大分の土地家屋調査士ブログ

「土地家屋調査士の業務と制度」を中心に、それに広い意味で関連する様々なことについて一人の人間として思うところを書きます。

「93条調査報告書」

2016-01-26 08:38:48 | 日記
「93条調査報告書」の様式改定が正式決定した旨の通知が来ていました。3月から9月までの間に、新様式に移行する、とのことです。

「93条調査報告書」の様式改定の説明が各ブロックで行われているそうなので、各会での伝達を待たないと内容的なこととしてはわかりにくいところがあるかと思いますが、「93条調査報告書」については私が日調連にいた頃に関わっていたことでもあるので、(これまでに何度も同じ話をしてきたのですが、あらためて)少し書きたいと思います。

「93条調査報告書」というのは、言うまでもなく不動産登記規則93条に書かれている「土地家屋調査士の作成する調査報告」のことです。93条は、「実地調査」に関する条項で、その但し書きで、「93条調査報告書」があってそれを信じていいと思えるのだったら登記官による実地調査はおこなわなくてもいい、ということが規定されているわけです。
だから、「93条調査報告書」のことを考えるのであれば、特にその様式を改訂する、と言うことを考えるのであれば、「実地調査」との関係を考えることが必要です。「93条調査報告書」は、あくまでも「実地調査を省略してもいいようにするためのもの」であるわけですから、その役割を果たすことができるようにする必要があり、その観点から様式についても考える必要がある、ということになります。
特に土地家屋調査士からすれば、実際に調査をして申請するのは自分たちです。土地の筆界に関することであれば、通常でも1か月以上の調査の過程を経て確認(認定)して申請に及んでいるわけですから、その過程・内容を適確に報告することが重要なことになります。これがきちんとなされていれば、屋上に屋を架すような「実地調査」を行う必要はありません。ましてや、「筆界調査」ということについては、「現地を一目見ればわかる」というものでないわけですから、そもそも「現地を一目見る」的な「実地調査」は内容的に考えれば「無駄」なもの、ということになります。形式的な手続みたいな無駄なことをしなくても適正な手続きができるように努める、というのが土地家屋調査士の責務であり、そのような観点から「実地調査」の問題、「93条調査報告書」の問題を考える必要がある、ということになります。
ところが、このような問題の性格を踏まえた話をあまり聞きません。私が日調連にいた時にいろいろと話した中でも、あえてこの問題を避けてしまう傾向が強かった、と言えます。

ここに実に深刻な問題がある、と私は思っているのですが、話はちょっと横道にそれます。

前回、「司馬遼太郎全講演」を読んでいる、ということを書きました。引き続き、仕事の合間(?)にちょこちょこ読んでいます。講演録をまとめたものですので、あまり同じような話が重ならないように編集されているのかとは思うのですが、それでも同じ話が何度か出てくることがあります。司馬遼太郎ほどの博識な人にも、何度も同じことを繰り返す「好きな話」「何度もしたい話」というのがあるのだな、と面白く思いました。

その中の一つに、江戸時代中期に山脇東洋という漢方医が初めて人体の解剖をして人間の臓器がどのようになっていたのか、を明らかにした(知った)、という話があります。それまでは、人体の機能は「五臓六腑」だけで説明されていたのですが、山脇は幕府の許可を取って処刑された囚人の死体を解剖して、人体が「五臓六腑」とはかなり違う、ということを知った、という話です。それとの関係で、同じように中国の明の時代に囚人を解剖した「偉い医者」がいた、という話が出てきます。その「偉い医者」は解剖をして、実際人体の姿は「五臓六腑」とはだいぶ違うものであることを自分自身の目でみたわけですが、それでも「五臓六腑」は正しいのだ、という考えを変えなかった、ということです。「五臓六腑」は権威のある医学書で言われているものなのに対して、解剖したのは死刑になるような罪人だ、悪い奴は体のつくりも違うのだろう、と「解釈」した、という訳です。
「事実を事実として見る」ということの大事さが強調されています。これは、ごくごく当たり前のことであるわけですが、それでいて現実社会の中ではなかなか難しいことであります。そして、それだけにとても大事なことでもあります。

話を戻します。「93条調査報告書」に関することで、「実地調査」と「筆界認定」に関することです。
ここに寄り道した司馬遼太郎の話との一つの関わりがあります。司馬遼太郎ほどの人でも同じ話を何度か繰り返すのですから、私くらいの狭い世界にいる人間が、何度も同じことを言うのも仕方ないかな、ということです。何度も行った同じ話をまた書きます。

「登記官の最も重要な権限の一つである土地の筆界の認定」というようなことが言われて、その「筆界認定」のために、登記官の「実地調査」が有効である、ということが言われます。本当でしょうか?私には「五臓六腑」説であるとしか思えません。そのことは、
「これまでの登記官の筆界の認定は、基本的に相隣接する土地の双方の所有者の確認が得られた旨の資料の提出がなければ、筆界の認定が困難であるとして処理していたのが実情であった」(平成17年不動産登記法等の改正と筆界特定の実務」P.11)
というような、あるいは、
「通常の表示登記における認定というのは、基本的には、この申請代理人であります・・土地家屋調査士さんがお決めになったものを登記所に報告なさる、こういう性格のものでございます。」(衆議院 H17.3.22 寺田民事局長)
というような、事実をありのままに見たところからの見方との対比で考えれば、明らかなのではないか、と思います。
実際に解剖した人間の臓器がどのようになっているのかを見た人は、このように言うのだと思います。「重要な権限」なので「実地調査」をしてるのだ、というような話は「五臓六腑」の話に過ぎません。そして、そのような現実に立脚しない話というのは、それなりの「権威」を持っていればある程度の期間通用するのかもしれませんが、やがて社会的には認められないものになっていかざるをえないでしょう。
あくまでも、「事実」を見ること、そしてそこから未来のあり方を考えることが必要です。私たちにも、今、「93条調査報告書」の様式改定という問題を巡って、そのことが問われているのだと思います。

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「筆界特定10年」・・・ですが、関係ない話

2016-01-20 17:26:58 | 日記
今日は「筆界特定制度10周年」の日です。ラジオを聴いていたら、今年は「AKB10周年」の年でもあるそうで、筆界特定制度とAKB48が同じ10年を経たのか、と思うと感慨深いものがあります。何の意味もないことですが・・・。

ということで、全然関係ない話です。

「司馬遼太郎全講演」という本を読んでいます。図書館で他の本を一冊借りて帰ろうか、としていたときにたまたま目に入ったので、ついでに借りたものなのですが、これが予想以上に面白く、全3巻(単行本で。文庫版では5巻)の8割くらいまで読み進みました。

講演の中で、「話し言葉と書き言葉との違い」ということが言われていて、たとえば歎異抄などは黙読するのと声を出して読むのでは理解のあり方が全然違う、と言うようなことが言われていましたが、これは現代でもあてはまることだと、「講演」の形のものを読んで感じました。短い時間の中で、消えて行ってしまう話し言葉で内容を伝えようとするときには、その特性をきちんと理解して話さなければならない、ということなのだ、ということを実感できて勉強になりました。

「講演」なので、いろいろな場所に行って、話をしています。その場所に応じて内容を合わせる、というところにさすがのものを感じます。時には、その地方の悪いところを指摘することもあるのですが、大体は誉めています。薩摩では「薩摩人というのは日本人の中でも代表的優れた人だ」と言っていたかと思うと、その1か月後に行った長州では、「薩摩は違います。薩摩は長州のような国民国家ではなく、階級社会でした。」というようなことを言っていて(別に嘘を言って誉めている、というわけではなく、ある一面の真実を語っているだけなのでしょうが・・)、そういうところも面白いところです。

その「長州」を誉めている中で、次のような言い方があって、面白く感じました。
「長州は不思議な所ですね。侍と百姓が問題意識をともにしていたと思えるくらいです。EC(欧州共同体)がどうなるのか、東欧はどうなるのかと、そういうことをわがことのように思えるのが知性というものでしょう。長州藩の、日本の未来を、ペリー来週の意味を、侍も百姓も考えていた。」

最近の日本の、そして世界の動き(アメリカ共和党での「トランプ旋風」。フランスでの「国民戦線」躍進、そして日本での「目先の景気さえよければ」ということで本質的なことは考えない風潮・・・)を見ていると、今の「先進国」の国民というのは、明治維新時の「長州の百姓」から成長しておらず、かえって後退してしまっているのではないか、と思えてしまいます。いろいろな場面で言えることですが。
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筆界特定制度10年

2016-01-14 18:23:14 | 日記
最近、どうものんびりしすぎて、ブログの更新が滞りがちです。・・・と言って、何もしていないわけではなく、日調連時代のことを含めて、私たちの業界の何がダメなの? ということを考えていて、まとめようと思っています。なかなか、思うようには進まないのですが、この後、半年くらいのスパンで考えて、まとめたいものだと思っているところです。
そんななかですが、筆界特定制度が来週で「10周年」を迎える、ということで、筆界特定制度に関連したことについて書きます。

「10年」というのは、一つの「節目」としての意味を持つ、と言えるでしょう。その意義と限界を考える機会です。

筆界特定制度自体については、概ね順調・堅調に進んできている、と言えるのでしょう。「境界紛争解決制度」としての機能をめぐっては今後さらに議論して改善していくべきことが多くあるようにも思えますが、少なくとも「筆界確認ができないことによって分筆登記ができず、そのことによって土地取引もできない」、というような事案に対して有効に機能していろのだと思います。その意味で(と言うのでは、ちょっとさみしいような気もしますが)社会的に意義のある制度となっている、ということが言えるのではないか、と思います。

その上で、私自身としては、筆界特定制度ができた頃に「筆界特定制度ができたことにより土地家屋調査士業務の進化・質的転換がなされるのではないか」と期待していたのですが、その点をめぐっては十分に(と言うか、ほぼまったく)実現されていない、と思えますので、残念です(他人事ではありませんが)。

私が、筆界特定制度ができた頃に期待していた「土地家屋調査士業務の進化」というのは、筆界特定制度ができたことによって土地家屋調査士が「主体的に判断をする」ということを業務スタイルの根幹に置くようになる、ということです。
これが実現しない要因としては、筆界特定制度の導入自体がその中の一つのものであった司法制度改革・規制改革のその後一段落ついた小康状態にあるという客観情勢にもよるのですが、やはり主体的な努力の不足、ということが大きいのだと思います。
そして、そのような状態になってしまう原因として根底にあるものが何か?と考えると、(突然のまとめになってしまいますが)「事大主義」、としてまとめられるのではないか、と思っています。
「事大主義」というのは、「自主性を欠き、勢力の強大な者につき従って自分の存立を維持するやりかた」(広辞苑)とされます。
ここでの「勢力の強大な者」というのは、単に「権力を持つ者」ということだけでなく、「権威を持つもの」ということでもあり、「権威」が根拠にしているものを問わない考え方を指す、というのが私のイメージです。
「筆界」ということをめぐっても、本来は筆界特定制度の中で「筆界」を正面から問題にするようになったわけですから、その意味するところ、どのようなものとして社会的に意義のある概念なのか、どのようにして意義あるものとして展開させることができるのか、というようなことを、現実の中で問うていかなければならなかったのではないか、と思うのですが、できていない、というのが私の不満です。「筆界は神のみぞ知る」的なわけのわからない「権威」に安住して、深化を怠ってしまった、ということが問題なのではないか、と思えるのです。

・・・ということで、冒頭に書いた「半年を目途に」の作業を、「筆界」をめぐる問題のまとめ、というところから始めていきたいと思っています。ある程度まとまったところで、逐次書いていければ、と思います。
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2016年

2016-01-04 08:24:59 | 日記
新しい年、2016年が明けました。遅くなりましたが、まずは新年のご挨拶。おめでとうございます。
特に、年賀状をいただいた方々。ありがとうございます。私自身は、数年前から年賀状というものを出さなくなってしまい、失礼しておりますが、皆様とともに新しい年を迎えられたことをあらためて嬉しく感じました。

新しい年を迎えられる、ということは、それだけでめでたいことですが、年末年始の1週間の休みを終え、実際に稼働し始める段になると、多くの課題のあることを考えざるを得なくなります。
「もはや彼らは毎日の仕事に追われて、問題の本質まで深く考えてから記事づくりや番組作りをするような良心や情熱はすっかり失ってしまっているとしか思えない。」
これは、昨年末に読み始めた「文系学部解体」(室井尚著:角川新書)という本のなかにあったマスメディアへの批判の一文です(この本の本題とは離れたものですが・・・)。
たしかに、そのようなことがあるな、ということを、調査士会の役員を離れて半年たった今、しみじみと思います。日々、目の前にあることへの対応に追われて、本来なすべきことを何もできずに終えてしまう、ということはマスメディアの世界だけのことでなくよくあることですし、そのこと自体への反省もなくなってしまうところに、より一層の怖ろしさがある、というべきでしょう。
「目の前のことに追われる」というのは、「目の前のことへの対応さえしていればいい」ということにつながります。最近の社会的な風潮とそれを反映しての政治的な動向(逆もあるのでしょう)は、まさにこの「目の前への対応」に絞られているようです。「金融緩和と財政出動」という麻薬のようなものを主な内容とする経済政策が3年以上たって確たる成果を示さないことが明らかになっているにもかかわらずまだ方向転換をできないでいると思ったら、さらに「軽減税率」の問題に見られるように、「税制」という長期的な視点の求められる問題さえも目先の政略によって弄ばれてしまっています。
社会全体がこのように進んでいる中で、わが土地家屋調査士の業界でも「目先への対応」を繰り返すことでどうにかなるのではないか、という考え方が強くあるように思えますが、まったく逆に考えるべきでしょう。社会が前に進んでいるときには取り残されてしまいがちだし、実際にそうであったわけですが、この停滞の時期には、自分たちが前を見据えて進んで行くことができれば遅れをとりもどすことができます。そしてその逆に、この時期を活かさなければ、社会全体の停滞がどうしようもないものになっていく中で、切り捨てられるべき「弱い環」の一つとされてしまうことになります。
2016年は、そのようなことが問われる年なのでしょう。じっくりと考え、前に進み始められる年にできれば、と思います。
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