雲南、見たり聞いたり感じたり

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イシュタル門へ6

2019-07-30 09:20:05 | Weblog
写真はベルリンのペルガモン博物館。2004年から区画を分けてリニューアル工事中。最終的に完成するのは2025年とのこと。

【オスマントルコ下にあったもの】
 話は脱線し続けましたが、ここまで見てきて分かっているのは、この門、じつにきれいに地理的に3B政策をなぞっていること。当時のドイツの市民および、世界に帝国の支配と融和をアピールできる絶好の遺跡だったのでしょう。

 このほか、ペルガモン博物館には、博物館の名前となったペルガモン王国(現トルコのベルガマ)から発掘されたギリシャ神話の神々の巨大な彫刻が彩られた全長100メートル以上もあるヘレニズム期の傑作・ゼウスの大祭壇や、ウマイヤ朝の遺跡であるムシャッタ宮殿の外壁(現ヨルダンのアンマン。)の一部などが展示されています。

 こういった中近東、中央アジア地域の古代建築物を発掘、採掘してベルリンに運んで復元した部屋がいくつもありました。あまりの質と量に気合いを入れて見入っていたら、クラッめまいがおきるほど。家人は2階に到達することなく、1階だけで見るのを断念にしたほどです。

 現在の地図を見ると、すべてが中近東、中央アジアの遺跡ですが、設立当時はオスマントルコ領内の遺跡ばかりであることに気がつきます。バグダッド出土のイシュタル門ほどではなくとも、博物館で遺跡を公開する意義に、今更ながら気づいてしまったのでした。おそるべし、植民地覇権主義。

 ちなみに私が1990年にみたバビロンで見たイシュタル門のレプリカはイラク戦争時に米軍の駐屯地となり多くの損傷を負ったそうです。
https://www.cnn.co.jp/travel/35030471-2.html
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ihstar_Gate_RB.JPG

この章おわり

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イシュタル門へ 年表(後) メトロポリタン美術館にもあった!

2019-07-21 12:05:51 | Weblog
ペルガモン博物館より。中近東の遺跡の品物の数々が並んでいる。

【イシュタル門発掘 年表・後編】

1925年 発掘者のロベルト・コルデヴァイ死去。
1926年 ドイツ・ベルリンの古代中近東博物館(後のペルガモン博物館の一部門)所長がイシュタル門の     再建という大胆なプロジェクトに決断を下す。

1927年 までに木箱500箱がベルリンに輸送される。
1928年 ベルリンの博物館で復元作業を開始。膨大なかけらからぴったり合う断面2つを探す作業の繰り返し。2年間で30のライオン像、26の雄牛像、17のドラゴン像・・を復元。
1930年 ペルガモン博物館開館

【消えた木箱】
さて、長々と年表を見ていきましたが、まとめるとイシュタル門は、バグダッドで発見され、全線開通とはいかないまでもイスタンブールまでバグダード鉄道で輸送、おそらくそこから船で地中海を通過して、ポルトガル沿岸を北上し、最終的にドイツのベルリンに輸送されたのではないでしょうか。

『ナショナルジオグラフィック』で木箱がバビロンで900箱、と書かれているのに、ペルガモン博物館の掲示板では500箱の木箱がベルリンに輸送された、と書かれていることを見ると、残りの400箱が気になります。
イスタンブールの博物館にイシュタル門の一部が展示されているのは、やはり輸送の途中のものなのでしょうか。

もう一つ、アメリカのメトロポリタン美術館にもありました。古代中近東美術コーナーにあるそうです。写真を見ると、ライオンのレリーフです。いつごろから展示されているかは分かりません。ちなみに米軍キャンプはフセインが再建したイシュタル門周辺にあったそうです。

 発掘者のロベルト・コルデヴァイが、第一次世界大戦によってバビロンを離れる際に、発掘は半分しか行われていないと、後に発表しているように、また、私が1999年にバビロンを訪れた際に実際に発掘は続いていたように遺跡の発掘は引き続き行われ、レリーフは各所に存在しうる可能性はあるのでしょう。

『ナショナルジオグラフィック』では何度となく、イラクのバビロン遺跡を特集していて「サダム・フセインは宮殿を観光の名所とするため、自分の名前を刻印したレンガを使って修復させた」と書かれていました。私が観光したのも、まさに必然だったわけです。それにしてもレンガに彼の名前が刻まれていたとは気づきませんでした。独裁者というのは、ときに繊細な発想をするもののようです。
(つづく)
※次週はイシュタル門の最後の編です。
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イシュタル門へ 年表(中)なぜかポルトガル?

2019-07-14 10:07:57 | Weblog
写真はポルトガルのポルトの夕景。

今週は年表づくし。年表の全体像は来週にまとめるので、辛抱できない方は、次週にご期待ください。

【イシュタル門発掘 年表・中編】
1911-14年 コンヤ-バスラ間(1500㎞)で協定が成立。(アナトリア鉄道から延伸してバグダードま       で行く鉄道建設に世界の同意が得られる見込みが立つはずだった。しかし批准を見ないう       ちに第一次世界大戦へ。)
1914年 第一次世界大戦はじまる。
1914年 オスマン帝国も巻き込まれたように参戦。ドイツ側につく。
1914年 ドイツ考古学チームが戦争のため、バビロンをイシュタル門のタイルのかけらと共に放棄する事     態に直面する。
     門のかけらは900箱になっていた。ヴィルヘルム2世の名で仕事を遂行していたドイツチームは     発見したものを避難させ、遺跡は放棄することに。
(ロベルト・コルヴェライは、遺跡の半分     しか調査していない、という。)
     箱はバビロンからポルトガルのポルト大学に保管される。1917-18 バグダード鉄道はコンヤ-ヌサイビン(トルコ)間とバグダード-ザマラ間とに敷設されてい     た(全長3200㎞の約3分の2)が完成せず。その後、トルコ共和国が建設を継承して1940年に     完成した。
1918年11月 第一次世界大戦 終結

【ポルトガルに運ばれたイシュタル門】
 ここでまた、わかりにくいので注釈です。バグダード鉄道建設は当初、事業主体はドイツ銀行とし、イギリス、フランス資本の協力を得る計画でした。第一次世界大戦前の対立の中で、ようやく条約が批准される直前までいったところで大戦に突入。3B政策を推進するドイツの国家的事業となりました。

 そして、大戦の混乱の中で遺跡も危なくなり遺跡の放棄を決断。門のかけらを入れた箱は、ポルトガルのポルト大学に行った、とナショナルジオグラフィックの取材チームは書いているのですが、その経緯がわかりません。時期はペルガモン博物館に掲示された文から1917年ということは分かります。

 第一次世界大戦前、ポルトガルは政治も経済もぐずぐずで議会もドイツ派とイギリス派に分かれていましたが、1916年にイギリス側で世界大戦に参戦しています。その理由も「1916年3月にポルトガルはリスボンに退避していたドイツ商船を拿捕し、ドイツに対して戦線を布告する。」(ウィキペディア「第一共和政」の項目より)というなかば強引な手法です。

 つまり箱は1916年、ポルトガルがドイツに宣戦布告した後の1917年以降にポルト大学に到着したことになります。いったいどんな経緯があったのでしょうか?友好的に保管されていたものなのでしょうか。まさか拿捕された船?

 ちなみにポルトは港町で、ここからポートワインが主にイギリスに大量に出荷されていました。大航海時代の先鞭をつけたエンリケ航海王子の幼少期の家も港のすぐ隣に今なお、保存されています。
 ドイツはこの大戦で敗戦国となりました。

 旗幟が悪くなっていく中で計画全体の3分の2しか仕上がらないうちにバグダード鉄道は、放棄され、18年間発掘しつづけてもなお終わらないバビロン遺跡の調査もなかばで放棄することになったのでした。
(つづく)

※おもに、日本大百科全書(ニッポニカ)岡部健彦 著および、各種、百科事典で「バグダード鉄道」を引き、世界の歴史やウィキペディアで「ドイツ帝国」「第一次世界大戦」「ヴィルヘルム2世」発掘者の「ROBERT JOHANN KOLDWAY」の記述、及びナショナルジオグラフィ』2018年1月5日の記事「Inside the 30-year Quest for Babylon’s Ishtar gate」(文 Felip maso’)を追い、年表を作ってみました。(ナショナルジオグラフィックからの情報は赤字にしています。)
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イシュタル門へ3 年表(前)

2019-07-07 10:46:37 | Weblog
写真はペルガモン博物館の展示の一つ。ヨルダンのウマイヤ朝・ムシャッタ宮殿の入口。未完成の宮殿で700年代から沙漠に置かれていたとのこと。


 前回は、イシュタル門がベルリン以外にはイスタンブ-ルにもあるという事実を考えてみようということで終わりました。以下、考えてみたことです。ちょっと長くなるので、退屈な方は年表をすっ飛ばしてください。

【3B政策】
 ドイツ帝国が世界進出のために、後に3B政策と呼ばれる覇権主義を推し進めていました。3Bとは、ベルリン、バグダッド、あと一つなんだっけ? と、授業で習っても、すぐに忘れるほど覚えにくかった記憶しか残っていない街・ビサンティウム。これはイスタンブールの昔の名前なのだとか。Bにそろえるためのこじつけですね。

 当時、ドイツは国力を増大させて、オスマン帝国にバグダード鉄道の建設や軍事派遣団を送るなど関係を深めていました。その当時、イラクはオスマン帝国の一部でした。
 ここでドイツ帝国の歩みとイシュタル門の発掘を時系列に追ってみました。すると、あまりの絡み具合の絶妙さに驚愕。くっきりとイシュタル門が国家事業の象徴であることが浮かび上がってきました。

【イシュタル門発掘 年表・前編】
1871年 ドイツ帝国成立
1889年 オスマン帝国から利権を得てアナトリア鉄道(ハイダルパシャ-コンヤ間)の敷設に着手。(た    だし、ハイダルパシャ-イズミトまではイギリス資本により既設。ドイツ銀行がイギリスより買    収する)
1892年 アナトリア鉄道のイズミット-アンカラ間 完成
1896年 アナトリア鉄道のイズミット-コンヤ間 完成。つまり全線開通。
1898年 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がイスタンブ-ルのスルタンを訪問。
    ハイダルパシャ(イスタンブール)の築港権を獲得。ヴィルヘルム2世は「ドイツは全世界3億の    イスラム教徒の友である」と演説した。
1899年3月 ロベルト・J. コルデヴァイがバビロン遺跡を発見。
      以後、15年間、年間約200人以上を動員した発掘が休むことなく行われる。
1902年 コンヤ以東のバグダード鉄道敷設の利権を獲得。
1902-4年 イシュタル門発見
1903年 バグダード鉄道会社設立。建設。(コンヤ-バグダード-ペルシャ湾)
1903年 オスマン帝国との交渉を経て、イシュタル門などのレンガの第一陣がベルリンに到着。

 年表はなかばですがここで注釈です。

 ハイダルパシャは、イスタンブールにあります。イスタンブールの大きさは東京都の2倍ほど。イスタンブールから東側のトルコ各地、さらにはその先のアジア側を結ぶターミナル駅となっていきます。
 ボスポラス海峡を挟んだ西側のイスタンブールの駅からは後にオリエント急行の始発駅となった駅があります。そこまで船で乗り継げるように、ドイツは海に1100本の杭を作ってハイダルパシャ駅を作りました。
 ドイツがオスマントルコに鉄道を建設して、7年で後にバグダード鉄道の一部となるアナトリア鉄道全線が完成しました。その翌年、ドイツ皇帝がイスタンブールにトルコ皇帝を訪問し、各種利権の先鞭を付けていきます。工程表が完璧ですね。

 その翌年3月26日にドイツ皇帝の名前で組織された考古隊がバビロン遺跡を発見し、その3年後、イシュタル門のレンガの一部を発見。翌年にはバグダード鉄道の建設会社が組織され、バビロン遺跡のレンガが初めてベルリンに到着したのです。
 具体的な価値ある物を輸送する作業は、膨大な関係者、およびそれをマスコミが記事にすることで全国民にバグダード鉄道の必要性を痛感させる、ドイツ帝国にとって最高の仕事になったことでしょう。

 また、じつはロベルト・コルデヴァイ(前回はペルガモン博物館の英文で書かれた綴りで英語読みでロバート・コールドウェイと読みましたが、ドイツ人でしたのでドイツ読みにしました)がバビロン遺跡を発掘する以前から、そこに遺跡があるだろうことは、考古学会でささやかれていました。そこにドイツ皇帝の名前で考古学隊が組織され、聖書に出てくるバビロンの都市、およびバベルの塔の存在を証明していったのです。

 ここで思い出すのが敦煌やインドで仏跡調査を行った大谷探検隊。日本では国ではなく、私事業の運営だったのですが、世界的にそういう時代だったというわけです。

※おもに、日本大百科全書(ニッポニカ)岡部健彦 著および、各種、百科事典で「バグダード鉄道」を引き、世界の歴史やウィキペディアで「ドイツ帝国」「第一次世界大戦」「ヴィルヘルム2世」発掘者の「ROBERT JOHANN KOLDWAY」の記述で年表を作ってみました。
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