大分の土地家屋調査士ブログ

「土地家屋調査士の業務と制度」を中心に、それに広い意味で関連する様々なことについて一人の人間として思うところを書きます。

読んだ本―「知の英断」(吉成真由美インタビュー:NHK出版新書)

2014-05-29 13:50:53 | 本と雑誌

「知の逆転」に次ぐ、吉成真由美さんによる、世界の「巨人」たちへのインタビューをまとめた本の「第二弾」です。

今回は、「グローバル村の長老たち」と言われる「エルダーズ」というグループを組織する人々へのインタビューです。「エルダーズ」は、ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領をリーダーに、12人の大統領級の重鎮たちで構成されているもので(私も初めて知りました)、これまでの経験を活かしての提言等の活動をしているのだそうです。

その中から、この本では、①戦争をしなかった唯一のアメリカ大統領」ジミー・カーター、②50年続いたハイパーインフレを数カ月で快勝したフェルナンド・カルドーゾ元ブラジル大統領、③ノルウェイ史上最年少、初の女性首相を務め、世界保健機構(WHO)の事務局長をも務めたグロ・ハーレム・ブルントラント元ノルウェイ首相、④アイルランド初の女性大統領で、その後も国連人権高等弁務官として活躍するメアリー・ロビンソン元アイルランド大統領、⑤小学校教員から外交の仕事に進み、国連特使からフィンランド大統領となった「世界一の外交官」マルッティ・アハティサーリ元フィンランド大統領、⑥「エルダーズ」の創設者である国際的ビジネスマン、リチャード・ブランソン・ヴァージングループ総帥――の6人へのインタビューがなされています。

今あえて6人の名前をすべて載せたのですが、恥ずかしながら私には、知らなかったり、覚えられない名前が結構あります。みんな、信じられないくらい「偉い」人たちなのに・・・。

それぞれ、含蓄のある言葉が語られています。「偉い」と先に言いましたが、それは単に世俗的な意味で言うのではなく、「世俗的な偉さ」に害されない精神的な偉さであり、そういうものが稀にはありうるのだ、ということを知ることができたのは、ありがたいことです。また、この「エルダーズ」に日本人がいないのは、当然のことなのかもしれませんが、残念なことです。

数ある含蓄ある言葉の中から、これだけを引く、というのは本書の内容を的確に紹介するものではありませんが、グロ・ハーレム・ブルントラント元ノルウェイ首相の次の言葉だけを紹介しておきます。しておきます。

「何らかのリーダーとして働こうとすれば、必ず反対や批判に直面します。それが建設的なものであれば、単に人々の意見を聞くということですから、問題ない。/それが強固なものになった時、政治的な闘争に結びついてときが問題で―そもそも政治家になるというのは、あなたの地位を狙う人たちが常にいるということですから、何をしても必ず批判されるものと決まっています―その際、心の中で、『何に対してなら批判されてもいいか』を決める必要がある。民主主義社会で、批判されないでいることは不可能ですから。」

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読んだ本~「和解という知恵」(廣田尚久著 講談社現代新書)

2014-05-27 08:30:36 | 本と雑誌

ADR関係の研修などでご存知の方も多いと思う廣田尚久弁護士による新著です。勉強になりました。読むことをお薦めする本です。

私は、正直言って、紛争解決に関してすぐに「win win」などと言われることについて、どうも軽さを感じてしまいます。確かにそうなればいいのですが、なかなかそうはいかないのが「紛争」の現実なわけで「win win」の呪文を唱えれば解決するみたいな魔法のような話には、すぐに納得するわけにはいかない、と思ってしまうのですね。

この本は、そういうものではありません。「紛争解決」を一つの「学」として考えています。

私が、なるほどと思ったのは

「人が和解をするときには、「譲歩」や「妥協」などという曖昧なことをするのではなく、「規範」を使って解決するのです。」

という考え方です。

そしてそれは、「法が裁判規範であるという従来のとらえ方」だけでなく、「法が紛争解決規範である」ということをとらえる、ということになります。

それは、歴史観・社会観として「近代を源泉とする二つの源流」というところから考えられます。「二つの源流」とは、「一つは、近代国家、物理的強制力、裁判・司法制度という流れ」であり、ここから「法」を「裁判規範」としてとらえます。「もう一つは、法的主体性、合意・私的自治、相対交渉・ADRという流れ」であり、ここから「紛争解決規範」としての「法」をとらえなおす必要がある、ということになります。

この基本構造を押さえておくことが必要、という指摘は、私たちの展開しようとしているADRでの紛争解決についても非常に参考になると言うべきでしょう。

「相手方から受けた言葉をリフレインする(オウム返し)」といった「細かいテクニック」に目を奪われるのではなく、「和解システムの仕様書、紛争解決規範・・・和解の源泉と二つの源流などと言った和解の基本を・・・身につける方が大切です」

このような、ごくごく基本的な所からとらえなおす、考え直す、ということが、今の私たちにとっても大切なのではないか、と思います。

・・・ということの上で、少し細かいところになりますが、最終章で紹介されていた「付帯条件付き最終提案調停・仲裁」という方法が、とても面白く、興味深かったので紹介します。

まず、「付帯条件付き」ではない「最終提案調停・仲裁」とは、アメリカのメジャーリーグで、野球選手の年俸を決めるときに使われる方法で「野球式仲裁」とも言われるものだそうです。

たとえば、選手が今シーズンはホームラン数も上がったので「100万ドル」の年俸アップを要求するのに対して、オーナーは打点数が下がったので「50万ドル」しか上げないとしているとします。仲裁申し立てされて手続を進めて、仲裁人が両者に最終提案をさせるのだそうです。選手の最終提案は「100万ドル」から「80万ドル」にされて、オーナーの最終提案は「50万ドル」から「60万ドル」とされたとすると、仲裁人は双方の最終提案である「80万ドル」か「60万ドル」か、のどちらかを選択して仲裁判断をする、というものです。

その結果、仲裁人はオーナー側の「60万ドル」を選択して仲裁判断を出したのだとします。この場合、たとえば選手が「80万ドル」ではなく「70万ドル」という最終提案をしていたのだとしたら、仲裁人はオーナー側の「60万ドル」ではなく「70万ドル」を選んでいたのかもしれません。現実に選手は「80万ドル」という最終提案をしてしまったがゆえに、仲裁人に「60万ドル」を選択されてしまう、・・・・というような事態が起こり得ます。

「この方式によると、当事者は、それぞれ、相手方の提案より合理的とみられるような提案をしないと、相手方の案が採用される。そこで、当事者は双方とも。理性的かつ妥協的になることが期待される。」(新堂幸司)ものとして、すぐれた方式なのだと思います。

著者は、これにさらに「付帯条件」をつけます。

それは、「請求する当事者Xの最終提案が請求を受ける当事者Yの最終提案よりも必ず上回ることを前提にしている」ところにひっかかり、「Xの最終提案がYの最終提案を下回ることがあり得る」という「東洋人の感覚」から、「この最終提案仲裁に、Xの最終提案がYの最終提案を下回った時にはその中間値をもって仲裁判断するという付帯条件をつける」ことにする、というものです。

先の例でいえば、選手が「60万ドル」、オーナーが「70万ドル」の最終提案をしたのであれば、「65万ドル」が仲裁判断になる、ということになります。

私は、はじめにこの「付帯条件」を読んだときには、正直、そこまでしなくてもいいんじゃない?と思いました。「60万ドル」でも両者は納得するわけだし、「70万ドル」でも同じでしょう。わざわざ「中間値をとる」ということにする意味がわからなかったのです。この点について著者は次のように言います。

「請求する側の最終提案が請求を受ける側の最終提案を下回るという『意外な』展開があり得ることを、方式自体が当事者双方に示唆し、当事者双方はその示唆を受け、最終提案を考案する過程の中で、『争い』を『争いでないもの』にする心の準備をします。そしてやがて現実に『争い』を『争いでないもの』にしてしまいます。すなわち、付帯条件が充たされるか充たされないかにかかわらず、『争い』を『争いでないもの』にする心境に達し、そのうえで最終提案することになる」

というわけです。つまりこれは、「当事者双方が激しく争っていても、その利害や要求は交叉する可能性を持っているのであり、まさにそこのところに真の解決があるという思想」にもとづくものであり、単にテクニカルな問題ではない、というわけです。そううまくいくものなの?と懐疑的な部分も残しつつ、なるほど、勉強になりました。

 

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今週の予定 と 別府リレーマラソン報告

2014-05-26 09:14:55 | インポート

まず今週の予定

5.27(火) 民主党土地家屋調査士制度推進議員連盟総会に出席させていただきます。

5.28(水) 山形県土地家屋調査士会の総会に林会長の代理として出席させていただきます。

5.30(金) 広島県土地家屋調査士会の総会に林会長の代理として出席させていただきます。

今週で、全国各会の総会が終了します。

話は変わって・・・、昨日「第2回別府シーサイドリレーマラソン」があり、大分県土地家屋調査士会の8人で参加しました。1.5㎞のコースを28周するリレーマラソンで、昨年に続いての参加です。

昨年の「小倉競馬場リレーマラソン」に続いて、山口県土地家屋調査士会ランニング同好会との「公式対決」戦だったのですが、今回もまた47秒差で惜敗してしまいました。当方のタイム3時間02分56秒 は、思いもかけないような好タイムだったのですが、山口会はそれを上回るもので、お見事!です。

勝敗としては残念でしたし、とてもキツイ走りではありましたが、さわやかな潮風を受けて走るのはとても爽快でした。終了後、飲みすぎなければ、その爽やかさが今日も残っていたはずなのですが・・・。

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「法の支配」

2014-05-23 07:42:27 | インポート

ある言葉について、本来と違う意味で使われていると、本来の意味の方が失われて、間違った意味だけが残ってしまう、ということがあります。

たとえば先日書いた「頭の悪い日本語」(小谷野敦著:新潮新書)によると「ダメ出し」は、「本来の意味は、囲碁における『駄目』であり、もはや勝敗に関係のない石を置くこと」で、「そこから派生した演劇などの用語で、演出家が、本番前に、念を入れて俳優の演技についての注意を行うこと」として使用され、「なくてもいいのだけど念のため」というような意味だそうです。それが、「ダメだと言う」の意味で使われるようになっていて、今はまだかろうじて本来の意味が残っているものの、あと数年たつと「誤用」の方が全面的に優勢、ということになりそうな感じです。

この程度のことならいいのですが(よくないか?)、最近気になるのが「法の支配」です。

安倍総理がこの「法の支配」という言葉が好きで、さかんに使います。

「戦後、我が国は、自由で、民主的で、基本的人権や法の支配をたっとぶ国をつくり、戦後六十八年にわたり、平和国家として歩んできました。この歩みは今後も変わることはありません。」(2014.3.18衆議院)

「自由、民主主義、人権、法の支配などの基本的価値を共有するインド及びASEAN諸国との協力関係を一層強化してまいります。」(2014.1.30参議院)

外交は、単に周辺諸国との二国間関係だけを見詰めるのではなく、地球儀を眺めるように世界全体を俯瞰して、自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった基本的価値に立脚し、戦略的な外交を展開していくのが基本であります。」(2013.1.28衆議院)

というような使い方です。これを調べた「国会会議録検索システム」によると、戦後の国会の本会議で、総理大臣が「法の支配」という言葉を用いたのは24回ですが、そのうちの17回が安倍総理によるもので、「国会」「総理大臣」ということで言うと、ほぼ安倍総理の独占状態です。言われていることからすると「法治国家」的な意味合いで使われているようです。

しかし、法の支配」という言葉は、これまで一般的に(でもないか?)は、「専断的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理」(芦部信喜「憲法」)という意味で使われるとされているものであり、似たような言葉である「法治主義」「法治国家」が、「もっぱら、国家作用が行われる形式または手続を示すものに過ぎない」(同)のに対して「民主主義と結合するものと考えられ」るものである点において異なるのだとされています。

そのようなものとして「法の支配」は、最近よく言われている「立憲主義」との関係においてとらえるべきものであるわけです。本来的には。

その言葉を、「立憲主義」を蔑ろにするような方向に進みながら使ってしまう、というのは、「役不足」の誤用みたいに正反対になってしまっていて、よろしくないな、と思わざるをえませんし、「言葉」を勝手に作り変えてしまう手法というものには、危うさを感じてしまいます。

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読んだ本―「悪の出世学ーヒトラー、スターリン、毛沢東」(中川右介著;幻冬舎新書)

2014-05-21 10:43:08 | 本と雑誌

著者は、クラシック音楽に関する著述を中心とされる方で、「政治」や「歴史」を専門とする人ではありません。20世紀のクラシックの音楽家について調べているとヒトラー、スターリンとの関係、その影響を免れないことから関心を持ってこの著作に至ったのだそうです。面白い関心の持ち方です。

このような発端を知ると、私が抱いていた本のタイトルへの違和感は大きくなります。粛清や虐殺を生む独裁のあり方、その酷さが描かれるべきことであるわけですから、問題になっていることは「出世学」ではないはずです。その「政治」のあり方が問われるべきものだとするべきでしょう。「売れ行き」を第一に考える版元のあざとさが気になります。

それは、著者も気になるところなのでしょう。前書きの冒頭でわざわざ

「本書は、読みようによっては、この三人をお手本にしろという本になるかもしれないが、著者である私としては――多分、版元も――「この三人のように生きなさい」と言いたいわけではない。そのことは、まず明言しておく。」

と言っています。ここからすると、各節の終わったところで囲みの欄を設けて「悪の出世学」の教訓を「自分の意見を持たない。会議では最後に整理してすべてを持っていく。」というように載せている本書のスタイルは、「多分」を裏切る「版元」の仕業、ということなのでしょう。

その上で私が興味深く思ったのは、独裁を生んでしまう組織のありかたについてです。

ある程度大きな組織になると、組織構造として階層的な姿を取らざるを得なくなります。著者が紹介していた例で言えば、スターリンの場合において「共産党総会ー中央委員会ー政治局」という階層構造を持っていました。たとえば、この中で、5人しかいない「政治局」で「3:2」で多数を占めると、30人いる「中央委員会」でも圧倒的な優位を得る、ということになります。そして、そうすると、500人集まる「党総会」でも優位になり、そこで勝てれば共産党全体を動かせることになり、ひいては国そのものを動かせるようになってしまう、という構造です。非民主主義的な組織では、このようなことー「5人中3人を押さえれば1億人を動かせる」というようなことが起きてしまうわけで、「悪の政治学」は、そのような構造を作り出し、その構造に基づいて勝利を納め、独裁・粛清・虐殺を生み出してしまう、というわけです。

この荒唐無稽のように思える構造は、けっして他人事ではありません。本書では、田中角栄を、この構造を理解した例として挙げているように、日本の政治にも関わる構造として捉えられるべきなのだと思います。

その上で、そのような構造に陥らないために何が必要なのか、というと・・・、やはり「議論の内容をできるだけオープンにして、内容そのものに関する議論を深めること」なのだと思います。

たとえば、5人の「政治局」で「3:2」で決められたことが「中央委員会」にかけられた時、一方の案には「政治局決定」という「お墨付き」やら「錦の御旗」がついて、少数派の「2」が沈黙しなければならないことにする、ということがあると、ほぼ「3」の意見が通る、ということになります。もしもそのように考えてしまうと、幅広い議論によってではなく「密室」で物事がきまるようになってしまいます。議論の内容が限られてしまうことにもなります。(もちろん、すべてのことについて、組織のあらゆる階層で争うことの非生産性を考慮して「妥協」の判断をすることも必要な場合がありますが、それはあくまでも自由な討論ができる、という原則の上での判断の問題です。)

今でこそとっても独裁的なものだとされているロシア共産党においても、ロシア革命直後には「政治局」内での議論について、公然と新聞紙上で明らかにされ、「2」の少数派も全党員、全国民にその意見を訴えていた、ということが本書で紹介されています。

今の、日本の「民主主義的」とされるさまざまな組織の現状というのが、どこまで本当に民主主義的なのか?ということを、「悪の政治学」を見る中であらためて考えさせられます。

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