授業の内容には関係ないのですが、こんな質問を福大生からいただきました。
「Q.小野原先生は右手に時計をつけながら右手で板書していますが、
書きにくくないのでしょうか?
なぜ左手に時計をつけないのですか?」
この質問をくれたのは女子ではなくて男子です。
ふーん、男子もそんなところ見ていたりするんだ。
質問は2つでしたね。
まずはこの質問。
Q-1.右腕に時計をはめて右手で板書していますが書きにくくないですか?
A-1.全然まったく書きにくいということはありません。
中学だか高校だか初めて腕時計をはめるようになった最初のころ、
右利きの人は時計を左手首にはめるものだと聞いてしばらくそれに従っていましたが、
ふと、なんでそうしなければいけないのかと疑問を抱き、
右利きの人間が右手首にはめていると何か生活に支障が出るか実験してみたら、
まったく何の問題もありませんでした。
大学受験のときとかもずーっと右手首にはめて入試を受けていましたが、
それでハンデを背負ったとか、受験に失敗したということもなかったので、
たぶん誰がやっても大丈夫だろうと思います。
もちろん、お箸で食事をするなどその他の生活でもまったく問題ありません。
続いて、今日の本題。
Q-2.右利きなのになぜ右腕に時計をしているのですか?
A-2.上記の実験以来、世間の当たり前や常識を鵜呑みにしない、
自由な自分の生き方の象徴として、時計を右腕にはめるようにしています。
あんな疑問を抱き実際に実験をしてみるなんて、ひねくれた子どもだったんでしょうか?
世間の当たり前を鵜呑みにしないという意味では哲学の素養ばっちりだったと言えるでしょう。
それにしても今回この質問をいただくまで、
自分が時計を右腕にはめているということ、すっかり忘れていました。
何回かこのブログで自分のモットーを書き出したことがありましたが (その1、その2)、
そのときもまったく思い出しすらしませんでした。
まあ、もう40年近くもこれでやってきていて、すっかり習い性になっていますからねえ。
しかし、なぜ時計を左腕にはめないのかと聞かれてみれば、
たしかに元はと言えば、みんなとは違うことを示したいという自己表現だったよなあと思います。
これは私という人間を表すけっこう重要な特徴ではありませんか。
しかも、ちょうど自由の話をしている講義のなかでこの質問をいただけてよかったです。
というわけで、この右腕の時計は私にとっての自由の女神だったのでした。
P.S.
ところで、このブログを書きながら疑問に思ったことがありました。
手首というのは手なのでしょうか腕なのでしょうか?
質問者の方は時計を右手につけるとか左手につけるという言い方をしていましたが、
私は腕時計という言葉に合わせて右腕、左腕と言い換えさせていただきました。
より正確には腕時計をはめるのは手首ですよね。
英語では armwatch ではなく wristwatch と言いますからね。
いや、でも手首というのもより正確に言うと手と腕のつなぎ目のことだけを言うのかな?
だとすると腕時計をはめているあたりはやはり手ではなく手首でもなく腕でいいのかもしれません。
すると英語の wristwatch よりも日本語の腕時計のほうが正しいということになりますか?
なんかたかだかこういう身体の部位の表現だけでもいろいろ曖昧な点があるのだから、
自由や幸福という抽象的な概念がなかなかひとつに定義を決められなくてもしかたありませんよね。
「Q.小野原先生は右手に時計をつけながら右手で板書していますが、
書きにくくないのでしょうか?
なぜ左手に時計をつけないのですか?」
この質問をくれたのは女子ではなくて男子です。
ふーん、男子もそんなところ見ていたりするんだ。
質問は2つでしたね。
まずはこの質問。
Q-1.右腕に時計をはめて右手で板書していますが書きにくくないですか?
A-1.全然まったく書きにくいということはありません。
中学だか高校だか初めて腕時計をはめるようになった最初のころ、
右利きの人は時計を左手首にはめるものだと聞いてしばらくそれに従っていましたが、
ふと、なんでそうしなければいけないのかと疑問を抱き、
右利きの人間が右手首にはめていると何か生活に支障が出るか実験してみたら、
まったく何の問題もありませんでした。
大学受験のときとかもずーっと右手首にはめて入試を受けていましたが、
それでハンデを背負ったとか、受験に失敗したということもなかったので、
たぶん誰がやっても大丈夫だろうと思います。
もちろん、お箸で食事をするなどその他の生活でもまったく問題ありません。
続いて、今日の本題。
Q-2.右利きなのになぜ右腕に時計をしているのですか?
A-2.上記の実験以来、世間の当たり前や常識を鵜呑みにしない、
自由な自分の生き方の象徴として、時計を右腕にはめるようにしています。
あんな疑問を抱き実際に実験をしてみるなんて、ひねくれた子どもだったんでしょうか?
世間の当たり前を鵜呑みにしないという意味では哲学の素養ばっちりだったと言えるでしょう。
それにしても今回この質問をいただくまで、
自分が時計を右腕にはめているということ、すっかり忘れていました。
何回かこのブログで自分のモットーを書き出したことがありましたが (その1、その2)、
そのときもまったく思い出しすらしませんでした。
まあ、もう40年近くもこれでやってきていて、すっかり習い性になっていますからねえ。
しかし、なぜ時計を左腕にはめないのかと聞かれてみれば、
たしかに元はと言えば、みんなとは違うことを示したいという自己表現だったよなあと思います。
これは私という人間を表すけっこう重要な特徴ではありませんか。
しかも、ちょうど自由の話をしている講義のなかでこの質問をいただけてよかったです。
というわけで、この右腕の時計は私にとっての自由の女神だったのでした。
P.S.
ところで、このブログを書きながら疑問に思ったことがありました。
手首というのは手なのでしょうか腕なのでしょうか?
質問者の方は時計を右手につけるとか左手につけるという言い方をしていましたが、
私は腕時計という言葉に合わせて右腕、左腕と言い換えさせていただきました。
より正確には腕時計をはめるのは手首ですよね。
英語では armwatch ではなく wristwatch と言いますからね。
いや、でも手首というのもより正確に言うと手と腕のつなぎ目のことだけを言うのかな?
だとすると腕時計をはめているあたりはやはり手ではなく手首でもなく腕でいいのかもしれません。
すると英語の wristwatch よりも日本語の腕時計のほうが正しいということになりますか?
なんかたかだかこういう身体の部位の表現だけでもいろいろ曖昧な点があるのだから、
自由や幸福という抽象的な概念がなかなかひとつに定義を決められなくてもしかたありませんよね。
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