南斗屋のブログ

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寛政12年10月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年10月31日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年10月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年10月11日(1800年)
曇晴れ。朝六つ後に越河を出立。貝田、藤田、桑折を経て、瀬ノ上で中食。同所から二里ほどで福嶋城下(板倉内膳守、三万石)に八つ半頃に着き、止宿。夜晴天風あり、測量(天体観測)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は越河(こすごう;白石市)〜福嶋(福島;福島市)。地図では24 km。本日から現在の福島県に入りました。福島に泊。福島藩は藩主板倉内膳守三万石。今は県庁所在地ですが、江戸時代はさほど石高はありませんでした(福島県で最も石高があったのは会津藩23万石)。江戸到着まであと10日。

白石市立越河小学校 to 福島城跡

白石市立越河小学校 to 福島城跡



寛政12年10月12日(1800年)
朝から晴天。朝七つ半後に(福嶋城下を)出立。清水町、八丁目、油井町を経て二本松城下(丹羽左京大夫、十万七百石)に八つ前に着き、止宿。夜測量(天体観測)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は福嶋(福島;福島市)〜二本松城下(二本松市)。地図では 21km。今の福島県を南下し、二本松まで来ました。二本松藩の藩主は丹羽左京大夫であり、十万石強です。福島藩は三万石であり、二本松藩の方が石高では上でした。
江戸到着まであと9日。

福島城跡 to 二本松城跡

福島城跡 to 二本松城跡



寛政12年10月13日(1800年)
朝から晴天大風。七つ後に(二本松城下を)出立。杉田、本宮、高倉を経て、福原で中食。日出山を経て、須加川に七つ頃着き、止宿。夜測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は二本松城下(二本松市)〜須加川(須賀川市)。地図では 38km。今の福島県を南下しています。江戸到着まであと8日。

二本松城跡 to 須賀川城跡(二階堂神社)

二本松城跡 to 須賀川城跡(二階堂神社)



須賀川では松尾芭蕉は7泊しており、奥の細道には歌も複数記されています。このことは伊能忠敬も知っているでしょうが、測量日記ではノーコメントを貫いています。

須賀川と芭蕉|須賀川市公式ホームページ

須賀川市公式ホームページ

須賀川市公式ホームページ



寛政12年10月14日(1800年)
朝から四つ頃まで晴天、その後八つ前まで曇天、以降晴れ。朝七つ半後に須加川を出立。笠石、新田を経て、小田川で中食。そこから一里廿七町で白川城下(松平越中守、十一万石)に八つ頃つき、止宿。夜測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は須加川(須賀川市)〜白川城下(白河;白河市)。地図では25km。白河藩の藩主は松平越中守(松平定信)で十一万石。松平定信は1793年に老中を辞任し、このとき(1800年)は白河藩主でした。江戸到着まであと7日。

須賀川城跡(二階堂神社) to 白河小峰城跡

須賀川城跡(二階堂神社) to 白河小峰城跡



寛政12年10月15日(1800年)
朝曇り、四つ過ぎから雨、八つ半頃から晴れ。朝七つころ、白川を出立。白坂を経て芦野で中食。そこから二里十一町四十二間半で越堀に八つ頃着き、止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は白川(白河市)〜越堀(那須塩原市)。地図では26km。福島県を抜け、栃木県に入ってきました。江戸到着まであと6日。

白河小峰城跡 to 越堀

白河小峰城跡 to 越堀



寛政12年10月16日(1800年)
朝から晴天、七つ半過ぎ(越堀を)出立。大田原、佐久山(同所で中食)を経て喜連川に八つ半頃に着き、止宿。夜晴天、測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は越堀(那須塩原市)〜喜連川(さくら市)。地図では30km。江戸到着まであと5日。

越堀 to 喜連川

越堀 to 喜連川



寛政12年10月17日(1800年)
朝から晴天。朝七つに(喜連川を)出立。氏家、白澤を経て宇都宮(戸田能登守、7万7850石)に着き、止宿。宇都宮には九つ(正午)前に着いたので、宿場で中食。夜晴れ、測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は喜連川(さくら市)〜宇都宮(宇都宮市)。地図では27km。正午前に目的地宇都宮着のため、中食は宿場でとりました。宇都宮藩の藩主は戸田能登守、7万7850石と記録しています。江戸到着まであと4日。

喜連川 to 宇都宮市

喜連川 to 宇都宮市




寛政12年10月18日(1800年)
朝から晴天だが微雲あり。朝七つ頃に(宇都宮を)出立。雀宮、石橋、小金井、新田(同所で中食)、小山を経て、間々田に九つ半に着。夜曇り晴れで、晴間に測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は宇都宮(宇都宮市)〜間々田(小山市)。地図では34km。江戸到着まであと3日。

宇都宮市 to 間々田

宇都宮市 to 間々田




寛政12年10月19日(1800年)
朝七つから七つ半まで雨。五つ後晴れ。七つ半過ぎに(間々田を)出立。野木、古河城下(土井大炒頭、七万石)、中田を経て幸手に九つ半後に着き、止宿。夜晴天、測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は間々田(小山市)〜幸手(幸手市)。地図では25km。幸手から今の埼玉県です。江戸到着まであと2日。

間々田 to 幸手市

間々田 to 幸手市



幸手宿

幸手宿「宿場あるき」について|幸手市

コース・開催日(2022年の予定)【幸手宿宿場コース】1月29日、2月26日、3月12日、4月23日、5月28日、6月18日、9月17日、10月22日、11月26日、12月17日(土曜...



寛政12年10月20日(1800年)
朝から曇り、七つ半頃(幸手を)出立。杉戸、粕壁、越ケ谷を経て草加に八つ頃着。夜大曇りで深夜雨のため、測量できず。本日七つ頃、佐原舟の惣五郎が草加まで出迎えに来てくれたので、共に止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は幸手(幸手市)〜草加(草加市)。地図では31km。江戸が近くなったため、早くも出迎えの者(佐原舟の惣五郎)が草加で待ち構えていました。江戸到着まであと1日。

幸手市 to 草加市

幸手市 to 草加市



寛政12年10月21日(1800年)
朝六つ(午前6時)過ぎに出立。曇天。草加から千住まで二里八丁。千住に着くまでに大勢の人の出迎えを受ける。高橋先生から御使い札をいただく。千住で酒宴、昼食。九つ(正午)出立。(浅草の)司天台へ立ち寄る。八つ(午後2時)頃、深川の自宅に着いた。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ついに江戸到着!8月7日に最北端ニシベツから折り返して2ヶ月半かかりました。草加から千住までで測量隊を出迎える人が多く、忠敬も感無量だったのでは。千住での迎えの酒宴は当時のお約束。本日の日記のフルバージョンはブログでご紹介します。

伊能忠敬、蝦夷地旅行を終え、無事江戸に着く-寛政12年10月21日の日記フルバージョン - 弁護士TKのブログ

〈はじめに〉伊能忠敬は蝦夷地測量まで測量を行い8月7日にこの旅行の最北端ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)にたどり着きました。同所から折り返...

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江戸時代の解雇の際の書付・色川三中「家事志」より

2022年10月27日 | 色川三中
〈はじめに〉
土浦に住んでいた薬種商色川三中は、日記「家事志」で、様々なことを書いています。経営者であるだけに、従業員についての記事も多いです。ここでは無断欠勤をして解雇となった吉兵衛の精算のための書付をご紹介します(文政10年10月27日付)。

【現代語訳】
差入れ申す一札の事
吉兵衛は、私どもが人主、請人となりましてご奉公をさせておりましたが、この度吉兵衛が不埒なことをしでかし、奉公ができないことになりました。身代の借用分は全てお返しすべきところでありますが、日割をもってご勘弁下されるとのことで、金額は2両2朱43文をお支払い致します。金策をいたしましたが、用立てることができませんので、極月(12月)15日限りきっとお支払いいたします。念のために一札差し入れます。
文政十年十月
戸崎村 人主 利兵衛
同村  請人 弥治兵衛
同村  組合総代 <字欠>
田中  町請 勘兵衛
色川三郎兵衛殿


〈コメント〉
・現代であれば、示談書を締結すべきところですが、債務を負担する方から書面を差し入れるという形式をとっています。双方了解の上であれば、合意書と同様ですので合理的です。
・「この度吉兵衛が不埒なことをしでかし」というのは定型的な文言なのでしょう。吉兵衛は無断欠勤をして解雇となったのですが、事実を指摘するよりは「不埒」という一言で括ってしまった方が双方にとって都合が良かったのでしょう。
・奉公を始める際に一括して相当金額を受領するのは「身代の借用分」と認識されていました。給料の一括払いではなく、給料相当金額の前借りという理解です。
 中途解約となればその分返金しなければなりません。「身代の借用分は全てお返しすべきところでありますが」と書いていますが、ある程度働いたのであれば、日割りにするのが合理的であり、書付でもそのように合意されています。


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日本の暦学(伊能忠敬から三橋藤右衛門へのレポート)

2022年10月25日 | 伊能忠敬測量日記
(はじめに)
 伊能忠敬は蝦夷地に測量旅行を行いましたが、蝦夷から江戸に帰る際に、幕府の蝦夷地取締御用係の三橋藤右衛門(成方)から、世界及び日本の暦法についてレポートを提出するようにとの要請を受けました。蝦夷から江戸に帰る際にも測量を行っているので、測量の合間をぬって書かれています。
 長くなりますので、ここでは日本の暦法部分についての書付をご紹介します。

【天文来歴の書付(日本部分のみ)】
 過去日本でどのような暦が使われていたのかは、今に伝わっておりません。
 日本書紀等の書物を読みましても、外国の暦法を用いたという様子も見えませんので、日本独自の暦法というものがあったのではないかと思われます。そのような独自の暦法が今日にまで伝わっていないことは残念に存じます。
 持統天皇のときには、中国の劉宋の時代に作られた暦である元嘉暦が使われておりました。
 その後、当の時代には儀鳳暦、大衍暦、五紀暦等が作られ、日本でも用いられてきました。
 清和天皇のときには宣明暦が用いられ初めて後、貞享元年までの800年余りというもの、この宣明暦のみが用いられてきました。
 しかし、長く用いられてきたことから、二十四節気の時が実際と二日余りのずれが生じてきてしまいました。
 そこで、安井算哲が幕府からの命により、元の授時暦をベースに貞享暦を作りました。貞享2年のことでございます。
この貞享暦が日本で初めてつくられた暦であり、暦学はこのときから開けていきました。
貞享暦は宝暦初めに改暦があり、寛政巳年(寛政9年:1797年)にはさらに改暦があり、現在使われている寛政暦となります。寛政暦は、清朝で用いられている暦象考成後編に依拠しつつ、修正を加えたものです。
寛政暦での日食、月食の時刻や七曜運行の度数は正確であることは、私も自身の測量で実感しております。
この寛政暦は、以前の暦の問題点が是正されており、かなり制度が上がっています。これは、近来暦学が大いに開け、測量や天体観測の諸法が精密になり、測量機器の製作も繊細になって遺漏がないようになっていることが理由です。
もっとも、現行暦法は帝都での数値を記載しているため、東都や奥羽或いは九州長崎等の地では、日食の時刻も分数にはずれがあります。また、節気、月食、五星凌犯等の時刻や昼夜の長さ等についても、帝都と東都では異なるものです。
帝都のみではなく、他の地域でも諸国での食の時刻、昼夜の長短等を暦に書くことができれば、そのことが長崎から唐土紅毛にまで自然と伝わり、我が国の暦術が細密であると知られ、異国人も感心するのではないかと思われます。
 蝦夷御用地は北緯42度から44度にあるので、北緯43度として、日月食、分時刻、節気、昼夜の長短を寛政暦に加えたいと考えております。諸国及び蝦夷地を最新の精密な測量機器で測定し、緯度及び方位を各場所ごとに細密に測量したうえで、国図を作成したく思います。そうすれば、御府内(江戸)から蝦夷地各所の海陸の真の方位や距離がわかり、安房・上総・下総・常陸などの海辺から蝦夷地への海路までも悉く判明し、万一のときの御用にもお役に立ちます。
 これまでのとおりですと、冬に新暦ができますが、それでは蝦夷地には新春に間に合いませんので、略歴などを別版として秋には蝦夷地へ送っていただきたいと存じます。
 また、蝦夷地は北緯が高く、昼夜の長短が異なりますので、蝦夷地の昼夜の長短を暦に付け加えていただければ、蝦夷御詰合の自鳴鐘の時刻も正確となり、改善されるのではないかと思います。         以上
申十月 伊能勘解由

(コメント)
 天文暦学の件について伊能忠敬のレポートが作成された経緯は次のとおりです(いずれも寛政12年(1800年)のこと)。
8月19日 三橋藤右衛門は部下に命じて、伊能忠敬にレポートの作成を要請するように伝え、部下は伊能忠敬宛の書面を作成しました。三橋藤右衛門は8月までは函館におり、9月には函館を立って、江戸に向かいました。
9月4日 伊能忠敬は、エトモ(現室蘭市)で上記書状を受領しました。
10月8日 伊能忠敬は仙台に着きました。この間、レポート案を作成しをえており、同日付で師匠である高橋至時宛にレポート案をご覧いただきたいとの書状を江戸に出しています。
10月21日 伊能忠敬は江戸に到着しました。
10月23日 伊能忠敬は浅草にあった天文台に赴いています。このときに師匠の高橋至時に会い、レポートの直しを受領したと思われます。
10月25日 三橋藤右衛門にレポートを提出しました。おそらく23日に師匠にあってから、昨日にかけて清書をしたものと考えられます。

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文政10年10月中旬色川三中「家事志」

2022年10月24日 | 色川三中
文政10年10月中旬色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年10月11日(1827年)雨終日降る
人相書き
孫七(24歳)<人相の記載あるも略>
10月3日昼四つ頃、古河・中田両宿の間で金と荷物を盗み取った。見つけ次第取り逃がさぬよう手当の上、拙者の廻村先である野州佐野宿まで知らされたい。 
10月6日 垣内與四郎
#色川三中 #家事志
(コメント)
本日の日記は人相書の写し。日記には人相書きをそのまま写していますが、長いので要約しました。古河宿、中田宿はいずれも現在の茨城県古河市で奥州街道の宿。土浦に人相書を回すとは広域の回覧です。人相書の作成者垣内與四郎は廻村しているので、関東取締出役でしょうか。

文政10年10月12日(1827年)甲申 晴
・朝、吉兵衛の親が来て、本人を探し当てたとのこと。話し合いのかたが付くまで、代わりの者を遣わすようにと伝えた。
・この間、諸事心得難き事多く、利兵衛(叔父)を府中(現・石岡市)の占いに行かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
店の従業員吉兵衛は10月3日に日帰り出張に行ったままバックレて店にも顔を出さなくなっています。三中は、親にもその旨連絡しましたが、吉兵衛の行方はわからないままでした(10月9日条)。本日ようやく見つかったとの連絡。三中は最近トラブル続きのため、占ってもらおうと叔父さんを出張させています。

文政10年10月13日(1827年)晴
昨夜、府中(現・石岡市)で利兵衛殿(叔父)に占いにしてもらった。本日利兵衛殿が帰宅したのでその結果を聞いたが、神変奇異、言うべからずとのことであるので、日記には書かない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日、府中(現・石岡市)に占いに行った叔父が本日帰ってきました。占いの結果は言ってはならないとのことで、その内容は書いてありません。そうであれば、日記に何も書かなければ良いとも思うのですが、書くことができるところまでは書いて置きたいというのが、三中の性格なのでしょう。

文政10年10月14日(1827年)
店の従業員浅吉の科。7月14日400文のこと、9月中500文銭不足、翌夜また200文、その翌夜また200文のこと。10月10日夜、金1朱不足のこと、同12日利兵衛殿、府中へ参り占った始末のこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員浅吉の不祥事についてはこれまで日記に書かれていなかったのですが、もう我慢ならんと言わんばかりに書き連ねています。浅吉は横領を疑われているようです。12日に利兵衛(叔父)を府中(現・石岡市)の占いに行かせたのは、吉兵衛のみならず浅吉のことも気になっていたからですね。

文政10年10月15日(1827年)
夜、吉兵衛の親が来た。はかり、風呂敷、弁当並びに弁当風呂敷、合羽の5点を返却してもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
店の従業員の吉兵衛問題の続報。店が貸与していた風呂敷等を返却してもらいました。吉兵衛本人ではなく、親だけが三中のもとに来ています。江戸の昔でも子どもの後始末を親がするということはあったようです。

文政10年10月16日(1827年)晴
間原主人と債権者宅へ。先年借り入れをし、元金を返すことができておらず、ご迷惑をおかけしている。当方の事情を説明したら、この債権者は、茶を煎じ、菓子まで出して、「わかりました。いずれまた相談いたしましょう。」と言ってくれた。その後よもやまの話しをし、五つ(午後8時)過ぎに自宅に戻った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の債権者との交渉の記事。事情を説明したら、物わかりよく応じてくれました。お茶やお菓子まで出してくれて雑談に興じました。このような債権者ばかりだと良いのですが。


文政10年10月17日(1827年)晴
七つ(午後4時)過ぎに、小見川からの船便で与市からの書状が届いた。9月5日に当地をでるべきところ、老母が死去し、出立を延期せざるを得ないとのこと。是悲もないことだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与市は三中の元従業員ですが、家の事情で地元に戻っています。三中は何とか土浦に戻ってほしいと願っていますが、なかなかうまく行きません。与市も戻りたいものの母親が亡くなってしまったため、出立を延期せざるをえなくなってしまいました。

与市からの手紙は「小見川からの船便」で三中の元に届けられました。「小見川」は現在の千葉県香取市小見川と思われます。霞ヶ浦や利根川という水上交通のネットワークで江戸時代は結ばれていたことが分かります。

小見川 to 土浦城跡

小見川 to 土浦城跡




文政10年10月18日(1827年)庚寅 雨
米四(米屋四郎兵衛)との債務交渉について隣り主人が来られて話をした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
10月16日の日記のように物わかりの良い債権者であれば良いのですが、残念ながらそのような方は少数派。米四(米屋四郎兵衛)とは、様々な人を介して交渉していますが、なかなか話しがまとまりません。

文政10年10月19日(1827年)
いせや兵衛門が出奔し、兵衛門の店は閉店となった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
出奔、閉店があったという記事。江戸時代でも、「分散」や「身代限り」という法的手段があるので、出奔しなくても法的に精算できるはずですが…。三中自身が多額の債務を抱えているので、出奔、閉店という出来事は気になるのでしょう。



文政10年10月20日(1827年)壬辰 晴
春から隣り主人と間原主人の両家には、あれこれと債務整理についてご苦労をおかけしており、本日八つ(午後2時)過ぎにお招きし、一席をもうけた。中惣も呼んだ。八つ過ぎに始まり、夜四つ(午後10時)時分に帰られた。店の従業員は夜になってから帰ってきて、四つ時分から食事をとった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
債務整理の労をとってもらっている友人らとの会食の記事です。自宅での会食のため、昼過ぎから夜にかけて行われています。従業員の食事はその後。


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複数の弁護士が在籍する法律事務所と個人情報保護法の共同利用

2022年10月23日 | 法律事務所(弁護士)の経営
<弁護士が職務を行えない場合>
 弁護士は職務を行ってはならない案件が定められています(弁護士職務基本規程27、28条)。
 弁護士職務基本規程は、日本弁護士連合会が、弁護士の職務に関する倫理と行為規範を明らかにするため、会規として制定したもので、弁護士の信頼確保のために職務を行ってはならない事件を規定しているのです。
(ケース1)
 甲弁護士は、Aの離婚事件を担当しており、相手方をB(Aの配偶者)として離婚調停事件を行っていました。
 Bは個人で事業を経営していましたが、その事業で法律上の問題がもちあがりました。
 Bは、甲弁護士を敵ながらあっぱれと思っていたため、甲弁護士に連絡を取りました。
 B「甲さん。私が経営している個人事業のことで相談にのってもらいたい。できれば代理人になってほしい。離婚事件であなたといろいろ話したが、よくできた弁護士だと思ってみていました。今回お願いしたいのは離婚事件とは別だから、問題ないでしょう。お願いしますよ。」 
 甲弁護士は、Bの依頼を受けることができるでしょうか。
(回答)
 甲弁護士は原則としてBの依頼を受けることができません(Aの同意が必要)。
 弁護士職務基本規程では「受任している事件の相手方からの依頼による他の事件」は職務を行いえないと規定しているからです(27条3号)。
 このようなケースで甲弁護士がBの事件を受けたら、Aの信頼を損なうことは明白でしょう。

<同じ事務所の弁護士の場合>
 では、次のような場合はどうでしょうか。
(ケース2)
 ケース1の事案で、甲弁護士と同じ事務所に在籍している乙弁護士が、Bの事業関係の法律問題の依頼を受けることはできるでしょうか。
(回答)
 乙弁護士は原則としてBの事業関係の法律問題の依頼を受けることはできません。
 弁護士職務基本規程では、共同事務所の他の所属弁護士が基本規程の規定により受任できない事件は、原則として受任してはいけないと規定しているからです(57条)。
 つまり、事務所が同じであれば、ある弁護士が受任できない事件は、別の弁護士であっても受任できないということになります。

<職務を行えない事件の受任を防止するための規定>
(ケース3)
 ケース2の事案で、Bは自分の事業の法律問題の依頼について友人に相談したところ、友人は、「それなら良い弁護士を知っているから紹介する。メールアドレスを知っているから、自分で連絡してみて。」といわれ、乙弁護士のメールアドレスを教えられました。Bは、甲弁護士と乙弁護士が同じ事務所であるとは知らず、乙弁護士のメールアドレスに依頼の連絡をしました。

 この場合、乙弁護士が、甲弁護士がBを相手方として調停を行っていることを知らなかったら、Bからの依頼を受任してしまうかもしれません。そのようなことを避けるために、弁護士職務基本規程は次のような規定を置いています。
「共同事務所の弁護士は、事務所内の弁護士と協力して取り扱い事件の依頼者、相手方及び事件名の記録その他の措置を取るように努める」(大意;59条)
 具体的には、それぞれの取り扱い事件の一覧表を作成し、依頼者、相手方及び事件名を記録して、職務を行いえない事件かどうか確認できるようにすることになります。

<取り扱い事件の一覧表を作成することと個人情報保護法>
 問題はここからです。
 弁護士は個人情報取扱事業者なので、同じ事務所の弁護士とはいえ、依頼者の個人情報を教えるのは個人情報の第三者提供に、あたるのではないでしょうか。
 甲弁護士は、Aさんから依頼を受け、AさんやBさんの個人情報を取得しています。
 これらの個人情報を取り扱い事件一覧表として作成し、乙弁護士に提供することは、個人情報の第三者提供にあたるのかどうか、許される提供にあたるのかという問題です。
 
<個人情報保護法における第三者提供の制限>
 ここで個人情報保護法における第三者提供について見ておきましょう。
 第三者提供ができるのは、次のような場合です。
・あらかじめ本人の同意を得ている場合
・法令に基づく場合等の法の定める例外要件(個人情報保護法27条1項)に該当する場合
・オプトアウトによる第三者提供の場合(個人情報保護法27条2項)
 これだけみると、第三者提供について予め同意を取っておけばよいということにはなります。
 しかし、そもそも「第三者提供」に該当しないという考え方はできないのでしょうか。
 一見すると第三者のように見えても、個人情報保護法上は「第三者」にはあたらないという規定があります。
 ここで紹介しておきたいのは、「委託」と「共同利用」です(個人情報保護法27条5項)。
「委託」は、百貨店が注文を受けた商品の配送のために宅配業者に個人データを提供する場合が例としてあげられています。委託先は「第三者」にあたらないので、本人の同意がなくても個人情報を提供できます。本人の同意がない分、委託元には委託先の監督義務が課されております(個人情報保護法25条)。
 また、「共同利用」の場合も「第三者」にあたらないとされています。
 「共同利用」というのは、ある者が取得した個人情報を一定の要件のもと共同で利用する場合です。
 「共同利用」の場合も本人の同意がなくても個人情報を提供できるのですが、次のような事項をあらかじめプライバシーポリーなどで本人が容易に知りうる状態に置く必要があります。
 ①共同利用する旨
 ②共同して利用される個人データの項目
 ③共同して利用する者の範囲
 ④共同して利用する者の利用目的
 ⑤共同して利用する個人情報の管理について責任を有する者の氏名又は名称
 
<弁護士の取り扱い事件一覧表と共同利用>
 話しを元に戻します。
 弁護士の取り扱い事件一覧表は個人情報保護法上どのように処理されるべきかが問題でした。
 ここで前項で述べた「共同利用」を活用すればよいのではないかということがわかります。
 そのためにはプライバシーポリシーで定められた事項を記載する必要があります。
 実際には次のような記載となるのではないでしょうか。
1 個人情報の共同利用
 当事務所の所属弁護士は、各所属弁護士が取得した個人情報を以下のとおり共同利用致します。
2 共同利用される個人データの項目 依頼者の氏名、相手方の氏名及び事件名
3 共同して利用する者の範囲    当事務所の所属弁護士
4 共同して利用する者の利用目的  弁護士職務基本規程に規定されている職務を行いえない事件の確認
 あとは、共同して利用する個人情報の管理について責任を有する者の氏名又は名称を記載することになります。
 もっとも、法律事務所の多数は、「法律関連業務(案件の遂行及び案件の遂行に伴う連絡)」等のように広い範囲で利用目的を規定しており、上記のような限定した書き方はしていないようです。

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伊能忠敬の帰府届・寛政12年10月22日

2022年10月22日 | 伊能忠敬測量日記
〈はじめに〉
伊能忠敬は蝦夷地測量を行い寛政12年10月21日に無事江戸に到着。翌22日には早朝から一日かけて帰府届を蝦夷地担当の役人に提出しています。掛りトップの松平信濃守以下11名に回覧しており、全員の名前が測量日記には記されています。帰府届及び全員の名前をご紹介します。

【帰府届】
私儀、蝦夷地測量の件、御用が済みまして昨21日に帰着仕りましたので、お届けいたします。
津田山城守知行所下総国佐原村元百姓
  浪人 伊能勘解由
十月廿二日
この書付を次の方々へ差し出して回覧した。
松平信濃守(木挽町、築地)
石川左近将監様(霞関)
坂本傅之助様(下谷中御徒町)
三橋藤右衛門様(飯田町堀留)
羽太庄左衛門様(築土明神下五軒町)
鈴木甚内様(根津七軒町)
水越源兵衛様(白山)
細見権十郎様(白山)
寺田忠右衛門様(下谷御徒町御先手組屋敷)
村上三郎右衛門様(下谷三枚はし)
津田様
村田鉄五郎様(本所御台所町)

(コメント) 
・帰府届にある「伊能勘解由」は伊能忠敬のことです。隠居前は、「伊能三郎右衛門」を名乗っていましたが、この名前は伊能家の当主の名のりであり、隠居により伊能忠敬の長男(伊能景敬)が名乗っています。隠居時に「勘解由」と名乗ることを決め、文書は一貫して「伊能勘解由」名義で
です。
・伊能忠敬は測量を自主事業としてやっていたかのように理解されている向きもありますが、この帰府届を見れば、蝦夷地測量の件は「御用」、つまり幕府公認の事業であったことは明らかです。書付を回覧した
松平信濃守以下11名はプロデューサーのようなもので、ここに名前が記されてあるのは、映画のエンドロールのクレジットのようにも見えます。


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伊能忠敬、蝦夷地旅行を終え、無事江戸に着く-寛政12年10月21日の日記フルバージョン

2022年10月21日 | 伊能忠敬測量日記
〈はじめに〉
伊能忠敬は蝦夷地測量まで測量を行い8月7日にこの旅行の最北端ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)にたどり着きました。同所から折り返し、江戸を目指すこと2ヶ月半、寛政12年10月21日に無事江戸に着きました。滅多に個人の思いを日記に披露しない忠敬ですが、長旅を終えて個人の思いを吐露しています。同日の日記をフルバージョンをご紹介します。

寛政12年10月21日(1800年)
(草加を出立し千住で酒宴)
朝六つ(午前6時)過ぎに出立。曇天。草加から千住まで二里八丁。千住に着くまでに大勢の人の出迎えを受ける。高橋先生から御使い札をいただく。千住で酒宴、昼食をなす。
(千住から自宅まで及び感想)
九つ(正午)出立。(浅草の)司天台へ立ち寄る。八つ(午後2時)頃、深川の自宅に着いた。
閏4月19日に江戸を出て、今日神無月の21日まで半年と2日間の旅行であった。往古から遥かに遠いことを津軽・合浦・外ヶ浜といった。外ヶ浜に行くのも生涯のうちでは難しいであろうと思っていた。ましてや外ヶ浜から大海を隔てた寒冷の地、蝦夷国の奥までいけるとは思わなかった。二百里余りかなたのニシベツまで往復し、供として連れて行った四人とも一日も病気になることなく無事に江戸に着くことができたことは、誠に給わった命令と先祖の霊のおかげであり、有難いと感じる。

〈コメント〉
この時代、遥かに遠いことを「津軽・合浦・外ヶ浜」と言っていたと書かれています。これらは本州の北端の地名です。北海道は日本とはみなされていなかったようです。外ヶ浜から大海を渡り蝦夷国のそのさらに奥の方までいくことができるとは伊能忠敬も思っていなかったのでしょう。日記では淡々と職務をこなす様子が書かれており、その積み重ねがこの大事業を可能にしたのでしょう。


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医療機関が患者に対して未収金(診療費)を請求する場合の請求原因の書き方

2022年10月20日 | 病院・独立行政法人
(「未収金」又は「診療費」)
 医療機関の未収金というのは、経営上問題となっており、2008年には厚労省の「医療機関の未収金問題に関する検討会」が報告書を出しています。この報告書を読んでいて感じたのは、「未収金」という用語です。医療機関が患者に対して請求するのは「診療費」であると思っていたからです。実際、この債権に関する時効が何年かという点について判断した最高裁判例は、「公立病院の診療に関する債権の消滅時効期間は、地方自治法236条1項所定の5年ではなく、民法170条1号により3年と解すべきである。」として、「診療に関する債権」という用語を用いていますし、同判例の事件は、「診療費等請求事件」とされています(最高裁平成17年11月21日判決・最高裁判所民事判例集59巻9号2611頁)。

(健保法では「一部負担金」)
 では、先の報告書ではなぜ「未収金」という用語を使用しているのでしょうか。
 報告書にはその理由は書いていません。
 しかし、内容を読むと、どうやら保険診療(←→自由診療)ということが意識されて「未収金」という用語を使用しているようです。
 報告書は1項で「未収金を取り巻く現状と問題」について述べた後に、2項で「未収金にかかる現行制度とその解釈」について検討しています。
 その中で、健康保険法(健保法)、国民健康保険法(国保法)の一部負担金の制度を紹介しています。
 保険診療を行った場合、患者は自己負担分を支払います。この自己負担分は、健保法74条及び国保法42条では「一部負担金」と呼んでおり、この一部負担金は保険医療機関に支払われなければならないと規定しています。
 この文言に忠実であれば、医療機関が患者に対して請求するものは「一部負担金」であることになり、その訴訟は「一部負担金請求事件」となるはずですが、どうもそのような言葉は使用されていないようです。
 この文言が、健康保険法、国保法という公法的なものであり、私法的な診療契約にはなじまないという感覚からでしょうか。
(保険診療契約をどう解釈するか)
 保険診療契約をどのように見るかということについては争いがあり、報告書では3説紹介されています。自由診療ならば、医療機関と患者間には直接診療契約が締結されていると考えることは争いがないと思われますが、保険診療契約では、保険医療機関が保険者に対して公法上の義務を負担しており、被保険者と保険者の間に公法上の法律関係が存在することから、自由診療契約と同様に考えてよいのかという問題意識のようです。
 報告書では、被保険者・保険医療機関当事者説が判例・通説であるとされています。
 この説は、保険診療において被保険者である患者と保険医療機関との間には、診療に関する合意によって直接診療契約が締結されるとみるべきものとされており、この合意は準委任契約(民法656条)であると紹介されており、その点では自由診療契約と同様です。
 しかし、保険診療契約の場合の費用の負担額はいくらなのでしょうか。
 この点が肝心なはずですが、報告書には書いておりません。
 自由診療では治療費が20万円、保険診療では10万円で自己負担額は3万円であるという事例を考えてみましょう。
 自由診療では、患者が支払う金額は20万円で合意しています。
 保険診療では、保険診療の治療費10万円で合意しているのか、自己負担額の3万円で合意しているのか。報告書にはこの点が書いていないので、どう考えればよいのかがわかりません。
 どちらの説で考えるかで、訴状や判決の書き方が変わってくるはずなのですが・・・。

(実際の判決文) 
 実際の判決文を見てみましょう。
 ほとんど裁判例がありません。医療機関が訴訟提起をしていないのか、あまり争いがなく裁判例集にでてこないのか。
 ある東京地裁では次のように請求原因を整理していました。
「請求原因
 1 被告は、(始期略)から(終期略)まで、原告が運営するX病院に入院し、治療を受けた。
 2 原告は、被告との間で、被告が入院した(始期略)に診療契約(以下「本件診療契約」という。)を締結した。
  本件診療契約に基づき、次のとおり、入院治療費(差額病室の差額料金を含む。)合計237万2262円が発生した。
  平成29年11月分 14万5994円
  同年12月分 104万6138円
  平成30年1月分 103万3904円
  同年2月分 14万6226円
  合計 237万2262円」

以下は略しますが、私はこれをみたときにちょっとビックリとしました。
 問題は次の箇所です。
 「本件診療契約に基づき、次のとおり、入院治療費合計237万2262円が発生した。」
 この判決では診療契約について金額を合意したとは書かれておりません。
 「入院治療費は発生した」とまるで損害賠償請求での損害の発生のように書かれています。診療契約なのですから金額の合意をしているはずですが、そのようには書かれておりません。
 原告が請求原因として主張せず、裁判所も釈明しなかったためにこのような判決となったものと思われます。
 
 簡裁では、もっと簡単です。
 厚木簡易裁判所平成20年7月17日判決(医療判例解説20号96頁)は少額事件の判決ですが、次のように紛争の要点を整理しています。
「紛争の要点
 1 診療等の内容
  (1) 病院名 A病院
  (2) 所在地 (略)
  (3) 患者氏名 甲野花子
  (4) 診療申込日 (始期略)(診療契約日)
  (5) 診療終了日 (終期略)
  (6) 保証人 甲野一郎
  (7) 支払期限 平成18年4月30日
 2 未納内容
  (1) 治療期間 (始期略)~(終期略)
  (2) 診療費等 315,690円
  (3) 支払済み額 116,690円
  (4) 最終支払日 平成19年12月18日
  (5) 未納額 199,000円(各明細は別紙(略)のとおり)」
 どうもこの程度の記載でも裁判所には通るようです。

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寛政12年10月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年10月17日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年10月上旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

寛政12年10月朔日(1日)(1800年)
朝から晴れ、昼曇る。三橋(藤右衛門)氏への新暦伝来の草稿作成や象限儀を磨く必要があり、(盛岡に)逗留。盛岡までの先触を受け取ったので、止宿日限を書き添えて先触及び添触を仙台城下留めで出す。案文は三厩の際の先触と同じである。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
チーム伊能、本日は盛岡に逗留。とはいえ、ノンビリしている暇はありません。①三橋藤右衛門(幕府のお偉いさん)から出された宿題のレポート、②象限儀の手入れ、③先触及び添触の手続きと様々なことをしなければなりません。特に①のレポートはなかなか大変そうです。

寛政12年10月2日(1800年)
朝から晴天、夜も同じ。朝七つ半過ぎに(盛岡を)出立。郡山二日町(上町ともいう)を過ぎ、石鳥谷で中食。一日市町、川口町を通リ、七つ頃花巻川口町に着き、止宿。夜晴天、測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は、盛岡城下(盛岡市)〜花巻川口町(花巻市)。地図では36キロ。終日晴天で天気は安定しています。チーム伊能も淡々と歩を進め、花巻に到着。日記の記事は必要最小限で簡潔です。

盛岡城跡 to 里川口町

盛岡城跡 to 里川口町



花巻川口町は宮沢賢治が生まれた町です。

寛政12年10月3日(1800年)
朝から八つ頃まで晴れ、そのあと曇る。朝七つ半に(花巻川口町を)出立。鬼柳を通り、金ヶ崎で中食。水澤に八つ半ころに着き、止宿。この日の夜は曇天であったと思う。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は花巻川口町(花巻市)〜水澤(奥州市)地図では約30キロ。当時は不定時法なので、七つ半は日の出約一時間前のこと。うっすら明るくなってきたときに出立し(七つ半出立)、日のある頃に(八ツ半)次の宿に到着するのが旅の基本です。

里川口町 to 水沢駅

里川口町 to 水沢駅



水沢は高野長英の出生地(1804年生)。水沢には高野長英記念館があります。

寛政12年10月4日(1800年)
朝から晴曇り、夜は晴天。七つ半後に(水澤を)出立し、前澤を通り、一ノ関町に八つ頃に着き、止宿。同町は田村紀三郎が藩主、三万石。この夜測量を行った。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は水澤(奥州市)〜一ノ関町(一関市)。地図では約25キロ。止宿場所は一関藩、藩主は田村紀三郎(当時16歳)で三万石。田村紀三郎は後に「田村宗顕」と名乗ります。一ノ関は現在は岩手県ですが、当時は仙台藩の支藩でした。

水沢駅 to 一関市役所

水沢駅 to 一関市役所



寛政12年10月5日(1800年)
朝から昼まで晴天。七つ半に(一ノ関町を)出立。有壁、金成、澤辺を経て、月館(築館とも)に八つ半頃に着。夜は白雲で、雲の合間から測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は一ノ関町(一関市)〜月館(栗原市)。地図では約27キロ。2日から四日連続で出立は七つ半(日の出約1時間前)です。一ノ関は岩手県ですが、有壁から宮城県。月館(旧築館町)まで進んできました。本文の「(築館とも)」は忠敬が書いており、地名にどのような漢字を当てるか一定していなかったことが分かります。

一関市役所 to 栗原市立築館小学校

一関市役所 to 栗原市立築館小学校



寛政12年10月6日(1800年)
朝から晴れ、夜は曇る。朝六つ前に(月館を)出立。高清水、荒谷を経て、古川で中食。三本木を経て、七つ半過ぎに吉岡に着き、止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は月館(栗原市)〜吉岡(大和町)。地図では約39キロ。本日は朝六つ(日の出時)に出立しており、いつもより少し遅い旅立ちです。その為到着もいつもより遅く七つ半(日の入りの一時間前)着。

栗原市立築館小学校 to 吉岡宿本陣案内所

栗原市立築館小学校 to 吉岡宿本陣案内所



本日泊まる吉岡宿は2016年に、映画『殿、利息でござる!』に当時の宿場町の出来事が取り上げられました。これは「国恩記」という江戸時代に書かれた記録に基づいた映画です。

寛政12年10月7日(1800年)
早朝少し晴れ、測量。六つ前雨、五つ過ぎから晴れ。吉岡を出立し、富谷新町、北田を経て、九つ半に仙台城下国分町に着き、止宿。夜晴れ、測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は吉岡(大和町)〜仙台国分町(仙台市)。地図では約22キロ。本日は距離が短いため、九つ半(午後1時)には仙台到着。中食についての記載がないことから、中食を食べる前に仙台に着き、夜までは少しはのんびりできたのではないかと思われます。夜は晴れたので、測量(天体観測)を行っています。

吉岡宿本陣案内所 to 国分町

吉岡宿本陣案内所 to 国分町



寛政12年10月8日(1800年)
朝から晴天、九つ頃から少し曇る、夜は薄曇り、測量。本日、森岡(盛岡)から仙台留めで出した先触を受けとり、止宿先を書き添えた(先触の案文は盛岡から出したものと同じ)。また、従前の添触の写しや浅草司天台の高橋先生への書状が先触と共に届くように手配した。
三橋氏より仰せのあった天文暦学一件についての書面も旅行中認めたので、高橋先生にご覧いただくよう手配した。四つ頃、町役人にこれらを渡した。(国分町に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は所用をこなすため仙台国分町逗留。①先触、添触の処理、②師の高橋至時への書状の送付手配、この書状には③三橋藤右衛門へのレポート案も同封。レポート案を師匠に見てもらい添削を受けるためです。筆マメな忠敬は、高橋至時への書状を記録しています。⇒ブログに現代訳を掲載しました。
#伊能忠敬 #測量日記

伊能忠敬、帰路仙台から師匠高橋至時に書状を出す - 弁護士TKのブログ

〈はじめに〉伊能忠敬は蝦夷地測量で国後島を目指していましたが、残念ながら国後島にはたどり着けず、ニシベツ(北海道別海町本別海西別川河口付近)から折り...

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寛政12年10月9日(1800年)
朝から曇晴れ、八つ過ぎ小雨、夜も曇天。朝七つ半に国分町を出立し、長町、中田、増田を経て岩沼で中食。岩沼大明神に参詣し、佐原の油屋四郎兵衛の墓へ立ち寄った。槻木を経て、舟迫に七つ頃着き、止宿。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は仙台国分町(仙台市)〜舟迫(柴田町)。地図では約30キロ。「舟迫」は現代では船迫(ふなばさま)と表記します。

国分町 to 〒989-1622 宮城県柴田郡柴田町西船迫3丁目

国分町 to 〒989-1622 宮城県柴田郡柴田町西船迫3丁目



忠敬は途中岩沼(岩沼市)で岩沼大明神に参詣しています。現在の竹駒神社。明治以前は以前は武隈明神といわれていました。名称が変わったのは、国家神道の流れの中で、明神思想が否定されたため。明治以降は稲荷神が主祭神とされました。

また、岩沼では佐原の油屋四郎兵衛の墓へ立ち寄ったとあります。この点については、千葉県図書館さんのリサーチがありますが、はっきりしたことはわからないようです。

『伊能忠敬測量日記』によると、寛政12年10月9日に宮城県岩沼の竹駒明神にお参りした後に「・・・佐原... | レファレンス協同データベース

レファレンス協同データベース(レファ協)は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービスです。参加館の質問・回答サービスの事例、調べ...

レファレンス協同データベース



寛政12年10月10日(1800年)
早朝測量。晴曇り。朝七つ後、舟迫を出立。大河原に朝六つ前に着いた。大河原宿の入口で鈴木公にお会いして江戸への帰府届の儀を伺う。本陣で村上三郎右衛門殿にお会いし、津田公に頼まれたご挨拶をした。金ケ瀬、田宮を経て、白石で中食。斉川を経て、越河に八つ半過ぎに着き、止宿。夜測量。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は舟迫(柴田町)〜越河(白石市)。地図では約26 km。途中、大河原宿で津田公(佐原の領主)に頼まれた所用を済ませてから越河宿(現在は越川と表記)まで歩を進めています。

〒989-1622 宮城県柴田郡柴田町西船迫3丁目 to 白石市立越河小学校

〒989-1622 宮城県柴田郡柴田町西船迫3丁目 to 白石市立越河小学校



挨拶をした「村上三郎右衛門」は旗本 。伊能忠敬は往路でも会っています(5月9日条)。このときは村上が江戸へ向かう途中でした。今回は忠敬が復路、村上は箱館に向かう途中のようです(三橋成方と交替で箱館の奉行所に詰めるため)。
 「津田公」は佐原の領主で、蝦夷地測量についても伊能忠敬を何かとバックアップしていました。


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個人情報取得の利用目的-プライバシーポリシー作成の理由

2022年10月16日 | 法律事務所(弁護士)の経営
(個人情報取得の利用目的)
プライバシーポリシーを作成する理由には様々なものがありますが、理由の一つとして、個人情報取得の利用目的を公表することがあります。
 個人情報保護法では「個人情報取扱事業者は、個人情報を取得した場合は、あらかじめその利用目的を公表している場合を除き、速やかに、その利用目的を、本人に通知し、又は公表しなければならない。」(個人情報保護法21条1項)と規定しています。
 この規定からすると、事業者は個人情報の利用目的をあらかじめ公表するか、取得した際に通知・公表するしなければならないことになります。

(「公表」とは)
 個人情報保護法ガイドライン(通則編)では、公表に該当する事例として次のようなものがあげられていますので、ここにあるような態様で公表する必要があります。
①自社のホームページのトップページから1回程度の操作で到達できる場所への掲載
②自社の店舗や事務所など、顧客が訪れることが想定される場所におけるポスター等の掲示、パンフレット等の備置き、配布
③通信販売の場合は通信販売用のパンフレット・カタログ等への掲載

(利用目的の特定)
 利用目的はできる限り特定しなければなりません(個人情報保護法17条1項)。
 利用目的の特定が必要なのは、個人情報がどのような事業に使われ、どのような目的で利用されるかについて認識を持ってもらうためです。できるだけ具体的に明確になれば、個人情報が取り扱われる範囲を確定できます。自らの個人情報がどのように取り扱われることになるか、利用目的から合理的に予測・想定できないような場合は、「できる限り特定」したことにはなりません(ガイドライン)。
 ガイドラインでは特定されているか否かについて次のような例示がされています。
【利用目的の特定がされていない事例】
・「事業活動に用いるため」
・「マーケティング活動に用いるため」
【利用目的の特定がされている事例】
・事業者が商品の販売に伴い、個人から氏名・住所・メールアドレス等を取得するに当たり、「○○事業における商品の発送、関連するアフターサービス、新商品、サービスに関する情報のお知らせのために利用いたします。」等の利用目的を明示している場合

(同意がない限り、利用目的を超えた取り扱いはできない)
 利用目的というのは、個人情報保護法では大切な言葉です。利用目的の範囲内か、範囲外かで扱いが違うからです。本人の同意がない限り、利用目的を超えて個人情報を取り扱いうことはできたません(個人情報保護法18条1項)。
 事業者は、①個人情報を利用目的内で取扱うか、②本人の同意を得て利用目的外で取扱うかを迫られているといえます。本人の同意がなくても取り扱いができる例外的な場合はありますが(個人情報保護法18条3項)、例外だけにハードルが高いのです。よって、利用目的をどのようにプライバシーポリシーで定めるのかということが重要になります。

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