大分の土地家屋調査士ブログ

「土地家屋調査士の業務と制度」を中心に、それに広い意味で関連する様々なことについて一人の人間として思うところを書きます。

今週の予定

2014-06-30 11:26:15 | 調査士会

今日で6月が終わり、つまり1年の半分が終わりです。早いなぁ。

今週の予定

7.1-2(火・水) 日調連業務部会議

7.3(木) 日調連研究所会議

日調連総会が終わって各部が本格的に動き始めます。各担当部が自律的に動きつつ、それが全体としての連合会の動きになるような事業展開を目指して、組織体制を整える会議にしたいと思います。

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「法解釈」について~「弁護士が書いた究極の文章術」(木山泰嗣著:法学書院)を読んで

2014-06-29 15:35:25 | インポート

土地家屋調査士も調査報告書やら筆界特定の意見書やら文章を書く機会がふえてきたので、「どうしたらうまく文章が書けるか」という課題にぶつかります。そのためのいい「指南書」がないものかと思って、さまざまな本を読んで見ています。

「弁護士が書いた究極の文章術」(木山泰嗣著:法学書院)も、その中で読んだ本です。多くの「文章術」系の本がそうであるように、この本も「文章術」という意味では、あまり役に立たないものでした。特に著者の「文章観」は、非常に特殊でして、この本自体においても、「とにかく文は短く。一行以内。」というルールを厳格に課していて、しかも一文ごとに改行するものですから、本の下の方には活字がほとんどない、ポエムの本みたいになっています。論理的なつながりを必要とする文章としてはいかがなものなのか、と思ってしまうのです。

「文章術」としては、あまり役には立たなかったのですが、「法解釈」に関する説明について、非常にわかりやすい説明がなされていて参考になったので、紹介します。

法解釈の仕方として、「論理解釈=目的論的解釈」と「文理解釈」がある、として、次の例で説明します。

図書館の自習室の前に「廊下での携帯電話の使用を禁止する」という貼紙がはってあったとき、この廊下で携帯メールをすることは許されるのか?・・・これについて、どう考えるか?

「文理解釈」では文言通りに、「携帯メールをすることは「携帯電話の使用」である。したがって、廊下で携帯メールをすることは禁止されている。」というように「解釈」します。

それに対して「論理解釈=目的論的解釈」では、なぜ「廊下で携帯電話の使用を禁止したのか」ということを考えます。そうすると、自習室の前ですから自習室で勉強する人たちの邪魔にならないよう静謐な環境を保持するためであろう、と考えられます。そこから、「携帯メールの使用は「携帯電話禁止の趣旨」を害さない。だから、携帯メールの使用は禁止されていない」というように解釈できることになります。

この貼紙みたいなものから法律までのなんらかの決まりごとを文章にする時、どうしても「あらゆる事態を想定したもの」にはなりえない、ということがあります。法律の場合は、それなりにいろいろなことを検討して、漏れのないようにはしているでしょうし、だから曲がりくねった長い文章になってしまったりもするのでしょうが、それにしてもあらゆる事態をあらかじめ想定してつくりあげる、ということはなかなかできることではありません。ここから、法律が決めきっていない隙間を狙って悪事を働く人が出てきたりもします。

こういう脱法的な現実が出てきたとき、どのように考えるべきか?ということが問題になります。

一つの方法は「法改正」です。「教室で殴ってはいけません」という決まりがあるときに、殴りはしないけど蹴った生徒がいた時に、「殴ったり蹴ったりしてはいけません」というように決まりを変える、という方法です。しかし、そういうことをしていたのではきりがなくなってしまいます。

ここは、やはり「その決まりは何を目的に作られたのか?」という「立法趣旨」を考え、そこから「解釈」をする、という姿勢を取るべきです。そして、その「解釈」では、どうしても解決できない場合に「法改正」を考えるべきであり、ここの区別や判断というのが大事なことになるのだと思います。

ところが、私たちの周りでは、この「立法趣旨を考える」という論理解釈があまりできていません。一方で、「携帯メールも携帯電話の使用だからダメでしょう」と考える考え方が広くあるとともに、他方では少数ですが「トランシーバーは携帯電話ではないから禁止されてない」的な屁理屈で強行突破しようとする人もいます。もう一度、ごくごく基本的な所から考えてみる必要があるのでしょう。

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「日本」の終わり

2014-06-25 12:14:45 | インポート

日本のワールドカップが終わりました。しかたないですね。これからは、純粋に世界のワールドカップを楽しみましょう。

時を同じくして、「集団的自衛権」協議も終幕を迎えようとしているようです。これは、「戦後日本」の一つの時代の終わり、を示しているのでしょうね。

「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から崩される明白な危険があること」を「必要最小限の実力行使」としての「武力の行使」を認める要件とする、というのが「落としどころ」だったそうです。

アメリカが世界中の事態に十分に対応しきれなくなった状況の中で、「応分の負担」をすることによって、日本も守ってもらえるようにしよう、というのがその主趣旨なのだと思いますが、それってどこまでで止められるものなのか、よくわかりません。

たとえば、「9.11」以降、アメリカは、イラクに攻め込みましたが、それは「大量破壊兵器」を理由としつつ、「我が国(この場合はアメリカですが)の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から崩される明白な危険がある」との判断によった、ということなのでしょう。

その後もアメリカは、パキスタン国内でビンラディンを急襲・殺害していますが、これも「明白な危険」に対する「必要最小限」の措置として行われたのでしょう。そうでなければ、殺害の報を受けたオバマ大統領らが、まるでサッカーでゴールが決まった時のように歓喜の声をあげるというようなことをするわけないように思えます。

同様に無人飛行機を飛ばして(自国民を危険にさらすのは「最小限」にしたいですから)他国の一般国民への「誤爆」をして殺してしまっても、たいして深刻に受け止めないのも、それが「必要最小限」の措置である、という自信があるからなのでしょう。

そういう「安全保障環境」の中で、「集団的自衛権」をめぐる今回の決断をする、というのは、とても重いことなのだろう、と思います。そんな重いことが、一内閣の「憲法解釈の変更」によってなされてしまう、というのは、いくらなんでもひどいのではないか、と思えてなりません。サッカー日本代表に関しては、ザッケローニにすべての采配の権限を与えたわけですから、その是非をめぐる議論があるにしても結果を仕方ないものとして受け止めなければならないのだとは思いますが、「集団的自衛権」に関しては、そういうものではないように思います。

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今週の予定

2014-06-23 07:03:45 | インポート

6.23(月) 日調連 研究所 「国際」班会議。

6.25(水) 大分地方法務局との打ち合わせ。その後、日調連登記基準点評価委員会。

6.27(金) 日調連中国ブロック協議会総会 (於松江)

6.28(土)  大分会第1回全体研修会。皆様、出席するようにしてください。・・・なのですが、私自身は、前日の松江から大分に帰る適当な便がないため、欠席(あるいは遅刻)になりそうです。

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読んだ本ー「陰謀論の正体!」(田中聡著:幻冬舎新書)

2014-06-22 05:04:37 | インポート

面白い本でした。

「陰謀論」というのは、世の中のあらゆる事態を「誰それの陰謀だ」とする考え方で、最近では「東日本大震災はアメリカが地下核爆弾によって起こしたもの」としているようなものです。世間の大方の受け止め方は、「いくらなんでもないでしょう!?」的なものになります。

しかし他方、「ケネディ暗殺」とかにまつわるものの場合は、「もしかしたら本当の部分もあるのかな?」と思わされる人が多くなるのかもしれません。

さらには、「アメリカが公式に武器輸出を禁じていたイランに対してCIAが武器を輸出し、その収益をニカラグアの反政府ゲリラ『コントラ』の活動資金にしていた『イラン・コントラ事件』」については、その発覚前に噂されていた時点では「陰謀論」としか見られてなかったけれど事実だった、ということもあります。

ですから、荒唐無稽と思われるようなことでも何でもかんでも「陰謀論」ということで切り捨てるわけにもいかず、「事実は小説より奇なり」ということもあるものとして見る必要がある、ということになります。本書において言われている「目の前に見える現実が、陰謀論に近づいてしまったのだ」ということもあるわけなのですね。

その上で、「陰謀論」を個別的なものとしてではなく「考え方」の問題として考えてみると「すべてはつながっている」という考え方、ということになるそうです。それは、「1.何事にも偶然はない。2.何事も表面とは異なる。3.何事も結託している」として整理されているそうです。

社会の複雑に絡まりあった事象、多くの人々がそれぞれの意思をもって行動し、それが思惑通りの結果を残したりそうでなかったりして構成されている社会の現実について、「さまざまな事象の背後に何者かの企みを透かし見ようとするような考え方」というのは、「陰謀論」とまではいかないものの私たちの周りでもよくあるものです。「裏事情を知って、事情通になった気になる」というもの、「これの裏には、こういう事情があるんだけど、みんなわかってないのよね」と一人だけ賢いかのように思い込む、というのは、よくあることで、鼻持ちならないけれど滑稽で「陰謀論」の亜種的なものとも言えるでしょう。

著者は、「科学実験でも、まず仮説を立ててから、実験をしてデータをとる。データが仮説を裏切るなら、新たな仮説を立てる。だったら陰謀論も、たとえ妄想めいていようとも、まず仮説を立て、その論が成り立つかどうかを確認するための証拠集めをするというのは、間違った手続きではない」とします。そしてその上で、「検証作業の厳密さや、仮説を裏切る事実があれば受け入れて別の仮説を考えるという誠実さがあれば、いいはずだ」とします。

それはたしかにそうで、私たちのまわりのことについて、この「仮説ー検証」のサイクル、ということはもっと意識化されなければならない、と思います。そのような検証をしっかりとおこなっていき、社会の標準的な認識がそれによって形成されていけば、「陰謀論」やそれに類した考え方がはびこるということもなくなるのでしょう。まぁ、それがとっても難しいことで、安易に結論を求めてしまう所から「陰謀論」がでてきてしまう、ということなのでしょうから、そういうことへの注意が必要、というところからも面白く読めました。

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