあっという間に日本中に普及したのに、野菜炒めの普及が遅れたのはなぜか、の考察もなかなか面白い。ハード(台所では薪や炭を使用)とソフト(「汁かけ飯」「炒め煮」「水煮」の伝統)の両方が相まっている、と著者は考えています。私自身は子供時代から台所の「火」はガス(か電気)しか知りませんが、お袋は薪で育っていてその話を聞かされていたから、著者の主張にはあっさり納得してしまいます。それにしても「きんぴらごぼうと野菜炒めの、料理技法の類似と、体系の断絶」に関するくそ真面目な議論には、私は頭がくらくらします。また、食糧自給率の低下だけではなくて、台所の「火(=ガスや石油)」もまた輸入に頼っていることの指摘を「野菜炒めを巡る議論」の中でさりげなくされると、私は「野菜炒めについてももっと真面目に考えるべきか」などとつい思ってしまいます。著者の術中にはまってしまったかな?
 著者は「料亭の一流の料理人の『日本料理』」ではなくて「普通人がありふれたものを美味しく食べる」ことの重要性を力説します。それこそが「豊かな食生活」だ、と。
 本書のキーワードは「日本料理」ではなくて「生活料理」です。真面目に考えたらとんでもないことになりそうな難解なテーマですが、美味いものでも食いながら、ぼちぼちと生活をしていくのが肝腎、ということかな。




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