大分の土地家屋調査士ブログ

「土地家屋調査士の業務と制度」を中心に、それに広い意味で関連する様々なことについて一人の人間として思うところを書きます。

大晦日

2011-12-31 05:33:45 | インポート

2011年の最終日。

昨日は、一日中シュレッダーを回してました。会務でのペーパーレス化、登記申請のオンライン化によって、ずいぶんと紙の使用量は減ったと思うのですが、それでも膨大な紙の山が残っています。今日もあと少し処分・整理しなければならないものが残ってます。

昨日の続きを書きかけたのですが、内容的にきわどくなったので、「現場での判断」については、途中で「完」ということにします。これで、すっきりした気分(?)で新年を迎えられる・・・かな?

では、本当に大変な一年でした。お疲れ様でした。明日からの2012年が未来につながる、よい年になりますように!

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「現場での判断」・・・その2 調査士

2011-12-30 05:31:58 | インポート

今年も残り二日。大掃除もせずに、こんなことしていていいのか?と思いつつ、一昨日の続き、です。

前回、「現場での判断を正しくできる能力を持つ人間が増えた」(はずだ)、ということを書きました。

これを、私たちの業務領域である、「不動産の表示に関する登記」の場の問題として考えてみたいと思います。

まずは、私たち土地家屋調査士です。

調査士は、その資格を得るのに「試験」に合格しなければならず、その資格によって一定の領域の業務を独占的に行いうる、という資格者です。ですから、そのような資格者として、「正しい判断をする能力」がある、ということが当然に想定され、前提にされているものだと言えるのだと思います。

・・・しかし、本当にそうなっているのか?・・・ということを、問い返す必要もあるように思っています。それは、「現場での正しい判断」のためには、大局的な観点・理解が必要だと思うのですが、はたしてそれが十分なのか、という問題としてあります。

一つの例。問題としては、小さな、つまらないことで、そう大げさに取り上げるようなことか?と思われるかもしれませんが、「考え方」の問題としてみてください。

街区基準点の「補助点」を、地積測量図作成の際の「与点」として使えるのか?・・・という話を何人かの調査士としたことがあります。

皆さんは、どうされているのでしょうか?

・・・・・・私が、話をしたうちのかなりの方は、「使えない」と考えていました。

「その理由は?」と尋ねると、「登記官がそう言っていた(ような気がする)」というような答えが返ってきます。自分自身で考えていない、判断していないのですね。

まずは、自分自身で考えてみましょう。その上で「判断」するようにしましょう。

考えるときには、まずその制度なり手続きがどういう「目的」に基づくものなのか、ということを考える必要があります。単なる目の前の手続きのあり方ではなく、「制度趣旨」から考えることの必要性です。

都市再生街区基本調査というものは、そもそも「民活と各省連携による地籍整備の推進」という方針のもとでおこなわれたものです。そこで設置した基準点は、法務省管轄の「民活」の中でも利用され、地籍情報として蓄積されていくことをも目指して、莫大な国家予算を使って設置されたものです。「補助点」もそのなかのものなのですから、当然にそのような目的のために利用されてしかるべきものです。もちろん、設置方法などにより、必要な検証は行わなければならない、という条件が付くにしても、当然に「使える」という判断に至るべき、として考える必要があるでしょう。

これには、「補助点」をも含めて成果データが公開されている、ということをも加味して考えることもできます。利用されることを目的として公開しているのだから、利用できるものとして考えなくっちゃ、という判断の補足的な材料になります。

次に具体的にどのように規定されているのか、「条文」です。

「基本三角点等」というのは、そもそも何でしょう?考えるときには、なんとなくあいまいなイメージのまま考えるのではなく、法令に基づくものなのであれば、「原典」にさかのぼって、正確な概念として考えることが必要です。

・・・・不動産登記規則の10条3項では、「測量法 (昭和二十四年法律第百八十八号)第2章の規定による基本測量の成果である三角点及び電子基準点、国土調査法 (昭和二十六年法律第百八十号)第19条第2項 の規定により認証され、若しくは同条第5項 の規定により指定された基準点又はこれらと同等以上の精度を有すると認められる基準点」について「以下「基本三角点等」と総称する」としていますから、ここに列挙されたものが「基本三角点等」であるということになります。

そうだとすると、「補助点」は、これに該当するのか、ということが問題になります。街区基準点は「公共基準点」であり、「補助点」は「4級基準点相当」であるとされていますから、これに該当する、という判断はすぐにでてくるべきでしょう。

・・・とすれば、「制度趣旨」に関するぐちゃぐちゃとした話は抜きにしても、「補助点は使える」という判断を下すことは、簡単にできるように思えます(・・・・が、「考え方」の問題としては、「制度趣旨から考える」ということが大切だと思ったので、あえて書きました。悪しからず・・)。

・・・が、それができていない現状がかなりあるわけですね。何故でしょう?・・・・私には、「マニュアル体質」とも言うべきものが、あるように思えます。

私たちの仕事は、本来、法令に基づく事務ですから、法令への全体的な理解が具体的な諸事実に関する判断の基礎になければなりません。何か具体的な問題にぶつかったとき、「法律」ではどうなっている? 「政令」では?「省令」では?・・・・というように考えていくべきなのですが、そういう面倒くさいことをせずに、細かい手続き的なことを示している「通達」のようなものしか見ず、そこに具体的なかたちで書かれていないと判断できない、というのが「体質」のようになってしまっている、という傾向があるように思えるのです。「結論」「答え」だけしか見ずに、「理由」を考えない傾向です。でも、ハンバーガー屋のアルバイトではないのですから、「マニュアル」だけを見て仕事をしよう、というのは、はなはだ甘い考え方、と言うべきでしょう。

以上のような、「目的」だ、「条文」だ、というぐじゃぐじゃした話をしても、なかなか納得してもらえなかったりするのですが、「法務局の「実地調査要領」の「別表4」に「都市再生街区基本調査において設置された街区基準点(補助点を含む)」って書いてあるよ。」と言うと、すぐに納得してくれたりもします。・・・・それが「マニュアル体質」なんだよ、と思うのですが・・・。

・・・・・・ということで、「現場での判断を正しくできる能力を持つ人間が増えたはず」なのに、現実としては、「判断できる能力」を持つ人が、その能力を正しく使うことをせずに、「他人の判断によりかかる」姿勢でいる、と言う現状が輪が調査士の世界にもあるのではないか、と思えています。この現状の克服が課題なのだと思います。

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「現場での判断」・・・その1

2011-12-28 15:59:10 | インポート

今日は「御用納め」。今日が今年の「最終営業日」という方も多いことと思います。大変な一年でした。お疲れ様です。

そんなあわただしい時期に、まったく関係のないような悠長な話で恐縮ですが、「今年一年を振り返り、来年を考える」という脈絡の中で、最近の諸事態を受けて思い出したこと、考えたこと、を書きます。どこでどうつながっていくのか、わかりにくい話になるかと思いますが、しばらくは会務の公式行事もないので、その間に考えをまとめていく、ということで、何回かに分けて書いていくことにしたいと思います。

小説などを読んでいて、妙に印象が強くて記憶に残るようなシーン(エピソード)のあることがあります。

私にとってのその中の一つ、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の中につぎのような話がありました(だいぶ前に読んだもので記憶が曖昧なので間違ってる部分もあるかもしれません)。

土佐藩が建白した大政奉還を決するための重臣会議が二条城で行われた夜、竜馬が、そのなりゆきがどうなっているのか、を知りたくて土佐藩邸を訪問し、後藤象二郎に面会を求めたところ、門番に文字通り「門前払い」されてしまいました。後藤は、その事実を後から知り、「何故竜馬を取り次がなかったのか」と叱責します。「大政奉還」は、竜馬の提案を受けて、後藤が山内容堂を説き伏せ、土佐藩として建白したものであり、言わばその仕掛け人とも言うべき竜馬をないがしろにするような対応を何故とったのか、というのです。それに対して竜馬(司馬?)は門番を擁護します。「門番は門番としての職責を果たしただけだ。指示されていたことを実行しただけなのだから、誉められこそされ責められるべきものではない」と。

・・・・どうでしょう?記憶に基づく要約の悪さもあって、つまらない話だと思われてしまったかな?。

でも、私としては、「うん、そうだよな」と思い、妙に感心するのです。

当時は、完全な「上意下達」の時代であり、「下」の者は自ら判断することなく、ただ「上」の命令を実行することだけが務めでした。「上」の言うとおりに一生をその職務にささげることが「善」とされていたわけです。この現実は現実として認めるべきなのでしょう。

しかし、そういうやり方ばかりをしているのではやっていけなくなる時代が来ています。「近代」というのは、そういう時代です。

封建制の下で、ゆったりと流れていた時代と違って、「近代」は急速な社会の変化を求めています。そんな中、「上」の言うとおりにことを運んでいればうまく進む、とばかりには行かなくなってきます。直接的な現実に直面する「下」の人間こそが、主体的に考え、柔軟に判断することができなければ、対応がおくれることになります。そできるようになってこそ、社会の進歩についていけるわけです。そういうようになるためにこそ「維新」は必要なわけであり、竜馬はそれまでの「命令通りに実行する者」の立場をも踏まえて、維新へ向かって行った、というわけです。

先日コメントをくださった宇佐の都留さんが言われるように「司馬遼太郎は歴史家ではなくて小説家」ですので、小説の中で描かれていることは、象徴性を持った「事実」(必ずしも史実ではない事実)としてとらえるべきなのでしょう。同じくコメントをくださった岡山の岡田さんが言われるように「歴史的な癖」が描かれているのであり、それを読み取ることが必要なのだと思います(コメントをくださったお二人ほどきちんと読んでるわけでない私が言うのは恥ずかしい限りなのですが・・)。

日本は、その後明治維新を実現し、発展を遂げて行きました。その発展のあり方は、「官主導」で、様々な問題をも孕みながら、敗戦を経て、その後の高度成長があり、今日に至っています。この歴史の中で、「上の決めたことを下が執行する」という作風が、どこまで変わったのだろうか?・・・というのが、考えるところとしてあります。

元経産省官僚の古賀茂明さんが著書『官僚の責任』の中で、東日本大震災直後に知り合いの中小企業経営者が、「物資を送っても届かない」という話を聞いて、それなら自社のトラックで運ぼう、ということで物資を積み込んで持って行こうとしたところ、その中に大量のガスボンベがあるのを警察だかに発見されて、「ガスボンベを車で運んではいけない」と言われて泣く泣く持ち帰らざるを得なかった、という話を紹介していました。

確かに「車でボンベを運んではいけない」という一般ルールがあるわけです。これは「上」が決めたことであり「下」の者は、これを忠実に着実に実行しなければならない、・・・ということがたしかにあります。・・・が、これだけでは、土佐藩藩邸の門番さんと変わりありません。

その上で、「でも非常時で、被災者の役に立つことなのだから、運んでももいいことにしよう」という判断が成り立ちえます。そのような判断・決断は「上が決めたことの実行」ではなく、主体的な判断です。そのような判断をできる人がどれくらいいるのか、その人がどこのレベルにいるのか、ということが、またそれを社会と組織がどこまで許容できるのか、ということが、その社会と組織の成熟度合を示すのではないか、と思えます。

そのような「判断の許容」がなされるための大きな条件は、それぞれの人が行う判断の「正しさ」が保障されることです。できるだけ多くの人が「正しく判断できる能力」を持つことが必要です。おそらく、この条件は、明治維新の頃と今とでは、大きく変わったのでしょう。教育の普及、高等教育進学率の飛躍的な向上は「正しく判断できる能力を持つ人間」を、比較にならないほど増やしたはず、なのです。

しかし、これが「宝の持ち腐れ」状態になってしまっているのではないか、と思えます。社会のシステムとして、そのような現場における機動的な判断、というものを許さないものになっていて、それが活力を削いでいるのではないか、と思えるのです。そして、その中で、「能力」自体にもかげりがでてしまっているのではないか、とも思えるのです。

次回、このことを、私たちの業務に関連する問題として考えてみることにしたいと思います。・・・ということで、次回に続く。

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境界ADRの設立へ向けて

2011-12-27 06:33:00 | 調査士会

「境界紛争解決センター」(境界ADR)の設立へ向けて、大分県弁護士会に協力を要請し、協議をしてきたことについて、これまでも報告をしてきましたが、先日の弁護士会の会議で、弁護士会の協力・協定の締結が承認された、という連絡がありました。年明けに具体的にその方向で進んでいくこととなります。詳細については、研修会等を通じてお知らせするようにしますが、取り急ぎ報告しておきます。

そんな中、昨日届いた日調連会報「土地家屋調査士」の12月号に、七戸先生の「土地家屋調査士ADRの現状」という論文が載っていました。次号は「土地家屋調査士ADRの将来」が論じられるそうですので、全体的な感想は、それ以降にしたほうがいいように思えますが、調査士ADRを考える際に、おさえておかなければならない「背景事情」が的確に示されていると思いますので、是非読んでおいていただきたいと思います。

その上で、七戸先生が指摘されているような事柄とかけ離れたところで、それらを踏まえずに考えられてきた「調査士ADR」の現状についての反省を行わなければならない(考えなければならない)のだと思います。

・・・と言っても、私は、七戸先生が「事実についての指摘」を行っている部分はその通りだと思うものの、全体としての「現状認識」なり、その上での方向性に関しては、調査士としてもっときっちり反論できなければならないのではないか、とも思っています。

特に、「筆界」「所有権界」をめぐる問題を、現実的な調査士会の方策との関係で考えることが必要であり、この点をめぐって調査士にはもっと言えること、言うべきことがあるのではないか、と思っていますので、七戸先生の次号を待ちながら考えをまとめていきたいと思います。

・・・・それらを考えつつ、とにかく大分における現実を前に進めていかなければなりません。全国の調査士会に比べて相当遅れてようやくスタートラインに立った大分会ですが、先行ランナーたちもさほど前に進んでいるわけでもないようですので、追いつき、追い越し、引っ張って行けるくらいのところを目指して走り出したいと思います。よろしくお願いします。

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マニフェスト総崩れ―来年度予算

2011-12-25 17:22:44 | インポート

政府が「八ツ場ダム建設」に舵を切りったことをもって、民主党の政権公約マニフェストが総崩れになった、と言われています。

個別の政策課題については、それぞれいろいろな問題があるのだと思いますが、全体として、「政治主導」ということと、「行政の無駄の根絶(による財政基盤再建)」ということが実現できていないだけでなく、実現できる見通しも立たない、ということが問題なのでしょう。

来年度予算では、4年連続で税収よりも国債発行(=借金)が多くなり、来年度末の国の借金残高は1000兆円を超える、とのことです。

このよう中、「国家財政が赤字で危機だから増税」という流れが一時的には出てきたとしても、それだけでことが済まされるとは思えません。「行政改革」の流れは、歴史が直線的にばかり進むものではなく、ジグザグを繰り返しながら進むものであることから、一時的に速度を緩めたり、時としては逆行することがあったとしても、長い目で大きな流れを見れば「前に進む」と考える以外にはないように思えます。

このことは、私たち土地家屋調査士にとっても、けっして他人事ではない問題として考える必要があります。

私たちの仕事は、「登記行政」という「行政」に関わっています。それは、調査士の「主な」仕事が「行政補助的」な性格を持つのかどうかはともかくとして、疑いのない事実です。そうだとすると、私たちは、私たちの仕事を通じて、行政が「適正・迅速」に運営されるように努める必要があります。調査士の存在によって、このことが実現される、ということによって、調査士という資格に「社会的な意義がある」と認められるのだと思います。調査士という資格を業務独占の民間国家資格者としておくことが社会的な意義を持つのは、このような「実績」によるのだと考える必要があります。私たちは、「登記行政」にかかわる民間資格者としての誇りを持って、行政の中に潜む無駄をなくし、「改革」を前に進めていく道を示していくことを、自分自身の課題にしなければならないのだと思います。

それが、国民に対する資格者としての責任である、という視点を持って、「政治」を見ていきましょう。「政治」を考えるとき、自分たちの直接的利害に問題を絞り、「圧力」で問題を解決していこうとする考え方に陥りがちですが、そうではなく、「社会的存在」である、という基本的なところから考えていく必要があるのではないか、・・・・そんなことを年末のニュースを聞きながら、改めて思いました。

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