世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

がちゃぽんと海

2014-03-23 04:01:43 | 月夜の考古学・本館

 毎夕、犬のジローを散歩させるのは、奈津の日課だった。
 いつもは三人の子供たちもついてくるけれど、今日はちょっと事情があって、子供たちがアニメのビデオに夢中になっている間を見計らって、奈津は一人で出た。
 母親にだって、一人になって考えたいときはある。犬を散歩させる間の、ほんの三十分間、一歳半の末っ子が、母親のいないことに気づいて泣き出すまでの、ほんの短い間。ひとりで風にでも吹かれて、考えてみたい。
 家から歩いて十分ほどのところにある海岸に、奈津はジローに引っ張られながら走った。末っ子と同じ年のジローは、人間で言えばまだハタチ前後の少年というところで、飼い主の走る速度に合わせるのがまどろっこしくてしょうがないらしい。海岸につくと、奈津は金具を外してジローを離してやった。鉄砲弾みたいに喜んで走り回るジローの姿を見ながら、奈津は海岸のベンチに座り、一息ついた。
 今日は、なんであんなに怒ってしまったんだろう? 奈津は水平線の向こうの島影に視線をとばしながら考える。
 きっかけは些細なこと。五歳の次男が、奈津の問いかけに返事をしなかった。
「翔、おこづかいにあげた百二十円、がちゃぽんに入れちゃったの?」
 がちゃぽんの機械は、百円玉を二つ入れなければ、おもちゃのカプセルが出て来ない。近所の駄菓子屋に子供たちと行ったとき、ジュースでも買いなさいと奈津があげた百二十円を、次男の翔はがちゃぽんの方に入れてしまったらしい。
「返事しなくちゃわからないだろ? こっちに入れちゃったの? どうなの?」
 翔は、呆然と目を見開いたまま、返事をすることもできず、奈津を見つめている。奈津が何度言っても、一言も返さない。それが、奈津の怒りに火をつけた。
「聞こえないの? それとも口がないの! いいかげんにしなさい!!」
 あっと言う間に平手が飛んだ。一度だけじゃない。家に帰ってから、もう一度、怒った。なぜ返事をしないのか。奈津が問い詰めれば問い詰めるほど、翔は固く黙り込んだ。奈津は意地になった。翔が返事をするまで、何度もたたいた。泣いても、許さなかった。
 結局、翔は、最後まで返事をしなかった。
 翔が、なぜ返事をしなかったのかは、本当は奈津にもわかっている。たぶんあの子は、最初に奈津が問い詰めた時点で、自分が失敗をしてしまった事に気づいたのだ。そして怒られると思い、どうしていいかわからなくなった。奈津の問いに答えても怒られる。答えなくても怒られる。彼にしてみればにっちもさっちもいかなかったのだろう。情けないのは、そんな翔の気持ちが少しはわかっていたくせに、感情に押し流されてしまった自分の方なのだ。親の問いに、子が返事をしなかった。そんな小さなことに、頭がかっとなって、理性が負けてしまった。
(要するに、親のプライドを傷つけられたってことに、腹が立ったの?)
 奈津はため息をつきながら自問した。ここのところいろいろあって、疲労が重なっていたから、少しイライラしてたのかも知れない。でも、そんな理由だけではすっきりと隠せないわだかまりが、やはり心のどこかにあった。
 砂浜を走りあきたジローが、いつしか奈津の横にきて寝そべっていた。奈津はジローの頭をなでながら、腕時計を見た。そろそろビデオが終わる頃だ。よいしょと重い腰を上げると、奈津は頭をぶんぶんと振った。そうすると、重たい気分も潮風に溶けるかと思ったけれど。
「ねえ、このままじゃ、まずいよね」
 奈津は、ふとジローに言った。ジローはただ、しっぽをふって、奈津が歩きだすのを待っている。
「やっぱり、そうだよね……」
 奈津は、きょとんとしたジローの目に苦いほほえみをかえすと、また歩きだした。
 家に帰り、ジローを小屋につないで勝手口から台所に入ると、翔がいた。ちょうど冷蔵庫をあけようとしていた翔は、母親の顔を見ると、さっと顔色を変えた。奈津は、反射的に、「翔、こっちにきな!」と言った。翔は、びくっと肩をひきつらせて、それでも素直に、奈津のところにやってきた。奈津の頭の中は、真っ白だった。でも、翔が、すごすごと歩いて来たのを見て、言う言葉は、もう一つしかないと思った。
「翔、悪かった、母ちゃん、たたいて」
 翔の頭をなでて、奈津が言うと、翔は驚いたように、奈津を見上げた。
「悪かった。母ちゃん、少しやり過ぎた。痛かったか?」
 今日、何度もたたいた翔のほおを、奈津はやさしくなでた。翔の顔が泣きそうにゆがんで、とびついてきた。なんだか、頭の中がぐらぐらして、奈津はわけがわからなかった。ただ、翔を抱きしめた。
(これで、いいのかな……?)
 胸の中で、奈津は思った。よくわからないけれど、たぶんこれも、ひとつの選択なんだろう。がちゃぽんみたいに、すぐに正しい答えが出るのだったら、楽なんだけど。親子なんだから、これからもずっといっしょなんだから、ゆっくり、いっしょに、育っていけばいい……。
 にじみ出た涙を、小さな翔の頭にすりつけながら、この子の巻き毛は、なんでこんなにやわらかいんだろうと、奈津は思った。

      (おわり)


(1999年、ちこり15号所収)



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