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雨宮処凛がゆく! 第547回:コロナ禍における「学校」、そして「不登校」「ひきこもり」〜ステイホームで突然「フロントランナー」となった在宅人たち。

2021年01月31日 | 生活

マガジン9 https://maga9.jp/210127-4/

コロナ禍で変わったことはたくさんあるが、もっとも変わったのは、「在宅」をめぐるあれこれだろう。

 「ステイホーム」が呼びかけられる中、多くの企業が在宅勤務を実践し、そのうちのかなりの割合が意外とできること、問題ないことを知った。

 「これまでの長い会議はなんだったんだろう」「満員電車に乗らないことが生活の質をこれほどあげるなんて」「リモートの方がずっと効率よく仕事ができる」

 そんな声を聞いた一方、「家が狭い上、子育て中だから在宅ワークどころじゃない」という意見もあれば、「テレワーク中なのに、ハンコひとつもらうために出社しなくちゃいけない」という、令和の時代に昭和が紛れ込んだような話も聞く。一方で、「正社員はテレワークできるけど、派遣社員は全員出社させられている」などの待遇格差も耳にする。

 私自身、取材や打ち合わせ、会議の多くがリモートとなり、最初は少し戸惑ったものの、今はその便利さの恩恵を受けている。しかし、コロナ以前は取材や会議、打ち合わせのあと、気心の知れた編集者や活動仲間らと食事をし、いろんな話をすることで「今度こういうことをしよう」と新たな企画や活動が生まれてもいたわけで、そういう時間がないことは、やっぱり少し、寂しい。

 寂しいけれど、そういう時間そのものが、わずか一年でもはやリアリティがないくらいに「過去のもの」なってしまっている感覚もある。

 そんなふうに日本中、世界中の人々が「在宅」になる中、「ほっとした」「自分がおかしいと思わなくなった」「時代がやっと俺に追いついた」と口にする「在宅のプロ」たちがいる。それは不登校やひきこもりの人々だ。

 これまで、外に出ないこと、学校や会社やバイトなど、「子どもなら/大人なら行くべき場所」に行かないことで、時に白い目で見られ、時に「問題視」されていた人々が、コロナ禍で突如「見習うべきライフスタイルの人」となったのだ。しかもこの一年間は、在宅しているだけで「感染拡大」を防ぎ、「医療崩壊」を防ぐ活動をしていることとなる。能動的に「社会貢献」している形になったわけである。同じことをしてただけなのに、ある日突然、「コロナ時代を先取りしたフロントランナー」となったのだ。

 このことを寿ぐ人もいれば、戸惑っている者もいる。外に出られないだけでイライラしている「在宅の素人」の家族に、ストレスをためる者もいる。また、これまでは日中、家にいるのは自分だけだったのに、突如として家族全員が自宅のパソコン前でバリバリ仕事をする姿を見せつけられて劣等感を刺激され、「家にいたくない……」と吐露する人もいれば、「平時でも何もできないのに、コロナ禍でも何もできない自分」を責め続けている人もいる。

 そんな中、昨年3月には突然の全国一斉休校。これにより、学校も子育て世帯も大パニックになったわけだが、子どもの休校のために仕事を休む親への給付がまた混乱に拍車をかけた。フリーランスへの給付がなぜか企業に勤める人の半分だったり、当初は風俗業などを除外するという職業差別つきだったり。親が仕事に行けなくなるだけでなく、子どもが家にいることで食費が増えて家計が大変、家族が狭い家で顔を突き合わせていると喧嘩が絶えないなどの悲鳴も聞こえた。

 休校で浮き彫りになったことがある。

 それは通信環境の格差だ。

 コロナ禍で世界的にオンライン学習が推進され、海外ではかなり早い段階から環境が整備されたところもあった。日本でも、大学でオンライン授業が始まった。

 「大学だけでなく、小中学校、高校の授業もオンラインでやればいい」という声があちこちから上がった。

 が、自宅にパソコンとネット環境があり、オンラインでいくらでも勉強できる子がいる一方で、この国にはパソコンやネット環境がない家庭の子もいる。

 NPO法人しんぐるまざあず・ふぉーらむと専門家による調査チームが2020年7月に実施した調査によると、中学生以上の子どもがいるシングルマザー家庭の36.8%が自宅にパソコンやタブレット端末がなく、ネット接続のできない世帯や通信量が制限されている世帯は合わせて30%を超えるという(朝日新聞2020/9/11)。

 そんな家庭があることに想像もつかない人が「オンラインで」と言う時、貧しい家庭の子どもたちは排除されている。こんなことが繰り返されることで、学力には歴然たる差がついてくる。塾や習い事もそうだ。勉強できる、できないは本人の努力という前に、環境的に努力することもできない子どもたちがいることを、決して忘れてはいけない。コロナ禍は、ある意味でより格差を増大させているのだ。

 さて、この一年で不登校やひきこもりの立ち位置が変わったように、「学校」そのものの意味合いも変わっていると私は思う。

 在宅で仕事をする大人が増えたように、子どもだって在宅で学習するという選択肢があっていいのだし、それはコロナ禍における「ニューノーマル」になっていく可能性がある。

 「いや、勉強以外に人間関係や集団行動などの学びがあるからこそ、リアルに学校に行くことは必要なのだ」という声もあるだろう。

 が、その人間関係でいじめに苦しみ、あるいは教師からの暴言暴力に傷つけられ、自ら命を絶つ子どもたちは後を絶たない。何も学校をなくせと言っているわけではない。だが、しんどいと思った時に在宅に切り替えられるようなシステムがあったら、どれほど救われる子どもがいるだろう。要は選択肢の問題なのだ。

 ということで、不登校にまつわるもろもろを取材して、一冊にまとめた。
 『学校、行かなきゃいけないの? これからの不登校ガイド』(河出書房新社)だ。1月26日に全国書店に並ぶ。

 コロナ禍の中、不登校に詳しい人たち、経験した人たち、不登校にまつわる活動をしている人たちに会いに行き、話を聞いた。

 フリースクール「東京シューレ」理事長であり、自身の子どもが不登校を経験したという奥地圭子さんは、不登校について「子どもという生命」と「学校という制度」のミスマッチだと述べた。

 校則なし、宿題なし、チャイムなし、定期テストなし、制服なしを実現させた世田谷区立桜丘中学校・元校長の西郷孝彦さんは、子どもたちが「幸せな3年間を送ること」だけが唯一のルールだと笑った。

 自身も「子どもの貧困」当事者の経験を持ち、今は困窮世帯の子どもたちの学習支援をする「アスポート」理事の土屋匠宇三さんは、「学ぶことで選択肢が増える」ことの実例について、教えてくれた。

 そうして「ウンコを漏らした」ことで神童から一転、不登校になったお笑い芸人・山田ルイ53世さんは、当時の思いやその後のひきこもり生活、今も抱える「後悔」について赤裸々に語ってくれた。

 精神科医の松本俊彦さんは、不登校やひきこもりの子どもたちと接するプロとしてだけでなく、ヤンキーと校内暴力だらけの「悪夢のような」中学時代を過ごした元子どもの一人として、「刑務所と軍隊をモデルにした学校」の息苦しさを語ってくれた。

 そして本書の最終章には、10代から50代までの「不登校経験者」たちの座談会が収録されている。

 これが私には、鳥肌が立つほどに面白いものだった。

 特に、80年代に不登校になり、30代後半まで昼夜逆転生活、その後、お互い実家を出たいと思っていたひきこもり同士で結婚し、アルバイトを掛け持ちしながらそれぞれ10万くらいずつ稼いでなんとか暮らしているという50代女性・林恭子さんの話は、「これからを生きのびる」ヒントに満ちていた。

 なぜなら、これは不登校・ひきこもりに限った話ではないからだ。

 例えば私の周りには、貯金もスキルも正社員経験もなく、これから老いていくばかりと嘆く同世代の非正規の人々が多くいる。そんな人たちにとって、彼女の実践は、ひとつの「手に届くモデル」だと思うのだ。

 単身だと、10万円で自立して生きるのは厳しい。しかし、「つがい」になれば家賃や光熱費を折半しながらなんとか暮らしていける。しかも特筆すべきは、そう語る彼女が、今はひきこもり当事者団体「一般社団法人ひきこもりUX会議」の代表理事として活動を繰り広げていて、なんだかものすごく生き生きしているという点だ。

 根拠のわからない校則に違和感を抱き、高校に入学した日に「大学入試まで何百何日」と脅迫されるような「学校」文化にも一般社会にもなかなか適応できなかったけれど、今は「水を得た魚」のように、不登校・ひきこもりの人々が生きやすい社会のために活動しているのである。

 さて、コロナ禍の中、自殺者が増えていることはこの連載でも書いてきた通りだが、昨年の自殺者は11年ぶりに増加に転じ、2万919人。

 中でも増えているのは、女性と若年層。女性は前年より885人も増え、また小中高生の自殺は過去最多となった。

 家庭の不和のしわ寄せが子どもに向かうことや、子どもがふらっと立ち寄れるゲームセンターなど娯楽施設の休業によって逃げ場がなくなったなど、様々な背景があるだろう。

 そう思うと、どんなにつらいことがあっても、生殺与奪の権利は常に親に握られていて、逃げ出せば「家出」と言われ罵倒されるばかりだった自分の10代の頃が蘇る。

 特に中学時代は地獄そのものだった。

 「人生で一番つらかったときは?」

 そう聞かれたら、迷うことなく「中学時代」と答える。

 いじめに遭ったこともつらかったけれど、それがなかったとしても中学時代は絶対に、何があっても、たとえ5億円積まれようとも戻りたくない過去だ。

 何が、と問われれば無数にあるが、私の人生においてもっとも「囚人度」が高かった数年であることは間違いない。

 教室に大きく「無言、敏速、整然」と書かれているのがつらかった。

 髪の長さ、靴下の色、靴の色やスカートの長さなど細かすぎる校則が嫌だった。

 教室での一挙手一投足がみんなに「監視」され、「唾を飲み込む」とかの生理現象でさえ最新の注意を払わないと悪目立ちしてしまう空気が息苦しすぎた。

 運動音痴でスポーツなんて興味ないのに、「部活に入らないと内申書に響く」と言われて嫌々入ったバレー部のすべてが拷問だった。

 毎日ガラスにヒビが入りそうな甲高い怒声で暴言を吐く部活顧問が恐ろしすぎた。機嫌が悪いと暴言は暴力になり、しょっちゅう殴られたことも理不尽すぎた。

 私はずっと、あの頃、「不登校をせずに学校に行き続けたこと」を、今も悔いている。不登校をしなかったことによって、しなくていいはずの嫌な思いを死ぬほどしたからだ。教師からの日常的な暴力。いじめ。友人たちが寝返って私をいじめる側に回ったこと。そんないじめに耐え続けたせいで極まった人間不信。自殺以外のことなどまったく考えられなかった日々。つらさを誤魔化すために始め、以後10年続いたリストカット。

 そしてその「後遺症」は30年以上経った今も、私をどこか縛っている。例えば私は今も、実家に帰ったとしても決して一人で外を出歩かない。いじめ首謀者に限らず、元同級生たちにもし出会ってしまったらと思うと、それだけで恐怖に身がすくむからだ。

 そんなふうに帰省だけで怯える私は、未来永劫「地元に戻る」ことはないと思う。ということは、今後、親が病気や要介護状態になったとしても、「戻る」という選択肢はないということだ。いじめは人から故郷を、そこに戻るという選択肢を奪い去る。このことはおそらく、あまり知られてはいない。が、いじめられ経験がある者同士では「あるある」のひとつだ。

 さて、コロナ禍によって、はからずも「学校に行かない学び」の門戸が開かれた。

 そんな今だからこそ、「学校中心」の価値観は見直されるべきだと思うし、学校に行かなくても選択肢が減らない社会への道筋がどんどん示されていくべきだと思うのだ。

 今、10代の人はもちろん、元10代の人、子どもが10代という人にも、ぜひ、手にとってほしい。


 不安定な天気が続いています。朝から⛄、昼頃は晴れ、15時ころには猛吹雪です。
昼に撮った写真。

東を向いて。

西を向いて。西から雲が出てきました。今日、立ててもらったポールです。
次は15時ころの模様。

今は風はおさまっています。


香山リカ×森岡正博「反出生主義」対談(後編)

2021年01月30日 | 社会・経済

~コロナ禍で直面させられた「生きる意味」に向かって

香山リカ(精神科医・立教大学現代心理学部教授)

森岡正博(早稲田大学人間科学部教授)

(構成・文/仲藤里美)

Imidasオピニオン2021/01/28

    反出生主義は哲学的論理の一つであり、善し悪しで評価できるものではありません。ただし、「すべての人が存在しない世界こそあるべき姿」という考えを乗り越えようとするならば、私たちはどのような論理で対抗し得るでしょうか。

人の役に立つ人生でなければならないのか

森岡正博(以下「森岡」) 前編では、反出生主義に対してどちらかというと批判的な観点から議論してきたと思うのですが、一方で私自身の中にも反出生主義はあると感じることがあります。

香山リカ(以下「香山」) それは、「生まれてくるべきではなかった」ということですか? それとも「子どもを産むべきではない」?

森岡 私個人の場合は、「生まれてくるべきではなかった」という、誕生否定のほうが大きいですね。

香山 社会的にはこんなに認められている森岡さんにして。それは、どういう理由でなのでしょうか。

森岡 一つは、人は生まれてきたら必ず死なないといけないということ。私には、これがひどく不条理なことに思えたんです。死ぬのは嫌だ、死が運命づけられているような生だったら、生まれてこないほうがよかった。どうしてこんな人生に私を産み落としたんだ、という叫びは私の中の深いところにずっとあります。

 もう一つは、自分の加害性という問題です。誰でもそうだと思うのですが、人が生まれて生きてくるなかでは、周囲の人たちに対して多かれ少なかれ何らかの加害行為をしてきているわけでしょう。そのことを考えるたび、「自分という人間は存在しないほうが、周りの人にとって、そして宇宙にとってよかったんじゃないか」と感じるんです。無理に理屈をこねているわけではなくて、本当にそう思うんですね。

香山 今、コロナ禍のなかで自殺される人が増えていて、診察室にも「死にたい」と言ってこられる方がかなりの数、いらっしゃいます。その人たちの話を聞くと、「自分は誰の役にも立っていない」と、有用感、自己肯定感が著しく低下している人が多いと感じるんですね。コロナで仕事がなくなったとか、お芝居や歌などの表現活動をしていた人が発表の場を失ってしまったとか。真面目な人ほどそうなんですが、「何も人の役に立つことができないのなら、私なんか生きている意味がないんじゃないか。消えてしまいたい」というようなことを言うわけです。

 森岡さんのおっしゃる「加害性」とは少し違うのかもしれませんが、やはり「私なんかいないほうがいい」ということですよね。でも、本当に人に迷惑をかけちゃいけないのか、人の役に立つ人生でなければいけないんだろうか、ということを考えざるを得ません。

子どもは「生きる理由付け」になるのか

森岡 私自身も、「生まれてくるべきでなかった」だけではなく、「死んでしまいたい」という思いを抱いたことは何度かあります。「生きていても誰の役にも立てないから……」というような論理立ったものではなかったのですが、人間関係が壊れてしまったことなどをきっかけに、今まで自明だと思っていた足下の地盤が突然崩れ落ちたような感じでした。体中から力が抜けて、人生の何もかもが無意味に感じられるようになってしまった。

香山 それは積極的な自殺願望というより、生きていても無意味だから、消えたとしても、つまり死んだとしてもそれほど変わりはない、というような心境でしょうか。

森岡 そういうことだったんでしょうね。今まで自分が哲学者として「生きる意味とは」などと考えていたことが、全部骨抜きになってしまった。だから「生きていても意味がない」という感覚は理解できる部分があります。私自身、どうやって「死にたい」という思いを乗り越えたのかは今でもよく分からないし、今後もまた同じような感覚に陥る可能性はあると思っています。

香山 こんなことを精神科医が言ってはいけないかもしれませんが、「人はなぜ死なずにいられるんだろう」と思うことがあります。事故や災害もいつ襲ってくるか分からないし、ちょっとした不注意で命を落とすこともある。そして森岡さんがおっしゃるように、「人生なんて無意味だ、じゃあ死んでも同じだ」と、ふとした瞬間に死と近づいてしまうこともある。生と死というのは結局、地続きのものであって、人間ってすごく「死にやすい」ものじゃないかと思うんですよ。

 そう考えたときに、ふと「子どものいる人がうらやましい」と感じることがあります。私には生きている価値がない、と思ったときに、もし自分に子どもがいれば、「でもとりあえず子孫は残したんだから、私の人生は無意味ではない」とか、「いや、幼い子どもを残しては死ねない」と、死なずにいるための一つの理由付けになるんじゃないかと。

 子どものいる人には「そんなに安易なものではない」と怒られるかもしれないし、子ども自身がどう思うかは別にしてですが……。私のように、子どもという「理由付け」さえない人はどうしたらいいんだろうと思うことがあるんです。

森岡 それとつながるのかは分かりませんが……私は、数年前に父親を亡くしたのですが、その父親が「まだ、自分の中にいる」と思うときがあります。つらいことがあったときなどに、すぐそばで守ってくれているように感じることがあって。考えてみると最近は、父親だけではなくて、すでに亡くなった大切な人たちが、単なるイメージではなくてもっと手触りのあるような形で、自分の中にいてくれるという感覚を、よく持つようになったんですよ。

香山 なるほど。それは精神分析学的な超自我というより、もっと自分を補完してくれたり包んでくれたりする存在ですね。罰するものとしての父親ではなく、やさしく守ってくれるものとしての父親。母親にそういう感覚を抱く男性は多いでしょうが、息子が父親に、というのは興味深いです。

森岡 ということは、私より若い誰かが、私が亡くなった後に「森岡が守ってくれている」「森岡が自分の中にいる」という感覚を持ってくれる可能性があるわけでしょう。そう考えると、人と人とのかけがえのないつながりというのは、生物として血を分けた云々ということとはあまり関係ないのかな、という気がしています。

 誰の中にも、それぞれいろんな人の存在が溶け込んでいて、それがまた別の人の中に入り込んでいって……。私は無宗教ですが、生きていくうえではそういうスピリチュアルな次元での支え合いを考えていく必要があるのではないか、子どもがいても「私は子どものために生きる」とがちがちに固まるのではなくて、他の命ともつながっていくという感覚を持ってもいいのではないかと思っています。

「自殺は防がなくてはならない」には根拠はない

香山 あともう一つ、森岡さんにお聞きしてみたかったことがあります。2020年は著名人の自殺も相次いだのですが、一人の患者さんが、ある俳優さんの死について、「あれで私は、死ぬことを許された気がした」と言っていたんですね。どういうことですか、と尋ねたら、「これまで自分は、つらい人生だけどそれでも死ぬことはいけないんだと思って一生懸命やってきた。でも、あんなに成功した俳優さんでも死んでいいんだから、私も死んだって別に大丈夫だと思えるようになった」。これについてどうお感じになりますか。

森岡 前半で「産むこと、生まれることは素晴らしい」という前提が聖域化しているという話をしましたが、それと同様に「自殺は防がなくてはならない」というのも、私たちの社会における非常に強固な前提、聖域になっていますよね。でも、実はその前提には、何の論理的な根拠もありません。著名人の自殺によって、その事実に目を開かされたということなのではないでしょうか。絶対だと思っていた大前提が崩れることで、ふと自由を感じたということなのかな、と思います。

香山 そうかもしれません。ただ精神科医としては、「自由になれてよかったですね」とは言えない。それは哲学的な理由というより、職業的な倫理観からです。とはいえ、「私は死ぬことを許されたんだ」というその人の言葉には奇妙な説得力があり、私はしばらく沈黙してから、ようやく「でも、死なないでくださいね」と言うのがやっとでした。

森岡 私は「自殺を防がなくてはならない」という前提には、深掘りしていくと実は根拠がない、その底にはぽっかりと穴が空いているんだ、という気づきは、決して隠蔽すべきではないと思います。そして、自殺をせずに終わった人生も、自殺をして終わった人生も、価値としては平等で、同じように尊いものだと考えています。

 ただ一方で、直接「死にたい」と言ってきた人に対しては、それとは違う対応を取りたいという思いもある。香山さんがコラムで書かれていた、自殺したいという患者さんに対して、何とか引き留めようと「来週、もう一度私に会いに来てください」と言うくだりなどは非常に感銘を受けたし、私が学生に「死にたい」と言われたら同じように答えるかもしれない、と思いました。

 つまり、「自殺で終わる生も尊い」と思いながらも、「死にたい」という学生さんには「来週も私の話を聞きにここに来てほしい」と言うだろう自分もいる。その狭間に、すごく大事なものがあるような気がしています。

香山 臨床における精神科医には、「なぜ生きなくてはならないんですか」「誰にも迷惑かけないなら死んでもいいんじゃないですか」と言われたときの答えはありません。「死んだら周りの人が悲しむから」と言ったりはしますし、もちろんそれは嘘ではありません。家族が自殺を遂げ、本当に苦しんでいる遺族をたくさん見てきました。でも、「私には家族もいないし、悲しむ人もいないんです」と言われたときに、「それでも絶対に自ら選んで死んじゃいけない」と言えるだけの説得力がある答えは持ち合わせてないんですよね。私はとりあえず、「来週、あなたに会えなかったら私がさびしいから、私に会いに来るためだけに一週間、生きてもらえませんか」などと言うのですが。

森岡 そうだと思います。哲学的に考えても、「自殺してはならない」ということに根拠はない。ただ、それでも言えることもあって、それが「あなたが死んだら私が嫌だから、私と関係性をつくってください。私と一緒に生きてください」と言うことだと思うんです。「死にたい」という人に対して、周りの誰かが本気でそう言えたとしたら、「なぜ死んではならないのか」に対する一つの答えにはなるのではないでしょうか。

香山 そうですね。精神科医としては、患者さんとは診察室以外で会わないというのが職業規範なので難しいところもあるのですが、何年かに1回はそれを踏み越えて、「夜でも何でもいいから電話して」と連絡先を渡してしまうこともある。その思いも、やっぱり嘘ではないんです。

森岡 もちろん職業倫理としては、そのような関係性をつくるのは控えるべきです。そのうえで、もし自分の親しい人から「死にたい」というメッセージを受け取ることがあったら、どんなことを言ってあげられるだろうとよく考えるんですが、最近、こんなことを思いました。

 生きていくというのは、凍った湖の上を歩いていくようなもの。氷はどこが薄くなっていて、いつどこが割れて落ちるかも分からない。それでもみんな、懸命に歩いている。でも、一人では心細くて歩けない。私と一緒に薄氷の上を歩いてくれる人の数が減るのは嫌だ。だからあなたに死んでほしくない──。そんなふうに伝えられたら、と思っています。

人が「生まれてきてよかった」と思えるためには

森岡 私は、反出生主義を単なる流行に終わらせず、もう少し深く掘り下げていこうとするのであれば、突っ込んで考えるべき点が二つあると思っています。

 一つは、前半でお話ししたような、「人はなぜ生まれてきたのか」といった、宗教的な次元を取り込んで議論をするということ。そしてもう一つが、人が「生まれてきてよかった」と、誕生を肯定できる条件は何だろうかということです。これは、単なる個人の問題ではなく、生まれ落ちる社会の条件、あるいは地球環境の条件といったことについても考えていく必要があるだろうと思います。

香山 おっしゃるとおりだと思います。

 でも一方で、そうした本質的な問題とは別に、人間ってすごく小さなことでも喜びを感じますよね。温泉に入って「ああ、生きててよかった」と思う、あるいはおいしいものを食べて「ああ、生まれてきてよかった」と感じる、それも嘘ではないはずです。そういう日々の小さな喜びを積み重ねながら、悪いこともあったけどいいこともあったね、みたいな感じで生きていくのが人間というものなのではないでしょうか。

森岡 はい。私も、直感的にですが、着地点はそこかなという気がしています。たとえば、ずっと好きで思い焦がれていた人から何気ないメールやラインが来ただけで「生まれてきてよかった」と思うことは誰しもあるでしょう。それが反出生主義に対抗するための、一つの結論ではないでしょうか。

香山 そう考えると、コアな反出生主義というのは、ある意味で非常に「欲張り」なのかなと思います。前半でお話しした「潔癖ラディカリズム」のように、一点の曇りも、一つの痛みもない人生でなくてはいけないというのは、自分に対してものすごく理想が高いともいえますよね。

 以前、ある本で読んだ話なんですけど、大企業を経営していた人が晩年、「人生にはいいことも悪いこともあって、うまくいく人もいかない人もいるけど、均(なら)せばだいたい同じで、棺桶に入るころにはだいたいみんな同じ人生だ」と言っていたそうです。それを読んで、確かにそうかもな、と思ったんですよね。人生にそんな「完璧」はないし、いいことばかりの人生も、ひどいことばかりの人生もないんじゃないかな、と。なんだかとたんに人生訓みたいな話になって恐縮ですが。

森岡 みんながそう思える社会であるといいですね。「いろいろあったけど、棺桶に入るころにはだいたいみんな同じだな」と。今の社会には、そう思えない人たちもたくさんいると思うんです。ですから、私たちは現状の社会を変えていかなくてはならない。この点については、反出生主義者も、そうでない人も、ともに協力していけるはずです。

香山 みんながそう思うことができるためには、誰でもそこまで生活に困ったりすることがなくて、勉強や就職の機会もある程度は均等である、そういう社会的、現実的な前提条件がまずは必要なんですよね。生き馬の目を抜くような社会だったり、失敗したらそれで人生もうおしまい、みたいな状況であってはいけないわけで。

森岡 だから、もし私たちが反出生主義の縛りから抜け出して、この世に新しい命を生み出していくという選択をするのであれば、そのときにはその命を、危ないときには支え合えるような社会的な絆の中に産み落としていく責任があるんだと思います。社会的なセーフティネットがしっかりあって、誰もが棺桶に足を突っ込むときには「いいことも悪いこともいろいろあったよね」と穏やかに思えるような、そんな社会をつくっていかなくてはならない。その義務を、現存世代である我々が担っているんだということが、反出生主義を考えることで逆に明らかになるのではないでしょうか。


  まだ降り続いています。風もあって、時々ホワイトアウト状態です。我が家の前の町道、除雪車が道路の幅を超えて除雪しています。それで車の左側車輪を落としてしまうのです。わたしは判っていますのでハマりませんが、昨日も,今日もハマル車があって、その都度助けに出なければならないのです。明日除雪センターに電話してポールを立ててもらおうかと思っています。
 小降りになってから雪かきに出ようと思います。


香山リカ×森岡正博「反出生主義」対談(前編)

2021年01月29日 | 社会・経済

~私たちは「生まれてこないほうがよかった」のだろうか?

香山リカ(精神科医・立教大学現代心理学部教授)

森岡正博(早稲田大学人間科学部教授)

(構成・文/仲藤里美)

Imidasオピニオン2021/01/28


「自分なんて生まれてこなければよかった」……一度は考えたことがある人は多いのではないでしょうか。長く続くコロナ禍において、これまで推奨されてきた「出勤して働くこと」「人と交流すること」などがどんどん制限されていくなか、精神科医の香山リカさんは臨床の現場で「生まれてきた意味」を問われたり、「死んでしまいたい」気持ちを語られたりすることが増えてきたといいます。
 近年話題の「反出生主義」と、何か関係があるのでは? これを深掘りすることで、何か見えてくるものがあるのでは? 反出生主義を扱った書籍『生まれてこないほうが良かったのか?』の著者である哲学者・森岡正博さんと、「生と死」について、「自分と他者」について、「私」について、とことん語り合います。

反出生主義とは何か

森岡正博(以下「森岡」) ここ1~2年、「反出生主義」というものがメディアなどでも取り上げられたりと、注目を集めています。では、その反出生主義とはいったい何かというところから話を始めたいと思います。
 反出生主義の定義は世界的にもまだ定まっていないのですが、私の考えでは、大きく分けて二つの視点があります。一つは「私は生まれてこなければよかった」。そしてもう一つが「我々は子どもを産まないほうがいい」、あるいは「産むべきではない」ということ。つまり、「生まれてきたこと」の否定と「産むこと」の否定、この二つが合わさって反出生主義と呼ばれる考え方が成り立っているといえます。前者は古代ギリシアからあったもので、後者は最近現れました。
 そして、どちらの主張も、出生の否定、すなわち「そもそも人が生まれてくること自体が良くないことである」という考えに基づくものです。2006年に出版されて話題になった反出生主義の書、『生まれてこないほうが良かった』(邦訳はすずさわ書店、2017年)の著者である哲学者のデイヴィッド・ベネターは、どんな人にとっても、この世に生まれてくることは生まれてこないことよりも必ず悪い、と言っています。
 なぜか。ある人が生まれてきてこの世に存在する場合には、必ず何らかの苦痛と快楽が存在します。逆に、その人が生まれてきていない場合には、その人自体が存在しないのだから、苦痛も快楽も存在し得ない。その二つの状況を比較したときに、前者のほうが「悪い」というのがベネターの主張です。「苦痛が存在する」ことは確実に悪いことだけれど、「快楽が存在しない」というのは、悪いこととまでは言い切れない。その「快苦の非対称性」ゆえに、生まれてきて「苦痛も快楽も存在する」よりも、そもそも生まれてこずに「苦痛も快楽も存在しない」ほうが絶対に善いんだ、というわけです。

 

森岡正博著『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩選書、2020年)


香山リカ(以下「香山」) その反出生主義が、なぜ今多くの人の関心を呼んでいるのでしょうか。
森岡 一つは、反出生主義という考え方が「母親が子どもを産む」という、これまで絶対に否定してはいけないと思われてきた部分に切り込んでいることに、非常に大きなインパクトがあったからではないかと思います。
 出産について私たちが触れる言説というのは、結局のところは「素晴らしいことだ」というものばかりです。「子どもができて初めて生きる意味を知った」とか「自分より大事な存在ができた」とか、さまざまな形で出産というものが肯定されていく。ある種のアンタッチャブルな、聖域ともいうべき状況になっているんですね。いいか悪いかは別にして、反出生主義がそこへ切り込んでいっていることが大きな衝撃を与えるのだと思います。
 たとえば、原爆詩人・栗原貞子さん(1913~2005年)の「生ましめんかな」(1946年)という詩があります。広島の被爆者であるご本人の体験をもとに書かれた詩で、原爆が落ちた後、大けがをした人たちが大勢、真っ暗なビルの地下室にうごめいている。その中で一人の妊婦が「赤ん坊が生れる」と声をあげた……という内容です。
 そうしたら、「私が産婆です。私が生ませましょう」と言った人があった。この人もまた、さっきまでうめいていた重傷者だった。そして〈かくてくらがりの地獄の底で/新しい生命は生まれた。/かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。/生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも〉といって詩は終わります。
 産婆が自らの命と引き替えにして赤ちゃんを世に送り出した。非常に感動的な詩で、私自身もとても感動します。この感動を否定できる人は、特に日本人にはほとんどいないと思うのですが、その場面で「この赤ん坊は生まれてこないほうがよかった」という主張をするのが反出生主義なわけです。
 現代において、私たちは「産むこと、生まれることは素晴らしい」と聖域化して、そこに土足で上がり込むことを避けてきたきらいがある。そのことが、反出生主義という光が当たることで改めて浮き彫りになった面はあると思います。
香山 「聖域化」という点では、いわゆるリプロダクティブ・ヘルス&ライツ(性と生殖に関する健康と権利)の観点に立って、フェミニズムの視点から「産まないという生き方もある」と主張する声もありますね。「母親になることは何よりも素晴らしい」という風潮へのアンチテーゼとして「産まない」という選択をするという……。それと反出生主義との関連はどう考えればよいのでしょう。
森岡 女性が子どもを産むということを、長い間男性中心の体制が管理してきた。そのなかでの「出産強制主義」への抵抗として、「産まない」という選択を認めようというのは、フェミニズムやウーマンリブの出発点にあるものですね。確かに、それも広い意味での反出生主義ということになるのかもしれません。ただ、今注目されているコアな意味での反出生主義、ベネターなどが主張する内容とはかなりずれているような気がします。
 というのは、どんな子どもであれ生まれないほうがいいという反出生主義の主張は、「産む・産まないは女が決める」というフェミニズムの主張と対立するからです。反出生主義では、女性の「産まない自由」は認めても、「産む自由」は認めないので、そこで折り合うことができないのだと思います。基本的には、反出生主義とフェミニズムには関連性はあまりなくて、むしろ対立する面が強いと考えるべきではないでしょうか。

「誰が産めと頼んだ」という怒りの意味

香山 さて少し前に、「反出生主義の作品ではないか」としてネット上で話題になったアニメ映画があります。『ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』(2019年公開。1998年『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』のリメイク作品)。遺伝子操作で人工的に作られたポケモン「ミュウツー」が、自身の存在意義に悩み、「誰が産めと頼んだ」と、自分をこの世に送り出したものへの恨みを口にする。そこが反出生主義と重なると言われたわけですが、森岡さんはこの作品はご覧になりましたか。
森岡 見ました。ただ、これもやはり反出生主義とは少し違うのではないかというのが感想です。
 なぜなら「誰が産めと頼んだ」という言葉自体は、自分が生まれてこないほうがよかったとは思わない人でも口にすることがあるだろう、と思うからです。自分が今ここにいること自体は否定しないけれど、産んでくれと頼んだわけではないのに勝手に存在を与えられたことへの疑問や不満を抱くということは、十分あり得るのではないでしょうか。「誰が産めと頼んだ」というのは、反出生主義的な怒りというよりは、別の怒りをそういう言い方で表しているだけではないか、という気がするのです。
香山 多くは、自分を産んだ親への怒りですよね。その言葉を口にすることで、親から「何おかしなこと言ってるの、あなたはお父さんとお母さんが『欲しい』と願って、やっと生まれた子どもなのよ」と言われたい、という欲求があるようにも思います。「かけがえのなさ」を保証してほしい、「生まれてよかったと思わせてくれよ」ということですね。その期待が満たされないと、一気に出生への怒りに転じる。
森岡 「誰が産めと頼んだ」は「生まれてよかったと思わせてくれ」の裏返しともいえます。対して「生まれてこなければよかった」という嘆きは、それよりももう一段深いところにあるのではないかと思うのです。
 そもそも、哲学的な観点から考えるならば、「なぜ私を産んだんだ」「誰が産めと頼んだんだ」という言葉を投げかける相手は親でよいのか、という問題があります。親ができるのは卵子と精子という細胞を結合させて身体を生成することだけであって、実存的に生きている「私」というものは、親に生み出されたわけではありません。「私」がどこから生まれてきたのかというのは、親、あるいは人間という範疇を超えた問題だと思うのです。
香山 たとえばキリスト教などの一神教においては、人は「神の子」ですよね。肉体的には親の子であっても、生まれてきたのは神のご意思、ご計画だということになる。そうすると「なぜ産んだんだ」と恨む相手は神、ということになるのではないでしょうか。
森岡 そうですね。神という存在にリアリティがある世界ならば当然そうなるのでしょう。ところが、神を喪失した近代社会に生きる人には、その対象がなくなってしまっている。それで、代わりに親に恨みを向けているということなのかもしれません。
 そう考えると、誰に恨みを向けるのかというのは、もう宗教的な次元の問いになってきますよね。本来はこうした「なぜ私は生まれたのか」といった話は、人間を超えた、宗教が扱ってきた次元を取り込まなくては本質的な議論ができないのだと思います。そこから目をそらして、脱宗教的な次元でのみ語ろうとするのが反出生主義の限界だと思うし、そこの部分はもっと議論されるべきではないでしょうか。

「人のいなくなった地球」を、人間は目撃できない

香山 またベネターは、地球上に存在すべき人間の数は「ゼロ」だと言っていますよね。人間は「産まない」ことを選択し続けることによって絶滅に至るべきだ、と。
 環境保護の視点から、同じようなことを主張する人たちがいます。子どもは好きだけど、地球環境がこのまま悪化していくのであれば産みたくないという人もいますし、イギリスの生態学者、ジェームズ・ラヴロックは自身の100歳の誕生日にあわせて刊行した『ノヴァセン』(邦訳はNHK出版、2020年)で、次に来るのはサイボーグが支配する世の中であり、そのときには人間は存在しないと書いています。「人間が早晩いなくなるだろう」「いないほうがいい」という、この発想は反出生主義と重なるものなのでしょうか。

ジェームズ・ラヴロック著『ノヴァセン 〈超知能〉が地球を更新する』(藤原朝子監訳/松島倫明訳、NHK出版、2020年)

森岡 人間の生と死を理性のコントロール下に置きたいという世界観をとっている点では近いのではないでしょうか。
「人類がいないほうが地球にとって望ましい」というのは、理性による判断ですよね。それを実現することがもっとも望ましいというのは、ある種の理性主義といえると思います。
 反出生主義もそうで、「子どもを産まないことが人間にとってもっとも望ましい」という判断は理性がしているわけです。それに「人間のいない社会」は、社会システムやテクノロジーを人間が理性的にコントロールすることで達成されるわけですから、やはり人間の理性による生と死のコントロールなんですよね。
香山 「人が誰もいなくなった後の地球」も、人間が繰り返し想像し、表現してきたものですよね。特に核の危機が高まった冷戦時代には、多くの映画や小説がそれを描いた。人間が誰もいなくなって、静寂が広がって……という情景を想像しているのは人間ですが、実際に人間がいなくなってしまえば、その静けさを味わう人は誰もいないわけですよね。
森岡 そうなんです。だから、これは結局は虚偽の世界に過ぎません。人間がいなくなった世界を想像するという設定そのものが、人間の感性と理性があるからできるわけであって、そこで見える世界というのは、人間中心主義からの脱却のようでいて、実は非常に人間中心的だといえます。
 人間がいなくなった世界を想像するというのは、人間が自分たちでつくった箱庭の内部に、さらに「人間がいない世界」をつくって、それを上から覗き込んでいるに過ぎない。そのことは、自覚しておくべきだと思います。

反出生主義、歴史修正主義と「潔癖ラディカリズム」

森岡 こう見てくると、反出生主義が注目を集めているというのは、コアな反出生主義の周りに、ニュアンスが微妙に異なるいろいろな意見が集まってきて、ひとかたまりの団子のようになっているということなのかもしれない、と思います。
香山 そしておそらく、コアな反出生主義よりも、その周りに集まっている「団子」のほうがずっと大きいのではないでしょうか。つまり、反出生主義の「生まれてこないほうがよかった」という主張に対して、その本質を深く考えるというよりも、何となく雰囲気で「ああ、そうだよね、私も生まれてこないほうがよかった」と感じる人たちがたくさんいるということ。これはとても現代的な事象だと思います。
森岡 そこには現代の、痛みのようなものに非常に過敏になっている状況があるように思います。
 苦痛も快楽も存在するよりも、両方とも存在しないほうがいいというのがコアな反出生主義ですが、それはつまり、ほんの針のひと突きの痛みがあっただけで人生はすべて意味がないものになってしまうということ。一点でも汚れてはならないという、潔癖主義のような感じですよね。そして、100年、200年というタイムスケールで見た場合に、いわゆる先進国の社会全体がそちらの方向に進んできているのは明らかではないでしょうか。
香山 強迫的な清潔志向のようなことですか。
森岡 そうです。汚れがないこと、清潔であることをよしとして、あらゆる汚れや痛みを排除していく。私はこれを「無痛文明」と呼んでいるのですが、そうして痛みをなくす方向に社会全体が大きく動いているという状況が、先進国を中心にずっと続いてきた。それが、「生まれてこなければよかった」とか「苦しむ存在を生み出すのはぜったいに良くない」という言葉に呼応する人が多くなっている背景の一つになっているような気がします。
 針のひと突きのような小さな痛みであっても、経験しなくてはならないのなら生まれないのが一番いい、あるいは子どもには絶対にそんな痛みを与えたくないから産むべきではない。そうした考えに惹き寄せられるのが現代なのかもしれません。これは古代からありますが、現代ではより現代的な姿をとっていると思います。
香山 まったく違う話かもしれませんが、私は「『慰安婦』問題はでっち上げだ」とか「南京大虐殺はなかった」とかの、歴史修正主義的な主張をする人たちの話を聞いているときに同じようなことを感じます。「日本はもう何千年も前から今に至るまで、一点の間違いも起こしたことがない素晴らしい国だ」という、無謬性へのこだわりですね。だから過去の過ちを指摘されると許せなくて、烈火の如く怒りだす。私は、そういう過ちがあっても、「それはそれで認めて、二度とやらないようにしよう」と考えればいいと思うのですが、そうはならないんですね。日本は光り輝く真っ白な国でなければならないというこだわりがすごく強い。
森岡 よく分かります。これはまた別の現象ですが、2020年には11月のアメリカ大統領選をめぐり、トランプとバイデン、両候補を支えるグループが超二極分化したでしょう。白か黒かで、中間はないという感じ。そうしてラディカルな両極に引きずられていくと、行き着く先はやっぱり「こちらが正義であって、正義には一点のシミも付いていてはいけない」という潔癖主義でしかない。だから、どんな小さいものであっても「お前、シミが付いてるじゃないか」と指摘されると、そんなのは幻想だとか間違いだとか、何をやってでも否定しようとするわけです。
 コアな反出生主義も「生まれてきたらわずかであっても苦しみはある、だったら生まれてこない、産まないのが一番なんだ」という、いわば潔癖ラディカリズムの表れだといえるかもしれません。
 つまり、さまざまな場面で二極分化、ラディカリズムが現れてきて、人々がそれに引っ張られていくというのが、現代的な言論や思考の動き方になっている。反出生主義も、その中で多くの人に注目されることになっているような気がします。


【香山リカ×森岡正博「反出生主義」対談(後編)~コロナ禍で直面させられた「生きる意味」に向かって】に続く!

 


菅首相「最終的には生活保護がある」は何が問題か あまりに受けにくく自死に追い込む日本の生活保護制度

2021年01月28日 | 生活

菅首相「最終的には生活保護がある」の問題点

 菅首相は以下の通り、27日に生活困窮者対策を問われて、最終的に生活保護制度があると答弁している。

菅義偉首相は27日の参院予算委員会で、新型コロナの感染拡大によって生活に苦しむ人たちへの対応を求められた際、「政府には最終的には生活保護という仕組み」があると述べた。

菅首相「最終的には生活保護ある」コロナでの困窮問われ

 今回はなぜこの発言が問題なのか、日本の生活保護制度について問題点をわかりやすく見ていきたい。

大事な話なので、少々専門的にもなるが、最後までお付き合いいただきたい。

 日本の生活保護制度には「補足性の原理」というルールがある。

これは生活困窮している場合、まずは資産や稼働能力、扶養できる親族の力などを借りても、なお最低生活が送れない場合に限り、その足りない分を支給するというものだ。

 資産といえば、預貯金、証券、土地・家屋(居住用不動産は原則保有可能)、自動車(条件付きで保有可能)、貴金属類、返戻金の多い生命保険などが該当する。

資産が保有できない日本の生活保護制度

 そのため、預貯金などは原則保有が認められておらず、蓄えが底を突いてから要保護性が認められる。

諸外国はここまで預貯金がなくなるほど追い詰めずに生活保護(社会扶助)を適用して支援を実施する。

 例えば、ドイツの社会扶助(就労能力のない生活困窮者)の場合

 適切な広さの持ち家、家具、老後資金は保有可能。自動車は職業訓練や就労に必要不可欠とされる場合に許可。現金は基準需要額(最低生活費)の2倍、パートナー及び被扶養者は1人当たり基礎需要額の70%まで保有可能。

ドイツの失業手当Ⅱ(働くことが可能な生活困窮者(15~66歳))の場合

 適切な広さの持ち家、家具、老後資金は保有可能。自動車は職業訓練や就労に必要不可欠とされる場合に許可。現金は基準需要額(最低生活費)の2倍、パートナー及び被扶養者は1人当たり基礎需要額の70%まで保有可能。

イギリスのユニバーサルクレジット(18歳~年金受給年齢未満)の場合

 主たる住居や事業用資産等は保有可能。現金1万6000ポンド(約227万円 ※1月23日時点)以下は保有可能。ただし、6000ポンドを超える部分については一部収入認定。

 日本ではこれら預貯金を使い切ってから保護申請に至るので、蓄えはなく、それゆえに働いて生活保護から脱却する際にも時間がかかる。

ここまで厳格に預貯金の保有を認めない国は先進諸国で類例がないといってもいいだろう。

つまり、日本の生活保護制度は極貧状態に陥らなければ、手を差し伸べない仕組みともいえる。

異常に広く厳格な扶養義務者の範囲

 そして、日本の生活保護の最大の欠陥ともいっていい「家族主義」である。

まず家族や親族の扶養が生活保護に優先する、となっており、原則として、配偶者間、親子間、兄弟姉妹間、その他3親等内の親族まで扶養を求められ、照会されることになる。

 生活保護を申請すると福祉事務所は、これら親族に「○○さんが生活保護の申請をしましたが、経済的な援助ができますか?」と問い合わせやハガキの送達(扶養照会)をすることとなる。

もちろん、親や兄弟は出来る範囲で援助すれば良いことになっており、照会を受けた親族は、金銭的に余裕がない場合、援助を断ることができる。

ほとんどの場合、親族も扶養などできないのだが、原則的に扶養照会を実施している。

その一方で、厚生労働省は「扶養義務の履行が期待できない者」に対しては、扶養照会をしなくてよいと通知を送っている。

具体的には、扶養義務者が、生活保護利用者、福祉施設入所者、長期入院患者、働いてない人、未成年者、70歳以上の高齢者、20年間音信不通の者等の場合である。

その扶養義務者から虐待・DVを受けた場合は、むしろ連絡してはいけないことになっている。

 諸外国ではこのような範囲での扶養照会は実施していない。

そもそも、扶養義務の範囲が狭いからだ。

イギリスでは配偶者間(事実婚を含む)、未成熟の子(16歳未満)に対する親のみである。

フランスの場合は、配偶者間、未成熟の子(事実上25歳未満)に対する親のみ。

ドイツも配偶者間、親子間、その他家計を同一にする同居者である。

 つまり、日本のように嫌がらせのように幅広い親族に困窮している事実を知らせて扶養照会するなど、そもそも本人の人権侵害である。

先進諸国は当然、このような権利侵害を行うことはしていない。

繰り返される「水際作戦」

 1月27日に筆者は女性支援者とともに埼玉県内で生活困窮している女性の相談を受けた。

その後、生活保護申請に同行し、即日で保護申請が受理された。

しかし、彼女は以前に福祉事務所で生活保護申請できずに追い返されている。
筆者は社会福祉士という福祉専門職であるが、その当時も専門的に見て要保護性はあり、明らかに生活保護申請が受理できる状態だった。

しかし、福祉事務所に拒絶されている。

 いわゆる典型的な「水際作戦」であり、未だにこのような違法行為を福祉事務所が公然と行なっている。

彼女の言い分が事実ならば、深刻な人権侵害、生存権の侵害である。

 これら福祉事務所の対応に絶望した彼女は、生きる術がないと諦め、昨年末にビルから飛び降り自殺を図っている。

幸いにも足を複雑骨折するだけで一命を取り留めたが、医療費のアテはないので、今も足に痛みが残っている。

彼女は明るく笑顔が素敵な人である。

本当に生きていてくれてよかったと思っている。

 これは特異な事例だと思われる方もいるかもしれないが、筆者のもとには全国から同様の福祉事務所の違法、無法ぶりを指摘する相談が相次いでいる

福祉専門職として、これら福祉行政の違法性を糾(ただ)し、適正運用を求めていく仕事になるが、あまりにも相談が多い。

つまり、生活保護を受けたくても窓口で追い返される事例が散見されている

厚生労働省も厳しく「水際作戦」をしないように再三戒めているが、効果が見られない。

 要するに、日本の生活保護制度は受けにくいだけでなく、なるべく受けないように排除する傾向が止まない。

この状況でいくら菅首相が「最終的に生活保護がある」と述べても、何ら説得力がない。

そう発言するのであれば、現状の生活保護を諸外国同様、受けやすいように、すぐに改変する努力を見せるべきだ。

もう口だけの生活困窮者対策、困窮者支援にはウンザリである。


  つまり「落ちるところまで落ちろ」と言うこと。でも落ちるところまで行ってもさらにムチ打たれる。こんな政権もういらない。

 電化製品が次々壊れてく。はじめにFAX付き複合機が、そして携帯が、さらに冷蔵庫が。この機にスマホに変えた。電波がないのでWi-Hiでやっている。複合機はまたブラザーの見るだけ受信のできるタイプ。ほとんどが印刷しなくて済むようなものが多い。今日入荷したと連絡が来た。そして冷蔵庫。子ども3人を育ててくれた冷蔵庫である。かなり大きめである。もう、こんなに大きいのは要らないので、小さめにした。

 

 


医療態勢の逼迫 病院間の連携進めねば

2021年01月27日 | 健康・病気

「東京新聞」社説 2021年1月27日 

 新型コロナウイルス感染症の拡大が止まらず、都市部を中心に医療機関の病床が逼迫(ひっぱく)している。日本の病床数は世界有数にもかかわらず、危機的な状況だ。病床確保に全力を挙げねばならない。

    ◇    ◇

 自宅療養していた感染者が容体の急変で亡くなるなど、このところ搬送先が見つからず、自宅などで待機している間に死亡するケースが増えてきた。感染者の増加が医療機関の受け入れ能力を超える深刻な事態になっている。

 欧米諸国に比べ、感染者数が一桁から二桁少ない日本が、なぜ医療崩壊の瀬戸際にまで追い込まれているのか。

◆受け入れは民間の2割

 人口千人当たりの病床数は欧米は二〜八床ほど。日本は一三・〇床と最も多い。しかし、コロナ対応のために確保できた約二万八千床は、感染症への対応ができる病床全体の約3%にとどまる。

 手術や救急などを担う急性期病院約四千三百施設のうち、コロナ感染者を受け入れているのは公的病院が八割、公立病院が七割に上るのに対し、民間病院は二割にとどまる。

 公立病院の整備が進む欧州に比べ、日本では病院全体の約七割を民間病院が占める。

 背景には、明治期に軍や自治体の公立病院が整備されたものの、その後、政府の財政悪化で廃止が進み、代わって民間病院を開設する動きが広がったという歴史的経緯がある。

 民間病院の協力が広がれば、コロナ禍で疲弊する感染者の受け入れ病院の負担が減らせる。

 しかし、日本の医療制度の構造的な問題が、それを阻んでいるのが実情だ。

 公立病院が多い欧州では、行政の意向を反映しやすいといわれ、コロナ禍でも政府主導で集中治療室(ICU)を増やすなどの対応を可能にしてきた。

◆中小規模では対応困難

 これに対し、日本では、どんな診療を行うかは民間病院の自由であり、行政が提供医療について介入できる余地は少ない。自治体は要請という形で対応を求めているが、強制力はない。

 日本の民間病院は民間ならではの経営努力を通じて医療の質を高く保ってきたが、それが感染症への対応を難しくしているという事情もある。

 民間病院の多くは中小規模だ。設備や人員が限られ、難しい感染症への対応には二の足を踏む病院がある。施設数が多く、ただでさえ不足気味の人材を分散させている。経営者が感染症対応を考えても、医療スタッフに理解されないと離職される懸念も生じる。

 治療に応じて支払われる診療報酬は医療保険や税で賄われ、政府が厳しく管理している。そのため民間病院は病床を満床に近い状態にしていないと経営が成り立ちにくいため空き病床が少ない。コロナ感染者を受け入れると収益が減る構造も対応を難しくしている。

 政府が国会提出した感染症法改正案は、病床確保の要請に応じない医療機関に対して勧告ができ、それにも従わないと病院名の公表ができるようにするものだ。

 しかし、民間病院の事情を顧みず、強権的な手法を取っても、協力は得られないのではないか。改正案の内容に疑問が残る。

 病床の確保には病院ごとの努力はもちろんのこと、医療機関同士の連携こそ必要ではないか。

 空き病床のある地域に患者を受け入れてもらったり、余力のある感染症対応病院から応援の人材を派遣してもらうなど、広域での協力を考えるべきだ。離職した元看護師の再就職支援も欠かせない。

 設備や人員体制から患者の受け入れが難しい病院は、感染症治療が終わった人の回復治療や、感染症以外の患者を受け入れるなどの役割分担もできるはずだ。

 民間病院は長年、地域で競合してきた他の医療機関との連携には不慣れなのだろう。それでも危機感を共有して、自治体と医療機関が話し合い、役割分担などの協力体制をつくった地域がある。やればできるのではないか。

◆利害超えた協力実現を

 病床確保に向けて医療機関同士の仲介役となる都道府県など自治体の責任は重い。日本医師会や病院の関係団体も協議の場をつくった。利害を超えて協力すべきだ。

 東京都は一部の都立病院を新型コロナ専門病院に変える方針だ。公立病院の活用は他の地域でも検討に値する。

 政府は緊急事態宣言の対象地域の受け入れ病院などに補助金を出している。迅速な給付に加え、必要に応じて拡充すべきだ。医療従事者に対する偏見・差別をなくさねばならない。

 強権的な手法ではなく、医療機関が治療に専念できる環境整備こそ必要である。


今日は一転プラス気温。

雨まで降ってきた。雪が重く除雪が大変。これから低気圧がっ発達して爆弾低気圧になるとの予報。月末は要注意だ。特に北陸あたりが大変そう。ご注意ください!


またも,年金減額

2021年01月26日 | 生活

年金支給なぜ0.1%減額

食料・生活品の物価上昇 「GoTo」が押し下げ要因に

「しんぶん赤旗」2021年1月24日【2面】

 高齢者の老後を支える公的年金。厚生労働省は2021年度の年金支給額を0・1%減額すると発表しました。新型コロナウイルス対策として菅政権が進めた「Go To トラベル」事業が物価を押し下げたことも要因となっています。

「無償化」も影響

 年金額は物価と名目賃金の動きに合わせて毎年度見直します。変動率の高い方に合わせて見直せば高齢者の生活水準は維持され、現役世代との格差も広がりません。しかし、自公政権は04年、基本的に変動率の低い方に合わせて改定する改悪を実行しました。

 21年度改定では物価0%、賃金マイナス0・1%なので、賃金に合わせます。

 しかし、20年度の物価の内訳をみると生存に不可欠な食料品は軒並み上昇。日常生活用品や住居費の上昇も目立ちます。19年10月の消費税率10%への引き上げが物価を押し上げています。

 一方、押し下げているのは「Go To」による宿泊料や「幼児教育・保育の無償化」による保育料、高等教育の修学支援新制度による大学の授業料など。平均5万6千円の国民年金で暮らすような高齢者には縁遠い品目ばかりです。

 日本共産党の宮本徹議員は昨年12月の衆院厚労委員会で「Go To」が物価を押し下げ、年金がマイナス改定される危険を指摘していました。懸念通り、宿泊料と保育料の下落分だけで物価を約0・6%下げています。

 名目賃金は実質賃金に物価変動率を掛けて出します。「Go To」など政府の施策による物価下落が名目賃金も押し下げ、年金額が減らされようとしているのです。

背景に16年改悪

 今回のマイナス改定の背景には、16年の年金制度改悪の影響もあります。

 これまで、年金支給額が減額(名目減)されるのは物価がマイナスになったときだけでした(既に年金が支給されている人の場合)。このルールなら21年度の年金額は据え置きです。

 ところが、自公政権は16年の改悪で、21年度以降は「物価が0以上で賃金がマイナスの場合」と「物価と賃金がともにマイナスで、賃金の落ち込みが物価より大きい場合」は賃金に合わせて年金を見直すことにしたのです。改悪された新ルールが適用されたことで、21年度の年金額が減らされることになったのです。

 自公政権が非正規雇用を拡大してきた結果、実質賃金は下がり続けています。パートタイム労働者に厚生年金の加入対象を広げていることも、賃金の変動率を押し下げる要因になり、16年改悪の影響が今後いっそう強まる恐れもあります。

「スライド」改悪

 16年の改悪では少子高齢化に合わせて年金支給水準を自動的に引き下げる「マクロ経済スライド」も改悪されました。それまでは、年金額の改定率が0以下のときはマクロ経済スライドを発動しませんでしたが、18年度以降は未調整分を翌年度以降に繰り越すようにしたのです。

 そのため21年度のマクロ経済スライドの調整率マイナス0・1%は、22年度以降に繰り越されます。

 16~20年度に新ルールを当てはめると、5年間の年金額の改定率は0・2%からマイナス1・7%へと大きく落ち込みます。

 

予算確保ずみ 減額やめよ

宮本徹衆院議員の話

 物価変動率の内訳をみると、消費税増税の影響で、食料や生活用品は上がる一方、私が昨年12月に国会で指摘したように「教育無償化」や「Go To トラベル」が物価の押し下げ要因となっています。

 政府は2021年度予算案を、年金支給額を据え置く見通しで組んでいます。予算は確保されているのですから、年金の減額はやめるべきです。

 これまでの年金改定ルールでは物価がマイナスでなければ、年金は減額されませんでした。16年に安倍政権が成立させた「年金カット法」で、21年度から物価がマイナスでなくとも、賃金変動率がマイナスであれば年金を減額することになり、今回このルールが適用されました。「年金カット法」の見直しも必要です。


 今国会、野党は今必要なコロナ対策を充実させるために予算案の組み替えを要求しているのだが応じる姿勢はない。年金減額には躊躇がない。

 今朝も冷え込みました。トイレは無事。

 江部乙納屋の雪降ろし終わった。帰ってきて自宅の屋根の雪降ろしも完了。疲れた。


温暖化で森林がCO2の発生源になる!

2021年01月25日 | 自然・農業・環境問題

田中淳夫 | 森林ジャーナリスト

YAHOOニュース(個人) 1/25(月)

 

 現在のまま大気中に温室効果ガス(主にCO2)が増え続けると、地球上に大規模な気候変動がもたらされることは必定とされている。

 それを防ぐために結ばれたのがパリ協定。2030年までに気温上昇を少なくても1・5度以下にすることが求められ、そのために温室効果ガスの排出をいかに減らすかが世界各国の課題だ。その対策の中でも、森林生態系は重要な役割を担っている。

 たとえば日本の場合、2030年度の排出量を2013年度の水準から26%削減するという目標を立てた。このうち約2780万CO2トン(2.0%)を森林吸収量で確保する計画だ。日本の計画は森林吸収分に期待するところ大なのである。

 だが森林の吸収分について、重大な指摘がアメリカの研究者チームよりなされていた。森林のCO2を吸収する能力そのものが、温暖化によって大きく落ちる可能性を指摘しているのだ。

高温で光合成能力が低下

 アメリカの科学誌サイエンス・アドバンシズに掲載(1月13日)された論文「How close are we to the temperature tipping point of the terrestrial biosphere?」によると、気温が一定以上に上昇すると、植物のCO2吸収能力が低下するという。能力が低下する限界温度は地域や植物の種類によって異なるが、現在予測されている温暖化の気温のままだと、21世紀末には地球上の植物の約半分が、CO2を吸収するどころか逆に排出するようになるという。

 そんな予測を出したのは、北アリゾナ大学キャサリン・ダフィ氏率いる研究チームだ。熱帯雨林や亜寒帯林などの森林のCO2吸収能力が、2050年までに45%以上低下する恐れがあると指摘。「気温が臨界点に達するのは今後20~30年以内」と警告した。

 現在、人間の活動で排出されるCO2の30%を森林など陸上の生態系が吸収しているとされるが、もし「CO2吸収源」が「発生源」に変わってしまえばパリ協定の目標の達成は(今でも厳しいとされるが)極めて難しくなるだろう。

詳しい研究内容は原文を読んでいただくとして(正直、専門的すぎて内容を理解するのは大変)、理屈そのものは簡単だ。

森林がCO2を吸収するのは、大部分を占める植物が光合成を行うからである。葉っぱなどに含まれる葉緑体で行われる光合成の反応で、CO2と水などから有機物を作り出し、酸素を排出する。

 一方で植物は呼吸も行う。こちらは動物と同じく細胞が活動するエネルギーを、酸素を吸収して水とCO2を排出する反応によって産み出す。通常、呼吸と光合成それぞれが吸収・排出する量は、光合成の方が多い。だから植物は「CO2を吸収して酸素を出す」と説明するのである。

 光合成の能力は、気温がある程度高い方が強まるが、一定以上になると低下することが知られている。高温すぎると光合成の反応ができなくなるのだ。実際、真夏のもっとも気温が高まる昼下がりの時間には、多くの植物が光合成を抑制することが報告されている。ところが呼吸は、どんな植物も高温になればなるほど増加し低下しない。

 光合成の能力が落ち、呼吸量は増すと、CO2は吸収より排出する方が多くなる温度があるのだ。その臨界点が問題だ。地球温暖化が進むと、植物の中には臨界点を超える気温になるものが増える。すると森林全体ではCO2を出すことになりかねない。

土壌もCO2発生源に

 なお、これは今回の研究とは別だが、以前より気温が上昇すると、土壌中の有機物の分解が早まるという指摘はあった。森林は炭素を貯蔵しているとされるが、それは何も樹木など地上などに生えた植物体だけではない。むしろ土壌内に、落ち葉などが蓄積されて生まれた腐葉土などの有機物を多量に蓄積されている。

 これは温帯林、亜寒帯林で顕著だ。土壌の層は数メートルから数十メートルの厚さになるが、そこに含まれる有機物の炭素量は膨大だ。落ち葉などが微生物などに分解されるには長い年月がかかるため、蓄積されていくからだ。その点、熱帯雨林では土壌層は非常に薄い。だいたい数センチしかない。もともと気温が高いため、落ち葉などの有機物はすぐに分解されるからである。

 温暖化が進めば、微生物の活動も活発になる。すると土壌に含まれる有機物の分解速度が早まる。熱帯雨林なみになるかもしれない。そして有機物の分解は微生物の呼吸作用であり、CO2の排出を意味する。

 温暖化が進むことで、温帯や亜寒帯の森林の土壌から大量のCO2が排出されるようになりかねないのだ。

 温暖化対策の重要なファクターであった森林が、温暖化ゆえ植物の光合成能力が落ち、呼吸も増えるのに加え、微生物も活発に有機物を分解する……その結果、光合成で吸収する量を上まわるCO2が森林から排出される、それがまた温暖化を促進する……としたら、まさに悪夢だ。

 もしかしたら気候変動を引き起こす気温のティッピングポイント(後戻りできず、急速に全体に広がる臨界点)は、これまでの推定以上に低いのかもしれない。

 

田中淳夫   森林ジャーナリスト

日本唯一にして日本一の森林ジャーナリスト。自然の象徴の「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで活動中。森林、林業、そして山村をメインフィールドにしつつ、農業・水産業など一次産業、そして自然界と科学(主に生物系)研究の現場を扱う。自然だけではなく、人だけでもない、両者の交わるところに真の社会が見えてくる。著書に『鹿と日本人 野生との共生1000年の知恵』(築地書館)『森は怪しいワンダーランド』『絶望の林業』(新泉社)など多数。Yahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』あり。最新刊は『獣害列島』(イースト新書)。


今日の散歩道。(冬のソナタ江部乙編)

午前中、納屋の雪降ろし。2.3年前なら1日仕事だったけど、3.4日かかりそう。

 


アボカド食べて、チューリップを飾るのはもはや罪?→「SDGsに向かう確信があった」 ELLE編集局長に新しいファッションのあり方を聞いた

2021年01月24日 | 生活

ハフポスト 2021年01月22日 

人の欲望とのせめぎ合い...SDGs突き詰めると、矛盾にぶち当たる。世界の排水の20%と世界の二酸化炭素排出量の10%を生み出しているファッション業界。いま私たちができるサステナブルは?


Jun Tsuboike / HuffPost Japan坂井佳奈子・エルグループ編集局長=2020年9月、東京都内のオフィスで

ファッションは、悩ましい。
クローゼットにその日に合わせて選ぶ洋服があるのは気持ちを高めるし、新しく手に入った洋服に袖を通す時には嬉しい自分がいる。
一方で、消費世界の中で踊っているのかーーという心の声も聞こえくる。

人々の欲望を刺激し、人々の羨望を集め、次の時代の世界観を示すファッション誌。消費社会と向き合う現場でもある。

時代の波頭をとらえるファッション誌は、次々と流行を生み出し消費を喚起させてきた立場から、今、どう方向転換しようとしているのか。「確実にきている」というサステナブルの流れを、どうとらえ、発信しているのかハースト婦人画報社で『ELLE JAPON』などを統轄する坂井佳奈子・エルグループ編集局長に聞いてみた。

アボカド食べて、チューリップを飾るのは罪か

そもそも私がELLE JAPONに話を聞かせてもらおうと思ったのは、消費社会とサステナブルと二つの相反することにどう向き合っているのか、ファッション誌はどうとらえているのか教えを乞いたかったからだ。

ステキな洋服、美味しいご飯、飛行機を使っていく旅...。こうしたものはなかなか手放しにくい。(「私、欲望のまま生きすぎている?」と心の声。)
冬でもアボカドやトマトは食べたい...。(「海外から輸送したり、温室で作られたりするときの二酸化炭素出しているよ」との声が頭の隅っこにこびりつく。)

ビンテージを着ていても、それを取り寄せたら輸送中の二酸化炭素が排出される。アフリカの雇用を作るためと銘打つアフリカの薔薇を買っても、空輸時の二酸化炭素はいかばかりか。春を感じさせてくれる真冬のチューリップは、温室栽培。春の花は春まで待つべきか。

服を着る、ものを買う、肉や輸入野菜を食べる。消費社会では当たり前にやってきたことに、罪悪感を感じる時代がきつつある。知れば知るほど、人の経済活動の負の部分が見えてくる。

本当に“いい事”とは何かーー。
「いいと思っている行為でも欺瞞では」。無限ループのように問いかけがこだます。


Yogesh Kumar Attri via Getty Images新型コロナウイルス感染拡大を受けた2020年、北インドでは普段みられないヒマラヤ山脈を見ることができた。活動が制限されたことで大気汚染が抑えられたことで、100~200キロ離れたところからも見ることができたという。

究極には、地球を破壊する「ヒト」という動物がいなくなると、地球は救われるということになってしまう。SDGsは、人の存在という矛盾を抱えながら考えるしかないものなのかもしれない。

ジレンマの中で、我々はどう生きるのか。
考え続け、できるアクションをとる、今すぐにできることからでいいよ、と背中を教えもらえる一冊がELLEから出版されていた。

「人類が消えたら...」新型コロナで垣間見え

2020年、新型コロナで、人々がこれまでの当たり前だった活動をやめ家に篭った。すると、インドではヒマラヤが十数年ぶりに望めるようになり、イギリスでは人が消えた町に野生のヤギの大群が出てきて闊歩し、香港ではイルカが海辺に戻り、ベネチアではヘドロが沈み魚の姿が見えた。 

「もし、地球を傷つける人類が消えたら...」そんな世界が少しだけ垣間見えたと言っても大袈裟ではない。そんな情景が見え始めた2020年初夏。ELLEが打ち出したのが「Green for Life 地球からのメッセージ  ー未来を変えるアクションを!」という特集だ。世界45カ国・地域で発行するELLEは、これまで毎年一度、各国号で一斉にサステナブルをテーマにしてきた。

本気でない人たちへの窓口に。50人の言葉

2020年版は、個人のライフスタイルやファッションはどうあるべきか、 事例を通して踏み込んだ提案をする特集となった。
「100%エコな暮らしをするのはむずかしいですよね。自分の変化が地球の変化にどう繋がるのか? そのアプローチは? まずは想像を膨らましてみてほしい」と坂井編集局長は話す。
いわゆる“本気ではない人“たちへの窓口を作るのが使命だといい、ゼロか100で判断せず、一歩踏み出せる方法を提案する。

巻頭で坂井編集局長は「(例えば)冷蔵庫のゼロ・ウェイストに個人的にチャレンジする。それはフードロスを減らせるし、料理のレパートリーが増えるので一石二鳥になりますよ」と一歩先を行くための地図を見せてくれようとする。

この号には、サステナブルに生きようとする50人あまりが紹介されている。


Jun Tsuboike / HuffPost Japan

「大好きなファッションが害」と知るのは怖い

ミュージシャンのグライムスは、「自分が大好きなことが環境に害を与えていると認識するのは怖いし、不快ですらあるけれど、解決すべき問題のリストのトップに挙げるべき」と自分も好きなファッションのあり方を変えようと訴える。

1本のプラスチックのストローを減らすことで何が変わるのかと聞かれた、モデルのアンニャ・ルービックは「ストローなしの生活を選択すれば、プラスチックのカップも、ボトルも不要だと考えるようになる」と話す。

新しい生活での習慣は、より大きな変革に繋がる。「意識が変わった人は、温暖化に反対する政治家に投票するようになるはず」。サステナビリティは、単なるキャッチフレーズではなく私たちに残された最後の選択だ、と力強い言葉を放つ。 
 さらに、「最初の一歩」をどう踏み出せば良いのか、身近な人の話も続く。

プラスチック製ではなくシルクのデンタルフロスに変えたり、アパレル産業の二酸化炭素排出量を気にかけ、ビンテージの洋服をお洒落に着たりするブロガーたちの様子も紹介する。

Theo Wargo via Getty Images「自分が大好きなことが環境に害を与えていると認識するのは怖いし、不快ですらあるけれど、解決すべき問題のリストのトップに挙げるべき」と話すグリムスさん=2018年、ニューヨーク

ファッションは楽しいもの。それは変わらない

「世の中がSDGsに向かっていくという確信が数年前からありました」と
坂井編集局長は話す。危機感を様々なファッション業界の関係者たちとのやりとりから感じ取っていたという。「ファッション界は、SDGsのことを考えないと先がないという意識です」。

服の制作過程での環境負荷は、かなり多い。コットンTシャツで15kg、デニム1本作るのに33kgの二酸化炭素を排出する。ファッション業界は、世界の二酸化炭素排出量の10%を生み出していると言われている。世界の排水の20%もファッション業界によるものだとされる。

「100%地球に害がないと言うのもはない。一方、ファッションが楽しいものであり続ける、その価値は変わらない。ならば、カラー染め、化学物質使ったものではなく環境に配慮したものを。それが最初に一歩になる。みんなの背中を押す発信を積極的に展開していきたい」と言う。 

一人一人が、責任ある買い物ができるよう、消費社会の中でステークホルダーだと意識することだ。

ファッション界は変わったという確信がある

いわゆる“本気ではない人”たちへの窓口を作るのが使命だとはいえ、サステナビリティは、非常に壮大テーマだ。どう自分ごとにしてもらうか。

地球規模のことを自分ごとに落とすための秘訣をこう坂井編集局長は言う。「シリアスなことを語るには、ユーモアを入れなさい」。これは、ELLE創業者の言葉で、ELLEのDNAなのだと言う。

人の欲望とサステナブルのせめぎ合いの中、「今できること」を最大限に提示しようとしている。

「ファッション界も大きな変革が始まった。これまでのコレクションはこれが最後だったのかもしれません」
と坂井編集長。変わり目にいることだけは確かだ。
【ハフポスト日本版・井上未雪】


 今朝の気温ー24℃。またもやトイレの水が出てこない。日中は晴れて氣持ちが良い。でも空気が冷たい。散歩をしていても顔がビリビリする。これは―15℃をこえている。

 江部乙の納屋の雪降ろし。


雪がぎっしりと詰まって固い。これはちょっと難儀。


キノコ カバノアナタケ=チャガー

2021年01月23日 | 健康・病気

「コロナに効く」ロシアが認めたキノコ「チャーガ」の効能 腫瘍縮小、糖尿病の改善も

大平誠2020.12.11  AERA

 ロシアの世界的な研究施設が「新型コロナに効く」と認めたキノコ、チャーガ。 実用化に向け研究途上だが、日本でも驚きの効果を発揮した例があった。 AERA 2020年12月14日号で掲載された記事を紹介。

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 ロシア国立ウイルス学・生物工学研究センター(通称・ベクター)の専門家が、白樺のキノコをベースにした新型コロナウイルスの治療法を発明した──。11月上旬、ロシアの有力全国紙「コメルサント」にこんな記事が掲載された。チャーガ(和名・カバノアナタケ)というこのキノコは、日本でも生活習慣病などの治療に効果をあげた例があるという。

■2カ月で腫瘍が小さく

「チャーガは主にロシア・シベリア地域に分布する白樺の幹に寄生し、樹液を栄養に20年以上かけて成長します。2万本に1本しか見つからない希少性から『森のダイヤモンド』と呼ばれ、古くから日常的に飲用してきたアレクサンドロフ郡の住民は、がんの発症率が極端に低いという医学データも出ています」

 こう語るのはチャーガの効果に注目し、吸収を高めるための超微粒子化など独自加工技術に取り組んでいる「グローバルデベロップメント」社長の油屋康さん(57)だ。

 チャーガには免疫細胞を活性化させるβ‐D-グルカン、血糖値を調整する多糖類、コレステロール値を正常に保つベツリン酸などが多く含まれており、がんの進行抑制や肝障害の改善、HIVの抑制などの効果を認めた論文が多数出されている。

「ベクター」内の菌学研究所長であるタマラ・ウラジミロフナ教授は今回、新型コロナウイルスに対してチャーガ水性抽出物が高い阻害活性を持つと確認し、メディアにこう答えた。

「治療薬として開発するにはさらなる研究が必要だが、既に発症している患者には、医師の処方薬と並行してチャーガの濃縮水性抽出物を服用することを推奨できます」

 東京都立駒込病院の篠浦伸禎脳神経外科部長は、担当した男性患者の脳腫瘍が劇的に改善したのを目の当たりにした。この患者は2016年、水頭症の手術を受けた時の検査で松果体の腫瘍が見つかり、駒込病院に転院。腫瘍が増大して意識障害などが表れたため、いったん脳圧を下げて急場をしのぎ、2カ月間リハビリのため他院に転院後、再入院して切除手術をすることになった。篠浦医師はこの間、母親の希望に応じてチャーガの市販品を飲ませることを許可した。すると再入院時には腫瘍が大幅に縮小していたという。

「手術の必要がなく、すぐに退院してもらいました。こういう経験は初めてで驚きました。チャーガは生命力の塊なので、視床下部を強化して免疫力、自然治癒力が高まったのでしょう。松果体腫瘍は脳のど真ん中で手術が非常に難しい箇所ですから、手術しないで治るに越したことはありません」(篠浦医師)

 この患者、高嶋直幸さんは残念ながら今年3月、自転車で出勤中に軽トラックにはねられ、4日後に亡くなった。56歳だった。母親で埼玉県川口市の高嶋陽子さん(85)は言う。

「たった3~4週間飲んだだけのチャーガが命を救ってくれて、好きな音楽活動を再開できた。感謝しています」

■副作用の報告はないが

 東京都内でバーを経営していた藤井雅彦さん(57)は10年ほど前に糖尿病を発症。医師による投薬と食事療法を続けていたが、白内障や手足の指先の感覚が鈍くなるなどの症状に苦しんできた。しかし友人の勧めで7月末からチャーガを飲み始め、約100日で指標となるヘモグロビン値が2ポイント下がり、正常値になった。

35度7分だった平熱が36度5分まで上がったので免疫力が向上しているのでは。症状の改善に加えて精神的にリラックスでき、10年後の人生を考える余裕が出てきました」(藤井さん)

 篠浦医師は「チャーガによる副作用は報告されていませんが、白樺アレルギーの人は服用してはいけません」と話す。そして、新型コロナについてこう訴えた。

「完全な感染予防は不可能なので、感染しても重くさせないことが重要。免疫力がしっかりしていれば重症化を防げるし、がんや生活習慣病の予防にもなる。『未病』の視点が大事なのです」

(編集部・大平誠)※AERA 2020年12月14日号

 

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株式会社ノーザンプラント

以後は日本東洋医学会認定専門医 医学博士小川哲夫氏の著書「免疫力活性化で注目される健康茶カバノアナタケの魅力」より引用、抜粋させていただいております。書籍の詳しい説明はコチラからお願いいたします。

効能について

 カバノアナタケは、ロシアや北欧では昔から胃腸病などの民間薬として使用されていました。近年日本でも新聞、マスコミに取り上げられ様々な効果が北海道大学農学部、北海道立食品加工研究センターなどで検証され発表されています。

 冒頭で記載しました著書によると、大きな効能として2つ述べられております。高い抗酸化作用と免疫機能の健全化です。

1.高い抗酸化作用

 抗酸化作用のある食品はが体に良いとマスコミにて報道されてから、一気に抗酸化作用を含む食品が注目されました。では何故抗酸化作用のある食品が注目されたかと言いますと、抗酸化物質は過剰に発生した「活性酸素」と言う、人体で毒になりうる物質を排泄してくれる事にあります。生活習慣病の原因としても「活性酸素」が関与しており、金属がさびてボロボロになったり、りんご等の切り口が変色するのも活性酸素の仕業。これと似た現象が体内でも起こっているのです。

 抗酸化作用のある食品で有名な食品と言えば「赤ワイン」ですね。赤ワインには強力な抗酸化作用のある物質「ポリフェノール」が大量に含まれているとの事で注目されています。その他の効能としましても、動脈硬化の予防、美肌効果、更年期障害の緩和等様々な効果がうたわれています。

 しかし、実はこのポリフェノールと言う物質ですが沢山の種類があり、その総数は4,000種類にもおよびます。また、赤ワインのみならず様々な食材に存在しいており、一例をあげますと、前述の赤ワインにはカテキン、アントシアニン。緑茶や柿、バナナにもカテキン、アントシアニン。アロニア、ブルーベリー、マンゴーに含まれるアントシアニン。豆腐や納豆などの大豆食品に含まれるイソフラボン。ココアやチョコレートに含まれるカカオマスポリフェノール。春菊やホウレン草に含まれるケルセチンなど多数の食品から摂取が出来る為、あまりシビアにならなくとも良い物質とも言えます。

 一方、カバノアナタケには、「活性酸素」に対抗する高い抗酸化酵素作用を持つ物質、「SOD様物質」が多く含まれております。この「SOD様物質」ですが生体内で発生した活性酸素を分解し無毒化する酵素の事を言います。高い抗酸化酵素作用を持つ物質「SOD様物質」という酵素を体内に取り込むには、カバノアナタケはとても効率が良い食材となります。

2.免疫機能増強作用

 人間の体には60兆個の細胞があり、その中の約0.5%にあたる3,000億個の細胞が日々死滅に、同等の数の細胞が生まれます。その中で約5,000個の細胞が「がん細胞」として再生されると言われています。その約5,000個のがん細胞は生体が正常の場合、免疫細胞の働きにより日々死滅させられています。

しかし昨今、環境汚染、紫外線、食品添加物、過労、ストレス、加齢による免疫力の衰退により、がん細胞が死滅しなかった場合、がんが発症してしまいます。そうならないために現在、免疫療法がクローズアップされております。

 免疫療法で注目されているのが「β-グルカン」です。これは植物や菌類に含まれる多糖体です。とりわけキノコ類に多く含まれる有効成分で、メシマコブやアガリクス、カバノアナタケが注目されています。とりわけ「β-グルカン」と「抗酸化物質」が驚くほど豊富に含まれていると注目されているのがカバノアナタケです。

 β-グルカンの一種、β-一,三グルカンは酸に強いため胃酸に影響されず、さらに消化液には分解する酵素が含まれていないため、ダイレクトに体内を駆け巡る成分となります。β-一,三グルカンは腸管壁に無数に存在している免疫細胞、マクロファージを刺激し活性化しβ-グルカンは体内に取り込まれます。

その事により免疫細胞であるT細胞までも元気づけます。β-グルカンにより直接活性化されるのは腸壁のマクロファージですが、腸壁のマクロファージが活性化すると、腸壁内のみならず他の部位にあるマクロファージも同時に活性化します。

β-一,三グルカンの強力な抗酸化作用は、主としてアメリカ陸軍で放射線被ばく障害の動物実験により証明されており、 β-一,三グルカンはマクロファージを活性酸素の毒からも守るとされています。

カバノアナタケで望める効果

1.免疫力活性化

 カバノアナタケに豊富に含まれるβ-一,三グルカンは、免疫機構の中心となっているマクロファージを活性化することで、検疫力の増強を行います。免疫機能が健全に働けば、ガン細胞、細菌、ウイルスと言った外敵に十分対応が可能です。カバノアナタケは免疫力を最大限引き出して、病気になりにくい体を維持する手伝いを行います。

2.生体の恒常性維持

 生体の恒常性とは、生物体が外部環境の変化や食物の影響にもかかわらず、体温 ・ 血糖値 ・ 血液酸性度などの生理的状態を一定に保つこと無意識のうちに持ち合わせている能力で、内外の環境変化に応じて生体バランスをコントロールする作用の事をいいます。

 何らかの要因(外傷や内的ストレス)でこのバランスが崩れても、自律神経系、内分泌系、免疫系がお互いにバランスを保とうとします。この機能が正常に働いているほど健康が保てます。カバノアナタケには各種ミネラルなどの生態恒常性を保つ成分が含まれているので、健康体維持に役立てることが出来るでしょう。

3.抗腫瘍活性

 全般的にキノコ類はがんへの有効性が高い事が知られており、最近ではアガリクスなどがガンに効くとして脚光を浴びています。研究によりとキノコ類に含まれる多糖類が有効であり、実際にカワラタケ、シイタケ、スエヒロタケに含まれる多糖類クレスチン、レンチナン、シゾフィランは厚生省に認可を受け免疫療法剤として臨床現場で使用されています。

 カバノアナタケには、ガンに有効とされているβ-一,三グルカンが他のキノコに類を見ないほど豊富に含まれています。また、2001年3月には北海道大学大学院農学研究科の申有秀博士が「カバノアナタケの生産する化学成分」で強い抗がん効果を有する化合物であるエルゴステロール、パーオキサイドがカバノアナタケに存在する事をつきとめ学位論文として発表されています。

4.アレルギー性疾患の予防と改善作用

 アトピー性皮膚炎、花粉症、気管支喘息といったアレルギー性疾患は、本来自分を守るために働くべき免疫機能が正常に機能せず、過剰な自己防衛機能が発現した結果、自己への攻撃が起こってしまった状態です。過剰自己防衛反応が起きた時のブレーキ役となるべきサプレッサーT細胞が上手く働かなくなるために起こると考えられています。

 対策として混乱を起こした自己免疫機能を本来あるべき姿に戻してやることが有力な解決法になる事は間違いありません。カバノアナタケには免疫力を高めるとともに、その働きを調整、調和させ正常化する作用があると言われおり、著名な抗アレルギー作用が認められ、アトピー性皮膚炎や気管支喘息、花粉症などの改善例が多数報告されております。

5.抗ウイルス作用(水溶性リグニン)

 ウイルス等の異物が体内に侵入してきた際、排除を行うのは免疫細胞であります。カバノアナタケが持っているβ-一,三グルカンには免疫活性化作用を活性化し、ウイルスに直接作用し撃退する成分も含まれています。この成分は食物繊維中の水溶性リグニンと呼ばれる物質で、HIVウイルスやインフルエンザウイルスの増殖を効果的に抑制する事実がいくつかの研究所から報告されています。(北海道立食品加工センター渡邉治先生のインタビューを参照)水溶性リグニンはウイルスからの攻撃を未然に防いでくれます。

6.血糖降下作用

 生活習慣病の一つで600万人国民病と呼ばれる糖尿病は、インスリンが不足し摂取した糖分を処理できなくなった結果、血液中のブドウ糖濃度が高くなる病気です。糖尿病が悪化すると、網膜症(失明)、腎疾患(腎炎、腎不全)、神経障害(麻痺)など重篤な合併症を起こします。カバノアナタケには、インスリン分泌を促すとともに、腸管からの糖分吸収を抑えて血糖値を下げる効果のあることが明らかになっています。

7.食物繊維の効果

 食物繊維は1970年代、日本人の食生活の欧米化と共に増えてきた成人病の予防効果や、消化器系のがんである、大腸がん、直腸がん、結腸がんの予防に関係しているとの事で注目されはじめました。食物繊維は体に有害な物質を吸着、排泄する事で、成人病や消化器系のガンを予防すると言われています。

また生活習慣病に関係のある血液コレステロール、中性脂肪を低下し、血糖値の上昇を抑制します。その他、便秘の予防にも効果的です。食物繊維を含む食材は多々ありますが、カバノアナタケに含まれる食物繊維は極めて良質で、これらの効果を大いに期待できます。また、健康的なダイエット補助食品としても最適です。

食物繊維が予防する成人病(生活習慣病)

1.肥満 2.高脂血症 3.虚血性心疾患 4.糖尿病 5.大腸がん 6.便秘

8.骨粗鬆症の予防効果

 ビタミンD2は骨粗鬆症の予防、改善に関与していることが知られています。ビタミンD2は骨の発育に必要不可欠な、カルシウムやリンの吸収や沈着に関与しています。ビタミンD2は脂肪の多い魚であるイワシ、カツオ、マグロ、卵黄、バターなどでも摂取出来ますが、摂取カロリーの点から、カロリーの低い干しシイタケやカバノアナタケなどから摂取する事が最善です。

最近ではダイエットにより若い層にも骨粗鬆症の予備軍が多数います。そのような方にもカバノアナタケは適合するのではないでしょうか。

9.動脈硬化の予防効果

 動脈硬化の原因はLDLで、LDLは活性酸素によって増える事がわかっています。活性酸素を減らしLDLの発生を防ぐことが重要です。活性酸素を減らす効果を持っているのが抗酸化物質であるポリフェノールとなり、代表的なポリフェノールは①赤ワイン、ブドウ、ブルーベリーに含まれる紫色の色素であるアントシアニン、②緑茶やリンゴに含まれるカテキン、③ウコンに含まれるクルクミンなどがあります。カバノアナタケには活性酸素に対抗する高い抗酸化酵素作用を持つ物質、SOD様物質が多く含まれております。

カバノアナタケで快適な生活をお送りください

 現代、食の欧米化により活性酸素を取り込みやすくなっています。また、活性酸素を発生しやすくする食品の摂取、ストレス等外的要因により免疫機能の低下も懸念されています。

 カバノアナタケには「抗酸化物質」と特殊な「多糖類であるβ-グルカンやヘテログルカン」が極めて多く含まれておりますので、健康維持を目的にカバノアナタケを飲用し、快適かつ正常な身体へ近づける努力を行ってはいかがでしょうか?


 実はわたしも先月17日より飲用しています。ご存じのように成人してからずうっと皮膚疾患に悩まされ、膝の痛みも現れてきています。先日医師に「膠原病」ではないかと確認したところ、その可能性はほとんどないとのことでした。これは遺伝的なもので、「免疫機能の異常」であり、現在のところ根本的な治療法は無く、対処療法で見ていくしかないということでした。確かに、両親がどうだったのかはわかりませんが、姉・妹にも似たような症状があるようです。そしてわたしの娘にも出ているのです。
 先日ブロ友さんの記事に同じ症状が記載されており、驚きました。わたしは手のひらや指、足などにごく小さな水疱が出て痒くなるのです。また、アカギレのように指の先が割れてしまいます。

 幸い、裏山にもありますし、近くの道の駅でも簡単に手に入れることができます。100g1000円。これで2か月ほど持ちます。他のサプリメントと比べても格安です。

 飲み始めて1週間ほどで、すごく鼻水が出てきました。好転反応でしょうか?2.3日で治まりましたが、さらに1週間くらい後に再び同じような症状が出ました。その後は表れていません。それから毎日目で見てわかるように良くなってきています。
 飲み方ですが、一片をポットに入れて煮だし、少なくなればお湯を足します。液が薄くなるまで何回も足していけます。薄くなったら、古いのは取り出さず新しいのを加えます。カスも混ぜて飲んだほうが良いそうです。

 入手ご希望の方はこちらにお問合せしてみてはどうでしょう。


内田樹の研究室 市民社会とコモン

2021年01月22日 | 社会・経済

2021-01-19 mardi

1月11日にコープ自然派事業連合・憲法連絡会主催の講演会が神戸国際会館であった。そこで標題のような話をした。

 1月6日、アメリカでトランプ大統領支持者たちが連邦議会議事堂に乱入し、5人が死亡するという事件がありました。これを承けて13日、下院は大統領罷免の弾劾訴追を可決しました。二度も弾劾訴追されたのはアメリカ史上トランプが初めてです。

 トランプ支持者たちは今回の大統領選を不正な「盗まれた」選挙だとして、バイデンの勝利を否定しています。トランプはその前に開かれた集会で「みんなで議事堂に行こう」と煽りました。トランプ自身も行進に加わるつもりでしたが、側近たちがセキュリティを理由に止めたそうです。日本では総理大臣が市民を煽って、国会議事堂を襲うというようなことは想像もできませんが、アメリカはそういうことがあり得る国だということを改めて思い知らされました。それはアメリカでは「市民的自由」の意味が日本とはまったく違うからです。

 アメリカは理念の上に構築された人工国家です。そういう意味では、ソ連やイスラエルと似ています。ふつう、国民国家というのは、長い時間をかけてしだいにかたちづくられるものです。言語や宗教や生活文化を共有する同質性の高い国民たちが集って国民国家は形成される。少なくとも「そういう話」になっている。しかし、アメリカは違います。イギリス本国から逃れ出た過激なプロテスタントたちが新世界に「聖書にもとづく理想社会」を建てようとしてつくった植民地です。

 独立戦争のとき、1776年に「独立宣言」が発せられ、その11年後の1787年に「合衆国憲法」が制定されました。宣言から憲法までの間にアメリカ合衆国をどのような国にするかをめぐってはげしい論争がありました。13州それぞれが強い独立性を持ち、連邦政府の権力を限定的なものにとどめるか、それとも連邦政府に権力を集中して、州政府の権限を抑え込むか。「強い州政府」を求める分離派と「強い連邦政府」を求める連邦派が争いました。でも、結論が出なかった。その結果、憲法は双方の主張を採り入れた「玉虫色」のものになった。大統領選における選挙人制度のような外から見ると意味のわからない制度がありますけれども、それはこのときの妥協の産物です。

 常備軍を持つかどうかもこのときに論争になりました。分離派は連邦政府が軍を占有して、州の独立性が侵されることを嫌がりました。一方の連邦派は連邦政府の指揮下に強固な常備軍を整備しなければ他国からの侵略に迅速に対処できないと訴えました。それでも、建国の父たちは、英軍が国王の私兵として植民地市民に銃を向けたことの苦痛を独立戦争のときに身を以て味わっていたので、最終的に合衆国憲法は第8条第12項に「陸軍のための歳出は2年を超えてはならない」という規定が入りました。つまり、国難的状況に遭遇したら、武装した市民が集まって軍を編成して戦う。危機的事態が去ったら、軍を解散して再び市民生活に戻る。常備軍は持たないということにしたのです。現に、植民地人たちは独立戦争をそのようにして戦って、独立を勝ち取った。そのやり方を「間違っていた」と総括するわけにはゆかなかった。だから、「武装した市民」が建国した国という物語を温存することにしたのです。

 独立宣言は「すべての人間は生まれながらにして平等であり、創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と謳っています。そして、その権利を守るために、「政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立する」権利があると明記されています。市民には武装権、抵抗権、革命権がある、と。しかし、11年後に起草された合衆国憲法にはもうそのような文言はなくなっていました。

 憲法修正第一条には信教の自由、言論出版の自由と「国民が平穏に集会する権利および苦痛の除去を政府に請願する権利」が保証されています。でも、そこには「平穏に(peacefully)」という副詞が挿入されています。

 抵抗権・革命権を明記することを嫌ったのは連邦政府に強大な権力を付与しないと国は守れないと考えた連邦派の人たちでした。たしかに独立戦争は偉大な実践であり、アメリカ市民の誇りだけれど、同じような武装市民による政府の廃止を「不必要に何度も繰り返すことはあまりに危険である」(『ザ・フェデラリスト』)と考えたのです。ずいぶん歯切れの悪い言い方ですけれども、要するに原理的に革命権は与えるけれども、それを濫用してあまり無茶なことはしないでくれということです。

 アメリカは建国のときから、統治理念のうちに「政治権力は暫定的なものであり、市民が不都合と考えたら廃止、変更可能である」という原則を含んでいました。それゆえに、アメリカでは「市民である自分が納得できないような政府には従う必要はない」という考え方が深く根付いています。

 アメリカには「リバタリアン」という人たちがいますけれど、これは政府の利害よりも市民個人の利害を優先させようとする立場です。日本でしたらたちまち「非国民」と言われるところですけれども、アメリカでは建国理念のうちにそのような考え方が正統的なものとして含まれている。

 トランプは典型的なリバタリアンです。リバタリアンにとって最も大切なのは「自由」」です。公権力が介入してきて自分たちの考えや行動を規制することに徹底的に抵抗する。ですから、リバタリアンは徴兵に応じず、税金を払いません。自分の命は自分で守る。政府に保護を求めない。だから軍隊には行かない。自分の金をどう使うかは自分で決める。政府に委ねない。だから、税金は払わない。その代わり、どんなに経済的に困窮しても公的支援を求めない。トランプは4回徴兵を忌避して、2016年の大統領選のときには連邦税を払っていないことが暴露されましたが、平然としていました。トランプ支持者はそのことを批判するどころか拍手喝采を送りました。つまり、トランプ支持者たちというのは彼のリバタリアン的な生き方のうちに「リアル・アメリカン」なものを見ているということです。

 だから、トランプ支持者たちが議事堂に乱入したことについてとりわけ違法なことをしているという認識がなかったのは、彼らが主観的には「人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立する」市民の権利を行使していると思っていたからです。

 アメリカでは建国以来、統治原理そのもののうちにある種の矛盾を抱え込んでいます。それは連邦派と分離派の対立であり、リバタリアニズム(自由原理主義)とコミュニタリアニズム(共同体原理主義)の対立であり、統治原理で言えば自由と平等の対立です。それが形を変えて繰り返されています。

 近代市民社会では、「自由と平等」は並列的な概念のように扱われていますけれど、よく考えてみると、自由と平等はトレードオフの関係にあります。自由をひたすら追求すれば平等の実現は遠のき、平等をひたすら追求すれば個人の自由は阻害される。世界の多くの国がデモクラシーを導入して何百年経っても、いまだに繰り返しデモクラシーの危機に遭遇するのは、デモクラシーが本質的に不安定な政体だからですが、それはデモクラシーの根本理念であるところの「自由と平等」が実はたいへんに相性が悪いからです。自由を優先すれば、平等が犠牲になり、平等を優先すれば自由が犠牲になる。巨大な公権力が存在して、市民生活に強権的に介入すれば自由は抑圧される。でも、公権力が私権を制限し、私財の一部を徴収して、公共財を豊かにして、それを弱者・貧者に再分配するしくみをつくらなければ平等は実現しない。自由主義者は「小さな政府」を求め、平等主義者は「大きな政府」を求めます。

 アメリカの南北戦争も、一面から見ると、自由か平等かを選択する戦争でした。政策的に最も対立したのは奴隷制度廃止です。リンカーンは人種差別を廃して人種間平等を実現しようとしたのですが、そのためには「人種間の平等なんか不要だ」と主張する人たちを一方の政府が軍事的に制圧して、制度を強制するしかなかった。南部連合の「自由」を尊重していたら、奴隷制撤廃による「平等」は実現できなかったということです。

 でも、奴隷制支持者の側にも大義名分はあったのです。「独立宣言」には「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と書いてあるからです。創造主はすべての人を平等につくった。誰もみんな平等に生まれた。だったら、それから後は自由競争です。個人的な努力によって、ある者は強者になり、ある者は敗者になる。ですから、勝者と敗者、強者と弱者、富裕な者と貧しい者の格差は、もともとは平等に創造された人間たちのそれ以後の人間的努力の差に過ぎないという説明が可能になる。平等の実現は神さまの領域の仕事であって、人事にはかかわらない。そこに公権力が介入して、無理やり平等を実現することは、人間の分際で神さまの領域を侵すことに等しい。それは許されない。そういうふうにリバタリアンは考えます。だから、公権力が制度的に平等を実現することにあくまで反対する。努力しなかった人間、才能がなかった人間を公権力が税金を使って救済することはアンフェアである、と。リバタリアンたちは「自由を求める人間は強者であり、平等を求める人間は弱者である」というふうに考えます。そして、人間はすべからく強者たらねばならない。この考え方はアメリカ社会には深く根付いています。

 アメリカの保守思想家の中にはユダヤ人が多く含まれています。ユダヤ人は19世紀末や20世紀はじめにロシアや東欧で反ユダヤ主義の暴力を逃れてアメリカに大挙して移住してきました。でも、新大陸でも彼らはまったく歓待されなかった。先に定着した移民集団から排斥され、はげしい差別を受け、既存の産業分野のドアは鼻先で閉じられ、ユダヤ人には就くべき職業がなかった。しかたなく彼らは金融とジャーナリズムとショービジネスというまったく新しいニッチビジネスを開発した。自分たちで雇用を創出する以外に働き口がなかったのです。でも、この三つは20世紀アメリカで最も成功したビジネス分野になった。

 移民第一世代がそうやって刻苦勉励して金を稼ぎ、子どもの世代には高等教育を受けさせて、社会的成功を収めた。そういう被差別状態から這い上がった成功体験を重く見るユダヤ人たちは黒人に対する人種差別に対してしばしば冷淡です。なぜおまえたちはわれわれのように努力しないのか、というのです。最初はわれわれも激しい差別を受け、暴力的に扱われた。けれども、必死に努力してこうやって差別を乗り越えて、社会的威信を獲得した。黒人がいまだに差別の対象であるのは努力していないからだ。そういうロジックです。平等が実現したければ、公権力の介入を当てにせず、自己努力でなんとかしろという主張はなかなか反論することが困難です。

 アメリカでは新型コロナウイルスの感染拡大が止まりません。感染者2400万人、死者は昨年末で35万人、第二次世界大戦の死者数をすでに超えて、世界最悪の数字になっています。なぜアメリカではこれほど感染が広がるのか。それは、アメリカでは医療を受けるか受けないかの決定権は個人の自由に属するとされているからです。医療は高額の商品です。お金を出して買うものです。だから、金があるものは医療を受けられる。ないものは受けられない。シンプルです。

 古代ギリシャの「ヒポクラテスの誓い」には「医療者は患者が自由人であっても奴隷であっても、その属性によって医療内容を変えてはいけない」という一条があります。医療は商品ではないということです。これは医療については正しい考え方だと僕は思います。実際に、この誓いを実現するために、人類はできる限り安価で効率的な医療法を開発し、すぐれた医療者を育てるための医学教育制度を整備し、貧しい人でも医療を受けられる保険制度を発明した。もし、古代ギリシャのとき点で、医療は金持ちだけが受けられ、貧乏人は受けられないで死ぬというシンプルで非情なルールを採用していたら、それ以後の医学の進歩はなかったでしょう。

けれども、アメリカでは「医療の平等」という考え方はいまだに国民的合意を得ることができないでいます。国民皆保険制度もつくろうとするたびに阻まれてきました。今、アメリカには無保険者が約2750万人います。彼らはコロナウイルスに感染しても病院に行けない。ICUが一日1000ドルというような設定ですから、数週間も入院するとすぐに請求額が数百万円というような額になる。だから、貧しい人は治療が受けられない。けれども感染症は全住民が等しく良質な医療を受けられるシステムが整備されない限り制御できません。しかし、アメリカではそういう制度がない。ないどころか、そういう制度が必要だという考え方を受け入れない国民が数千万人単位で存在する。これからバイデン新大統領が感染症抑制のために医療機会の平等を実現しようとしても、国民的合意を得るのは困難でしょう。

 平等を実現するのは「公共」です。現代社会で階層格差が拡大し、一部の超富裕層に富が偏在するようになったのは、まさに新「自由」主義の成果です。私財は神聖であり、公権力が手を着けるべきではない、富裕者の私財を徴収して貧者に再分配するのは自由の侵害であるというアメリカ的な考え方が世界に広がった。

 この歪みを補正するためには、自由を抑制しても、平等を実現するしかない。それは社会の中の公共的なエリアを広げて、そこに豊かな公共財を蓄積し、共同的に管理し、適正に分配する仕組みを作るということでしか実現しません。

 かつてはヨーロッパにも日本にも、公共財を共同管理し、共同使用する村落共同体が存在しました。英国では、村落共同体が共同所有する共有地は「コモン(common)」と呼ばれました。コモンで村人たちは牧畜したり、果樹やキノコを採取したり、魚を釣ったり、鳥を獲ったりしました。コモンによって村人たちの生活は豊かなものになった。けれども、土地から上がる利益は少なかった。そのうち、土地の生産性を上げるために共有地を廃して、これを私有地にしようという考えが出て来た。みんなで共有しているから、その土地から儲けを出そうという気持ち方になれないのだ。私有地なら、わがことだから、目を血走らせて土地の有効利用を工夫する。この土地でどうやって儲けようか必死に考えるだろうというのです。

 イギリスで行われた「囲い込み」とは「コモンの私有化」のことです。コモンは最初は牧羊地として業者に買い上げられ、19世紀になってからは農業資本家に大規模農業用地として買い上げられました。それによって農業革命、産業革命が実現したわけですから、資本主義的にはコモンの私有化は歴史的必然だったのです。けれども、コモンを失った農民たちの一部は小作農に没落し、一部は離農して都市プロレタリアになり、かつての豊かな村落共同体は消滅した。

 コモンの消滅によって消滅したのは共有地だけではありません。「私たち」という一人称複数形の意識そのものが消滅した。それまで、コモンを共同所有し、共同管理してきたのは「私たち」という一人称複数形でした。「私たち」という人称代名詞が固有のリアリティーを持つためには、その共同体が共通の言語、宗教、祭祀儀礼、食文化などの生活文化を有していて、隣接する共同体と差別化されていることが必要です。祖先から受け継いだ伝統的な生活技術や芸能や祭祀儀礼や食文化を次世代に確実に受け渡すという使命が村落共同体を結束させてきました。「コモンの消滅」によって消えたのは、単なる共有地ではありません。公共財を共同管理することのできる「主体」そのものもそのときに消えたのです。「コモンの消滅」によって、かつて存在していた相互支援や互助的な共同体、血縁・地縁的なネットワークも消えた。そして、それと共に「公共財を所有・管理し、適切に分配して、全員が豊かさを享受するための技術知」そのものが消滅した。

 アメリカでは1840年代からホームステッド法という法律が段階的に整備されて、国有地の私有化が国家的スケールで行われました。これは国有地に5年間定住して、耕作すれば160エーカーの農地を無償で頒布するという法律です。誰でも自営農になれるというので、ヨーロッパから何百万人という貧しい移民たちが流れ込み、これによって西部開拓が一気に進みました。ホームステッド法をカール・マルクスは高く評価しました。社会主義の先駆的形態だとみなしたのです。でも、実際にはこれは大規模な「囲い込み」でした。国有地のままではまるで生産性の上がらない荒野を私有地化することで「金儲け」の道具に換えたからです。ホームステッド法によってアメリカは驚異的な人口増とGDP増を達成しました。でも、当然、ある段階で分けるべき国有地がなくなりました。国土の大部分が私有地化されたときにアメリカにおける「囲い込み」は終わりました。たしかにそれは土地の生産性を上げるという経済的効果においてはすばらしい成果を上げましたけれども、「私たち」の公共財をどうやって共同管理するかというスキルを育成するためには何の役にも立たなかった。

 フランスやイタリアには今も「コミューン(commune)」「コムーネ(commune)」という基礎自治体が残っています。サイズは数十万人から数十人までさまざまですが、行政単位としてのステイタスはどれも同じです。これはかつてのカトリックの教区に基づいた区分です。コミューンの中心に教会があり、教会の前に広場があり、広場の向かいに市庁舎があり、そこで市議会が開かれ、市長が選ばれる。この構造はどのコミューンにも共通です。そこに住む人たちが「私たち」という一人称複数形にリアリティを感じられるならば、サイズは関係ない。

 これは公共財を共同管理する主体たる「私たち」を制度的に基礎づけようという努力の痕跡だと思います。この基礎自治体がめざしたのは市民の自由よりむしろ成員たちの間の平等の実現ではないかと僕は思います。そこでは公共財が占める割合が大きいほど、それを再分配することで市民間の平等はより実現しやすくなるからです。豊かな公共財があれば、個人の間にどれほど貧富強弱の格差が生じても、公共財の再分配によって、それを補正することができるからです。僕はこの「コモン」や「コミューン」や「コムーネ」を現代社会にもう一度再生させることが、現代のさまざまな問題にとって有効な解ではないかと考えています。

 近代市民社会は自由と平等の緊張関係のうちに展開する。この基本的事実をまず認めましょう。自由か平等か。これは結論の出ない難問です。どちらかを選んでしまったら、デモクラシーはもう機能しなくなる。デモクラシーはこの緊張状態のうちでのみ生き延びることができる。自由か平等か、どちらかを選んで話を終わらせることができない。自由と平等はトレードオフの関係にありますから、この両方の顔を立てないとデモクラシーは存立しない。デモクラシーは扱いがとてもむずかしい仕組みなのです。みなさんわりと簡単に「デモクラシーを守れ」といいますけれど、デモクラシーは守るものではなくて、むしろ「微妙なさじ加減で統御するもの」です。

 アメリカや日本の現状が教えてくれるのは、自由の過剰と平等の抑制が今の社会の不具合の主因だということです。ですから、これからしばらくは自由を抑制しても平等を実現する方に少しの間軸足を移さないといけない。けれども、それは「政府に権力を集中させて、個人の自由を抑制する」ことそれ自体を善とみなすということでは全然ありません。そんなはずがない。すべてを個人の自由に委ねて、公共財を痩せ細るに任せてきたせいで社会的格差が拡大している。だから、その状態を補正するために、これからしばらくの間は公共財を豊かにして、再分配に工夫を凝らすことを優先させた方がいいというだけのことです。私財や私権はできるだけ抑制しない方が正しいのか、公共の福祉を最優先するのが正しいのか、どちらかを選らべというような原理的な話ではないのです。公と私のバランスをそのつどの歴史的環境の中でどうやってとるのかというごく技術的な話です。

 デモクラシーは取り扱いの難しい仕組みです。デモクラシーは集団成員に市民的に成熟して、この「適切なさじ加減」ができるようになることを要求します。

 デモクラシーが他のすべての政体より優れているのは、それが市民に「大人になること」を求めるからです。市民的成熟を遂行的課題をして集団成員たちに求めてくるという運動性と開放性がデモクラシーの最大の手柄なのです。そのことをよく踏まえて、デモクラシーを運営する技術知をこつこつと身に着けてゆくがわれわれ市民の仕事なのだと思います。


 札幌まで行ってきました。天気も良く国道はアスファルトが出ています。4駆を2駆に切りかての運転。しかし帰りの隣町まで来ると吹雪です。家に近づくほど、ひどくなってきます。これから雪かきしてきます。


雨宮処凛がゆく! 第546回:「福祉」に頼りたくない、それぞれの理由。「扶養照会」についてのアンケートから見えたもの。

2021年01月21日 | 社会・経済

 マガジン92021年1月20日

https://maga9.jp/210120-1/

コロナ禍で、多くの人が生活困窮に直面している。

 仕事を失い、貯金も尽き、家賃やライフラインの滞納も始まっているという人も多いだろう。そんな時、頭にちらつくのは「生活保護」という言葉だと思う。自力で頑張りたいけれど、友人知人から借金もしていて、売れるものはすべて売って、万策尽きている状態。迷い、悩みながら勇気を振り絞って訪れた役所の窓口で、「大変でしたね」とねぎらいの言葉をかけられ、思わず涙した人もいる。一方で、冷たい対応をされたと憤る人もいる。

 そんな生活保護を利用する上で、大きなハードルとなっているのが「扶養照会」だ。

 扶養照会とは、親族に連絡が行くこと。生活保護の申請をすると、親や兄弟、子どものもとに「あなたの息子さん(きょうだい、親など)が生活保護の申請に来ているが面倒をみることはできないか」と連絡が行くのだ。

 これがどうしても嫌、ということで生活保護を利用せずにいる人を、少なくない数、知っている。仕事と住まいを失った人に生活保護申請を提案したところ、「受けてみるしかないかな」と前向きだったものの、「扶養照会」の説明した途端に顔色を変え、「無理です」と言われたことも一度や二度ではない。

 もし、自分だったら。

 そう考えると、私も嫌だ。現在、親や兄弟との関係が悪くない私でもそう思うのだ。関係が複雑だったりしたら、その抵抗感は何倍にもなるだろう。

 ちなみに扶養照会は、されない場合もある。厚労省は、DVや虐待があった場合は問い合わせをしないこと、また20年以上音信不通、親族が70歳以上など明らかに扶養が見込めない場合は問い合わせをしなくていいという通知を出している。が、これを守っていない自治体もあるのが現実なので、虐待を受けていた場合などはその事実を強調し、「扶養照会は絶対にしないでください」と念を押そう。

 しかし、中には厚労省の通知を守らないどころか、「生活保護申請をするなら親族に連絡する」と言って申請をあきらめさせようとする自治体も一部あるという。なんだかため息が出てくるような話だ。

 そんな扶養照会について、つくろい東京ファンドがアンケートを行った。対象は、この年末年始に困窮者向けの相談会を訪れた人たちで、165人。

 165人中、生活保護を、A)現在利用している人は22.4%。B)過去利用していた人は13.3%、C)一度も利用していない人は64.2%で128人。

 いま生活保護を利用していない、B)とC)の人に、その理由を聞いたところ、もっとも多かった回答が「家族に知られるのが嫌」(34.4%)だった。20〜50代に限定すると、77人中33人(42.9%)が「家族に知られるのが嫌」を選んでいた。ちなみに生活保護を利用していない人の実に52.1%が路上や公園、ネットカフェや簡易旅館など安定した住まいがない状態。それでも家族に知られるのが嫌で生活保護を利用していないのだ。

 一方、生活保護を利用したことがある人59人のうち、32人(54.2%)が扶養照会に「抵抗感があった」と回答。

 ここから、アンケートに答えてくれた人の記述を見てみよう。生活保護を今利用している人、過去利用していた人からは、扶養照会について、以下のような声があった。

 「家族から縁を切られるのではと思った」

 「親と疎遠なのに連絡された」

 「親は他界。きょうだいに連絡行ったのが嫌だった」

 「子どもに連絡いくのが嫌だった」

 「知られたくない。田舎だから親戚にも知られてしまう」

 「困ります。一回きょうだいが迎えに来て困った。その時もお金を一回置いていっただけ。どうにもならない」

 「家族に知られるのがいちばんのハードル」

 「親に連絡されることに抵抗あった」

 やはり抵抗感は強い。中には以下のような回答もあった。

 「以前利用した際、不仲の親に連絡された。妹には絶縁され、親は『援助する』と答え(申請が)却下された。実家に戻ったら親は面倒など見てくれず、路上生活に」

 援助する気などないのに、親が「援助する」と言ったため生活保護を利用できずに路上生活になってしまったという最悪のパターンだ。扶養照会などなければ、この人は生活保護を利用でき、路上に行かずに済んだだろう。

 また、生活保護を利用していない人からは、その理由として以下のようなものがあった。

 「窓口で相談すると扶養照会される。年取った両親をビックリさせたくない」

 「今の姿を自分の娘に知られたくない」

 「子どもに連絡が行くのはイヤ」

 「扶養照会があるから利用できないでいる」

 やはり、扶養紹介が大きなハードルになっている。一方、もし制度が変わって、親族に知られることがないなら生活保護を利用したいと答えた人は約4割。

 つくろい東京ファンドでは、都内のいくつかの区で、扶養照会の実績について調査している。前回の原稿で、足立区では2019年、生活保護新規申請世帯は2275件だったが、うち、扶養照会によって実際に扶養がなされたのはわずか7件だということは書いたが、他の区も同じような結果だった。

 例えば台東区は19年、1187件の保護が開始されたが、なんらかの援助ができると回答したのはわずか5件で0.4%。荒川区、あきる野市に至っては、扶養照会の結果、なんらかの援助ができると回答したのは0件。本当に、やっても意味がないのである。

 このアンケートでは、扶養照会以外にも、生活保護を利用する上でのハードルがいくつか挙げられている。そのひとつが「根掘り葉掘り」話を聞かれること。

 「過去に〇〇区に行ったらとんでもない目にあった。取り囲まれて根掘り葉掘り」

 「役所でいろいろ話すのが煩わしく面倒だった」

 「かつて役所で嫌な目に遭った。体調悪くても身の上話からしなくちゃならない」

 この回答に、深く頷いた。

 私もこれまで少なくない人の生活保護申請に同行してきたが、「なんでそこまで過去のことを根掘り葉掘り聞くの? 関係なくない? 」と面食らったことは一度や二度ではない。

 この年末年始、相談会に来て生活保護利用を始めた人からも、「小学校の名前とか、ものすごく遡って全部話さないといけなくて嫌だった」という声を聞いた。現在の所持金や仕事、住まいの有無など最低限の聞き取りはもちろん必要だが、中には「それ関係ある?」ということを延々と聞き出される場合もある。その人がこれまで辿ってきた人生について、あまりにも執拗に聞き出すのは、当人にダメージを与える行為だと思う。

 なぜなら、それが「人生でもっとも成功している時期」なら気分がいいだろうが、もっとも経済的に厳しい時に「これまでの軌跡」を話すのは過酷なことだと思うからだ。

 なんだか赤の他人に「人生の成績表」の点数をつけられているような、そんな情けない気分になるのではないか。そんなやりとりは、時に当人をたまらなく「惨め」な気持ちにもさせるだろう。

 こんなことを書くのは、「聞き取り」がひとつのきっかけとなったのではないかと言われる心中事件があるからだ。

 それは15年11月、埼玉県で起きた一家心中。70代の父と80代の母を乗せ、40代の娘が運転する車が深夜、利根川に突っ込んだ事件だ。40代の彼女だけが生き残り、70代の父親、80代の母親は死亡。女性は母親に対する殺人と父親に対する自殺幇助の罪で逮捕された。

 親子は数日前に生活保護の申請をしており、心中の2日前には役所の職員が調査のため、自宅を訪れていた。母親は認知症、パーキンソン病を患い、女性は3年前から仕事をやめて介護に専念していた。父親の新聞配達が一家の唯一の収入源だったが、少し前、父親は頚椎を痛めて仕事ができなくなり、困窮の果ての生活保護申請だった。

 調査の日、どんな聞き取りがなされたのかはわからない。しかし、裁判で女性はその時のことを聞かれ、言った。

 「今までの人生、惨めだなと思いました。高校も中退して仕事も転々として。父の人生も、同じように惨めだと思いました」

 「役所の調査であまりにも惨めな気持ちになったので、早く死のうと思いました」

 もうひとつ、生活保護に抵抗があると答えた人たちが回答したのは「生活保護という言葉が嫌」「イメージが悪い」という、制度そのものに対する忌避感だった。

 「生保のイメージはよくない」

 「生活保護という名称でなければ利用したい」

 「生活保護の響きが嫌」

 「名前を変えてほしい」

 一方、「世の中の偏見、バッシングが変われば受けたい」「もっとカジュアルに使える仕組みがあれば」という声もあったが、やはり「生活保護」というネーミングとそこに付随するイメージから、利用を尻込みしていることが窺える。

 ここにひとつ、参考になる事例がある。それは韓国の制度改革。

 韓国では15年に日本の生活保護にあたる基礎生活保障法が改正され、制度が抜本的に変わった。それまで、日本のように生活保護を利用すると丸抱えで面倒を見てもらうというものだったのが、医療扶助、住宅扶助、教育扶助などと7つほどの扶助に分けられたのだ。いわばパッケージ給付から個別給付になったのである。それによって、住宅扶助だけの利用、医療扶助だけの利用という形で使えるようになった。

 例えば今生活が苦しい人の中には、家賃だけ給付されれば楽になるという人がいるだろう。医療費が家計を圧迫している人であれば、医療費がタダになれば助かる人も多いはずだ。そのように、個別で使える制度にしたことによって、それまで根深くあったスティグマも解消されたという。

 これは非常に参考になる事例ではないだろうか。

 最後に書いておきたいのは、「相部屋」についてだ。

 アンケートには、生活保護を利用したくない理由として、無料低額宿泊所などの相部屋生活が嫌、という意見も多く寄せられていた。

 首都圏では、住まいのない人が路上などから生活保護申請をした場合、大部屋、相部屋の施設に入れられることが多い。食費や家賃として生活保護費の大半を取られてしまうのもよく聞く話だ。支援者が同行すればそのような施設を経由することなくアパート転宅への道筋をつけられることもあるのだが、一人で申請すると、「施設に行くことが条件」のように言われることもある。それが大きな壁になっているのだ。

 以下、相部屋について寄せられた声だ。

 「池袋のやまて寮や世田谷のSSS、大田区のひどい施設に入れられ、嫌になって保護を切った」

 「施設の待遇が悪い。食事悪い。設備悪い」

 「金をたかられたり、人間トラブルの温床だった」

 「過去に自立支援を利用。10人部屋。人間トラブルで懲りた」

 「区が積極的に貧困ビジネスの宿泊施設を利用するの、やめてほしい」

 「集団生活しなくて済むようにして欲しい」

 「(施設で)歌っていたり、大声出す人と一緒の生活をするのはNG」

 中には、こんな切実な声もある。

「生保受けたらやまて寮に入らなくてはいけない。1ヶ月7000円しか残らない。福祉が紹介する施設が悪くて生保を受ける気にならない。保護いらないから雨を凌げる寝場所が欲しい。火をつけられたり花火打ち込まれたりしなくて済む安全な寝場所を提供してくれればいい。襲われる心配のない安心して寝られる場所が欲しい」

 たったこれだけのことが実現しないのが、この国の福祉の実態なのかと思うと悲しくなってくる。

 ちなみに相部屋の施設の中には、「コロナ対策」として20人部屋を12人部屋にしたところもあるという。これのどこがコロナ対策? と突っ込みたくなるのは私だけではないだろう。

 また、回答の中には、役所の対応がひどいこと、悪意ある対応をなされたことなども書かれていた。

 一方、アンケートに答えた人の中には、「家に子どもと失職した夫がいる。3人分の食料をもらわないといけないから、これから別の炊き出しに行かなくてはならない」という人もいた。

 コロナ禍により、明らかに路上生活には見えない女性が炊き出しに並ぶことが増えたと思っていたが、こういう事情があったのだ。

 このような状況の人にこそ、福祉は手を差し伸べるべきではないだろうか。だって、炊き出しを巡って夫と子どもの食料を確保している時点で、もう限界だと思うのだ。もう、みんな「自助」を極めている。「公助」をもっともっと利用しやすくして、根こそぎ救うくらいの制度変更をしないと、庶民の生活はもう持たないところまで来ている。

 つくろい東京ファンドでは、このアンケートを結果を受け、ネット署名を始めた。「困窮者を生活保護制度から遠ざける不要で有害な扶養照会をやめてください!」という署名だ。

 コロナ禍の中、誰にとっても他人事ではなくなった貧困。

 同感だ、という方は、ぜひ署名してほしい。


アミノ酸に新型コロナウイルス治療薬の期待 長崎大で研究始まる

2021年01月20日 | 健康・病気

  AERAdot 大崎百紀2021.1.20 13:33週刊朝日

 すべてのステージの患者の治療に有効で、変異株にも強靱(きょうじん)な対応が可能だろうと北教授は言う。

 5-ALAの研究開発をする製薬会社「ネオファーマジャパン」(東京)のチーフサイエンティスト田中徹さんは、高い期待を寄せる。

「1月14日(日本時間)、5-ALAのサプリメントを用いたコロナ患者に対する症例報告が、プレプリント(査読前の論文)で公表されました。世界中の研究者の目に留まることになるでしょう。今回公開された症例の一つは、救急搬送されて集中治療室(ICU)で人工呼吸器につながれた患者さんが、5-ALA投与3日で人工呼吸器を離脱し、一般病棟に移られました。これは通常では考えられない回復と言えるでしょう」

 前出の北教授もこう話す。

「高い安全性で、安定供給(国内工場での製造)も可能、価格も適切。一日も早く治療のための認可を受け、多くの患者に投与できるようにしたいです」

 市販の風邪薬のように、簡単に入手できる日が来ることを期待したい。(本誌・大崎百紀)

※週刊朝日オンライン限定記事


これは、ワクチンより期待できるのではないでしょうか?

今日はわりと晴れていたのですが風が強くて江部乙へ行くのはやめにしました。
家回りのお散歩です。


「脱炭素」を考える 私たちの星を守りたい

2021年01月18日 | 生活

「東京新聞」社説 2021年1月18日 

 2019年1月、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)。集まった指導者たちの面前でスウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥンベリさんが言った言葉は広く知られるようになりました。

 「あなたの家が燃えている時のように行動してください」と。

 目の前で今、わが家が燃えているとしたならば、誰もが必死になって火を消そうとするはずです。助けを呼ぼうとするはずです。

◆気候危機は「生活実感」

 当時十六歳だったグレタさんは、この地球という惑星を、私たち人間が多様な生き物たちと同居するたった一つしかない「家」に、“灼熱(しゃくねつ)化”に向かう気候危機の現実を「火事」にたとえて、その火を消してくれるよう、指導者たちに訴えました。

 だがその時もまだ、大人たちの反応は鈍かった。「わが家の火事」を直視しきれませんでした。

 一方で、グレタさんの言葉と行動は、同世代の心を強く揺さぶります。ミラノ、パリ、ニューヨーク、そしてこの日本でも、「私たちの家を燃やさないで」という手書きのプラカードを掲げた若者たちの行進が始まりました。

 ジャーナリストのナオミ・クラインさんは書いています。

 <この子どもたちにとって気候変動は、本で読んだだけの、はるか彼方(かなた)にある怖いできごとではなかった。それは喉の渇きそのものと同じ、実在する緊急事態だった>(「地球が燃えている」)

 彼らにとって気候危機は、知識ではなく生活実感だったのです。

 そんな鈍感な世界が今、変わろうとしています。

 巨大化し、凶暴化する台風やハリケーン、続発する森林火災…。そして新型コロナの猛威がとどめを刺したのでしょう。人類の持続可能性の危うさ、もろさに、ようやく危機感を募らせた指導者たちが、重い腰を上げたのです。

 温暖化対策に関しては先頭集団から脱落しそうな日本でも、変化が起きつつあるようです。

◆原発なしで達成可能

 暮れも押し迫った先月二十五日、菅首相が十月の所信表明で発した「二〇五〇年、温室効果ガス実質ゼロ宣言」を裏付ける、政府の「グリーン成長戦略」が発表されました。脱炭素化を進める企業の技術革新を後押しし、環境と経済の好循環を図るというのが、その趣旨で、十四の重点分野について数値目標を掲げています。

 潜在力が高く、未来の主力電源とされる洋上風力の発電容量を、四〇年までに、最大四千五百万キロワット(原発四十五基分)に増やし、三〇年代半ばまでに、販売される新車を100%電動車にする−など、国際的な流れに沿う、かなり踏み込んだ内容とは言えるでしょう。

 ただし「原子力発電を最大限に活用する」というのは、気がかりです。過酷事故のリスクをはらみ、再生エネ電力の値下がりで経済合理性を失った上、核のごみの処分場も見つからない−。そんな原発に依存し続け、巨額の国費を投じ続けることになるからです。

 では、原発なしで「実質ゼロ」は可能でしょうか。名古屋大環境学研究科特任教授の竹内恒夫さんは「ほとんど、できちゃいますよ」と言っています。

 竹内研究室の試算では、五〇年までに十キロワット未満の住宅用太陽光を現在の八倍強、五十キロワット以下の事業所用などを七倍に拡大し、洋上風力は六千万キロワットに。陸上風力や中小水力、地熱といった既存の再エネ電源を今のペースで増やし、既設の大型水力を維持していけば、総発電量の約九割を再エネで賄うことができる。

 絵空事にも見えますが、住宅用太陽光の導入目標は、一戸建て住宅の半数が太陽光パネルを屋根に載せれば達成可能。洋上風力の目標値は、日本風力発電協会の推計による潜在的な導入可能量の半分という、むしろ控えめな設定にした。しかも海底に支柱を固定する着床式だけの計算で、浮体式は勘定に入れていない−。

 「四〇年以降は特に、燃料用水素などの製造による電力需要が15%ほど増えますが、人口減少や省エネの進展などで相殺されていくはずです。過渡期の間はCO2排出の少ない天然ガスでつなげばいい」と、竹内さんは考えます。

◆“消火活動”が始まる

 エネルギーが変われば、ライフスタイルも変わります。真に「新しい生活」の基盤づくりが急加速する年になりそうです。“わが家の消火活動”が本格的に始まる年でもあるでしょう。

 「瑠璃色の地球2020」。大みそかの紅白歌合戦で、松田聖子さんが歌った楽曲です。

 ♪ひとつしかない/私たちの星を守りたい…。サビのフレーズが印象的でした。実はこれ、三十五年も前の作品です。長い間、足踏みが続いていたようです。


 昨日は阪神淡路大震災から26年目、そしてもうすぐ3.11がやってくる。あの時、何を思っただろう?それぞれに何かを胸にした時ではなかっただろうか。もうすぐ東海大地震が来るとも言われている。地球を守りたい!


新型コロナ 自宅療養中の過ごし方、注意したい異変、問い合わせした方が良い症状の目安

2021年01月17日 | 健康・病気

新型コロナ 自宅療養中の過ごし方、注意したい異変、問い合わせした方が良い症状の目安

忽那賢志 | 感染症専門医
YAHOOニュース(個人) 1/16(土) 

新型コロナウイルス感染症患者の爆発的な増加に伴い、感染者でも自宅療養やホテル療養となる方が増えています。

本来は重症化リスクの低い方が自宅療養の対象となっていましたが、現在は入院先が見つからないなどの理由で重症化リスクが高い方も自宅療養となっている地域があります。

自宅療養中、どういった症状に注意すれば良いのでしょうか。

どんな人が自宅療養になる?

これまでは新型コロナと診断されたら原則入院となっていましたが、2020年10月14日に運用見直しが行われ、無症状・軽症の新型コロナ患者は入院勧告・措置の対象ではなくなりました。

現在、入院勧告・措置の対象となるのは、

・ 高齢者、呼吸器疾患等の基礎疾患があるなど重症化リスクのある者

・ 症状等を総合的に勘案して医師が入院させる必要があると認める者

・ 都道府県知事が入院させる必要があると認める者

等に該当する方です。

入院とならなかった場合は、ホテル療養、自宅療養のいずれかとなります。

ただし、現在東京都など新型コロナの感染者が急増している地域では、本来はただちに入院することが望ましい方でも入院先が確保できず自宅療養を余儀なくされている方が多くいらっしゃいます。

報道では、1月16日時点で全国の自宅療養者は3万人を超えているとのことです。

自宅療養中は原則として外出はできません

新型コロナと診断され入院ではなく「自宅療養」となった場合も、人にうつす可能性があります。

具体的には発症3日前から発症5日後くらいまでは特に感染性が強く、軽症の方でも最大10日目まで人にうつす可能性があると言われています。

これを踏まえて自宅療養の期間は、

・発症から10日経過かつ症状軽快から72時間経過

となっており、最短で発症から10日間までは自宅療養となります。

この期間が過ぎ保健所の指示があるまでは人との接触を避けるため外出はしないようにしましょう。

自宅療養中の健康管理

新型コロナウイルス感染症の初期症状は風邪やインフルエンザと似ています。

典型的には、

・発熱

・咳

・だるさ

・食欲低下

・息切れ・息苦しさ

・痰

・筋肉痛

・嗅覚障害・味覚障害

などの症状の頻度が高いとされます。

こうした症状の有無について、1日2回はご自身で確認し、1日1回は保健所に連絡するようにしましょう。

診断時点では無症状であった人でも、経過中に発熱や咳などの症状が出現することがあります。

この場合、自宅療養期間は症状の出現時を起点として最短10日となります(ずっと無症状の場合は検査日を起点とします)ので、症状が出たことを必ず保健所に伝えるようにしましょう。

自宅療養中に注意したい異変、問い合わせした方が良い症状の目安

新型コロナウイルス感染症の経過(BMJ 2020;371:m3862より イラストと頻度は筆者加筆)

自宅療養中に新型コロナの病状が悪化することがあります。

特に注意すべきなのは、発症から約1週間前後です。

この時期に「息切れ・息苦しさ」が強くなると、新型コロナが悪化している可能性があります。

我慢できないほどの/我慢できなくなる一歩手前の「息切れ・息苦しさ」が出現した場合は、なるべく早く保健所にその旨を伝えるようにしましょう。

ただし、新型コロナの呼吸不全は「幸せな低酸素症"happy hypoxia"」と呼ばれるほど、体内の酸素が極度に低下していても自覚症状が強く現れないことがよくあります。

自験例でも、入院先が決まるまで自宅療養をしていた自覚症状のない高齢者が、いざ入院してみると「重症」の基準を満たすほど体内の酸素が欠乏している状態だった、というような事例を多く経験しています。

自宅療養中の方の中から、こうした自覚症状に乏しい低酸素症の方を正しく適切なタイミングで見つけることは非常に難しいというのが正直なところです。

強いて言えば、パルスオキシメーターという血中の酸素濃度を測定する医療機器は症状が乏しい低酸素症の方も早期に見つけることができると考えられます。

保健所によっては自宅療養となった際に貸し出してくれるところもあるようですが、全ての自宅療養者が利用できるものではありません。

決して安くはありませんが、高齢者や持病のある方など重症化リスクの高い人は市販のものを購入を検討しても良いかもしれません(※筆者はパルスオキシメーターの販売メーカーとの利益相反はありません)。

その他、稀ではありますが血栓塞栓症など突然の体調不良も起こりえますので、「突然の強い胸痛や頭痛」などが出現した場合はすぐに保健所に連絡するようにしましょう。

なお、発熱や倦怠感、咳などの症状は軽症の人でも長く続くことがありますので、程度が変わらず続いているだけであれば新型コロナの自然の経過のことが多いです。

気になる症状があれば定期報告の際に保健所に報告・確認するようにしましょう。

その他の新型コロナに関する症状についてはこちらを参考にしてください。

同居者の過ごし方・居住環境の整え方

新型コロナは飛沫感染または接触感染によって広がりますが、特に3密(密閉・密集・密接)の環境で広がりやすいことが分かっています。

自宅は3密の環境になりやすい場であり、家庭内感染は最も多い感染ルートになっています。

家庭内で自宅療養者が出た場合に、同居者が新型コロナに感染せず安全に療養できるための工夫が必要です。

気をつけるべきポイントは、

・自宅療養者と同居者が接する時間をできる限り減らす

・家庭内の設備や物の、自宅療養者と同居者との共用を可能な限り避ける

・こまめな換気と手洗いを心がける

です。

新型コロナと診断され自宅療養となった方(自宅療養者)は、同居者との接触を避けるためにできるだけ個室で過ごすようにしましょう(どうしても個室が確保できない場合は、同じ部屋の中にいる家族はマスクを着用し、十分な換気を行うようにしましょう)。

自宅療養者の行動範囲は最小限とし、同居者が自宅療養者の個室に出入りする時には、マスクを着用し、自宅療養者と接する前後で手洗いを行うようにしましょう。

洗面所やトイレについても自宅療養者専用が望ましいですが、普通は無理だと思いますので、共用する場合は十分な清掃と換気を行うようにしましょう。入浴は家族の中で最後に行うのが望ましいでしょう。

自宅療養期間はリネン類(タオル、シーツなど)、食器、歯ブラシなどの身の回りのものも共用しないようにしましょう。 洗濯は自宅療養者と同居者のものを一緒に行っても問題ありません。

食事は自宅療養者と同居人とは別々の部屋でするようにしましょう。自宅療養者が使用した食器や箸、スプーンなどは通常の洗浄で問題ありません。食事で出たゴミは密封し捨てるようにしましょう。

自宅療養者の安全を確保するためには

繰り返しになりますが、現在、地域によっては入院先が確保されていない地域では本来入院が必要な方でも自宅療養を余儀なくされています。

また残念ながら自宅療養中に症状が悪化し亡くなられる事例も増えてきているようです。

自宅療養者の安全が確保されていない現状は大変危険な状態です。

医療従事者や保健所もこの状況を改善すべく努力しているところですが、本来入院が必要な方が自宅療養をしなくても済むようにするためには、現在の増えすぎている感染者を減らし、本来医療を提供されるべき人が適切に医療を受けられる環境にまで戻す必要があります。

そのためには、私たち一人ひとりが、

・できる限り外出を控え人との接触を減らす

・屋内ではマスクを装着する

・3密を避ける

・こまめに手洗いをする

といった基本的な感染対策の遵守を、一人ひとりが意識するようにしましょう。

 

忽那賢志 

感染症専門医。2004年に山口大学医学部を卒業し、2012年より国立国際医療研究センター 国際感染症センターに勤務。感染症全般を専門とするが、特に新興再興感染症、輸入感染症の診療に従事し、水際対策の最前線で診療にあたっている ※記事は個人としての発信であり、組織の意見を代表するものではありません。本ブログに関する問い合わせ先:skutsuna@hosp.ncgm.go.jp、研究プロフィール:https://researchmap.jp/kutsunasatoshi


 罹患者全員が入院・隔離できればいいのですが、もう限界を超えてしまいました。元気にウイルスをまき散らす無症状者をこそ隔離しなければどうにもなりません。

 久しぶりのいい天気でした。おかげで今朝の最低気温は氷点下20度。布団に入ってても寒い。


広島市80万人「PCR検査」無料実施

2021年01月16日 | 健康・病気

聞こえてきた困惑と憂鬱

 日刊ゲンダイ2021/01/16

 広島県が大胆な策に打って出る。新型コロナウイルスの感染拡大が続く広島市に対し、大規模なPCR検査を実施することを決めた。対象は特に感染者が多い広島市の中、東、南、西の4区の全住民と働く人たち。住民は約60万人、就業者は約20万人と見込む。対象者が最大80万人となる大規模な検査はもちろん、全国で初めてだ。

 広島市は人口10万人当たりの新規感染者数などが感染状況のステージ4(爆発的感染拡大)を超え続けている。政府も緊急事態宣言の対象に準じる地域と位置付け、対象地域と同様の財政支援を行う方針を発表した。

 検査は強制ではなく、あくまで任意だが、希望者は自己負担なしで受けられる。

「具体的な検査方法や実施場所、陽性判明者の宿泊療養施設の確保などを含めて現在、検討中です。財源は国からの支援を念頭にやりくりすることになります。できるだけ早期に実施し、なるべく多くの人に受けていただき、感染の広がりを抑えていきたい」(広島県健康対策課)

 昨年来、多くの専門家が大規模なPCR検査の必要性を訴えてきた。市中感染を封じ込めるには大規模検査を実施し、無症状の感染者を早期に発見・隔離することが重要だからだ。諸外国の成功例も多い。

 いよいよ、国内初の大規模検査は早ければ来月中にも始まりそうだが、対象エリアからは困惑の声も聞こえる。ある広島市民が打ち明ける。

「大規模検査の必要性は理解できるのですが、いざ自分がその対象となると、あれこれと考えて不安になってしまいます。症状がなくても陽性と分かれば仕事にも支障が出ますし、職場や家族にも迷惑がかかる。無償で受けられるとしても“ありがた迷惑”とまでは言いませんが、『もしも』の時のことが心配になるのです。たぶん、自分は検査に応じることはないでしょう」

 これまで感染者やその家族が不当な差別や誹謗中傷を受けるケースも多数発生してきた。感染者への偏見が完全に消えない限り、市民の憂鬱は深まるだけかもしれない。

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ノーベル賞・本庶佑教授が改めて「PCR検査の大幅な拡充」訴え! 一方、厚労省は検査拡大を否定する文書を作り政権中枢に

リテラ2021.01.15

 本日15日、新型コロナの全国の重症者が934人と過去最多となった。止まらない感染拡大および医療の逼迫という現状に対して「医療壊滅」になる恐れが指摘されはじめているが、そんななか、「知の巨人」の提言が話題を呼んでいる。

 それは、14日放送『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日)に出演したノーベル賞受賞者の本庶佑・京都大学特別教授がおこなった、「PCR検査の大幅な拡充を!」という提言だ。

 本庶教授といえば、首都圏に緊急事態宣言が再発出された今月8日、山中伸弥・京大教授と大隅良典・東京工業大学栄誉教授、大村智・北里大学特別栄誉教授という同じノーベル医学・生理学賞受賞者とともに新型コロナ対策について緊急声明を発表。「医療機関と医療従事者への支援の拡充」や「科学者の勧告を政策に反映できる長期的展望に立った制度の確立」など5つの提言をおこなっているのだが、そのうちのひとつが「PCR 検査能力の大幅な拡充と、無症候感染者の隔離の強化」だ。

 本日で国内感染を初確認してから1年を迎えたが、他の先進国と比較しても、この国のPCR検査は進んでいるとは言えない。政府は1日あたりの可能検査数を最大約12.5万件としているが、実際は1日平均で約4.4万件(1月1〜11日)。世界で比較すると、人口1000人あたりの検査数がイギリスは8.1人、フランスが4.4人、アメリカが3.9人である一方、日本は0.5人でしかない(7日移動平均、9日時点)。

 こうした現状に対し、本庶教授は「いまだに検査数が少ない」と指摘。「中国のように地域ごとに全検査・隔離するのが理想だが、現実的に日本では難しい」とし、こう提言をおこなった。

「少なくとも『感染しているかも』と思ったら即座に検査を受けられる体制を作るべき。今、業界支援という形で何兆円もばらまいているが、検査にお金を使うほうが断然コスト的にも社会的にも有効」

 感染拡大のなかでも菅政権は「GoTo」で経済を回す方針を押し通し、第3次補正予算案でも追加で計1兆856億円も計上。菅義偉首相はいまだにこの予算案を組み替えようともしていないが、本庶教授は検査拡充に使うことこそが社会経済には有効だと訴えたのである。

本庶教授は自動PCR検査機搭載トレーラーを提案、韓国は匿名の無料検査実施再び感染抑え込みへ

 本庶教授は具体例も示した。すでに国内で開発されている自動PCR検査システムを搭載したトレーラーならば、12時間で2500件の検査が可能。これを1000台用意すれば1日250万件の検査が可能だ。トレーラーは1台1億円だというから、「GoTo」追加予算の約11分の1である1000億円を投入すれば実行できるのである。

 こうした検査拡充をおこなえば無症状感染者も広く捕捉できるようになるが、本庶教授は無症状の感染者の隔離により「宿泊先や食事を提供するホテル業界、飲食業界、生産者にもプラスになる。このほうが『GoTo』よりはるかによいと思う」と提唱した。

 政府分科会の尾身茂会長も「感染させる人の約半数は無症状」と認めているように、いま必要なのは検査の徹底によって無症状を含む感染者をあぶり出し、隔離すること。これは本庶教授も「医学の教科書にも『感染者を見つけて隔離するのがもっとも良い』と書いてある」というように感染症対策の基本のキだ。だからこそ他国ではそうした対策がとられてきたのだが、この国ではなぜかそれが進まず、ネット上でもいまだに「検査を増やしても感染者は減らない」「検査しても意味がない」という意見が後をたたない。その主張の代表例が「アメリカは検査数が多いのに感染者は減っていないじゃないか」というものだ。

 しかし、約3億件近くも検査をおこなってきたアメリカでも、じつは検査数が足りていないという指摘がある。〈1人の感染者を見つけるために、どの程度のPCR検査を実施したか〉を割り出したところ、〈中国が1808.7回と突出し、韓国66.6回、カナダ24.3回、イギリス22.2回、ドイツ21.0回、日本19.5回と続く〉一方、アメリカは12.7回だというのだ(東洋経済オンライン13日付)。感染者が多いアメリカでは、それでも検査が不足しているというわけだ。

 一方、日本と同じくロックダウンはせず、「社会的距離の確保」による対策をおこない、日本とは違い検査に力を入れてきた韓国はどうか。

 ワイドショーでもしきりに取り上げられたように、韓国も11月中旬から感染者が急増し、12月下旬には1日あたりの新規感染者数が1200人台にまで達した。そうしたなかで韓国は、症状の有無にかかわらず携帯番号を提出すれば誰でも匿名でPCR検査が受けられる臨時検査所を首都圏に計144カ所設置。その結果があらわれはじめたのか、1日あたりの新規感染者数は500人台を4日連続でキープ(15日時点)。油断ならない状況であることには変わりはないが、減少傾向だと分析されている。韓国の感染者が増えたときしかワイドショーは取り上げようとしないが、実際に検査体制の拡充が数字に出つつあるのである。

 だが、こうした成果からこの国は学ぼうとはけっしてしない。初動からドライブスルー検査や「プール方式」導入などによる検査の拡充によって感染拡大を抑え込み、アメリカやドイツなどもそれを取り入れた。だが、日本ではドライブスルー検査が導入されるまでに時間がかかり、「プール方式」にいたっては世田谷区が行政検査として認めてほしいと再三要望も声をあげてきたにもかかわらず、厚労省はそれを無視。本日15日にようやく認めるという体たらく。

厚労省が1%の偽陽性をタテにPCR検査拡充を否定する「ご説明文書」をもって政権中枢へ

 しかも、全国的な感染拡大の局面にあっても、厚労省はいまだに検査拡充には消極的だ。実際、11日になって都市部で不特定多数を対象にした1日数百〜数千件のPCR検査を実施すると公表したが、なんと実施時期は3月。いますぐにでも必要なのに、この状況下で「春になってからやる」というのである。

 なぜ、政府はここまで後ろ向きなのか。それは、「PCR検査は誤判定がある。検査しすぎれば陰性なのに入院する人が増え、医療崩壊の危険がある」という理由からだ。

 現に、政府関係者への聞き取りをおこなったシンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ」が10月8日に公表した報告書によると、厚労省は昨年5月に「検査拡大」を否定する内容の文書を作成。それを政府中枢に説明に回っていた。その内容はこうだ。

 〈文書では「PCR検査で正確に判定できるのは陽性者が70%、陰性者は99%で、誤判定が出やすい」と説明。仮に人口100万人の都市で1000人の感染者がいるとして、全員に検査した場合、感染者1000人のうち300人は「陰性」と誤判定され、そのまま日常生活を送ることになる。一方、実際は陰性の99万9000人のうち1%の9990人は「陽性」と誤判定され、医療機関に殺到するため「医療崩壊の危険がある」とする。

 これに対し、医師や保健所が本人の症状などで「検査が必要」と判断した1万人だけに絞ると、「陽性」と誤判定されるのは100分の1に減る。〉(東京新聞2020年10月11日)

 1%の偽陽性者による医療機関の圧迫を恐れて、70%の陽性者を見過ごす──。しかも、こうした検査体制のもとで感染拡大が起き、いまでは医療崩壊ならぬ「医療壊滅」の一歩手前まできてしまった。この5月の時点で繰り返し検査がおこなえる検査体制と医療提供体制の整備を強化していたならば、ここまでの状況にはいたっていなかっただろう。

 しかも、不特定多数を対象にした検査を春まで先延ばしにしたことからもあきらかなように、厚労省はいまだにこの姿勢を崩しておらず、分科会をはじめとする政府の専門家も同様だ。

 さらに悲惨なのは、「縦割り打破」を掲げながら、菅首相はこの検査体制の問題についてまったく関心がないこと。記者からの質問も理解できず、よりにもよって「国民皆保険の見直し」を示唆した菅首相だが、『news23』(TBS)アンカーの星浩氏が政府関係者に取材したところ、菅首相はこの期に及んでも「(医療体制など現状の)本質、深刻さをまだまだ把握していない」というのだ。

 政府はいま罰則強化でこの波を乗り切ろうとしているが、人びとを分断し、攻撃を扇動するだけで、それで効果が出ることは絶対にあり得ない。暗澹たる現実が、今後もつづいていくことになりそうだ。(編集部)


 今朝も7時から15時近くまでプラス気温になり雨も降りだした。明日日中は晴れマークだ。