南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

文政10年12月下旬 色川三中「家事志」

2022年12月31日 | 色川三中
文政10年12月下旬 色川三中「家事志」

文政10年12月21日(1827年)
先般採用した初五郎を、鹿島(現鹿嶋市)に戻すことに決めた。紹介者の松岡様に書状を認めて、従業員に持っていかせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
初五郎が来たのは今月12日のこと。十日も経たずに元に戻すことが決まりました。戻すにあたっては紹介者にまず報告をするのがルールのようで、書状を従業員に持っていかせています。


文政10年12月22日(1827年)雨
本日初五郎を鹿島に帰す予定であったが、雨のため延期。初五郎は11歳なのに、おねしょをするので、うちで使うことができない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
初五郎を帰す理由が明らかになりました。なんとおねしょ。環境が変わったため、ストレスでおねしょをするようになってしまったのでしょうか。それとも体調が悪いのか。11歳で奉公にでるのは初五郎には厳しかったようです。

文政10年12月23日(1827年)
与兵衛が当年限りで暇をもらいたいとのこと。勝右衛門を通してそのように言ってきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の与兵衛は8月半ばころ三中に酷使されており(水戸や江戸に早朝から出張を命じられた)、その上9月には親が亡くなってしまいました。心配していたのですが、やめたいという意思表示。三中にとっては辞めてほしくない存在のはずですが。


文政10年12月24日(1827年)
ならや長兵衛殿とは9月に示談をし、今月支払う約束をしていた件。昨日、代人の惣兵衛殿が取立てに来たので金一両を支払った。これで残金は二分。   
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代の年末はクリスマスどころではありません。ならや長兵衛の債務は今年9月に代人と交渉し、金二両を支払うという示談が成立していました(9月18日条)。本日一両を支払ったので、残金は二分。感情は表現されていませんが、少し安堵したかのような書きぶりです。


文政10年12月25日(1827年)
雪が降るも、昼より晴天。
神龍寺の和尚から奉加金を十年分割で支払うとの話しがあった。支払いは毎月あり、今日使いの僧に奉加金を渡した。帳面はよく工夫がされていた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
師走は様々な決済が行われます。本日は神龍寺の奉加金。神龍寺は色川家の菩提寺で、三中の墓もこの寺にあります。十年分割で支払うようにするとは、ここの和尚なかなかの知恵者です。

神龍寺

曹洞宗。 神龍寺(じんりゅうじ)は室町時代の天文元(1532)年開山と伝えられる。 江戸時代に土浦藩主土屋家の菩提寺となり庇護された。境内には火除けの力があるとされる...

土浦探訪




文政10年12月26日(1827年)
先日高砂屋が来て、半田村(現石岡市半田)の出身の市左衛門を従業員にどうかといわれた。古参の勝右衛門は79歳で、代わりも急には見いだせないぞとも言われた。市左衛門は、久松時右衛門殿が引請人になるというので、一年分の給金二両で雇うこととした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
江戸時代の平均寿命は40歳などといわれますが、古参の従業員勝右衛門は79歳で現役。しかし、さすがに弱くなってきたため、三中も代わりの従業員を見つけざるを得なくなりました。

文政10年12月27日(1827年)
餅つき。高津の茂八が来てくれたほか、従業員は利助を含め三人、隣主人のところから一人の合計五人。皆には酒をふるまったほか、茂八には例年のとおり祝儀を持って行かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
年末の恒例行事、餅つき。男性五人で餅を搗くというのですから、かなりの量の餅つきなのでしょう。餅つきの後の振舞酒も楽しみの一つ。

文政10年12月28日(1827年)雨
米やとの債務整理の交渉の御礼として釜甚へ羽白(鴨)を歳暮として持って行かせた。隣主人には例年の歳暮に羽白を一羽添えて持って行かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
年末の恒例行事、お歳暮。文字どおり歳の暮れに贈るものなのですね。お歳暮の品が鴨というのも現代の感覚からするとビックリします。
羽白鴨の一種、キンクロハジロ。

キンクロハジロ|日本の鳥百科|サントリーの愛鳥活動

「日本の鳥百科」キンクロハジロの紹介です(鳴き声あり)。北海道では繁殖するものがいますが、本州より南では冬鳥です。湖沼、池、河川など淡水、汽水域に生息しています...

サントリーの愛鳥活動



文政10年12月29日(1827年)雪
朝から体調不良。家で静養。
昨日も忙しかった。妻の実家に塩引き(魚の塩漬け)をお歳暮として送る手配をしたし、夜は、なら甚が来て虫掛(現土浦市虫掛)の木之下から借りた金三両のことで相談にのった。さすがに疲れた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
文政十年は今日が最終日。文政10年12月は小の月でしたから29日までなのです。昨日までに何かと忙しかったためか、今日は体調を崩して家で静養です。まだ20代と若い三中ですが、時々体調を崩していますね。年末年始は体調崩しやすいので、皆様もお大事に。

文政10年に12月30日は存在しません(文政10年12月は小の月)。また、12月31日も存在しません(旧暦に31日は存在しません)



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2023年4月採用の関東の自治体内弁護士募集情報

2022年12月29日 | 地方自治体と法律
関東の自治体で2023年4月からの自治体内弁護士を募集しているのは、以下のとおりです(いずれも任期付き公務員;2022年12月12日時点)。
1 東京都調布市 総務部法制課副主幹(法務担当) ※課長補佐級
 給与850万円~
2 東京都八王子市 総務部法制課法務担当課長
 給与は「例:613,530円 上記給与は目安であり、条例に基づき決定します。」となっていますが、募集要項には、「令和5年度(2023年度)の年収(期末手当含む)は約970万円となります。」と記載されていました。
3 東京都世田谷区 総務部副参事(法務担当)
 給与
【例示】45歳の場合 給料月額 約42万円(年収約1,030万円)
4 千葉県茂原市 総務課主幹
 給与 7,950,000〜円程度  
 初年度は、賞与の割り落としがあるため、7,500,000円程度になります。

 このように比較してみると千葉県茂原市の給与が、東京都の区職員と見劣りがします。しかし、以前紹介した国分寺市職員よりは茂原市の方が上回っており、東京都の地域手当加算もさることながら、自治体内弁護士にどの区分の給与を適用するのか、自治体によって差があることが窺えます。

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嘉永5年12月中旬・大原幽学刑事裁判

2022年12月26日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永5年12月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳。

嘉永5年12月11日(1852年)
五つ半時(午前9時)、宿泊先の蓮屋の案内で奉行所の腰掛に行き、一同が揃ったところで着届を提出する。腰掛で待機していたところ、七つ時(午後4時)にようやく呼び出しを受ける。全員に対し、石高、家族の人数、年齢のお尋ね有り。
<詳細な尋問の様子は略>
お尋ねがおわると、「おって呼び出すので控えておれ」といわれ、腰掛で待機。2時間待って呼出しがあり、「来年正月晦日まで(大原)幽学は長部村に預ける。その他の者一同は帰村してよい。」との仰せ渡しがあった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・昨日呼出しがあり、奉行所での審理が行われました。次回の審理は来月末。しかも審理はいつまで続くのか見通しもつきません。
・午前11時に集合し、手続きが始まるまで延々と待たされてしまいました。奉行所では複数の件を担当しており、同じ日に何件も呼んでいるからでしょう。それだけ裁判が遅滞しているようです。

嘉永5年12月12日(1852年)
奉行所から、次回は来月末日で、それまでは帰村よいとのご指示をいただいたので、帰村の手続きをする。長沼村から差添で来ていた甚右衛門殿は領主の稲葉様の上屋敷に届出をし、御返翰も頂戴した。帰りには万国屋で昼食。大雪嵐となる。幽学先生のご宿所の邑楽屋に立ち寄った後、蓮屋に戻る。
#大原幽学刑事裁判 #五郎兵衛日記
荒海村の平右衛門殿が御領主の田安様に帰村のことを届出に行った。
宝田村の甚左衛門殿と九兵衛殿が来られた。
#大原幽学刑事裁判 #五郎兵衛日記
(コメント)
村に帰るときには、江戸の領主の屋敷に帰村する旨の届出を提出し、御返翰(承認書)を頂戴する必要があります。荒海村は田安家、長沼村は淀藩で、隣村でも領主が異なるのは、千葉県など江戸近辺の農村の特徴です。

嘉永5年12月13日(1852年)
帰村の挨拶のため、四ツ時(午前11時)に元俊医師、平右衛門殿と共に、大先生(大原幽学)ご宿所の邑楽屋へ。今後のことについてもいろいろと相談。宝田村の文平も来た。
#大原幽学刑事裁判 #五郎兵衛日記

大先生(大原幽学)は「この度帰村することになったが、何も問題はない。身上も自分のものとは思わない。ただこの道を一心に、三代先のことを考えなければならない。」等と仰っていた。夜まで話しこんだので、元俊医師と私は邑楽屋にそのまま泊まった。
#大原幽学刑事裁判 #五郎兵衛日記
(コメント)
長沼村(現成田市長沼)に帰村するので、五郎兵衛たちは、大先生こと大原幽学に挨拶に。大原幽学の住む長部村(現旭市)と長沼村(現成田市)とは離れているので、帰村してしまうとそう簡単には会えなくなってしまうこともあり、夜中まで話しこみ、そのまま泊まってしまいました。

嘉永5年12月14日(1852年)
#五郎兵衛の日記
昨晩は大先生(大原幽学)の宿所の邑楽屋に泊まってしまったので、朝五ツ時(午前8時)に蓮屋に戻る。元俊医師は蓮屋と色々と相談をしていた。
九ツ時(正午)出立。両国のあわゆきという店で昼食。六ツ半時(午後7時)、行徳(千葉県市川市)に到着。しがらきという宿に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨夜は大先生(大原幽学)の宿泊先に泊まってしまったので、宿に一旦戻りました。公事宿は宿泊だけではなく、裁判手続きのアドバイス等もしており、元俊医師は蓮屋さんと相談。江戸を出立し、行徳(現千葉県市川市)で泊まり。急ぐ旅ではないためか、出立ものんびりです。

馬喰町駅 to 行徳駅

馬喰町駅 to 行徳駅



嘉永5年12月15日(1852年)
#五郎兵衛の日記
六ツ半時に行徳を出立。白井宿で昼食。大森宿には七ツ時に着く。御領主の稲葉様の御役所に届けを行い、御返翰も頂戴した。
既に六ツ時となっていた。木下宿に六ツ半着。川内屋という宿で泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
午前7時に行徳を立ち、白井宿(現白井市)を経て、大森宿(現印西市大森)で帰村の手続き。大森には領主である稲葉氏(山城国淀藩)の役所(陣屋)があるからです。大森宿で六ツ時(午後6時)となり、日が暮れてしまいましたが、次の木下宿(現印西市木下)での宿泊となりました。

行徳駅 to 木下駅

行徳駅 to 木下駅



嘉永5年12月16日(1852年)
朝五ツ時(午前4時)に木下宿を出立。九ツ時(正午)に長沼村に帰村。
#大原幽学刑事裁判 #五郎兵衛日記
(コメント)
木下〜長沼までは地図上では約17キロ。それほど長い距離ではありませんので、正午には到着しました。五郎兵衛と大原幽学とは別の村(結構遠い)ですので、帰村には大原幽学は同行しておりません。

木下駅 to 長沼城跡

木下駅 to 長沼城跡



五郎兵衛が自分の村(長沼村)に帰ったところで、嘉永5年の五郎兵衛日記は終わっています。翌年分は1月28日から再開していますので、それまでは休載になります。


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文政10年12月中旬 色川三中「家事志」

2022年12月22日 | 色川三中
文政10年12月中旬 色川三中「家事志」

文政10年12月11日(1827年)
(編集より)三中先生は本日日記をお書きになられませんでしたので、本日分は休載です。
#色川三中 #家事志

文政10年12月12日(1827年)晴
夜になってから与兵衛が鹿島から戻ってきた。居合の松岡精要様の世話で初五郎という11歳の小児を同道してきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は行商に出ると、居合(現茨城県鹿嶋市)の松岡さんのところに宿泊しています。いつもお世話しているからというわけでもないのでしょうが、この少年を頼むとばかり、11歳の少年を与兵衛(三中の従業員)に預けました。結構無理矢理感があり、現代ではありえませんが、当時はこういうのも普通にあったのでしょう。
与兵衛は三中の行商(7月)にも同行し、行商の途中で一人で別のところにも行かされており、三中から期待をかけられている存在。鹿島(茨城県鹿嶋市)に出張していたようであり、相変わらずあちこちに行かされているようです。

文政10年12月13日(1827年)
昨夜四つ過ぎからすす掃きを始める。神棚に塵除け板を一枚張る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
12月13日は正月事始め(正月を迎える準備を始めること)であり、三中宅もそれに従ってすす掃きをしています。夜四つ(午後10時)から始めていますが、なにかいわれがあるのでしょうか。

文政10年12月14日(1827年)
従業員として藤沢村の茂兵衛(兵左衛門ともいう)を採用。請状を提出してもらった。
(請状の写し)
藤沢村の下男兵左衛門こと茂兵衛請状
    人主 藤沢村 弥五右衛門
    請人 同村  津右衛門
    町請人    徳蔵
 茂兵衛は裏にのみ押印     
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は薬種商ですが、業績は絶好調のようであり、新しい従業員を採用。藤沢村は現土浦市藤沢。日記には請状(身元保証書)の写しが掲載されています。採用された本人は裏に押印しています(奥印)。

文政10年12月15日(1827年)丙戌
未の刻から雨が降り、夜に入っても止まないと思ったら、戌の刻には雷。大音声で地を動かす。電光甚し。「寒雷は日照りのもと」という人もいるし、「冬雷あれば大水あり」と記している書もある。7年ほど前に冬雷があった翌年は日照りであった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
冬の雷。関東では珍しく、雷の音も凄い。どうも冬の雷は夏よりもパワーがあるそうです。

文政10年12月16日(1827年)丁亥 晴
西からの大風で瓦が巻き上げられた。富士山からの強風ではないかと思われるほど。
#色川三中 #家事志
(コメント)
原文では「富士西大風瓦を巻上」とあるのですが、まさか富士山から西風は吹いてこないでしょう。土浦は筑波颪(筑波山からの風)に冬は苛まれるので、そこからの連想なのかもしれません。

文政10年12月17日(1827年)
(編集より)三中先生は本日日記をお書きになられませんでしたので、休載とさせていただきます。
#色川三中 #家事志

文政10年12月18日(1827年)
債権者米四(米屋四郎兵衛)との示談で沈南蘋の掛軸を渡すことになっていたが、まだ渡していなかった。隣主人から早く渡すようにいわれて、本日渡した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
米四(米屋四郎兵衛)とは沈南蘋の掛軸を借金の代わりに支払う(代物弁済)ことで示談したのですが(12月2日条)、いまだに渡していませんでした。こんなに立派な掛軸を子孫に残すことは子孫の為にならない等と言っていたのですが、未練を断ち切るための強がりだったようです。


文政10年12月19日(1827年)雪
古来(現つくば市)の常右衛門の孫が古今画譜を一度拝見したいといってきた。知人からの紹介であり、川口の蔵にしまってあったので、取寄せて見せた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
原文では「古来常右衛門」とあり、「古来」は地名で、現つくば市古来。江戸時代は名字はあっても名乗らないので、名前しか分からず、地名でその人を特定していたのかなと思います。

古来 to 土浦城跡

古来 to 土浦城跡


文政10年12月20日(1827年)晴 節分
隠居しているひものや権七(80歳)を呼び、茶をふるまい、大福餅をおごって話しをした。権七は今でも本名が権七である。どうも親類らしいということを本日初めて聞いた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
80歳の古老(ひものや権七)と話しをした記事。「権七は今でも本名が権七である」と書いていることからすると、権七という名前は幼名によくある名前で、改名せず80歳まで生きてきたようです。お茶に大福餅。節分の日ののんびりとした時が過ぎていきます。






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伊能忠敬、江戸から蝦夷地の地図を作成し、提出(寛政12年12月21日)

2022年12月21日 | 伊能忠敬測量日記
#伊能忠敬測量日記 より
寛政12年12月21日(1800年)
伊能忠敬、江戸から蝦夷地の地図を作成し、御勘定所坂本傅之助に渡す。大絵図21枚及び小絵図1枚は高橋至時に届けるために浅草の天文台に持って行かせた。同絵図は、天文方高橋至時から若年寄堀田摂津守に直々に渡されるからである。

(絵図作成の経緯)
 伊能忠敬測量隊は10月21日に江戸に着き、その後所用をこなしていましたが、11月初めから図面の作成にとりかかりました。
 12月20日に図面をしあげ、21日に御勘定所に提出。天文方高橋至時が若年寄堀田摂津守に直々に渡すための絵図も、同日に浅草天文所にもっていかせています。
 伊能忠敬測量日記の該当箇所には次のように書かれています。
<蝦夷地から日本の地図の作成に11月初めから昼夜取りかかった。津宮の久保木太郎右衛門、門倉隼太、平山郡蔵、栄などが手伝ってくれた。ようやく12月20日ころまでに出来上がり、21日に御勘定書に持参して、坂本傅之助に渡した。
 大絵図21枚(11枚は日本で、10枚は蝦夷地)及び小絵図1枚(日本から蝦夷を合わせた図で大絵図の十分の一)は、高橋先生から堀田摂津守にお揚げになるというので、21日に浅草(の天文所)へ遣わした。>

(コメント)
 伊能忠敬は10月21日に江戸に戻ってから、のんびりする間もなく地図作成に取りかかっています。
作成は「昼夜」にわたり、1ヶ月半ほどで大絵図21枚、小絵図1枚を作成していますから、かなりの突貫作業であったと思われます。
図面作成を手伝った人の名前が記されています。
・津宮の久保木太郎右衛門:久保木清淵(くぼき せいえん;1762年~1829年)のことではないかと思います。津宮村(香取市津宮)は佐原村の近隣の村です。
・門倉隼太:伊能忠敬と共に蝦夷地測量に同行したメンバーの一人。高橋至時の弟子なので、忠敬とは兄弟子、弟弟子の関係になります。蝦夷地測量隊のメンバーは、伊能忠敬以外に4名いますが、その中では唯一地図作成に加わっています。
・平山郡蔵:伊能忠敬の親戚。平山群蔵の弟の平山宗平が蝦夷地測量に同行したメンバーでした。地図作成には兄の平山郡蔵が参加しました。郡蔵は第2次測量からは測量メンバーの一人となっています。
・栄:伊能忠敬の四番目の妻。長年にわたり謎の人物とされてきましたが、1990年代に女流漢詩人大崎栄であることが研究により判明しました。



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加波山事件と千葉重罪裁判所

2022年12月19日 | 歴史を振り返る
(はじめに)
 明治時代に起こった加波山事件をもとに当時の刑事法等を考えてみたいと思います。

(加波山事件とは)
 加波山事件とは、1884(明治17年)9月に発生した民権激化事件の一つです。加波山は茨城県にある山で、同所等で事件が起こったのですが、被疑者らは逃走し、千葉県内で逮捕されたのが、同事件の首謀者の一人である富松正安(とまつ まさやす)でした。
 富松は、同年11月2日に逃走先の姉崎(現・市原市姉崎)で逮捕されました。富松の判決及び刑の執行は次のとおりです。
1885(明治18)年3月 予審終結言渡
1886(明治19年)7月 一審(千葉重罪裁判所)で死刑判決。
同年8月 大審院が被告人側の上告を棄却し、死刑判決確定。
同年10月5日 寒川監獄で死刑執行。

(加波山事件当時の法)(注1)
 加波山事件に適用されたのは、1880(明治13)年に布告された刑法です(注2)。この刑法の施行日は1882(明治15年)1月からです。
 また、同事件に適用された刑事手続法は治罪法です(注3)。治罪法というネーミングは今となっては馴染みがないですが、フランス治罪法の影響を受けて制定されたものです。現代では刑事訴訟法に相当しますが、裁判所の構成についても規定していました。治罪法も明治13年刑法と同じく1882(明治15年)1月から施行されております。
 加波山事件が起きたのは、これらの法律が施行されてから3年目のことでした。
(注1)以下、本項の記載は新井勉外『ブリッジブック近代日本司法制度史』(信山社、2011年)に依拠しています。
(注2)明治13年第36号布告。明治13年刑法や旧刑法といわれます。
(注3)明治13年第37号布告。

(千葉重罪裁判所)
 富松正安に対する一審判決は、『日本政治裁判史録明治後』(注4)に収録されています。
 一審の審理及び判決言渡しは、千葉重罪裁判所でなされています。「重罪裁判所」というのは、当時の独特の制度です。
 治罪法により裁判所の種類は以下のようになりました。
・治安裁判所←現代の簡易裁判所相当
・始審裁判所←現代の地方裁判所相当
・控訴裁判所←現代の高等裁判所相当
・大審院←現代の最高裁相当
 これとは別に、重罪裁判所と高等法院がありました。重罪裁判所は、控訴裁判所又は始審裁判所で重罪事件を裁判するもので、フランス治罪法の影響を受けて規定されたものです(注5)。
 重罪裁判所の判決は、控訴裁判所に控訴をすることはできず、大審院に上告することのみ許されていました。現在は三審制といって、3回審理を受ける機会がありますが、当時の重罪事件では2回しか審理を受ける機会がなかったのです。富松が一審判決を受けた後、大審院に上告したのは、このような制度的な理由によります。
(注4)我妻栄他『日本政治裁判史録明治後』(第一法規、1980年)
(注5)フランスでは「重罪院」と呼ばれています。常設ではなく、臨時に構成されるます。裁判長1名(司法大臣が任命)、陪席判事2名(控訴院長が任命)、陪審員12名が裁判体を構成する。重罪院は一審かつ終審であり、破棄院への破棄申立てのみ許されていました(前掲『ブリッジブック近代日本司法制度史』154頁)。

(裁判の公開)
 治罪法には裁判の公開が規定されたため、1882(明治15年)1月からは法廷での審理及び判決の言渡しは公開で行われています(同法263条)。富松正安の事件も同様に扱われたものと思われます。

(加波山事件は国事犯とは扱われなかった)
 明治13年刑法は「国事に関する罪」(国事犯)というものを規定しており(同法第2編第2章)、国事犯は高等法院で裁くこととしていました(治罪法83、84条)。
 しかし、その後1883(明治16)年12月に、通常裁判所において裁判をすることができるとの布告がなされています(注6)。
 加波山事件はこの布告に基づいて、通常裁判所(重罪裁判所)で裁判が行われました。
(注6)明治16年12月28日太政官第49号布告。同布告は、自由党員福島事件判決(政府側には不利な判決)を契機としてなされたものです。

(代言人)
 江戸時代、刑事事件に弁護人は認められていませんでした。明治初期もしかり。弁護人選任権が与えられたのは、治罪法の施行(1882=明治15年)によるものでした。この時期は弁護士、弁護人とは呼ばれておらず、「代言人」と呼ばれていました(注7)。 
 重罪事件では代言人を選任するべきことが定められており(治罪法378条2項)、富松正安の事件では板倉中という代言人が選任されました(注8)。
(注7)代言人は1882(明治15年)時点で全国に914人しかおらず、代言人の数がごく少数しかいない県もありました(鹿児島県1名、山口・青森・函館3名)(前掲『ブリッジブック近代日本司法制度史』90頁)。
(注8)「板倉中裁判関係資料-加波山事件書類」(茂原市立図書館『茂原の古文書史料集』1999年)

(予審)
当時は予審制度がありました。予審制度は、公判前に予審判事が必要な事項を取り調べ、事件を公判に付するか否かを決める手続きであり、治罪法で初めて規定され、
現行刑事訴訟法の施行(1949年1月1日)により廃止となるまで存続していました。 #加波山事件
 富松の予審は千葉軽罪裁判所で行われています。予審終結言渡しがなされたのは、1885(明治18)年3月16日です(注9)。同月18日には予審故障趣意書が提出されています。 

 (注9)前掲『日本政治裁判史録明治後』51頁。なお、富松への予審終結言渡しは、他の被告人との関係で行われていた東京、栃木、甲府の各裁判所での予審と同時に言渡されました。

(富松正安の審理にあたった裁判官)
 千葉軽罪裁判所で予審にあたったのは、岩倉重武判事補です(注10)。
 また、富松正安を千葉重罪裁判所で審理し、一審判決を言渡した裁判官は、裁判長が河村幸雄判事、陪席が安藤守忠判事補及び鈴木一判事補です。裁判官3人の合議であったことが分かります。
 重罪裁判所は、治罪法では5人の裁判官の合議制と定められていますが(73条)、施行前の布告により、3人の合議制とされていました(注11)。本件の判決書からもこの布告どおり3人の裁判官で審理、判決が行われています(注12)。

(注10)岩倉重武判事補の名は、富松正安の予審調書により確認できます。前掲「板倉中裁判関係資料-加波山事件書類」
(注11)前掲『日本政治裁判史録明治後』に一審判決が収録されています。
(注12)明治14年9月20日太政官第46号布告


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澤田和夫弁護士(千葉県弁護士会物故者)

2022年12月18日 | 千葉県弁護士会
澤田和夫弁護士は千葉県弁護士会に登録されていたところ、2022年4月28日にお亡くなりになりました(『自由と正義』2022年12月号)。生前は千葉県千葉市中央区中央4丁目10−17−705を事務所所在地としていました。

昭和43年4月 弁護士登録(千葉県弁護士会)
昭和51年 千葉県弁護士会副会長
昭和62年 千葉県弁護士会会長

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嘉永5年12月上旬・大原幽学刑事裁判

2022年12月15日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永5年12月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永5年12月4日(1852年)
奉行所から差紙(呼出状)が届いた。6日までに江戸に出頭しなければならない。呼出されたのは、長沼村(現千葉県成田市)では私と元俊医師。荒海村(現千葉県成田市)では平右衛門である。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学の弟子五郎兵衛の日記は、差紙(呼出状)が長沼村(現千葉県成田市)に届いたところから始まります。ここに大原幽学の名前が見えないのは、五郎兵衛よりも先に呼出されており、既に江戸で裁判中だからです。
長沼村の位置

長沼 · 〒286-0804 千葉県成田市

〒286-0804 千葉県成田市

長沼 · 〒286-0804 千葉県成田市


嘉永5年12月5日(1852年)
長沼村を元俊医師、差添人の甚右衛門と共に出立。大森(現印西市大森)に四ツ時(午前10時)着。御役所で用事を済ませ、八つ時(午後2時)に大森を立つ。鎌ヶ谷宿の鹿嶋屋に泊まる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学は長部村(現旭市長部)に住んでいるのですが、五郎兵衛は長沼村(現成田市長沼)の村人です。長沼村は淀藩(山城国)が治めており、淀藩の役所(陣屋)は大森(現印西市大森)にありました。ここで用を済ませ、木下街道の宿場である鎌ヶ谷宿(現鎌ケ谷市)で宿泊です。

長沼 to 鎌ヶ谷大仏

長沼 to 鎌ヶ谷大仏


淀藩(現京都市伏見区)の位置。それ以前は稲葉氏は佐倉藩であったが、国替えで淀藩となりました。国替えでも所領が千葉県内に一部残ったため、役所を大森(現印西市大森)に置いて管理していたのですね。

嘉永5年12月6日(1852年)
朝七つ半(午前5時)、鎌ヶ谷宿を出立。江戸に九つ(正午)着。蓮屋という宿屋に宿泊することが決まった。差添人の甚右衛門が稲葉様の御役所に御添翰(承認書)をいただく手続きを行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日の旅程は鎌ケ谷宿〜江戸。蓮屋は江戸
本銀町(ほんしろがねちょう)にあった
公事宿。公事宿は馬喰町周辺にあったといわれますが、現在の神田駅周辺にまで広がっていたようです。本銀町の名は今はありませんが、通りの名として残っています(本銀通り)

本銀通り · 東京都中央区

東京都中央区

本銀通り · 東京都中央区


甚右衛門という者が差添人として同行しています。呼出された本人だけでなく、名主などが当事者の差添人として、当事者とともに、奉行所に出頭します。
「稲葉様」は淀藩の藩主。稲葉氏は山城国に来る前に佐倉藩(現佐倉市)の藩主だっため、淀藩に国替えとなってからも佐倉藩周辺の領地を持っていました。

嘉永5年12月7日(1852年)
江戸に着いたので、御奉行所に着届を提出。奉行所からは「その方どもは牛渡村一件のことで呼び出されたのだな。おって呼出すまで宿に控えておれ」との仰せ渡し。
元俊医師と共に邑楽屋に行き、大先生(大原幽学)ほかご一同とお会いした。大先生は、「皆に言っておくが、今回のことはよくよく心得て行動しなさい。これまで学んだことをよくよく腹の内に置き、答えるときは手短かに申上げなさい。」とのお話があった。その後、蓮屋に帰り泊まる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
奉行所に江戸に到着したことを届けでました(着届)。本件は「牛渡村一件」と呼ばれており、呼出しがあるまで公事宿(蓮屋)で待機しなければなりません。着届のあとは関係者で打合せ。大原幽学は邑楽屋という別の公事宿に泊まっています。

嘉永5年12月8日(1852年)
八つ時(午後2時)、元俊医師、差添人の甚右衛門と共に邑楽屋へ行く。大先生(大原幽学)からは、「とにかく顔を柔らかに。心を静かにして慎んで申し上げるように。欲をだしてはいけない。」とのお話があった。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
奉行所に着届は出しましたが、呼出しはなし。待つしかありません。本日も大原幽学の止宿先の邑楽屋で打合せ。幽学はこれからの裁判への心得を説いています。

嘉永5年12月9日(1852年)
四つ時(午前10時)に大先生(大原幽学)の宿泊先の邑楽屋に行き、中食。日暮れに蓮屋に戻る。深夜、新材木町(現中央区日本橋)で火事。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
・待機3日目。本日も奉行所からの呼出しはなし。幽学の宿泊先に行っていますが、中食を食べた記載のみ。幽学の言葉が記録されていないところをみると、打合せはなかったのかもしれません。

嘉永5年12月10日(1852年)
四つ時(午前10時)に大先生(大原幽学)の宿泊先の邑楽屋に行く。
晩五つ時(午後8時)に奉行所から呼出しの御沙汰あり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
待機4日目。本日も奉行所からの呼出しはなしと思いきや、夜に奉行所から呼び出しがきました。明日は奉行所に行かなければなりません。


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文政10年12月上旬色川三中「家事志」

2022年12月11日 | 色川三中
文政10年12月上旬色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年12月1日(朔)(1827年)
朝、富友一件につき、中町のならや甚兵衛殿に頼みに行った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
債務整理の件でしょうか。朝から人にものを頼みに行く三中です。江戸時代は「○○の件」ということを「○○一件」と呼んでいます。今日の日記では「富友一件」と呼ばれるものがでてきていますが、これ以前にこの言葉がなく、どのようなものかはよくわかりません。

文政10年12月2日(1827年)曇
米四(米屋四郎兵衛)一件について合意成立。
・金額60両(元金55両、利息5両。利息は10両だったが5両は免除)
・支払い方法
 30両は代物弁済。20両は中村の山で、10両は沈南蘋の掛物で。
 残金30両は十年賦とし、毎年3両支払い。
#色川三中 #家事志
(コメント)
米四(米屋四郎兵衛)の件につき示談成立。30両を山と沈南蘋の絵で代物弁済、残り30両は十年払いです。沈南蘋の絵については8月下旬から代物弁済の対象となることが想定されていましたが、解決まで時間がかかりました。


文政10年12月3日(1827年)大雪
本日の大雪をみて、今年1月6日に江戸で雪が降ったことを思い出した。夜に凍死した者が十数人いたという。皆酒を飲んだうえで寝てしまって凍死したものであろう。寒い中で酒を飲むべきではない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
土浦で大雪。年初に江戸で雪が降り、凍死者が出たことを思い出して書き記しています。原因を酒を飲んだ上で、戸外に寝てしまった上での凍死と認識しています。三中先生、真面目くさって書いていますが、本当はお酒が大好きなんです。自らへの戒めとして書いているのでしょう。

文政10年12月4日(1827年)晴
従業員の浅吉は、この9日間出勤せず。本日夜、浅吉の兄が来て、詫びの言葉あり。本日はとりあえず帰ってもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の浅吉がバックレ。そのような振舞いをする者がいるのは、いつの世も変わらぬようです。しかも兄にも連絡がない模様。浅吉には以前から問題がありましたから(店の金の横領疑惑・10月14日条)、時間の問題とは思っていましたが。


文政10年12月5日(1827年)晴 丙子
昨日、藤沢村の茂兵衛を下男(従業員)に採用。「善男である」ともっぱらの評判。
当人:兵左衛門こと茂兵衛。持宗は藤沢村本町の扁照寺の旦那。
人主:弥五右衛門
請人:津右衛門
#色川三中 #家事志
(コメント)
新たな従業員を採用。良い人を採用できたようです。事業拡大をはかってのことでしょう。人主、請人とも身元保証人ですが、人主は本人の家族、請人は家族以外の者です。

文政10年12月6日(1827年)大寒
ある人から、「人手に困っているなら谷田部の栄吉の娘とねを雇ったらよいではないか」と言われた。栄吉とは懇意にしている。知り合いの娘を採用するのは、却ってよくないかもしれない。雇わないことに決めた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の事業(薬種商)は好調なようで、人手不足にあるようです。懇意にしている谷田部(現つくば市)の栄吉の娘を雇ったらどうかという話があり、三中としてはだいぶ迷ったようですが、最終的には採用しないことに。事業の悩みは尽きません。

文政10年12月7日(1827年)
(編集より)三中先生は本日日記をお書きになられませんでした。 #家事志 は休載とさせていただきますが、文政10年12月に出された殺人事件の手配書をブログで訳しましたので、お手すきの方はご覧ください。
#色川三中

江戸時代の殺人事件の御触書 - 法律事務所南斗のブログ

〈はじめに〉土浦に住んでいた薬種商色川三中は、日記「家事志」で、様々なことを書いています。ここでは御触書を紹介します。御触書自体は文政11年1月4日付で日記に書き写...

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文政10年12月8日(1827年)晴
間原九兵衛殿は身上が悪くなり、昨日書置きをして出奔。700~800両の財産があったときもあるはずだが、わずか4、5年で使い果たしてしまった。人の身上というものは恐るべきものである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
知り合いが出奔してしまいました。かなりの財産があったが、わずか4、5年で使い果たしてしまったようで、「人の身上というものは恐るべき」と三中は感想を書き記しています。出奔の記事はときどきあり、最近では店をもっていたいせや兵衛門が出奔しています(10月19日条)。


文政10年12月9日(1827年)雨少々降る
中町の藤次郎が嫁と離婚するというので、その話合いのため同道して先方へ赴く。間原の主人が一緒に行く予定だったが、昨日親類が出奔したため、私と藤次郎だけがいくことになってしまった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
現代であれば離婚の話しは夫婦当事者かその家族だけで話し合われるものですが、この時代は必ず誰かがついていくことがしきたりだったようです。間原の主人も本来であれば同道予定だったので、本人のほかに二名が付き添っていくことになります。債務整理でも離婚でも他人の付添いがあり、地域の人の力で解決する時代でした。

文政10年12月10日(1827年)晴
先日、浄真寺の当住和尚が、子育和讃というものを町中へ披露した。枚数は紙8枚。我々も一通り読み、その感想を三十一文字に表してみた。
栄えよと後の世かけて蒔く種に
 このみにめぐみあらせてしがな
#色川三中 #家事志
(コメント)
浄真寺は土浦に1601年からあり、現存しています。その寺の和尚が紙8枚にわたり、子育和讃というものを町中へ披露したということですから、子育て万歳、産めよ増やせよという意図をもって書かれたものでしょうか。三中もその文書を読ませてもらい、感想を短歌に残しています。歌の巧拙はわかりませんが、歌を作るのは当時の教養だったのでしょう。


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消費者庁の弁護士職員採用

2022年12月08日 | 地方自治体と法律
(消費者庁の弁護士職員採用)
 消費者庁は弁護士職員の採用に活発で、日弁連の弁護士求人情報無料掲載サイト(ひまわり求人)には、閲覧時点(11月23日)に3件の求人が掲載されていました。
①消費者制度課 政策企画調査官(2022年12月1日以降採用、勤務開始日は応相談)
②取引対策課 消費者取引対策官(2023年1月以降採用、勤務開始日は応相談)
③消費者安全課事故調査室 課長補佐(2023年2月以降採用、勤務開始日は応相談)
 いずれも任期付公務員の募集です。給与については、法律に則って支給するとのみ記載され、具体的にどの程度になるのかは、ひまわり求人の記載からはわかりません。勤務時間は午前9時半から午後6時15分です。

(消費者庁について)
 消費者庁は2009年に新設され、消費者からの相談への対応、事業者への行政処分、消費者事故が起きた際の原因究明(消費者安全調査委員会)等を所管しています。
 発足当初は職員200人体制であり、その後増員されたものの、職員数は現在でも400人弱です。
 消費者問題の範囲は広く、また事実認定、法適用の問題にも関わるため、弁護士職員を採用したいという需要があるものと思われます。

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