老人は、テーブルの上に瓶を数本並べ、そのうちの一本から、白い月光水を碗に汲み、そっと、舌を浸してみました。
「ほ、これは苦い。まるで舌がしびれるようだ」
老人は目を閉じて、月光水を少し口に含み、その味と香りをしばし口中にころがしながら、目の奥に感じる魂の苦いさだめを深く読みとり、のどに落とすと、全身に染み透るような月光の愛を吸収し、口からかすかな白い煙を吐きました。
「ずいぶん深い地獄のようですね。いったいどこの月光なのです?」傍らから白いオウムが顔を出し、瓶に貼られたラベルを読みました。「虚無の渚…?」
老人は口を布でふきながら答えました。「ああ、そこはずいぶんと深い。虚無と名付けられた黒い音だけが存在する海に、白い渚があり、一人の罪びとがそこに住んでいる。彼は昔、高名な魔法学者だったが、ある日世界の終末に興味を持ち、世界を破壊に導く魔法を組んでしまい、実際に行ってしまった。彼は呪文を唱えてはみたが、何も起こらなかった。だがその次の日、彼の前にいないはずのもうひとりの自分が現れ、なんと魔法で彼の魂生のすべてを破壊してしまった。彼はそれまで生きてきた自分のすべてを失い、そして虚無と名付けられた海の渚に落ち、そこに住まねばならなくなった。罪びとは深く後悔しているようだが、その魔法の効力が無効になるまでは、そこに住まねばならない。それは永遠に近い年月だ」
オウムは目をぱちぱちさせながら言いました。「そんな地獄など聞いたこともありません。存在の世界に虚無が存在するなんてあるのですか?」
「そんなものありはしない。ただ、彼は世界を終りに導こうとしたので、世界の存在しない虚無というところに落ちねばならなかったのだ。それゆえに、虚無の海というものが、この世界にできてしまったのだ」
オウムは感心したように、「神の御業とは、摩訶不思議なものですね」と言いました。
すると老人は思い出したように、言いました。
「虚無といえば、もうひとつ、面白いところがある。今日はそこに行ってみよう」
老人は書棚から本を取り出し、それをパラパラとめくりました。すると、ある一ページが青い光を放ち、老人はそこを開きました。「これだ。『百神の憂い』」老人は文字を読み上げると、書棚の横にある、天井からつり下がった赤い紐をひっぱりました。すると、家ががくりとゆれ、ひゅうと音をたてて、エレベーターのようにどんどん下に落ちてゆきました。オウムは翼をばたつかせて、テーブルの端につかまりました。
やがて家はゆっくりとスピードを落とし、ことりと音をたてて、止まりました。同時に部屋の窓がばたんと開き、その向こうに、山々と平原に半分ずつ塗り分けられた不思議な風景が広がりました。オウムは窓辺に飛びつき、闇空に浮かぶ月を見上げました。その月は、まるですりガラスの向こうに張られた白い紙のようにかすみ、何ともそっけなく、薄っぺらな感じがしました。風景は真ん中の一直線で分たれ、左にはどこまでも広がる土の平原が、右にはたくさんの岩山の群れがありました。
「さてどこだろう?」老人は言いながら、窓枠を押しました。するとカメラが回るように風景が移動し、やがて老人は、岩山の一つに一人の男の姿を見つけました。「いた、彼だ」。老人は窓枠を押しながら、少しずつ窓の風景を男の方に近寄せて行きました。近くから見ると、男は太い縄でプロメテウスのように岩に縛り付けられていました。老人は縛られて岩にぶら下がった格好になっている男の、うつむいた顔を注意深く眺め、その目が黒くつぶされていることを確かめました。
「変わった服装だな。でも一体なぜ彼は縛りつけられているのです?」オウムが問うと、老人は答えました。「縛りつけられているのではない、あれは、山を背負っているのだ」「山を?背負って?」「ああ、彼は、ああして山を背負い、ここにある百の岩山をすべて、向こうの平原に運ばねばならないのだよ」オウムはまた目をぱちくりさせました。「岩山を背負って運ぶなど、人間にできるはずがありません」老人は、「そう、たぶん、永遠にね」と答え、書物に目を落とし、「百神の憂い」の項を読み上げ始めました。
「…三万年の昔、ロセツカという地方に、百神の国という小さいが平和で豊かな国があった。そこは百神の愛が守る国と言われ、人々は神殿に百柱の神の石像を並べ、篤く信仰していた。しかし、一人の無法者がいた。彼は百神の愛を信じず、愛よりも悪が強いと信じていた。なぜなら悪には盗み、殺し、侮辱するなどして、他人に勝つことができたが、愛にはそれができなかったからだ。
そこで彼はある夜、神殿に忍び込み、百神の神像のすべての目に釘を打ち、神を盲目にしてしまった。そして彼は、神の見えないところで、自分の好き放題のことをやり始めた。平気で人を殺し、盗み、女性を暴力で辱め、打ちのめした。人々は、悪こそ真実であり、愛は無力で愚かなものだと、自信満々に叫び、勝手気ままにふるまう彼の態度に次第にひかれていくようになった。そして多くの人が信仰を捨て、悪を行いはじめた。無法者は人々をだまし、盗んだ金で一旦は栄華を極めたが、すぐにそれを他人に盗まれ、殺された。そして、嘘や暴力で国は無法状態に陥り、やがてすべては混乱のうちに破壊され、民の多くは死に、生き残った者は四散し、国は滅んだ。
無法者は死後、百神の裁きの前に導かれた。無法者は、自分の前に並ぶ百神の目がみな、釘でつぶされ、血が涙のように流れているのを見た。彼は自分のしたことは決して神に見られてはいないと思っていた。だが、日頃不信心であった彼は、知らなかった。百柱の神の中に、ただ一柱、三つの目を持つ女神がいたことを。彼はその神の二つの目まではつぶしたが、その頭頂部にあった一つの目はつぶしていなかったのだ。最後に残っていたその一つの目はすべてを見ていた。三つの目を持つ女神は、彼のやったことすべてを証言し、彼の罪は百神の前に暴かれた。
彼は愛を嘘だといい、悪が真実だと言い、自分こそがその悪だと言ったため、神によって新たに、『いるはずのない者』と名付けられた。そして、神の目をつぶしたことによって、目をつぶされ、神を侮ったことによって、神と同じことをせねばならなくなった。すなわち、百の岩山を、神のように、自分ひとりで動かさねばならなくなった…」
「いるはずのない者?」老人が朗読の途中で息を吐いた一瞬、オウムが口をはさみました。「それはどういう意味です?いるはずがないと言っても、彼はあそこにいる」
「彼は、愛より悪が強いと言ったのだ。だが、悪は本来、この世界には存在しない。存在しているように見えているのは、愛という存在がすべてを支えているからだ。その愛を嘘だと言い、悪が真実だと言えば、何もかもが存在しなくなる。自分を悪だと主張する彼の存在も、ないことになる。だから彼は、『いるはずのない者』と呼ばれることになったのだ」。
老人は一息おくと、書物をぱたりと閉じ、テーブルの上から碗をとって、窓から手を突き出し、月光を汲みました。そしてゆっくりと碗に唇をつけ、一口、月光をふくみました。その月光は、味も香りもなく、ただ砂のようにざらついた感触が舌を覆うだけでした。老人の喉はそれを受け付けることができず、彼はきつい嘔吐感とともにそれを碗の中に吐きもどしました。そのときでした。
ふと、窓の外にいた男の姿が消えたかと思うと、窓がぱたりと閉まりました。老人は、一瞬、何が起こったのかわからず、呆然と閉まった窓を見ていました。見ると、老人は、手に空っぽの碗を持っていました。一体自分は何をしようとしていたのか、老人はしばし、しびれる頭の中で考えました。誰かがいたような気がしました。しかし、それが誰だったのか思い出そうとすると、まるでそこだけ真っ白に切り取られたように記憶がないのでした。
「百神」老人はかろうじてその言葉を思い出し、書物をぱらぱらとめくりました。しかし、何度書物をめくっても、どこにも光る文字はなく、順を追って探してみても、どうしてもその言葉は見つかりませんでした。二つの項目の間にあるはずの、一つの項目だけが、きれいに消えてなくなっていました。
「消えた」老人は書物から目を離し、呆然と窓を見ました。「存在が、消えた?」彼は窓を開けようとしましたが、窓は石のように固まって彼の手を拒否しました。突然彼は戦慄しました。一つの存在が、消えた。そう感じました。ただそれだけで、彼は、世界の半分が壊れて消えていくような、すさまじく冷たい、寂寥感に襲われました。オウムがバタバタと羽ばたき、彼の肩にとまって、老人の存在を確かめるように、体をすりよせて来ました。老人もまた、オウムの翼に手をやり、凍えるように震えながらその触感を確かめました。
老人はひざまずき、額の前で手を組み、「神よ、お許しを」と強く祈りました。すると、彼らの目の前で再び窓が開きました。たちまち老人は何もかもを思い出し、窓に飛びついて、男がそこにいるのを確かめ、ほっと息をつきました。再び世界は構築され、愛が金剛不壊のものとしてほほ笑み、胸に温かいものが満ちるのを感じました。
「いるはずのない者が、いた」老人が言うと、オウムはうなずき、「よかった」とうれしそうに言いました。
老人は、飲めなかった月光水に再び口をつけました。そして、嘔吐感を堪えながら、なんとかそれを飲み下しました。奇妙なめまいが全身を襲い、老人は自分の存在が揺らつくような幻想を感じました。そして硬い月光が神経をぴりぴりと通ってゆくのを感じたあと、彼は小さな黒い石を一つ吐きだしました。老人はめまいがおさまるのを待ってから、その黒い石を拾い、しばしそれを見つめました。「これは、たぶん、永遠に消化できない矛盾の表現なのだろう。悪とは、こういうものなのか」。
老人は窓の外で永遠に動けない男の顔を見ながら、右手に空の瓶を持ち、それを窓から突き出して、瓶いっぱいに月光を汲みました。そして左手で魔法を行い、一枚のラベルを作りました。そのラベルには赤いつるバラの模様が描かれており、過剰かと思えるほどの華美な飾り文字で、「いるはずのない者」と書かれていました。