水面に映る光景

日常感じたことなど。

母のこと

2024-03-02 17:29:23 | 宮古島の母
母が亡くなって5年目です。
時々、声を聞きたくなります。

母のいとこの叔母さんに会ってきました。

母の最後の様子が少しわかりました。

母は、急に逝ってしまったようです。

叔母さんは母のいる栄寿園に時々会いに行っていたようです。

叔母さんは、母の死の知らせを私の知らない方から、聞いたようです。

母が亡くなったその日の夜に、誘い合わせて3人で実家に行ったようです。
実家には上の弟一人がいたそうです。

私たち娘4人が居ないのが不思議で良く覚えていると話してくれました。

叔母さん、ありがとうございます。心が少し軽くなりました。感謝です。

お墓にも行ってきました。






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母の命日

2022-01-29 07:31:56 | 宮古島の母
早いもので、母が亡くなってから、3年が過ぎました。

私達の祖母は、母の最初の子である私の姉が生まれて6ヶ月後に亡くなりました。

母は自分の子供達が、祖母というものの存在を知らずに大きくなったことを不憫に思っていました。

母は自分の孫たちには、寂しい思いをさせたくないという強い思いをもっていました。
一方で、宮古島の方言の地元の言い方で「孫は多良間どうー」(宮古島本島から多良間島は遠く離れている。)などと、
言って、孫との距離感のことを話していました。

働き者の母さんからの、食料のいっぱい入った小包が、もう、永遠に来ないんだ、と思うと寂しい限りです。

母さん、寂しいよ。
(スパイダーリー=ヒメノカリス)


母と4番目の孫
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明け方のまどろみの中の母

2021-11-11 04:09:21 | 宮古島の母
母としばらく会っていないなーと思いながら、
いつからあっていないんだろうか、とぼんやり思いを巡らせていると、
あ!母はもういないんだと、気が付き、目が一気に覚めてしまいました。
この思いが、消えないように、飛び起きました。






母さんにお別れしたかったと、改めて、おもいました。
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母が夢に

2021-09-11 10:24:15 | 宮古島の母
明け方、母が夢で私に会いにきました。
悲しくて、寂しくて、会いたくて、しばらく涙が止まりませんでした。
重い気分の朝です。

私は夢の中で、娘にしばらく母と一緒に住んでくれないか、頼んでいました。
娘もいいよ、と了解してました。

そのことを知らせるために外に出ると、母が私の方に歩いて来てました。
母は上半身下着姿で表情は明るくありませんでしたが
姉と一番下の妹が来ているから、娘は来なくて大丈夫と話しているところで、目が覚めました。

母の姿が何を意味しているのか、いろいろ考えられると思いますが、
夢の全てが私の中の意識の反映だと思っています。

暑い毎日だから、涼しいように下着姿で?
母が置かれていた現状から逃げたかったから?
母に最後に一緒にいて欲しいと頼まれていたのに、
それを守れなかったから、必死で会いに来てくれた?

母は姉や妹たちにも会いたかったと思うよ。親だもの。

唐突に夢を見たのではない。
判決が近づいてきた(と言ってもまだ1ヵ月近くある)ので、
息子と久しぶりにそのことを話題にしたとき、
自然に私の兄弟たちのことも話題になったので、
それが、意識の中に残っていて、夢になったのだと思う。

母に会いたかった、逝く前に頑張ったね、と声をかけたかった。
その一言で、母は心安らかに逝けたと思う。
父が亡くなるときに、ありがとう、て言ってくれたらすべて水に流せたのに、
と母はよく言っていました。

母に命の危険があること、それが無理なら亡くなったことを知らせてくれたら、
母に会うか、葬儀に参列するかを私に選択させてくれてたら、
母の死をこんなに引きずることはなかったと思う。

母の死を知らせなかった弟は、私に、
「なぜあなたが母の葬儀に来ないこととなったのか、
一人の人間として、自分が一体何をしたのか、
あなたは真摯に自分を見つめて直してもらいたい。」
と考えているそうです。

実家の庭の水仙(2012、10、7 10:32)
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母の人生観

2021-02-20 08:07:54 | 宮古島の母
平成16年1月28日水曜日 宮古島市に住む母が、東京都の北区に住む私に電話して来た。
電話自体は頻繁にある。電話の内容は母の悩みや愚痴が多い。
しかし、その日、母は真剣に母の人生観に付いて語ってくれた。

母は真剣に私の子供達への接し方を心配していたのだ。

当時も今も、娘は米国で暮らしている。そして、息子は関西で暮らしていた。

母、曰く「30、40になって沖縄に戻ってもいい仕事がなく、戻ってきた人は苦労している。年金を貰うまで一つの会社で働いて、ふるさとに戻った人は楽しそうに暮らしている。どこで住むかが問題ではなく、定住し積み上げていく暮らしが老後を楽しくすると子供達に教えなさい。子供が怒ることを恐れてはいけない。」

母の80年以上の人生が母にとって誇れるものであるから言える言葉であり、反論する事もなく素直に聞くことができた。

その当時、すでに普通の生活から外れた生活をしていた私は、母の言葉を子供たちに伝えることはしなかった。自分が出来ない生き方をどう話そうとも、それは説得力にかけるだろう。

当時の私の記録。
「母の周りの人たちは普通の人達だ。奢りでなく、自慢でなく、子供達はちょっと違うと思う。母の言う普通の暮らしに耐えられる感覚を持ち合わせていないし、そうすることができるとも思えない。私が普通に暮らすことを全うできなかったのと同じくらい、いや、それ以上に子供達はできないだろう。
年金のある楽しい暮らし、その生き方を選ばなかったから今の私がいる。
子供達の将来に何の不安もない。なぜなら、彼らの暮らしを私の考えに合わせる事が出来ないとわかったからだ。
とすれば、私が考える成功と言う形を彼らが取らない以上、私は彼らが彼ららしく生きていること、自主的に主体的に取り組んで生きている事、それが彼らが生きている事だから、心配や不安を持ちようが無い。
先にどんな形の生き方があろうともそれは彼らが生きてきた結果であり、それ以上でもそれ以下でもない。
母の生きてきた道は私も生きられなかった。とすれば、私の子供達が生きて行けるとも思えない。
だからと言って母の生き方を否定する気は全く無い。いやむしろ母のように生きられればいいとさえ思う。」


ここまで、社会の構造が変化すると、大正生まれの母の人生観は的を得たものとは言えなくなってきたと思う。
しかし、母が命をかけていつも真剣に生きていたことは、誇れることである。

死ぬ時、そばにいて欲しいと頼まれていながらそれに応えることは出来なかった。

それでも、母と私の間には確信に満ちた確かな分かり合えた別れがあったと思う。

母さん!あなたが父さんを含め家族全員の幸せを願い続けて生きていたことは分かっています。
自信を持って次のステージへ進んでください。

母さん!お疲れ様。ご苦労様。また会えるといいね。

宮古島の朝の月(平成24年撮影)
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母の薬

2021-02-13 07:50:00 | 宮古島の母
母の飲み残しの薬を処分しました。

しかし、心の整理はなかなかつきません。

薬を飲むのが苦手だった母は、
病気が増えるにつれ、上手に飲めるようになっていきました。

母さん!人が、生き切るということは大変だよね。
母さんなりに精一杯生き切ったと、信じています。





薬を飲まない生活をしている私が今、迷っていることは
新型コロナのワクチンを接種するかどうかということです。

これまで、インフルエンザのワクチンを接種したことがありません。
風邪ひいたのがいつだったのかも、記憶にありません。

自分の身体の中でどんな反応が起きるか心配です。

多分、新型コロナのワクチンは接種しないと思う。
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母の3回忌

2021-01-29 08:04:07 | 宮古島の母
あっという間に、母が逝って2年が経ちました。
母に最後に会ったのは2014年(平成26年)の8月です。
あれから7年も経つんですね。昨日のことのようです。
もう一度、会いたかった。

宮古島市では新型コロナが蔓延し、全国的に話題になっています。

母が毎朝食べていたバナナのヨーグルトかけ。
今朝は寒い朝ですがひさしぶりに食べました。


母が、元気な頃(25年?前)。
母と私と瑞紀と。
ダイエー那覇店(現在はジュンク堂那覇店)前で。


母のリハビリを支えた方達と。


母のリハビリ仲間と。

母は沖縄本島でのリハビリを望んでいなかったので、「カサマス、カサマス」暮らしていました。
母は忖度の人なので、この時も精一杯の笑顔で応えてくれました。

母さん、また、いつか、どこかで会えるかもしれませんね。

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母の一回忌

2020-01-29 09:28:21 | 宮古島の母
あっというまに、母が逝ってしまってから一年が経ちました。

母さん、お疲れ様。よく頑張ったね。ご苦労様でした、と言う言葉しか浮かんできません。

昨日、なぜか天ぷらを食べたくなりました。
手近な材料(セロリ、人参、玉ねぎ、サバ缶)でかき揚げを作りました。
美味しかった。
今朝、気がつきました。天ぷらは母さんのソウルフードだったんだと。
嬉しい時も、辛い時も、台風の時も献立が浮かばない時も、
天ぷらは私たち家族を幸せな気分にさせたことを思い出しています。
きっと、父が好きだったので母はせっせと作ったのでしょう。

沖縄本島でリハビリを終え、帰りたかった宮古島に向かう那覇空港で。
平成25年7月30日。90歳。


母の雑貨店のこの時期には、トマト、ほうれん草等が美味しそうに並んでいました。




今日は義母の六七日でもあります。
追悼!
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死すること

2019-12-13 04:56:50 | 宮古島の母
名のある人の死が報道されるたびに、母の死が思い出される。

医師中村哲さん、昨日の俳優梅宮辰夫さんの死は大きく取り上げられて
多くの人がその死を、悼み、悲しみや寂しさ無念さを語っている。

無名の人の死であっても、その死は同じように悲しみ寂しさ無念さが
語られていいはずだ。

母は懸命に生きたのに、なぜ、母はそうならなかったのか。
母は私の知らないところで、何かしたのだろうか。

母は苦労依存症にかかっていたと思う。
苦労して頑張っていなければ、
生きている実感がつかめなかったのだと思う。
母は死ぬまで苦労することを、母自ら選んだ。
私は、そう自らを納得させている。

誰かの死に接する度に、私は、私の死が来るまで、
母の死を思い続けるだろう。

母が眠る実家のお墓
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母の死

2019-03-17 16:19:27 | 宮古島の母
母の死が悲しすぎる。
母の死を知ったのは2月5日であるが正確にはいつ亡くなったのかどんな感じで逝ったのか知らない。
私は弟と裁判で争っているので、私にだけ知らせなかったのかと思っていたが、連絡を取り合っていた妹にも知らせていなかった。妹は2月下旬になって知ったようだ。
姉は弟と余り親しくしていなかったので、私が知った日にメールで知らせた。返事はなかったがきっと知らなかったと思う。

去年の3月、孫が会いに行った時も、弟の反対で母に会えなかったと聞いている。

私は一度ブログに書いたが弟に平成27年1月21日に電話で実家に入ることと、母に会うことを強く禁止された。もちろん、母に会うことはできたかも知れないが、トラブルを避けるために会わない選択をした。

私は心ゆくまで、母がもう来なくていいよと言うまで母のそばにいたので心残りはないつもりであった。

私を除く他の5人の兄弟で母を送ってくれれば母も寂しくないだろうと思ったからだ。私がいなくても母は納得してくれるだろうと思ったからだ。

現実はそうではないようだ。誰と誰が母の最後に立ち会ったのだろうか。
誰と誰が母を送ったのだろうか。疑問は湧くばかりだ。

母の最後を現実に見ていないので、母が夢で死んでいないよと言ってくる。
これは残酷なことである。
94歳まで頑張って自分で決めた生き方をした母を認めているし、十分生き切ったとも思っている。
しかし、生きた長さで簡単に人の死が納得いくものではない。

20年前、70歳で行った母の弟は独身であったが、母の深い愛で見送られて幸せだったと思う。

2階病室で弟の死を嘆く母の声は廊下を伝って階段を降り1階のエレベーターホール前で公衆電話をかけている私にも聞こえるほどの悲しみに満ちた深い声であった。方言で切々と語りかける嘆きの言葉は思い出すだけで胸がつまり涙を誘う。
一人で頑張り通した弟に対しアンガガマインイキラクススヨー。(お母さんの所に逝って楽しなさいよー。)アンガマインイキラクススヨー(お母さんのところに逝って楽しなさいよー。)、と何度も何度も語りかけていた。スニニャーンナーカマ。ウムヤスーウムヤスピリヨー。(死んでしまったんだね。本当に心から安心して逝きなさいよ)
何の心配もしないで成仏するように母は必死に語りかけて送った。

母は母が弟を送った時のように深い悲しみや愛を持って送られただろうか。

私が最後に母に会ったのは平成26年の8月旧盆の時である。平成27年のお正月に母に会いに行かずにいたら正月3日に転んで手首の骨折をしてしまった。罰があったかなと思った。
私が会えなくてなってから母がどのように暮らし、どのように逝ったのか、母の死に納得のいく答えを見つけるまで調べ、探し続けるつもりである。

私は、母はゴミのように捨てられたと感じている。
親の死を大切に出来ないのは人だろうか。




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