もっと根本に戻って考えて見る。
実体法説が念頭に置いていたのは、権利が「ある」か「ない」かということがはっきりしていることを前提として議論をしていた。消滅時効を例にとれば、「有」が「無」になるのか、あるいは「無」が「無」のままなのかはともかくとしても、前提として権利関係が「有」なのか「無」なのかを当然の前提としていた。
しかし、訴訟の現場を素直に見れば、あるのかないのか「争いがある」というのが真実ではないのか。もちろん、神のみぞ知る真実はあるかないかのどちらかでしかないが、神ではない人間の世界には争いのある権利関係というのは当然想定しなければならない。だからこそ裁判という仕組みがある。そして、争いごとを裁判で決着することを想定して時効を考えると、訴訟法説に親しみを感じることになる。
しかし、実は民法でさえ、争いがある場合の処理の仕方について規定している部分がある。それが和解である。争いごとを互いに譲り合って解決する仕組みである。
時効も和解と同じだとまでは言わないが、時効制度も、争いのある権利関係について決着をつける一つの方法として実体法として存在するのではないだろうか。その時効の効果を言葉で言えば、消滅時効なら、争いのある権利について消滅したものと「みなす」、取得時効なら、争いのある権利について取得したものと「みなす」、ということである。
このように理解できるとすると、長期間事実として動きのなかった法的状況について争いが生じた場合に、現状維持的な状況を権利関係として犠牲して解決するのが時効だということになりそうである。
実体法説が念頭に置いていたのは、権利が「ある」か「ない」かということがはっきりしていることを前提として議論をしていた。消滅時効を例にとれば、「有」が「無」になるのか、あるいは「無」が「無」のままなのかはともかくとしても、前提として権利関係が「有」なのか「無」なのかを当然の前提としていた。
しかし、訴訟の現場を素直に見れば、あるのかないのか「争いがある」というのが真実ではないのか。もちろん、神のみぞ知る真実はあるかないかのどちらかでしかないが、神ではない人間の世界には争いのある権利関係というのは当然想定しなければならない。だからこそ裁判という仕組みがある。そして、争いごとを裁判で決着することを想定して時効を考えると、訴訟法説に親しみを感じることになる。
しかし、実は民法でさえ、争いがある場合の処理の仕方について規定している部分がある。それが和解である。争いごとを互いに譲り合って解決する仕組みである。
時効も和解と同じだとまでは言わないが、時効制度も、争いのある権利関係について決着をつける一つの方法として実体法として存在するのではないだろうか。その時効の効果を言葉で言えば、消滅時効なら、争いのある権利について消滅したものと「みなす」、取得時効なら、争いのある権利について取得したものと「みなす」、ということである。
このように理解できるとすると、長期間事実として動きのなかった法的状況について争いが生じた場合に、現状維持的な状況を権利関係として犠牲して解決するのが時効だということになりそうである。