スロージョギングと写真のブログ

ウォーキング、ジョギング、ママチャリで出あった季節の花や風景写真で日々の出来事・雑感をつづっていきます

小出裕章氏からのメッセージ

2012年07月05日 | 地域活動(環境)

■ 3.11を契機に、日本が良い方向に変わるかと思いましたが、まったく逆戻り、大飯原発は再稼働、危険な状況は少しも変わらず悔いを千年に残す結果となっている。

後段の水戸巌氏の「引き返し可能」の警告記事(今から26年前に警告されており、まるで福島第1原発の事故を予見していたかのごとくである)を理解すれば、

3.11はまさにその時、事故の教訓をもとに一国の首相が「引き返し」の決断をすべきであった。

増殖しきった原子力村のガン細胞は、政府にまで転移していてその決断はなされなかった。

非公式権力の原子力村は、政界、経済界、学会、メディアまで転移していて、日本の国を蝕んでいる。

関係者の責任感、倫理感は、まったくゼロ。

生物や自然の未来を破滅に至らしめる放射能汚染の負の遺産は残さない、子供たちや生物が安心して生きていける未来を残すことは、私たち大人の責任であり日本の国を救うことになる(放射能汚染は、地球全体の問題ではありますが)

にもかかわらず、政府も主要メディアも、あいかわらず国民に正しい事実を知らせない。

一般市民は、他のルートによって、事の真実、正しい事実を知るしかない。
(そうして、一人ひとりの市民の側から世直しの行動に関与していく

が、他ルートのうちの一つ、

タネまきジャーナル関連のブログから、6月28日付の「小出裕章」氏のメッセージがありましたので転載しました。

『管理人様、皆様、こんにちは。

2012年6月28日、小出裕章氏からのメッセージが、「小出裕章氏講演会情報」に掲載されました。以下、メッセージを転載させていただきます。

“2012/6/28追記 小出先生からのメッセージ

皆様

福島原発事故が起きて、すでに1年以上の時が流れました。

こんな事故を起こす前に原子力を廃絶させたいと思いながら生きてきたのですが、私の願いは届きませんでした。しかし、時を逆に回すことはできず、事実を消すこともできません。
悪夢のように感じた事故は今も目の前で進行中です。

そして、こんな事故を引き起こしたことに責任のある「原子力ムラ」は何事もなかったかのように無傷で生き延び、今また大飯原発をはじめとして原発の再稼働に突き進んでいます。
私の余りの非力さを無念に思いますし、絶望すらしそうになりますが、諦らめた時が最後の負けだと自分に言い聞かせてきました。

事故後、多くの方が私をお招きくださるようになり、できる限りお受けするようにしてきました。
事故後1年がたつ今年3月末までは週末に一度の休みを取ることもできませんでした。
それでも10件に1件程度しかお誘いをお受けできませんでした。でも、このままでは自分の身体に自信が持てないので、4月以降は月に一度の週末を休養日に充てさせていただくことにしました。そして、今年12月末まですでにお約束を入れました。

来年以降も、原子力ムラとの闘いは続きます。負けたくない戦争ですので、私にできる力を発揮して戦い抜きたいと思います。でも、これまでのような状態で、今後長く戦うことができないと思うようになりました。
来年1月以降は月に2回の週末は休養やプライベートな用事(老母が脳梗塞で療養中となりました)のために使います。私をお招きくださるというお誘いは、そのどれもが真剣なもので、お断りする度に心が痛みます。
大変申し訳なく思いますが、お許しください。

今後のお誘いをお受けする基準を厳格に決めることはできませんが、幾つか思いついたことを列記します。まずは、敵地、原子力ムラとの論争ができるような場所を作ってくださるなら、最優先でお受けします。次に、原子力ムラの攻撃にさらされている現地。そして、次は若い人たちのお誘いを優先的にお受けします。そして、最後の基準はお誘いくださる熱意です。
これまでに運動を積み重ねてきた方々、理論的にも行動的にもすでにしっかりした力をつけている方々のお誘いは、申し訳ありませんが、よほどの余裕がない限りお受けしません。
以上、私の勝手な都合ばかりを書き連ねましたが、負けたくない戦いを戦い抜くため、皆さんのご理解をいただきたく思います。
皆さん、それぞれの個性豊かな戦いを期待します。

2012年6月28日  小出 裕章 ”

■ 更に、もう一つ。

同じブログから、

1986年6月10日の核物理学者・水戸巌氏による、「引き返し可能」の記事を転載させていただきました。

チェルノブイリ原発事故後の記事です。

『 本紙三日夕刊に報じられた、国際原子力機関ハンス・ブリックス事務局長の
  「原子力はもはや多くの国で、引き返せないところまで来ており、むしろ原子力とともに生きていかねばならないのが現実だ。」の発言を読み、戦慄を覚え筆をとった。

 事故現場から8千キロ隔たった日本に、まだ死の灰が飛来し、母親たちは今も、牛乳や野菜の汚染に心を痛めている。
 ソ連やヨーロッパは放射能まみれと言ってよい一ヶ月がすぎた。

 本紙二日夕刊の「降り注いだ死の灰」の表とグラフから読み取れば、事故二十五年後の放射能量は、一メガトン核爆弾の爆発十ヶ月後の放射能量に等しく、この放射能による居住不能面積は約五千平方キロである。
 私も百万キロワット原発の最大級事故による居住不適面積(居住により、年間五百ミリレム(*)以上を浴びる面積)を計算したが十万平方キロに達した。
 ちがいは、「居住不能」の定義に由来すると思われるが、そのことは、さておいて、五千平方キロといえば、東海二号炉から二十キロの水戸市から、百五十キロの神奈川県中央部を含む扇形の面積をはるかに超えて、海上に達してしまうのである。
 これは東京二十三区を含む首都圏中心部が、二十五年死の街と化すということを意味する。

 ブリックス事務局長の「原子力とともに生きる」という決意は、もちろん、「絶対的といえるほどの安全を確立したい」という願望のあらわれであると信じるが、全世界の原発の運転経験年数総計約二千年でスリーマイル島事故という「絶対に起こしてはならない事故」(スリーマイル島事故についての『ケメニー報告』による表現)を二回繰り返した原発事故は、きわめて信頼性の乏しい技術と言わなければならない。

 このような危険を眼前のこととしながら、「引き返せない」ほど、人類はおろかなのであろうか。

 現在、日本の原発の総発電量に占める割合は25パーセントといわれている。
 現在の発電容量が供給過剰になっていること、多くの火力、水力などが操業中止になっていることを考慮すれば、この数字は過大と思われるが、仮にこれを額面通りに受け取ったとしても、いまならば、「引き返す」ことは、不可能ではない。
 かりに過半分を原発に頼ってしまった後で、今回のような事故が発生し、原発を一斉停止することにくらべれば、はるかに容易であろう。

 たしかに「引き返す」ことは、多大の経済的損失と電気漬けの生活を脱却する市民ひとりひとりの勇気を必要とすることである。
 しかし、私たちが今その決断を下すことなしには、私たちと私たちの子孫は放射能まみれの生活に「馴れ」なくてはならなくなるだろう。
 ブリックス事務局長の言葉の中に 「放射能とともに生きる」という意味まで感じてしまうのは、思い過ごしであろうか。

 これ以上の原発増設の中止、人口密集地帯に近接した原発の停止を手始めに、徐々に全体の撤退を準備するなど、現実にとることのできる方策は多様なはずである。
 「ここで頑張らなければ、すべて崩壊する」などと硬直した推進路線に固執することは、悔いを千年に残す結果を招くのみでる。   

 水戸巌(五十三歳)核物理学者

(引用者註;1レムは0.01シーベルト)

1986年6月10日 朝日新聞「声」欄 掲載』

マリンスタジアム  12k
                  
当月累計  60km   年累計  1449km

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