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仁藤夢乃 女性支援から見た能登被災地の今 ~足りない安心への配慮と公助・共助

2024年04月12日 | 社会・経済

Imidas 2024/04/09

 

災害時に見落とされがちな少女に目を向けて

 2024年1月1日16時10分、石川県能登半島を震源としたマグニチュード7.6、最大震度7を観測する地震が発生し、輪島市や珠洲(すず)市、七尾市、穴水町などを中心に大きな被害をもたらした(令和6年能登半島地震)。被災地では発災から3カ月たつ今も食事を十分にとれず、水も電気もない中で寒さに耐え、先が見えない避難生活を強いられている人たちがいる。さらに追い打ちをかけているのが、国や県、市などの対応だ。自宅が倒壊し、行く当てもない人々が避難所の閉鎖や支援の打ち切りを通告され、食べ物や生活に必要な物品を手に入れられなくなったり、損壊した自宅に戻らざるを得なくなったりという状況にある。

 私たちColabo(コラボ)は、13年前の東日本大震災の時から災害支援の経験を積んできており、中高生世代の女性を支える活動の一環として、今回も震災発生の翌日から被災地の少女向けの物品を募り能登行きを準備。そうして発災から1カ月以上経た2月と3月に、延べ2週間ほど現地に滞在して支援活動を実施した。

 震災後、私はすぐにでも現地へ駆け付けたい気持ちだった。しかし私たちが被災地の少女向けに集めた物品は、「命と生活環境に最低限不可欠な物資」とは違い、なくても生活はできるけれどあれば快適に過ごせ、もらって嬉しく、気持ちがあがるようなものが中心だ。例えば、中高生たちが普段着ているようなデザインやサイズ感の衣類、地震で割れてしまったかもしれない鏡、化粧水やリップクリーム、ハンドクリーム、避難所で生理用品などを持ち歩くのに便利なキャラクターものの可愛いポーチ、お風呂に入れない生活でも髪をとかす時に気持ちよくしてもらえたらと、中高生に人気の髪がサラサラになるヘアブラシなどを用意していた。そのため私たちの出番は、自衛隊や警察による救護や捜索活動、避難所の開設、道路の補修工事などが少し落ち着いてからだと考えていた。

 災害下では、大人たちが必死に生き延びようとしているだけに、子どもたちも欲しいものなどを言い出しづらくなる。「あったらいいな」と感じても、それがないと絶対に生きていけないというものでもなければねだれない、そもそも買ってもらえる状況ではなかったという話を、被災地で出会った少女たちから聞かされたことがあった。

 また、近しい関係性の中では言いづらい悩みや避難生活での不安も、私たちのような「外の人」には話せるということもある。そこで今回も私は、Colaboとして中高生が欲しいと思うようなものを届ける中で、彼女たちのことを気にかけている人がいることを感じてもらったり、つながりを作ったりして長く支えていけたらと考えていた。

被害甚大な能登でバスカフェの活動を

 11年3月の東日本大震災当時、大学生だった私は発災から3週間たった頃に被災地へ入り支援活動を開始した。今回もそのタイミングを見計らっていたが、メディアの報道や現地の方々の発信では、1月半ばを過ぎても最低限の緊急的な対応すら不十分な様子だった。現地の人とやりとりして中高生世代の少女たちの様子を探ってみても、誰も「知らない」という。メディアも支援者も中高生世代の少女や若い女性たちには注目しておらず、女性支援の視点を持っている人も少ない。学校関係者からの情報では、教員たちは自らも被災しながら生徒の安否確認をしたり、授業再開に向けて動いたりしていたが、被害が深刻だった地域では生徒たちの所在さえ未だ把握できていないようであった。

 少女たちの状況を把握している人がどこにも見当たらず、おそらく多くの若い女性が被災地で困っているだろうと想像し、私たちは2月上旬に初の現地入りをした。そうして現地に入って、まず驚いたのはボランティアの姿をほとんど見かけないことだった。震災発生直後から石川県知事が発してきた「能登に来ないで」というメッセージによる影響の深刻さを、身に染みて感じることとなった。

 1度目の滞在では、輪島市、珠洲市、能登町、穴水町の6つの中学校と高校で中高生向けの無料カフェを開催し、教員への物品提供も小中高校合わせて8校で行った。さらに児童養護施設1カ所と避難所20カ所を訪問し、566人の少女や女性たちに物品を届けた。

 私たちが普段、東京・新宿で行っている「バスカフェ」のスタイルで、被災地の学校や避難所で中高生向けに物品を並べ、自由に選んで持ち帰ってもらえるようにした。訪れた中高生たちは、「えっ、これほんとにもらっていいの?」「天国!」「すごい!」などと歓声をあげながら欲しいものを選んでいった。

 生徒たちが服や靴などを試着し、友人と見せ合って「似合う!」「こっちの色はどうかな?」などと言いながら選んでいる様子に、立ち会った先生たちは「震災後初めて生徒たちのこんな笑顔を見た」「今日はみんなが笑顔でよかった」「ほかにも支援物資を持ってきてくれた人はいたけど、生徒たちの反応が全然違う。今日はすごかった」などと話してくれた。中高生たちは、それぞれいろいろなことを我慢している様子で、「うちは(家に住み続けられるだけ)ましだから」とか、「家は行政の調査で『危険』と言われたけれど、住み続けたいし避難所には行きたくない」と話す人もいた。

「この1カ月間大変だったでしょう」と声をかけると涙ぐむ人や、「自営業の両親が失業した」と話す人もいた。中には、家族を亡くしたという人もいた。父親を亡くし、母親と避難所に身を寄せている男子が「お母さんのために何か持ち帰りたい」と声をかけてくることもあった。大切な人や帰る家を失い、日常が壊され、友人とも離ればなれになっている中、子どもたちは親や先生たちが頑張っている姿を見ながら過ごしている。心に傷を抱えながら、いろいろなことを我慢をしている子もたくさんいた。

大人も子どももお腹をすかせていた

 私たちが訪問に際して学校に事前連絡したところ、女子生徒向けの物品提供に積極的でなさそうだったある学校から、「以前生徒にアンケートを取ったが、必要な物はないとのことだった」という話があった。聞けば私たちが訪ねた前日にも下着が届いたが、「欲しがる女子生徒は一人もいなかった」そうだ。しかし訪問当日、Colaboが用意した物品に笑顔になる生徒たちの姿を見て、「こんなに喜ぶなんてすごい! 普段から考えて必要なものがわかっているからこそ」「アンケートではリクエストが全くなかったので、必要なものはないんだと文字通り受け取ったが、実際には必要としているものがあった」と、居合わせた先生が驚かれていた。その学校の生徒たちは、教室に戻った後もテンションが高く、「こんないいことがあるとは!」「今日学校来てよかった!」「人生で今日が一番幸せ」と話していた人もいたそうだ。

 ある男子は「お菓子よりパンが食べたかった」と、用意したパンをすごい勢いで持っていった。避難所では十分な量の食事がとれず、「とにかくお腹が減っている」と話す高校生もいた。お風呂に入れていないから学校には行きたくないという生徒が多く、避難所からだと通学手段も限られるので、登校できているのは全校生徒の3分の1ほど。なので訪問当日に来れなかった生徒たちにも行き渡るように、1人分ずつ衣類や物品を詰めた生活応援BOXを置いていったり、遠距離に避難している生徒のところまで物品を届けに行ったりもした。

 生徒たちを見守っていた女性教員にも物品を勧めると、「避難所では生理用品を男性が管理しているためもらいづらかったり、女性向けの物品が全然手元に届かなかったりする」とか「食べるものが回ってこない」という状況を教えてくれた。とくに「震災発生時に履いていた靴1足しかない」という人が多く、用意していた靴はあっという間になくなってしまい、現地で買い足しても足りないほどだった。先生たちの間でも「バーゲンみたいで楽しい! こんな時間久しぶり」と話がはずんでいたり、「私たちにまで目を向けてくれるなんて……今日のことは一生忘れません!」とまで言う人もいて、子どもたちのみならず大人もみな張り詰めた状態で頑張っておられることを感じた。

 私たちは活動の中で、いつも「選べる」ことを大切にしている。生徒たちの反応を見た先生たちが「選べることが嬉しかったんだよね」と言っていたが、自分で選べることや、女性だけでわいわいやれる時間、自分のために用意されたものがあることの大切さは、大人たちも同じであることを実感した。

 女性教員向けの時間が終わった後は、男性教員たちに「ご自身や、ご家族にどうぞ」と物品を選んでもらった。先生だって被災され大変な中で、生徒たちを支えている。生徒の前では気丈に振る舞っていても、さすがに疲れ切った様子だった。家を失い避難所や車中泊で生活をしながら通勤していたり、食事も十分にとれておらず、持って行ったお菓子を「今日の夜ご飯にする」と話す先生もいた。私たちが訪問中に出会った先生たちは、みな一様に食事に困っている様子で、パンやお菓子がもらわれていった。それほど被災地の食事事情には、厳しいものがあると感じた。

 行政が避難所を縮小する方針を示したことから支援物資の配給が減り、炊き出しは避難所にいる人だけに提供され、避難所以外で寝泊まりしている人の中にはカップ麺生活の人もいるという。町中は倒壊した建物がそのままになっており、水も食料も不足している中で避難所を閉鎖されても困るという声は多く、行政の対応が被災者の方々に追い打ちをかけているように私には思えた。

避難所で若い女性たちにふりかかる困難

 私たちは各地域の避難所も一つひとつ訪ね、中高生世代の少女たちを探して回った。避難所にいる多くの女性たちは着替え用の衣類も持たず、炊き出しがない日は女性たちが調理をしなければならなかったり、井戸水で洗濯したりして手が荒れている人が多かった。被災して失業した人も多く先が見えない中、私たちが出会った20代の女性たちも仕事を失い、1日中ずっと避難所にいる生活。「避難所では女性の立場が弱い」「生理の時は特に大変」「多い日の夜用の生理用品がない」などと話していた。

「避難所には男女問わず着られるような衣類は届くけど、女性がちょっと買い物などに出かけられるような服や色味のいいものがない」「着られる服、着たいと思える服がない」という声が、どの避難所でもあらゆる世代の女性たちから聞かれた。「届けられた女性用の衣類は、中古で着られないものばかり」と話す人もいた。

 私たちが中高生向けに持って行った衣類を欲しがる成人女性も多かった。大人にはサイズが小さいものばかりだと伝えても、「欲しい欲しい」「私も着られる」とたくさんの人たちに囲まれてしまうことも度々で、とにかく切羽詰まった状況にあり、大人向けの衣類を途中で買い足したほどだ。私たちは「中高生の女の子向けの活動です~」と言いながら若いお母さんや女性たちにもうまく声をかけ、普段の環境から離れて自分のものを選んでもらえるようにした。

 ある避難所では、大手企業から届いた衣料しかなく「老若男女みなお揃いの服を着ている」という話を聞いた。話をしてくれた人に着られそうな衣類を勧めると、「自分だけもらってしまうと周りの目があるので……」と固辞されたが、「避難所に30代の女性が1人いるので、彼女には渡してあげたい」と言って女性用の衣類をこっそり受け取っていった。小学生の子どもたちも、服や靴、ヘアゴムをもらっていった。子どもがお菓子を選ぶ様子を見て、「お菓子も食べたいよね。遊びたいよね。心の癒しになるね」「選べるのが嬉しいよね」と話す母親たち。彼女たちも、「下着をもらえただけでありがたい」などと言いながら衣類をもらっていった。このように最低限のものも持っていない人がたくさいる状況を見て、女性に必要なものはその「最低限」にさえ入っていないのではないかと感じた。

「お風呂に入れていますか?」と聞いて「入れています」と最初は答える人も、よくよく聞くと「自衛隊のお風呂は1人15分と決まっているので、子どもを連れてパパッと体を洗い、パッとお湯に浸かって出たらあっという間だし、顔を洗ったり毛を剃れる環境や時間はない」という。在宅避難している人や、お風呂のない避難所にいる人も自衛隊が設置した移動式風呂(通称「自衛隊風呂」)に入浴に来ているが、髪を乾かせる設備はないため髪の毛を濡らしたまま極寒の中を歩いて帰っていく。Colaboが持って行ったドライヤーは、電気が使える環境にある人たちに人気で、あっという間になくなってしまった。

 海外からの移住や国際結婚によって日本で暮らし始めたという女性がいる避難所もあり、そうしたマイノリティの方々は圧倒的にものが足りていない様子だった。差別から逃れるために避難所には入れないという人もいる。もともと困窮していた人は、さらに厳しい状況になっていた。技能実習生と思われる外国人男性たちが、避難所での生活を避けて支援物資を受け取りにきていたり、遠距離を自転車で行き来していたりする姿も見た。

 児童養護施設で暮らす子どもたちは、住んでいた分園の天井が落ちたため中に入ることができず、衣類も取りに行けないとのことだった。職員たちも被災して大変な中で、避難所から通勤して子どもたちを世話をしていた。

 町中の給水所に来ていたおじいさんと小学生の女の子に声をかけたところ、津波で家が流され、親戚の家に身を寄せて気を遣っている様子だった。80歳を超えたおじいさんは「給水くらいは手伝わないと」と言い、私たちが差し出したスナック菓子を「つまみにする」ともらっていった。みんなお腹を空かせていて、それは3月半ばの2度目の訪問時にも改善されていないようだった。

 Colaboの能登での活動に向けて、私が石川県や県教育委員会などと事前にやりとりをしたところ、「高校生に必要な物は足りている」「物資は集積所に置いて行ってくれたらこちらで配布する」などと言われた。しかしそれでは支援からこぼれ落ちる少女たちが必ずいること、そうした子たちに差し伸べられる手がないのを知っていたから私たちは個別に関係性を作り、自主的に活動することにしたが、現地は思った以上に深刻な状況にある。

 私たちは普段から、自分から「助けて」と言わない少女たちに出会い、つながる活動をしているが、被災地でも「欲しいものはありますか?」「困っていませんか?」などと聞いても簡単にはニーズは聞き取れない。彼女らが必要と思うだろうものや具体的な選択肢を用意し、提示しながら声をかけて、顔が見える関係性を作ることで選んでもらえたり、「必要だった」「欲しかったけど言えなかった」と話してくれたりするようになる。

 東日本大震災の時は、被災地にたくさんのボランティアがいたが、能登では市民ボランティアにほとんど出会うことがなく「東京から支援に来た」と言うと驚かれた。自治体の職員は全国から応援に入っていたが、それもいつまで続くかわからないという。とくに復旧作業が進まない奥能登の人々は、見捨てられ感を募らせている。2月の訪問時には、元気に明るく振る舞っていないといられない、少し優しくされたら崩れてしまいそうでもなんとか耐えているという女性たちも多かったが、3月には彼女たちも疲れ切った様子で冗談を言い合う姿はなかった。

 非常時には地域コミュニティでの関係性が避難生活に大きく影響するということも、今回の活動で実感した。女性たちが支え合い、一緒に笑ったり怒ったりする地域では痛みを共有する光景も見られた。しかし関係性が協働的でなかったり、競争的であったりする地域では、物品を持って行っても「我先に」という様子で取り合いになってしまう。そうした地域の避難所では喧嘩も絶えず、若い世代の人はかなり気を遣って高齢者の目を気にして生活している様子だった。

足りない支援の中で被災者の分断も

 活動中、「赤ちゃん用の服やガーゼがないか」と声をかけてきた女性がいた。「娘に子どもが生まれたばかりだがガーゼが足りない。おむつはあるけど、服はサイズがすぐに変わるし、洗濯もできないので困っている」とのことだった。すでに震災から1カ月がたち、個別のニーズに対応しなければならない段階がとっくに来ているのに公的支援は乏しく、民間の支援やボランティアも拒む政府や行政の対応が続いている。

 今この地域に必要なのは、被災した人たちが安心して過ごせるようにするための圧倒的な支援であり、復旧から復興へ至り「被災者の自立」の名のもとに支援を打ち切るような段階では到底ない。基本的な暮らしの保障や、基盤となる安心感がなければ自立はできないのは、当たり前のことだ。にもかかわらず今回の震災では公助が十分でないだけでなく、混乱や治安を理由に行政が共助さえ拒み、被災者に自助と自己責任を押し付けている。能登では地区ごとに被災状況が異なり、どこも支援が足りないことから、被災者の中でも分断が進んでいる。もっと多くの人や団体を現地に招いて、外から支えるべきである。

 もう一つ気になったのは、被災した生徒たちが学校に届いた支援物資を手に、感謝の写真を撮らされているのを目にしたことだ。Colaboにも物品を寄付したいという企業等から「少女たちが受け取っている写真が欲しい」と頼まれることがある。私たちはそういうことをさせたくないので別の形でお礼を伝えているが、この学校では頼まれた通りに写真撮影をしていた。子どもたちも支援に対して感謝の気持ちを持っているかもしれないが、そういうことが続くと感謝を強要されている感じがしたり、いつもみんなに頭を下げないといけないような、申し訳ない気持ちになったりしていく。なので「そういうことはしなくていい」と支援者側が変わる必要がある。

 能登では、何度となく頭を下げる方々を見た。「お礼は必要ないです。当たり前のことだから」「こういう時は申し訳ないという気持ちになったりすることもあるだろうけど、そんなふうに思う必要はないから」と伝えると、目に涙をためる方もいた。感謝を求めない、必要ないと示す姿勢が、外から応援する人たちには必要だ。当たり前の日常を手に入れることができない、それが改善されないまま放置され報道もされていない。これからも女性たちとつながり、被災地の現状を見つめ、できることを続けていきたい。


コメントすることもない。
さまざまなボランテァ支援の必要性を感じた。
「公助」で足る社会ならばいいが・・・

今日は曇り。
時折霧雨のようなものも。
バラ、ハスカップ、ブルーベリー、桜の小さな木、が雪で潰され、枝をちぎられ無残な姿を現す。
今年はネズミ対策に株元に網を巻き付けておいたのが良かったようで、致命傷に及ばなかった。

カケスか?



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