大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

読んだ本-「日本劣化論」(対談:笠井潔/白井聡。ちくま新書)

2014-08-31 11:11:27 | インポート

本書の内容を、カバー裏から引用すると

「日本は破滅に向かっている。反知性主義は大衆のみならず、政治家にも蔓延し自分勝手な妄想に浸り、歴史を都合よく塗り替えようと必死である。一方、それを批判するリベラルは、『戦後』に落とし前をつけることができず、壊滅的な状況が続いている。なぜ、日本は思考停止に陥ってしまったのか?・・・臆することなく徹底討論。」

ということになります。読むと、内容的には共感するところも多くあるのですが、全体としての身体的な感想としては、「なんでそんなにエラそうなの?」という感じがあります。年の差約30歳の二人なので、気の合う親子が晩酌しながら意気投合して世の中全部ダメじゃん、って言い合っている、という感じを受けてしまうのですね。

・・・と、まずはケチをつけた上で、なるほど、と思ったところを紹介します。

「積極的平和主義」について。まずは、全体的な理念としては、「これからの日本人は世界市民としての自覚を持ち、その責任を果たさなければならない」ということが言われている、とします。しかし、具体的な提言になると、「日米同盟の強化こそがその実現につながる」ということになってしまっている、として「論理的なつながりがない」とします。「世界=アメリカ」という考え方で、これではダメなのだ、とするわけです。

そのように考える基礎には、世界の構造変化ということがあります。冷戦終了後、アメリカが唯一の「世界国家」になったかに見えたけれど、それも危うくなってきています。戦後の冷戦時代というのは、アメリカとソ連が「世界国家」の座を争ったものであったけど、爆発的な世界戦争にはならないまま、ソ連の崩壊で終了しました。

その意味を考え直す必要があるそうです。つまり、第一次大戦以降、戦争の性格が変わった、ということから考える必要がある、とします。昔の「国民戦争」は、自国の利害を貫こうとして対立する時の「利害調整の最終手段」で、そのようなものとして国際法上「交戦権」が認められてきたわけで、いわば、お互いに「正しい」戦争をしていた、という感覚だったけれど、第一次大戦以降、「どちらの陣営も敵国を侵略者とし、自国の戦争を自衛戦争と位置付けますから、戦争は要求を獲得するための相対的な国民戦争から、犯罪者としての敵を殲滅する絶対戦争に転化」した、というように言われます。ここから、二つの世界大戦として甚大な被害をお互いにもたらし、その上に冷戦が展開された、ということになります。

そして、冷戦が終了したのだからアメリカが唯一の「世界国家」になって、「世界=アメリカ」という姿が創られた・・・・というように考えられもするわけですが、現実はそうではないことを示しています。ウクライナや、イラク・シリア、パレスチナ(ガザ)などの最近の情勢とそれへのアメリカの対応は、逆に「アメリカによる平和」の崩壊を示しているわけです。

この「アメリカ=世界」という構造が崩壊したことを受けて、だからこそ日米同盟を強化してアジアの危機に対応しなければ、という発想が出てきているわけですが、世界の構造自体が変わってきている中での、そのような従来型発想でいいのか?・・というのが問題です。

著者(対談者)の一人である白井聡氏は、「永続敗戦論」という本の著者でもありますが(私は読んでませんが)、そのような従来の発想を越えられないことこそが「永続敗戦レジーム」なのだとします。「永続敗戦レジーム」とは、「敗戦」を「アメリカへの敗戦」として一面化してとらえ、アメリカへの愛憎半ばする感情を抱きながら、総体としては従属していく体制を指すのだと思います。

そして、このような構造は、戦後の日本社会で広く(私たちの周りでも)見られることです。「永続従属レジーム」とでもいうべきもので、戦後の特殊な条件の下で成立してきたに過ぎない構造を永続的なものであるかのようにとらえてしまうものです。これを突き破るべき若い世代においても、「ネトウヨ」的な低レベルなものに陥ってしまい、逆に「従属」を強化する方向に向かってしまったりしています。

そのようなものとして「日本劣化論」が言われなければならない、ということなのでしょう。あんまり「上から」の感じでなく考えていきたいと思わされました。


「境界確定の訴」

2014-08-29 18:22:18 | インポート

「境界確定の訴」(村松俊夫著)を読みました。

境界確定訴訟に関する代表的な著作なのですが、2000年に増補版が再版されて以降、絶版状態になっていた本です。私も以前に人から借りてざざっと目を通したことはあるもののきちんとは読めずにいました。

今回、ネットで見ていたら、版元の有斐閣で「オンデマンド版」として販売している、ということだったので、早速手に入れました。「オンデマンド版」とは、「出版社が在庫を持たず,お客様からのご注文のつどに一冊から制作をする出版の事です。これによって,これまである程度の需要がなければ重版・復刊できなかった品切本・絶版扱い本が,1冊単位でお求めいただけるようになりました。」とのことです。便利な世の中になりました。

本書に収録されている論文は、昭和32年から52年までに書かれたものです。かなり古いものばかりなのですが、それだけに、「形式的形成訴訟説」が「通説・判例」として確立される以前の、まだ論争の華やかな時代の雰囲気を感じさせてくれるものです。確立されると「教科書」的に無味乾燥なものになってしまいがちですが、それ以前にはそれぞれの「説」が、さまざまな背景と内容を持って主張されていたようで、それらを生き生きと感じることができると面白いものです。それぞれの主張の中で示されていた内容というのは、今日の私たちにおいてももう一度見直す必要のあるものが多く含まれているように思えます。

また、これは本書における主要な論点ではないようにも思えますが、「境界を幅として観念した方がいい場合もある」というようなことを言われている部分について興味深く読みました。もちろん、将来の紛争回避のために「線で定めることを法が要求している」ということがあるにしても、その前提になる事実認識として、このような考え方が裁判所の中にもあった、ということを知り、今日の状況をその上で理解しなければならない、と思わされました。

このようなことを含めて、「基本的な考え方」としては、けっして「古い」わけではなく、今日においても十分に通用する内容であるように思えます。しかしその反面、「公図についての評価」というようなことについては、何件かの境界事件を取り扱う中で非常に鋭い問題意識を持って考えておられることが感じられるものの、今日に比べると、実証的な研究は全然進んでいなかったことが読み取れます。これはあたりまえのことで、「法曹は法律の専門家であって境界の専門家ではない」ということを示している、ということなのでしょう。この時代には、「境界の専門家」と言える実務家ががいなかった(土地家屋調査士はそのような存在ではなかった)、ということをあらためて感じさせられます。今は全体としてどれくらい進んでいるのだろうか、ということををも含めて・・・。

最後に引用します。本書では、

「正しい境界を判決で明らかにし、当事者間の紛争を根絶させるためには、通常の民事事件のように、事実を確定してその事実に法を適用するという操作のみによるのではなく、事実を確定したうえ、裁判所が合目的な判断をなして境界を確定する」

ことが必要だ、と言われています。そしてその目的は?と言うと、戦前の境界訴訟に関する最も大きな転換点となった大正12年6月2日の大審院民事聯合部判決が次のように言っています。

「経界確定ノ訴訟ハ両隣地間ニ於ケル経界ノ不明ニ基因スル争議ヲ根絶シ、相隣者間ノ権利状態ヲ平安鞏固ナラシムルコトヲ目的トスル」

「境界紛争ゼロ宣言!」ですね。


今週の予定-第9回国際地籍シンポジウム

2014-08-25 08:44:33 | インポート

8.26-27 韓国ソウルの江南・貿易センターコエックスで「第9回国際地籍シンポジウム」が開催されます。

「国際地籍シンポジウム」は、1998年に台湾で第1回が開かれ、以降、2年ごとに台湾・日本・韓国で持ち回り開催されているものです。今回でちょうど3巡、ということになります。

東アジアの3国においても、「地籍制度」は異なった歴史的経過を持ち、異なる特質を持っています。その違いをしっかりと認識したうえで、全体としての制度としてよりより方向を目指して行く、ということが大事なのでしょう。

今回、日本から6人の発表を行うとともに、韓国・台湾の発表を聞かせていただくことにしています。実り多いものになることを期待しています。


読んだ本―「資本主義の終焉と歴史の危機」(水野和夫著:集英社新書)

2014-08-19 07:12:28 | インポート

この稿を書きはじめたとき、この本のタイトルを「資本主義の危機と歴史の終焉」と書いてしまいました。読んでいてふと「変じゃないか」と思いました。「歴史」が「終焉」しちゃったらおかしいじゃないか、なんでこんな変なタイトルにしたのか?と思ったら、私が間違えていただけでした。なるほど、「資本主義の終焉」が近づいていることが明らかなのに、それに気づかずさらに破滅を大きくするようなことばかりしているのは歴史そのものの危機だ、というのが本書で言われていることなので「資本主義の終焉と歴史の危機」というタイトルは、内容をよく表現しているものです。・・・つまらない話で当たり前のことを確認させていただきました。

資本主義は、「新たな空間」をつくって拡大していくことを本質とするシステムだ、とされます。「中心」から「周辺」に広がっていくのは、かつては「地理的・物的」なものでした。旧来型の帝国主義です。それが、近年変化してきていた、と言います。

「現代の経済的覇権国であるアメリカは、『地理的・物的空間(実物投資空間)』での利潤低下に直面した1970年代半ば以降、金融帝国化へ邁進すると同時に、グローバリゼーションを加速させることによって『電子・金融空間』という新たな空間をつくり、利潤を再び極大化させようとしました。」

そして

「その結果、1995年からリーマン・ショック前の2008年の13年間で世界の『電子・金融空間』には100兆ドルものマネーが創出されました。これに回転率を掛ければ、実物経済をはるかに凌駕する額のお金が地球上を所狭しと駆け巡ったのでした。」

その上で

「しかし、こうして出来上がったアメリカ金融帝国も、2008年に起きた9.15のリーマン・ショックで崩壊しました。」

このことを著者は、次のような歴史的な意義のあることだとします。

「たしかに20世紀に先進国は技術革新によって成長を遂げ、豊かになったのですが、2008年の9.15(リーマン・ショック)や2011年の3.11(東京電力福島第一原発事故)で、金融工学や原子力工学も結局は人類にとって制御できない技術だったことがわかりました。」

また、これらのことによって世界の構造が変化している、ということを指摘しています。

「現在のグローバリゼーションで何が起きるかというと、豊かな国と貧しい国という二極化が、国境を越えて国家の中に現れることになります。」「グローバル資本主義とは、国家の内側にある社会の均質性を消滅させ、国家の内側に『中心/周辺』を生み出していくシステムだといえます。」

このことによって、「『電子・金融空間』で犠牲になって行くのが雇用者」であり、「現代の弱者は、圧倒的多数の中間層が没落する形となって現れる」ということになります。

そして「中間層の没落」という社会を覆う現象は、政治的には「民主主義の崩壊」に結びつく、とします。

「民主主義は価値観を同じくする中間層の存在があってはじめて機能するのであり、多くの人の所得が減少する中間層の没落は、民主主義の基盤を破壊することにほかならない」

ということです。それは、さらに別の角度からも問題になります。

「それまでの国家と資本の利害が一致していた資本主義が維持できなくなり、資本が国家を超越し、資本に国家が従属する資本主義へと変貌している」

というのです。「国家」には「グローバル資本主義の暴走にブレーキをかける」という役割が期待される中、それが失われていくことに対して、どう対処していくのか、ということが問われます。

経済的な問題に戻ると

「成長を信奉する限り、それは近代システムの枠内にとどまっており、近代システムが機能不全に陥っているときにそれを強化する成長戦略はどのような構造改革であっても、近代の危機を乗り越えることはできません。」

として、「脱成長」「定常状態」ということが提起されています。

・・・以上、あまりにも多い引用で埋め尽くしたのは、自分自身の言葉で表現できるほどに咀嚼しきれていないから、なのですが、私たちが直接関わっているものを含めた全体としての社会システムについて考える際のヒントを得たような気はします。

 


今週の予定

2014-08-18 07:50:47 | インポート

今週の予定

8.21-22 日調連常任理事会

8.23 九州ブロック協議会会長会議

昨日、大分市で元の日弁連会長宇都宮健児さんと元総理村山富市さんとの対談会があったので聴きに行きました。

内容はさまざまな問題にわたるもので、全体として面白かったのですが、特に興味深かったのが、「何でも反対」の社会党からいきなり総理大臣になった村山さんの「現実感覚」です。右から左までとても広い層を基盤とする政権を運営していくためには、多くの妥協とその中で守るべきものを守る強い意志が必要なのでしょう。それを村山さんがうまくなしえたのかどうかについては、いろいろな評価ができるのだと思いますが、折しも「村山談話」がクローズアップされている中で本人のお話を直接聞けた、というのは貴重な体験でした。

6769