大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

読んだ本-「村上春樹はむずかしい」(加藤典洋著:岩波新書)

2016-07-13 18:13:34 | 日記
参議院選挙が終わりました。いろいろと考えさせられることのあった参議院選挙ではありますが、今日は、全く関係ない話。

この1年間くらい、村上春樹を集中的に読んでいます。
「集中的に」と言っても、私が村上春樹を読む時間にあてているのは就寝前の一時(これは昔風の「2時間」の意味でも、現代風の「1時間」の意味でもなく、むしろ「一瞬」に似た感覚の言葉です)にすぎないので、大した時間ではありません。ですので、時間が結構かかってしまっているのですが、最近、ようやく主要な作品はほぼ読んだ、と言えるところまで来ました。

私は、今回読み始めるまで、村上春樹をほとんど読んだことがありませんでした。「食わず(読まず)嫌い」というやつです。
では、なぜ「集中的」に読み始めたのか、と言うと、それまで「食わず(読まず)嫌い」だったものが、「食っても(読んでも)嫌い」だと思ったからです。世界中に翻訳され、熱狂的に(と言ってもいいほどの勢いで)読まれている(ついでに言えば、ノーベル文学賞の受賞さえ取りざたされている)作家の作品がこんなに愚劣なものでいいのか?・・・と、とっても疑問に思ったからです。

そう思ったのは、「ノルウェイの森」です。実はその前に「1Q84」を、これはある程度の期待をもって(「食わず嫌い」のはずなのに矛盾するようですが・・・)読み、ある程度の面白さは感じながら物足りなさを感じていたので、「一番売れた」(?)という「ノルウェイの森」はもう少しいい作品なのかもしれない、と思って読んでみたのですが、読んでみてびっくり。私は、この作品にほとんど何もいい点を見出せませず、むしろ、本当に愚劣な作品だと思いました。こんなことでいいのか?村上春樹!こんなことでいいのか?ノーベル賞!といった感じです。(ノーベル賞はまだ受賞したわけではないので、えん罪ですが)、といった感じです。
これは何かおかしい・・・・、ということで、もう少し村上春樹を読んでみよう、ということにしました。

その上で、初期の作品をいくつか読んでみて、やっぱりその良さがさっぱりわかりません。まぁ、私には村上春樹は合わないのだね、と済ませればいいだけの話なのですが、どうもそれだけでは済まないような気になるところが残ったので、ちょうどそのころ発行された本書を、著者が村上春樹を高く評価するのはどういうところなのか、という観点で読んでみることにしたわけです。
そして、本書を読むにあたっては、やっぱりその前提として村上春樹をもう少し読んでおかないと話にならないだろう、ということで、主要なものはほぼ読み終えるところまで至ったわけです。

その上でようやく至った本書を読んでみての感想は二つです。ひとつは、タイトル通り「村上春樹はむずかしい」のだね、ということです。もう一つは、「嫌いな理由がすこしわかった」というところです。

まず、著者の言うところを少し紹介します。
(「風の歌を聴け」について)「これが、日本の戦後の文学史に現れた、最初の、自覚的に『肯定的なことを肯定する』作品だった」「それは、ひるがえって言えば否定性を否定するということだからである。『否定性』とは何か。それは、国家なるものを否定すること、富者なるものを否定すること、現在の社会を構成している理不尽なるものを否定することであり、つまりはこの否定性が、身分制を倒し、近代社会を実現し、これをより民主的な社会へと推進させてきた近代の動きの原動力に他ならない。」「『肯定的なことを肯定する』とはこの『否定性』への文学の依存を断ち切ることを意味しているのだ。」
なるほど、私が村上春樹をいいと思えないのは「否定性への依存」のせいか?・・と反発を覚えながら(つまり全然納得はしないながら)少しわかった感じです。
「『否定性』が従来のかたちのままでは文学を生き生きと生かし続けられない、そういう社会の変換点が来る。そしてそれはどのような社会にも不可避でまた、文学的に普遍的なことである、そこで、従来の『否定性』に依存しないで、また『欲望』を否定することなく、どのように新しい―またそう言いたければ真摯な―文学を作り上げるかが問題となる。ここにあるのはそういうポストモダン期の問なのである。」
とも言われています。最近読んだ本の中で「ポストモダン」を標榜するものの中身をよく見てみると「プレモダン」に過ぎないものが多い、というような指摘がされていましたが、たしかにそのように思わされるところです。
この村上春樹における「否定性の否定」について、著者は「悲哀を浮かべている」ものだとして、そこに文学的な課題や価値がある、としています。でも、そうでしょうか?私には、「悲哀を浮かべている」ように見えるのは、そのふりをしているだけに見えてしまいます。そこが鼻につく、とても嫌いなところです。このことは「ノルウェイの森」に顕著です。

著者は、初期の村上春樹の作品の示すものを「デタッチメント」という言葉で集約します。「デタッチメント」は「コミットメント」の対義語で「世間に同調することを拒み、社会との間に距離を置くこと」とされます。そして、
「この消極的な姿勢は、いまや否定性の『塩』が聞かないポストモダンの時代における彼の精いっぱいの抵抗の姿でもある。」
そして、そのような
「自分のスタイルを貫き、自分のやり方をもち、世間に流されない自分を保持すること―世の中から距離を置き、マクシムを保つこと―が、そのしゃれた主人公の生活ぶりと生き方と相まって、『シラケ』の時代における『否定性』の新しい越冬用の雪穴として受け止められるのである。」
とされます。しかし、本当にそうなのか?「しゃれた生活ぶり」は付随的なものではなく、むしろこれこそが本質になってしまっているのではないか、と私には思えます。そして、その「しゃれた生活」が行き着くのは
「自分では自分なりのスタイルを貫いてきたつもりだったが、自分はいまや、汚らしい中年男と同じだ、という感慨が不意に彼を襲う。」(著者が「ファミリー・アフェア」を要約的に紹介している部分)
というところです。
このようなことが言われる、ということは、少なくともこの時点では、「否定性の否定」「デタッチメント」への反省も現れてきている、ということなのでしょうし、確かに最近の作品では、それまで避けてきた個人的な問題(小さな主題」)にも向き合い、また「大きな主題」にも手をかける、ということになってきていて変わって来ている、ということなのではありましょう。そこに著者は期待もしつつ、物足りなさを感じている、ということであるようですが、私は、やっぱり「越冬用の雪穴」をぶち壊して「否定性の否定」を否定する方向に向かわないと本当のことは始まらないのではないか、と著者とは反対の方向で思います。

・・・と、いろいろと納得のいかないところを残しつつ、それにしても本書を「案内人」として、これまで食わず嫌いだったものを食べてみて、これまで考えもしなかったことを考えることができた、というのは、それなりに有意義なことだったのでしょう・・・・、と思っています・・・。