大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

解釈改憲による集団的自衛権行使容認

2014-07-01 10:27:33 | インポート
「集団的自衛権行使容認」の解釈改憲の閣議決定が、今日行われるそうです。非常に重い決定の、とっても軽い決め方に危なさを感じずにはいられません。

この「解釈改憲」というのは、去年の今頃には課題になっていなかったように思えます。去年の今頃に問題になっていたのは「憲法96条改正」で「内容問題ではなく手続問題にするトリッキーで卑劣な手法」と言われたものですが、それがダメだということになると「手続」すらもすり抜けることにしてしまう、というのですから、その軽さは、歴史的なもの、と言えると思います。

思えば去年の今頃、「ナチスの手法に学ぶべき」というような発言があって問題になっていましたが、それ以降の一年間が「手法に学んだ」ものなのかどうかはよくわかりませんが、ナチス擡頭の歴史を彷彿とさせるものであるようには思えます。

ナチスが擡頭して政権を握り、さらには強大な独占権力を行使するに至った歴史を、今の時点から見てもると、「何故あのように幼稚で荒唐無稽な「理論」による政治勢力が社会的に通用して席捲してしまったのだろう?」という疑問を感じずにはいられません。あの理論的に物事を考えるドイツ国民におけることであるので、なおさらです。

歴史が示しているのは、論理的に大事なことを少しないがしろにしてしまうと、その綻びは次にはもう少し大きくなり、そうするとその次にはさらに大きくなって歯止めが効かなくなる、ということで、「集団的自衛権」をめぐる最近の動きを見ていると同じようなことが進行しているように思えてなりません。

「集団的自衛権行使容認は解釈改憲でできる」とする説明は、私にはどう見ても論理的には成り立たないものであるようには思えます。だから、「安保法制懇」を受けての安倍総理の説明では、ひたすら危機感やそれ以前の「おじいさん、お母さんを救え」的な感情に訴えるしかなかったのだと思えます。

しかし、その後あたかも「論理的な整合性がある」かのようなさまざまな粉飾がなされています。砂川判決をもってきて「集団的自衛権行使容認」の「論拠」にして、それを「法理」だとまで言ってしまう、というのは、猫に関して説明をしている文章によって虎のことを説明できる、として、それが「科学的な考え方だ」と強弁するようなものであるようには思えます。そういうことを、東大出て法曹資格を持つような立派な人たちがまことしやかに言っている、というのは、本来であればあり得ないことでしょう。優れた論理的思考をするドイツ人が、ナチスの嘘を嘘と知りつつ都合良く使っているうちに制御できなくなってしまった歴史を思い浮かばせるようなことです。

「政治の劣化」が言われて久しい末での現在ですが、「最後は金目でしょ」と「景気がよくなってるからいいだろう」的にのんびり構えていると、取り返しのつかない事態に立ち至ってしまうのではないか、という心配されます。