南斗屋のブログ

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勘定奉行所と大原幽学の刑事裁判の担当者

2023年12月28日 | 大原幽学の刑事裁判
勘定奉行所と大原幽学の刑事裁判の担当者

(江戸の裁判を担当してい勘定奉行所)
大原幽学の刑事裁判を担当していたのは勘定奉行所です。
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」では、単に「奉行所」と記されていますが、これは勘定奉行所のことです。
勘定奉行という語感からは、財務を扱う部署と思われがちですが、勘定奉行には、①財政・幕領行政を扱う「勝手方」勘定奉行、②裁判を担当する「公事方」勘定奉行があったのです。


(公事方勘定奉行所の場所)
勝手方勘定奉行は、御殿勘定所や下勘定所という定まった役所がありましたが、公事方勘定奉行は、幕府から与えられた勘定奉行の役宅の一部を役所空間としていました。役宅は、幕府の役職に就任した際に与えられる屋敷であり、役所空間と本人の生活空間がセットで組み込まれています。公事方勘定奉行の場合は、多くの者が出入りすることになるので、必要な設備を有した専用の屋敷に引っ越すのが合理的だったのです(参考文献①)。

(刑事裁判の担当奉行)
大原幽学の刑事裁判の担当奉行は本多加賀守です。参考文献②には「本多加賀守」としか書かれていないのですが、この時期に勘定奉行を務めていた本多姓は本多安英しかおりませんし、同人の勘定奉行在任期間は1852年 - 1858年ですから、本多安英ではないかと思われます。

(刑事裁判の担当者)
勘定奉行が裁判をするといっても、裁判の最初から最後まで立ち会うということはありません。最初と最後だけ立ち会って、あとの審理は実際の担当者に任せるというのが、江戸時代の裁判のやり方でした。
この担当者は、当初は木村敬蔵と菊池大助でした。
木村は評定所留役、菊池は評定所留役御勘定介という役職でした。木村の方が上地ですので、審理は木村をキャップとして菊池と二人で進められたことになります(参考文献②)。評定所留役は旗本が務め、約20人ほどがおりました(参考文献①)。

(木村敬蔵)
木村敬蔵は、「安政の大獄の際、1859(安政6)年に評定所留役勘定組頭を御役御免になり、甲府勝手小普請となっている。1862(文久2)年には長崎奉行支配吟味役として復職」しているそうです(山梨県立図書館 のレファレンス)。
評定所留役勘定組頭というのは、評定所留役御勘定の一つ上のポストで、評定所留役のトップですから、順調に出世していましたが、安政の大獄で一時期不遇をかこっていたようです。
なお、木村は「勝教」と名を変え、勘定奉行も歴任しています(1863年 - 1864年、1867年 - 1868年)。

(菊池大助)
大原幽学らの刑事裁判の審理を担当した菊池大助は、本名は菊池 隆吉というようです。菊池は、審理の途中で長崎に出役したことが、五郎兵衛日記にも書かれております(嘉永6年10月26日条;なお、五郎兵衛は「菊地」と表記しています)。この年にペリーが来航さており、菊池は外交関係に回されたのでしょう。菊池は外交奉行となり(1862年 - 1864年、1864年 - 1866年、1867年 - 1868年)、その後勘定奉行も務めています。

参考文献
①戸森 麻衣子「江戸幕府の御家人」
②高橋敏「大原幽学と幕末村落社会」






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年末を控え帰村の準備 嘉永6年12月中旬・大原幽学刑事裁判

2023年12月25日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年12月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年12月11日(1853年)
#五郎兵衛の日記
年末が近づき、本日市右衛門殿が帰村。武左衛門殿も帰村が決まった。「正月が来たら、江戸滞在の資金稼ぎのために仕事をしないとな」と誰彼となく話しがでて、その相談をした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
武左衛門は諸徳寺村(現旭市)の村役人(10月5日条)。差添(付添)として江戸に来たと思われますが、年末近くなり、帰村が決まっています。年明けには江戸滞在のためのバイトをする気運が高まっており、皆でそのことを話し合っています。



嘉永6年12月12日(1853年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿が仕事探しのため、芳音寺橋(法音寺橋?)の真木屋に行った。国元に帰る者は、草鞋を作って一足を二匁三で売ったらいいのではないかと話し合っていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
村の子どもたちが一生懸命働いて仕送りをしてくれたので、江戸滞在の大人たちもやる気になっています。平右衛門は早速行動を開始。草鞋を作って売ったらいいかもというアイデアも飛び出しています。


嘉永6年12月13日(1853年)
#五郎兵衛の日記
馬喰町の貸本屋に仕事の話しをしにいく。主人は昼留守だったので、夕方に出直し。小生「難渋しておりまして、仕事を探しております」。主人「それは難儀なことで。しかし、江戸も誠に不景気。私共の商売もうまくいっておりません。春になりましたら、風向きも変わるかもしれませんので、またお尋ねください」
小生が難渋していることを理解していただいた。親切なことだ。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
一昨日、皆で江戸で仕事をしようという打合せをし、昨日は平右衛門が行動したのを受けて、五郎兵衛も馬喰町の貸本屋に仕事がないか聞きにいっています。貸本屋の主人は親切でした。五郎兵衛、結構この貸本屋に通いつめたのかもしれません。

嘉永6年12月14日(1853年)
#五郎兵衛の日記
・源兵衛殿、今日も清水様のお役所に出掛ける(一昨日に引き続き)。
・伊兵衛父は、井上医師に世話になった礼をしに行った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
年末が近づき、帰村となることもまず間違いないという状況で(もっとも、奉行所の許可はまだ出てませんが)、挨拶に出かける人が多くなっています。皆さん、千葉の地方の農民なのですが、江戸に出てきても礼儀正しく行動しています。


嘉永6年12月15日(1853年)
#五郎兵衛の日記
・明日、奉行所に帰村願いを出すため、三河町万屋に行って依頼(亭主留守のため、内室に頼む)。蓮屋にも行き、差添のことを頼む。
・音羽五町目から出火。廿町余りの大火とのこと。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
年も押し詰まってきましたので、いよいよ明日には帰村願いを奉行所に提出します。何度もやっていいますので、五郎兵衛も手慣れたもの。公事宿に依頼をしに行っています。
火事の記事。江戸は火事が多いですね。


嘉永6年12月16日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝、奉行所に帰村願いを届けに行く。小生のほか5名。差添3名。邑楽屋の米八殿の案内。邑楽屋・蓮屋に書面作成を依頼。奉行所の担当者がおらず、奉行所からは「おって呼び出すから宿に控えておれ」とのご指示。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
今日は奉行所に帰村願いを提出。邑楽屋・蓮屋はいずれも公事宿。公事宿が書面を作成し、案内します。やはり、細かいところはプロにやってもらった方が良いのは、江戸でも現代でもかわりません。奉行所の尊大な態度も、今と変わらぬような気がします。

嘉永6年12月17日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
幸左衛門殿と二人で、高輪の高松様に幽学先生が書いたものを届け、すぐに借家に戻る。伊兵衛父、源兵衛殿と小生三人で髪結いし、風呂に入る。その後、書物を写す。宝田村の甚左衛門が来たが、夕方には帰った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
帰村願いも出したし、年末でもあるからか、何か心理的にノンビリした感じ。髪結いしたり、風呂に入ったりした後は、五郎兵衛はいつもの写し物。宝田村の甚左衛門だけが何か慌ただしい感じです。

嘉永6年12月18日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
幽学先生、幸左衛門殿、良祐殿が髪結いし、昼から湯に入る。小生はその間、写し物。幽学先生から、「来年江戸に来る時には鮒を持ってきてもらいたい」とのお話しあり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日は五郎兵衛たちが髪結いと風呂に入っていましたが、今日は大原幽学先生が髪結い等。五郎兵衛は相変わらず写し物です。幽学先生が鮒を持ってきてくれというのは、どういう意味なんでしょうか。

嘉永6年12月19日(1853年)
#五郎兵衛の日記
晩に邑楽屋の米八殿が来て、「明日いつもの時刻に出頭せよと奉行所からお呼出しがありました」とのこと。蓮屋からも同じ内容の手紙が届いた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
奉行所から明日出頭せよとの連絡がきました。邑楽屋・蓮屋の公事宿が奉行所からの連絡を取り次ぎます。これも大事な公事宿の仕事。邑楽屋は従業員米八に行かせていますし、蓮屋は手紙。時と場合によって連絡手段を分けているようです。

嘉永6年12月20日(1853年)
#五郎兵衛の日記
小生他6名と差添2名で、朝奉行所へ。着届けし、腰掛で控える。昼に呼び出しあり、訴え所に行くと、「帰村を認める。正月晦日までに戻ること。幽学は村預けとする」との御沙汰。請書帳に名を書き、印形押す。御役所に行き、帰村の手続き。大竹様がおられたので、暇乞いして帰る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
奉行所での手続き。着届け⇒腰掛で待機⇒呼び出しをうけて担当のところへ、という一連の流れは五郎兵衛にとってはもはや手慣れたもの。
続いて、江戸から地元に戻る手続きを「御役所」で行います。知り合いの武士がいれば挨拶もするので、奉行所(裁判所)よりは堅苦しくないようです。







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代言人・弁護士として活躍した板倉中

2023年12月23日 | 歴史を振り返る
代言人・弁護士として活躍した板倉中

(はじめに)
以前、加波山事件についてこのブロクで書いたことがあるのですが(「加波山事件と千葉重罪裁判所」)、主犯富松正安の弁護人となったのが、板倉中(なかば)です。
板倉中は千葉県の生まれということもあり、興味がありましたので、調べてみました。

(板倉中の略歴)
『千葉県弁護士会史』には板倉中について、次のように述べられています。
・板倉中は1856年(安政3年)、白子町関字中富に生まれた。
(コメント)
当時は白子町はありませんので、現在の白子町関にあたる地でという趣旨でしょう。板倉が生まれたのは、関村(現在の千葉県長生郡白子町関)です。

・宮谷県給仕から明治大学の前身となる明法学舎においてフランス法を学んだ。
(コメント)
宮谷県(みやざくけん)は、1869年(明治2年)に安房国・上総国・下総国・常陸国内の旧幕府領の管轄のために明治政府によって設置された県です。
知県事役所は、現大網白里市大網にある本国寺にありました。本堂(旧宮谷檀林大講堂)を除く一切の諸堂が庁舎として使用された。といいます。本国寺には、「宮谷県庁跡」の碑があります。

・板倉中は、免許代言人制度の誕生とともに代言人の資格を取得した。
(コメント)
板倉中は明治13(1880)年に代言人となっています。代言人というのは、今日の弁護士に相当するものです。代言人という呼称は、明治5年8月公布された司法職務定制が初めてですが、このときは試験制度はありませんでした。明治9年2月に代言人規則が公布され、代言人となるには地方官の審査が必要となりました。明治13年には、この代言人規則が改正され、試験官は検事が行うこととなったのです。

・板倉中は、加波山事件の首謀者富松正安(死刑)の弁護を初めとして、大阪事件、大津事件、日比谷焼打事件、平民新聞事件、大逆事件、大日本製糖事件などの著名事件に関与している。
(コメント)
加波山事件で板倉中が弁護人を務めたことは、過去記事「加波山事件と千葉重罪裁判所」でも書きました。
大阪事件で弁護人として活躍したことは、平野義太郎『大井憲太郎』(吉川弘文館)で述べられています。同書では、板倉中を次のように紹介しています。
「大阪事件で大井(憲太郎)を弁護した板倉中弁護士は、すすんで大井の著した『時事要論』の発行名義人となった。彼は、明治後期に千葉県選出の代議士としておなじか千葉県長生郡出身の鵜沢総明とともに国会で活躍し、また大井らとともに、晩年まで普選運動に力をつくした」

(終わりに)
板倉は代言人制度揺籃期から代言人となり、また、著名事件の弁護人をも務めていますので、弁護士史を考える上でも興味深い存在です。明治から大正にかけて活躍した千葉県内の弁護士はいずれも史料に乏しく、唯一の例外は板倉中であるとのことです(『千葉県弁護士会史』)。
板倉中の弁護士としての活動を掘り下げてみたいものです。
なお、令和5年度 市史編さん事業展示として、茂原市美術館・郷土資料館は、「茂原の自由民権運動-斉藤自治夫(さいとうじちふ)と板倉中(いたくらなかば)ー」 令和5年9月16日~12月10日をテーマ展として開催しています。

その他の参考文献
「郷土の政治家 板倉中の生涯」秋谷忍(房総の郷土史第36号2008年)
「春峰 板倉中小伝」井桁三郎
「板倉中の裁判資料と朝鮮問題」(加藤時男;千葉史学56号)
また、板倉中の関係資料は、茂原市立図書館発行の「茂原市古文書目録」のその1(1996年)、その5(2009年)にもあります。


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年末を控え恒例のすす払い 文政11年12月中旬・色川三中「家事志」

2023年12月21日 | 色川三中
文政11年12月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年12月11日(1828年)晴
日の出前に下宿(しもじゅく)のえびす小兵衛の屋根から出火。燃え上がったが、屋根のかやを抜いてようやく消し止めた。
火事があったので、本日は日待ちとした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
近隣で火事があったので、「日待ち」をしたという記事。「日待ち」は、前夜から潔斎して寝ないで日の出を待って拝むことと説明されますが、ここでは終日家に籠もったという意味で使われているようです。

文政11年12月12日(1828年)
昨日は下宿(しもじゅく)だけでなく、玉造でも200棟焼失。佐野本益老の家や若松屋も焼失したという。また、大風で玉造の宿場も火が飛んだとのこと。見舞いに人を遣わした。佐野氏には金百疋、若松屋には茶碗五つ送る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日は土浦の下宿(しもじゅく)で火事がありましたが、玉造宿(茨城県かすみがうら市)でも火事になっていました。玉造宿は三中が営業でよく立ち寄る場所です。懇意にしていた(本年4月1日条)佐野氏宅も火事に。佐野氏には金百疋を見舞いに送っています。



文政11年12月13日(1828年)
日が変わったと同時に起き、すす取り。火事の見舞い等で人が出払ってしまったので、矢口嘉兵衛と加賀松二郎にすす取りの手伝いをお願いした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
12月13日は「煤払いの日」。三中は「すす取り」と書いています。昨年も夜遅くに掃除をしていました。今年は午前0時に起きてすす払い。従業員が出払ってしまっても、人を頼んで煤払いを実行する三中でした。


文政11年12月14日(1828年)
本日、色川三中先生休筆(16日まで)。
#色川三中 #家事志

文政11年12月15日(1828年)
本日も、色川三中先生休筆です(16日まで)。
#色川三中 #家事志

文政11年12月16日(1828年)
本日まで色川三中先生休筆です。
#色川三中 #家事志

文政11年12月17日(1828年)大霜
今年は大霜は降るが、雨が降らない。午前中に大町久七殿のところへ行き、左官利兵衛からの金銭借入れの仲介役を頼む。夜になって左官が家に来たので、酒肴を出しもてなす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「雨が降らない」というので、三中の日記を確認しましたが、11月10日、以降は降っていないようです。一ヶ月以上も降っていないことになります。
もっとも、「今年は雨ばかり」とも10月に書いていたので、一年を通してはバランスが取れているのかもしれませんが。



文政11年12月18日(1828年)晴
おゆみ、食べ初め。
大町茂重殿へ、すやの事を頼む。高砂屋へも頼む。
#色川三中 #家事志
(コメント)
娘(有美;本年8月27日生)は、今日食べ初め。10月には笑い初めという記事がありました(10月20日条)。妻のことはあまり書かないのに、娘のことは可愛いくて仕方がないようです。


文政11年12月19日(1828年)曇
本日、色川三中先生休筆(20日まで)。
#色川三中 #家事志


文政11年12月20日(1828年)晴
本日まで色川三中先生休筆。
#色川三中 #家事志




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子どもたちからの援助に胸アツになる大原幽学 嘉永6年12月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年12月18日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年12月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年12月朔日(1日)(1853年)
#五郎兵衛の日記
村にいる子どもたちが、江戸の裁判費用に使ってくださいと金子を送ってきている。幽学先生は感謝の手紙を書いて送っている。「子どもたちのことを思うと胸一杯になって、書きつくし難いものだな」とお話しになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
この時代に訴訟費用がかかるのは、滞在費用がかかるからです。大原幽学の刑罪裁判は幽学だけでなく、村の有力者が呼び出されているので、村にとっても財政的に深刻。それを憂いて村の子どもたちがバイトをして送金してくれているのです。幽学先生も胸アツ。


嘉永6年12月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記
深川の近江屋にひしほ(醤油)を買いに行く(源兵衛殿と同道)。俊斎は本銀町の岸部屋へ薬を買いに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「岸部屋」は薬屋で、同じ村の元俊医師が江戸にいたときは、五郎兵衛はよく薬を取りに行ってました(本年5月1日条)。奉行所には元俊は病気で江戸に在府できないということになっており、帰村したままになっています。


嘉永6年12月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昨日から使った金銭の決算をする。帳面を書くのに夜までかかった。平右衛門殿が帳面を確認してくれたが、間違いがかなり見つかり、やり直しに。今日は遅いので、明日に直しをすることとなった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今回10月に来てから経費削減策が取られており、末締めの帳面作成もその一環。10月7日条で、所持金は一旦幽学先生に預け、定められた金銭を貰って各自の出費を帳面を付け、晦日に決算することを決めています。しかし、慣れない帳面の作成に悪戦苦闘。ミスのため明日に持ち越しです。

嘉永6年12月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝食後に帳面の直し。昨日、平右衛門殿から間違いを指摘されていた点を直し、確認してもらった。平右衛門殿は蓮屋に戻っていった。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
昨日帳面にミスがあったので、今日はその続き。ようやく平右衛門のOKが出たようです。平右衛門は宿(蓮屋という公事宿)に帰って行きました。

嘉永6年12月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿と共に書物の写しを行う。昼過ぎ薪を買いに行く(小生ほか3名と共に)。晩に力蔵様からお出でになり、借家にお泊まり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は書物の写しのバイト。経費削減と共に収入を増やさないといけません。村にいる子どもたちですら働いているのですから、大人が遊んでばかりいるわけにはいきません。

嘉永6年12月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門と平右衛門殿は霊岸橋に買い物にいった。宝田村の甚左衛門殿、諸徳寺村の善兵衛殿、蓮屋の安之助殿が来られる。良祐殿、碁を打つ。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「霊岸橋」は霊岸島に掛かっていた橋。霊岸島自体埋め立てにより作られた島ですが、今は更に埋め立てられて中央区新川1、2丁目となっています。幕末にはことあたりで炭が売られていたということも聞きましたが、炭を買いにいったのでしょうか。

嘉永6年12月7日(1853年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿と一緒に山口屋で炭を買ってきた。借家に戻ると、大家さんが碁を打っていた。
#大原幽学刑事裁
(コメント)
一時期やたらと五郎兵衛の近くで流行っていた碁の人気がまた復活。大家さんが碁が好きというのも何ともほのぼのとします。

嘉永6年12月8日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝から幽学先生は高輪に(夕方お帰り)。太郎様(高松家長男)が来られてお泊りになった(幸左衛門殿と源兵衛殿が小石川まで迎え)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学は早朝から高輪へ。高輪はお台場建設の基地となっており、高松家当主(幕府の下級役人)の現在の勤務先でもあるので、高松氏に会いに行ったのでしょう。

嘉永6年12月9日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は太郎様(高松家長男)と共に両国の方に遊びに(幸左衛門殿同道)。力蔵様(高松家次男)も後からお出でになられた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学はこの裁判では現高松家当主の弟ということになっています(身分を偽っています)。高松家は小石川に住居があり、神田松枝町までは約5キロありますが、双方の行来は頻繁です。今日も高松家長男が幽学のところに遊びに来て、二人して両国に行っています。

嘉永6年12月10日(1853年)
#五郎兵衛の日記
平右衛門殿が御役所(田安家)に寒見舞に。磯部様と会ったと。磯部様「裁判も来春には終わりにしたいものだな。落着(判決)がまだであれば帰村させてもらわないとな。志しのある者をかような不便な境遇にするとはいかがなものか。」
家を借り、内職をしていることを御役所のご重役もお聞きになり、「不便なことだな。だがそう心配するな。安心して暮らすことだ」とのお話しあり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
荒海村(成田市荒海)は田安家の所領。田安家の家臣は幽学一派に裁判になる前から一貫して同情的であり、何くれとなく心配してくれています(10月26日条参照)(特に、磯部様)。今回の記事からもわかるように、打算的なものではなく、本気で心配しているようです。
田安家の家臣は、農民のために善政を行おうという考え方を持っています。このような考え方はそれほど珍しいことではなかったようです。代官についてですが、以下のように述べているものもあります(西沢淳男『代官の日常生活』)。
「幕藩制 社会の構造的危機が到来する 江戸時代後期になると、年貢徴収を維持していくため、飢饉からの農民救済、 農村復興に農政の重点が置かれていくようになる。 そうした中、農民に心を砕き 、手腕を発揮した代官も多数 輩出した」






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裁判所構成法を読む 第2章判事・第3章檢事

2023年12月16日 | 治罪法・裁判所構成法
公布:明治23年2月10日
施行:明治23年11月1日(上諭)


裁判所構成法を読む 第2編第2章判事・第3章檢事

第2編 裁判所及ビ檢事局ノ官吏
第2章 判事
#裁判所構成法
第67条 判事ハ勅任又ハ奏任トシ、其ノ任官ヲ終身トス。
(コメント)
判事は勅任官又は奏任官であり、定年はなく終身である。「勅任官」とは、勅命によって叙任された官吏をいい、親任官と一等・二等の高等官である。「奏任官」とは、天皇への上奏を経て任ずる官職をいい、高等官三等から九等に相当する。

#裁判所構成法
第68条 大審院長ハ、勅任判事ノ中ヨリ天皇之ヲ補シ、各控訴院長及ビ大審院ノ部長ハ、司法大臣ノ上奏ニ因リ勅任判事ノ中ヨリ之ヲ補ス。其ノ他ノ判事ノ職ハ、司法大臣之ヲ補ス。
(コメント)
補任権限。大審院長、各控訴院長及び大審院部長は天皇が補任権限を有する(控訴院長及び大審院部長は司法大臣の上奏による)。その他の判事は司法大臣に補任権限がある。

#裁判所構成法
第69条 五年以上判事タル者、又ハ五年以上檢事・帝國大學法科教授若シクハ辯護士ニシテ判事ニ任ゼラレシ者ニ非ザレバ、控訴院判事ニ補セラルルコトヲ得ズ。
(コメント)
控訴院判事に任命される要件。5年以上判事であること等が必要。

#裁判所構成法
第70条 十年以上判事タル者、又ハ十年以上檢事・帝國大學法科教授若ハ辯護士ニシテ判事ニ任ゼラレシ者ニ非サレバ、大審院判事ニ補セラルルコトヲ得ズ。
(コメント)
大審院判事に任命される要件。10年以上判事であること等が必要。

#裁判所構成法
第71条 第六十九條及ビ第七十條ニ掲ゲタル年限ヲ算フルニハ、補職ノ時マデ各々其ノ條ニ列記シタル職務ノ一ノミニ引續キ從事シタルコトヲ必要トセズ
(コメント)
前二条で控訴院・大審院判事に任命されるには一定の年数を必要とする旨規定しているが、その年数は継続していることを要しない。断続的でも構わない。

#裁判所構成法
第72条 判事ハ、在職中左ノ諸件ヲ爲スコトヲ得ズ。
第一 公然政事ニ關係スル事
第二 政黨ノ黨員、又ハ政社ノ社員トナリ、又ハ府縣郡市町村ノ議會ノ議員トナル事
第三 俸給アル又ハ金錢ノ利益ヲ目的トスル公務ニ就ク事
第四 商業ヲ營ミ又ハ其ノ他行政上ノ命令ヲ以テ禁ジタル業務ヲ營ム事
(コメント)
判事の政治への関与禁止及び兼職禁止。

#裁判所構成法
第73条 第七十四條及第七十五條ノ場合ヲ除ク外、判事ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ處分ニ由ルニ非ザレバ、其ノ意ニ反シテ轉官・轉所・停職・免職又ハ減俸セラルルコトナシ。但シ、豫備判事タルトキ及ビ補闕ノ必要ナル場合ニ於テ轉所ヲ命ゼラルルハ、此ノ限ニ在ラス
2 前項ハ、懲戒取調べ又ハ刑事訴追ノ始メ若ハ其ノ間ニ於テ、法律ノ許ス停職ニ關係アルコトナシ。
(コメント)
判事の身分保障。
原則:意に反して転官・転所・停職・免職・減俸なし。
例外:74条、75条の場合。刑法の宣告を受けた場合。懲戒の処分を受けた場合。

#裁判所構成法
第74条 判事、身體若ハ精神ノ衰弱ニ因リ、職務ヲ執ルコト能ハザルニ至リタルトキハ、司法大臣ハ、控訴院又ハ大審院ノ總會ノ決議ニ依リ、之ニ退職ヲ命ズルコトヲ得。
(コメント)
判事の身分保障の例外(73条が原則を規定)。
要件:心身の衰弱により職務を執ることができないこと。
手続き:控訴院又ハ大審院の総会の決議を経て司法大臣が退職を命じる。

#裁判所構成法
第75条 法律ヲ以テ裁判所ノ組織ヲ變更シ、又ハ之ヲ廢シタル場合ニ於テ、其ノ判事ヲ補スべキ闕位ナキトキハ、司法大臣ハ之ニ俸給ノ半額ヲ給シテ、闕位ヲ待タシムルノ權ヲ有ス。
(コメント)
判事の身分保障の例外(73条が原則を規定)。
要件:①法律により裁判所の組織を変更するか、組織を廃止すること、②当該判事を捕すべき欠員がないこと
効果:俸給の半額を支払い、欠員を待たせることができる
このような規定があるのは、裁判所の組織がまだ流動的だったからでしょうか。

#裁判所構成法
第76条 判事ノ官等、俸給及ビ進級ニ關ル規程ハ、勅令ノ定ムル所ニ依ル。
(コメント)
判事の身分保障。判事の官等、俸給及び進級は勅令で定める。この勅令は、判任官官等俸給令(明治19年勅令第36号)である。裁判所構成法令の制定(明治23年)以前から制定されている。

#裁判所構成法
第77条 判事ハ退職シタルトキハ、恩給法ニ依リ恩給ヲ受ク。
(コメント)
判事の身分保障。戦前の公務員制度(官吏制度)において、官吏には恩給制度が設けられていた。判事は退職後に恩給法による恩給を受ける。

#裁判所構成法
第78条 判事ノ俸給ハ、判事ニ對シ懲戒取調べ又ハ刑事訴追ヲ始メタルガ故ニ停職シタルニ拘ラズ、引續キ之ヲ給ス。
(コメント)
判事の身分保障。判事は、懲戒取調べ・刑事訴追開始により停職となることがある(73条2項)。しかし、この場合でも本条により判事の俸給は全額支給される。

第3章 檢事
#裁判所構成法
第79条 檢事ハ、勅任又ハ奏任トス。
2 第七十六條及ビ第七十七條ハ、檢事ニモ亦之ヲ適用ス。
3 檢事總長及ビ檢事長ノ職ハ、司法大臣ノ上奏ニ因リ、勅任檢事ノ中ヨリ之ヲ補ス。其ノ他ノ檢事ノ職ハ、司法大臣之ヲ補ス。
(コメント)
検事も判事と同じく勅任官又は奏任官であり、定年は規定されていない。検事の官等、俸給及び進級は、判事同様勅令で規定される(76条)。また、退職後恩給の支給を受ける(77条)。

#裁判所構成法
第80条 檢事ハ、刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ處分ニ由ルニ非サレバ、其ノ意ニ反シテ之ヲ免職スルコトナシ。
(コメント)
検事の身分保障。検事のそれは免職に関する異のみである。判事は「転官・転所・停職・免職・減俸」とその範囲が広い。判事の身分保障が手厚いことがわかる。

#裁判所構成法
第81条 檢事ハ如何ナル方法ヲ以テスルモ、判事ノ裁判事務ニ干渉シ、又ハ裁判事務ヲ取扱フコトヲ得ズ。
(コメント)
検事は判事の裁判事務に干渉することができないし、裁判事務を取り扱うこともできない。司法の独立性。

#裁判所構成法
第82条 檢事ハ、其ノ上官ノ命令ニ從フ。
(コメント)
検事は上官の命令に従わなければならない。判事には同様の規定がないが、これも司法の独立性の観点からである。

#裁判所構成法
第83条 檢事總長、檢事長及ビ檢事正ハ、其ノ各管轄區域内ノ裁判所ノ、檢事ノ職務ノ範圍内ニ在ル事務ヲ、自ラ取扱フノ權ヲ有ス。
2 檢事總長、檢事長及ビ檢事正ハ、其ノ管轄區域内ニ於テ、或ル檢事ノ取扱フべキ事務ヲ、他ノ檢事ニ移スノ權ヲ有ス。
(コメント)
検事総長、検事長及び検事正の権限規定。

#裁判所構成法
第84条 司法警察官ハ、檢事ノ職務上其ノ檢事局管轄區域内ニ於テ發シタル命令及ビ其ノ檢事ノ上官ノ發シタル命令ニ從フ。
2 司法省又ハ檢事局及ビ内務省又ハ地方官廳ハ、協議シテ警察官中各裁判所ノ管轄區域内ニ於テ、司法警察官トシテ勤務シ、前項ノ命令ヲ受ケ及ビ之ヲ執行スル者ヲ定ム。
(コメント)
司法警察官は検事の職務上の「命令」に従う義務を有する。現行法では、検察官の指示・指揮権として刑事訴訟法で規定されている(同法193条)。



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年貢を多く収め過ぎていたことが判明。それでも村役人には寒見舞 文政11年12月上旬・色川三中「家事志」

2023年12月14日 | 色川三中
文政11年12月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年12月1日(朔)(1828年)晴
本日、隠居(祖父)、江戸から土浦に戻られた(佐兵衛同道)。正油七樽、二分値上げ。正油業の周辺状況はよろしくないとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中の祖父は頑張りますねぇ。三中はアラサー(20代)ですから、爺ちゃん一体幾つですかね。醤油事業については、まだこの祖父が頑張っていて、江戸にいって交渉して、業界情報まで仕入れてきてくれています。

文政11年12月2日(1828年)曇
(天気のみ。本文の記載なし)
#色川三中 #家事志
(コメント)
今日は天気の記載のみ。書くことがないのではなく、忙しいのでしょうね。忙しいにも関わらず、天気だけは書く。日記に何かしら書かないと書くのを忘れてしまいますからね。

文政11年12月3日(1828年)晴
なんと当家の田畑の石高が間違えられていた!村役人のミス。年貢を多く納めすぎていた。全く迷惑。
(今年、一部の田畑を売り渡したが、気になることがあったので、村役人に問い合わせたところ間違いがわかった)
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川家の田畑の石高が間違って記録されていたことが判明しました。多く間違えられていただめ、年貢を納めすぎていたことか分かり、さすがに三中も怒っています。

文政11年12月4日(1828年)晴
村役人に寒見舞いとして、例年どおり、ねぎ一把を送った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川家の田畑の石高が間違って記録され、昨日は村役人に対して怒っていた三中ですが、寒見舞として村役人にネギを送っています。ミスをしようが、村役人という立場に対しては礼儀は欠かさないというところでしょうか。
寒見舞。今では、寒中見舞いと呼ばれることの方が多いでしょうか。二十四節気の小寒(1月5日頃)から立春(2月4日頃)までの寒中に行う見舞いであり、太陽暦では年が明けてからになりますが、太陰暦では旧暦12月、年末が近くなってから行うものなのですね。

文政11年12月5日(1828年)
先月12日の越後で地震があったが、同国では14日まで度々余震があり、山は崩れ地は割けて、門跡も倒れ、家屋も80軒ほど倒れたという。牛馬も多く死んだとのこと。今年はなぜこのような凶事ばかりなのか。
#色川三中 #家事志
(コメント)
11月12日にあった地震(三条地震)の被害状況の記事。当日は土浦でも揺れ、三中も「大地震」と書いており、記憶に強く残っていたのでしょう。なお、『三条市史』では、被害は全潰12,859軒、半潰8,275軒、焼失1,204軒、死者1,559人、けが人2,666人とされております。
矢田俊文『近世の巨大地震』(吉川弘文館)では、越後三条地震について、与板町(現長岡市)地震被害絵図、長岡藩手当米・五か組被害覚や地震被害の申上書等の史料から被害状況や当時の生活状況を紹介しており、参考になります。

文政11年12月6日(1828年) 晴
田中地域の小作分の年貢は本年201俵強だが、これまで年貢を多く納めていた分をどうするか大評議。
#色川三中 #家事志
(コメント)
色川家の田畑の石高が間違って記録されていたため(12月3日条)、色川家には年貢の過払いが生じています。これをどうするか。「大評議」とありますから、寄合で大議論がなされたのでしょうか。日本人は議論下手等という俗説がありますが、結構権利主張してます。

文政11年12月7日(1828年)
色川三中先生休筆につき、三中の日記 (家事志 )はお休みです。
#色川三中 #家事志

文政11年12月8日(1828年)晴
勝右衛門は、来る正月元日で80歳。祝賀のための祝い餅を本日ついた。妻がおゆみ(今年生まれた子)を連れて正月に実家に帰るので、谷田部にも餅を遣わした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
勝右衛門は色川家の従業員。来る正月で80歳。何とも目出度く、祝賀のための餅つき。この正月には奥様も実家に帰られるようです。
なお、勝右衛門は昨年12月にも79歳とされていました…。昨年の記事が誤りだったのでしょう。



文政11年12月9日(1828年)
色川三中先生休筆につき、三中の日記 (家事志 )はお休みです。
#色川三中 #家事志


文政11年12月10日(1828年)晴
勝右衛門を中高津の栄吉殿に遣わす。色川家の中高津の田畑山林の世話を頼むため。
#色川三中 #家事志
(コメント)
勝右衛門、もうすぐ80歳ですが、元気に働いています。中高津は現在の土浦市にも残っている地名です。色川家からは片道2キロ強です。
土浦城 大手門跡-中高津 (2.3 km)

土浦城 大手門跡 to 中高津

土浦城 大手門跡 to 中高津






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刎首では手ぬるい、梟首にせよ 仮刑律的例 その18 梟首

2023年12月11日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #18 梟首
(超訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月
無宿人の庄平と惣太郎は、昨年12月、野後里村の庄屋が伊勢神宮へ年貢を金納する機会に乗じて、庄屋らを道中で襲って殺害し、金200両を奪いました。庄屋は重傷、荷物持ちが死亡。この者らを刎首に処したいので、お伺いします。
【返答】
この者らが行ったことは強盗殺人であり、重々不届きである。刎首ではなく、梟首とすべきである。

(詳しい訳)
【度会府からの伺い】明治元年九月(辰年)
無宿人の庄平及び惣太郎(勢州山田町で召し捕り)が、人を殺し、金子・銀札を奪取した件を吟味しましたので、申し上げます。
〈犯行に至る経緯〉
庄平は、遠州佐野郡上芳村の惣左衛門の倅で、両親ともに農業に従事しておりましたが、当人の身持ちが悪く、一昨年(寅年)10月に勘当されて無宿となり、あちこちをふらふらしておりました。
惣太郎は、勢州度会郡三瀬村の要助の倅で、両親とも先年亡くなり、家が仕舞いとなってしまぅたことから無宿となり、あちこちをふらふらしておりました。惣太郎は、昨年(卯年)7月に庄平と出会い、二人して徘徊しておりました。
二人は日雇い仕事などをしておりましたが、それだけでは金銭に難渋するところとなり、同年12月には上方に向かうことに致しました。
同月25日、二人は旅の途中で勢州野後里(のじり)村の左膳という庄屋と会いました。左膳は毎年年貢を伊勢神宮の内宮長官に金納することを知り、この金子を強奪することを共謀致しました。
〈本件犯行〉
同日の暮れに、二人は左膳が内宮に行く後をつけておりましたが、途中で先回りし、勢州上地村縄手にて左膳を待ち構え、脇差しで前後より切りつけました。左膳は手疵を負い、その場から逃げました。また、庄平は両掛(旅行用行李)を担いでいた長作にも切りつけ、同人をその場で殺害しました。両掛(旅行用行李)は惣太郎が奪いとりました。二人は松山まで行ってから、両掛を踏み破って金子・銀札計約200両を取り出し、二人で山分けしました。
〈犯行後の経緯〉
両名は逃亡したものの、山田町で召し捕りました。余罪を追求しましたが、本件だけとのことです。吟味詰めしましたところ、両名事実を認めて謝罪しております。
この件は重々不届きであり、両名に対し刎首申し付けふべきと考えますので、お伺いする次第です。

【返答】
10月8日、天裁(天皇の判断)を経ての回答である。
この者らが行ったことは強盗殺人であり、重々不届きである。刎首ではなく、梟首とすべきである。

【コメント】
・#17に引き続き、#18も度会府からの伺いです。度会府は慶応4年7月6日に設置されました。伊勢国内の天領(旧・幕府領、旧・旗本領)および伊勢神宮領などを管轄。明治元年時点では、現在の三重県は度会府と大津県に管轄が分かれていました。
・なお、度会府は明治2年7月(1869年)には、 度会県に改称しています。「府」は東京・京都・大阪に限るとした太政官布告によるものです。
・本件の犯人は庄平と惣太郎の二人。いずれも犯行当時は無宿人ですが、無宿となった経緯は違っていて、庄平の方は自身の問題を理由に両親から勘当それたのですが、惣太郎の方は両親が亡くなり、家を継ぐこともできなかったという理由によります。
・本件は「勢州」=伊勢国でのものであり、惣太郎も同国のものですが、庄平は「遠州佐野(さや)郡」の出身です。「遠州佐野郡」は現在の静岡県掛川市、森町辺り。この辺りから伊勢の辺りまで流れてきたのかもしれません。
・伺いは、「無宿人として定職にはつかず、日雇いで生計を立てようとするも金繰りに窮して犯罪に及んだ」という一定のパターンにはめこんだ文章になっています。大枠では間違っていないのかもしれませんが、弁護人がいればまた違った主張があったのかもしれません。この時代、弁護人はいないので、その辺りは謎のままですが…。
・被害者は勢州野後里村の左膳という庄屋と荷物持ちの長平です。伺いでは、「野後里村」とありますが、コトバンクには、「野後村」(のじり)とあり同一のものかと思われます。現在地名は度会郡大宮町滝原です。
滝原-伊勢神宮 内宮(皇大神宮)(39 km)
https://maps.app.goo.gl/U4WrZVpLKfXwkvJB7
・野後里村は、毎年年貢を伊勢神宮の内宮長官に金納しており、その道中を狙われたことになります。被害者のどちらかが事情を話してしまったのでしょうか。加害者には大金を狙えると映ってしまったようです。
・加害者が一攫千金を狙ったのは間違いありません。その手段として被害者の殺害を計画していたのでしょう。悪質な犯行ということはなく、死罪は免れません。度会府では、「刎首」の刑に処すべきとの伺いを出していますが、明治政府は「梟首」にすべきとの判断で、考え方に相違が生じました。
・刎首は「身首処を異にす」という点で、斬首(袈裟斬り)と異なります。首と身体を離すか否かに江戸時代は意味を見出していたのですね。
・梟首というのは、梟して衆に示すことで、つまりは晒し首。梟首はこの時代〈極刑〉に分類されていました(刎首は死刑)。死刑と極刑は異なるものとして認識されていたのですね。
明治政府は、本件の加害者を死刑に処するので手ぬるいので、極刑に処せとしているのです。



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裁判所構成法を読む 第2編第1章  判検事任用準備及び資格

2023年12月09日 | 治罪法・裁判所構成法
公布:明治23年2月10日
施行:明治23年11月1日(上諭)

裁判所構成法を読む 第2編第1章 
判検事任用準備及び資格

第2編 裁判所及ビ檢事局ノ官吏
第1章 判事又ハ檢事ニ任ゼラルルニ必要ナル準備及ビ資格

#裁判所構成法
第57条 判事又ハ檢事ニ任ゼラルルニハ、第六十五條ニ掲ゲタル場合ヲ除キ、二囘ノ競争試驗ヲ經ルコトヲ要ス。
(コメント)
判検事に任ぜられる為には、二回試験を経なければならないのが原則である(例外として65条)。第一回試験に合格して、試補となり、実地修習をした後に第二回試験に臨むこととなる(58条2項、62条)。

#裁判所構成法
第58条 志願者前條ノ競争試驗ヲ受ケ得ルニ必要ナル資格、竝ビニ此ノ試験ニ關ル細則ハ、判事檢事登用試驗規則中ニ司法大臣之ヲ定ム。
2 第一囘試驗ニ及第シタル者ハ第二囘試驗ヲ受クルノ前試補トシテ裁判所及ビ檢事局ニ於テ三年間實地修習ヲ爲スコトヲ要ス
3 前項ノ修習ニ關ル細則モ亦試驗規則中ニ之ヲ定ム
(コメント)
・二回の競争試験や修習に関する細則は規則に委ねられる。判事検事登用試験規則が、明治24年5月15日司法省令第3号として制定された。
・試補の実地修習は裁判所及び検事局で行われ(弁護修習はない)、その期間は3年であった。

#裁判所構成法
第59条 司法大臣ハ、試補ノ行状罷免スルニ足レリト認ムルトキハ、何時ニテモ之ヲ罷免スルコトヲ得。此ノ罷免ニ關ル細則モ亦、試驗規則中ニ之ヲ定ム。
(コメント)
試補の罷免権を有するのは司法大臣である。なお、現行法では、司法修習生を罷免するのは最高裁である。

#裁判所構成法
第60条 一年以上修習ヲ爲シタル試補ハ、其ノ修習ヲ現ニ監督スル判事ノ命アルトキ、區裁判所ニ於テ、或ル司法事務ヲ取扱フコトヲ得。
2 豫審判事及ビ地方裁判所ノ受命判事モ亦、其ノ附屬ノ試補ヲシテ、自己ニ代リ或ル事務ヲ取扱ハシムルコトヲ得。
(コメント)
試補の取扱権限について。試補が一年以上修習したときは、区裁判所、予審判事、地裁受命判事の事務を取り扱うことができる。現行の司法修習生にはこのような権限規定がないため、修習生どのような場合に事務を取り扱えるのかにつき問題を生じる場合がある(例えば、検察の取調べ修習)。

#裁判所構成法
第61条 試補ハ如何ナル場合ニ於テモ、左ノ事務ヲ取扱フノ權ヲ有セズ。
第一 訴訟事件ト非訟事件トニ拘ラズ、裁判ヲ爲ス事。
第二 證據ヲ調フル事。但シ前條第二項ノ場合ヲ除ク。
第三 登記ヲ爲ス事。
(コメント)
試補が取扱えない事務について。前条では試補が取り扱える事務を規定しているが、本条で試補の権限の限界を画している。

#裁判所構成法
第62条 第二囘ノ競争試驗ニ及第シタル試補ハ、判事又ハ檢事ニ任ゼラルルコトヲ得。
(コメント)
試補が第二回試験に及第することが、判検事に任用される要件である。現行法(裁判所法)では、二回試験に合格して修習を終了しても、判事補となることができるだけである(判事に任用の要件ではない)。

#裁判所構成法
第63条 新任ノ判事又ハ檢事ハ、闕位アルトキ之ヲ區裁判所若ハ地方裁判所ノ判事、又ハ區裁判所若ハ地方裁判所ノ檢事局ノ檢事ニ補ス。
2 司法大臣ハ、闕位アルマデ新任ノ判事又ハ檢事ニ、豫備判事又ハ豫備檢事トシテ勤務スルコトヲ命ジ、之ヲ司法省又ハ區裁判所又ハ地方裁判所又ハ其ノ裁判所ノ檢事局ニ用ウ。
(コメント)
新任判検事は区裁判所か地裁での勤務となり、控訴院・大審院での勤務とはならない(1項)。欠員があるまでは正式に補任されるのではなく、予備判検事としての勤務となる(2項)。

#裁判所構成法
第64条 區裁判所又ハ地方裁判所又ハ其ノ檢事局ニ用ヰラレタル豫備判事又ハ豫備檢事ハ、判事又ハ檢事差支アリテ職務ニ從事スルコトヲ得ズ、且通常代理ノ規程ニ依リ難キコトアルトキハ、第三十二條ノ制限ニ從ヒ、司法大臣ハ之ニ其ノ判事又ハ檢事ヲ代理セシムルコトヲ得。
2 司法大臣ハ、區裁判所又ハ地方裁判所ノ判事又ハ其ノ檢事局ノ檢事ニ一時闕位アル間ハ、此ノ法律ノ範圍内ニ於テ、豫備判事又ハ豫備檢事ヲ以テ之ヲ充タスコトヲ得。
(コメント)
予備判事・予備検事の権限規定。要件を満たせば判事・検事の代理が可能であり(1項)、欠位があれば予備判検事を充てることが可能(2項)。

#裁判所構成法
第65条 三年以上帝國大學法科教授若ハ辯護士タル者ハ、此ノ章ニ掲ゲタル試驗ヲ經ズシテ判事又ハ檢事ニ任ゼラルルコトヲ得。
2 帝國大學法科卒業生ハ、第一囘試驗ヲ經ズシテ試補ヲ命ゼラルルコトヲ得。
(コメント)
試験によらずに判検事任官ができる者。帝国大学法科教授・弁護士(3年以上)は無試験で、判検事任官ができる(1項)。帝国大学法科学生は、第一回試験なしで試補となることができる(2項;帝国大学特権)。


2023/11/22
#裁判所構成法
第66条 左ニ掲ゲタル者ハ、判事又ハ檢事ニ任ゼラルルコトヲ得ズ。
第一 重罪ヲ犯シタル者。但シ國事犯ニシテ復權シタル者ハ此ノ限ニ在ラズ。
第二 定役ニ服スべキ輕罪ヲ犯シタル者。
第三 身代限ノ處分ヲ受ケ負債ノ義務ヲ免レザル者。
(コメント)
判検事の任官を受けられない者。第一、第二は犯罪を犯した者。第三の「身代限」は、借金を返済できなくなった債務者に対し、官が全財産を没収して債権者に与え、借金の弁償に充てさせたことをいう。身代限は公事方御定書に規定されている制度であり、現在の破産手続きに相当する。


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将軍宣下の御登城は一大イベント 嘉永6年11月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年12月07日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年11月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年11月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生に小生の髪結いをしていただく。良左衛門君の書状が届く(岡飯田村の傳右衛門殿持参)。幽学先生が定めた規則を守らない者が多くなっており、干潟組はみな幽学先生の暮れの帰村を願っている由。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
「良左衛門君」というのは長部村(現旭市長部)の名主遠藤家の跡取り遠藤良左衛門のこと。前回野帰村までは江戸に出府していたのですが、今回からは長部村の留守を預かっています。これは良左衛門が村役人(の代理)として来ていたからではないかと思われます。
岡飯田村は現香取市岡飯田。長部村とは約8キロ離れています。大原幽学の求心力は香取郡を中心に広範囲に広がっており、農民たちのネットワークが築かれていたようです。

岡飯田 · 〒289-0323 千葉県香取市

〒289-0323 千葉県香取市

岡飯田 · 〒289-0323 千葉県香取市


嘉永6年11月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿と一緒に本の写しの作業。
回向院に角力の稽古見物に行くものあり。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
回向院は現在でもある両国の寺。江戸時代、境内で勧進相撲の興行がなされていました。相撲の稽古も行われていたようで、仲間はそれを見物に行っています。

嘉永6年11月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記
日出前に起き、(徳川家定への)将軍宣下の御登城を拝みに行く。良佑殿、源兵衛殿、伊兵衛父、傳右衛門殿と共に大手から拝む。水戸の御隠居様やその他大名がお祝いで登城。御道具、衣服等は美麗である。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
徳川家定への将軍宣下。将軍宣下(せんげ)とは、天皇が武家政権の長であり日本の統治大権を行使する征夷大将軍職に任ずる儀式のこと。五郎兵衛らはこの行事に集まる大名らを見物に行っています。ツイートではかなり省略しました。フルバージョンはブログをご覧ください。

五郎兵衛、将軍宣下の御登城を見物する 大原幽学刑事裁判 - 南斗屋のブログ

嘉永6年11月23日(1853年)#五郎兵衛の日記日出前に起き、(徳川家定への)将軍宣下の御登城を拝みに行く。良佑殿、源兵衛殿、伊兵衛父、傳右衛門...

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嘉永6年11月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝食後、道友たちと幽学先生の教えにつき話す。幽学先生は書き物。小生もその側で書き物。晩に下谷仲町で火事。三町四方が焼けたとのこと。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
火事の記事。下谷仲町は現台東区北上野一丁目。大原幽学や五郎兵衛の住む神田松枝町からは少し距離がありますが、延焼の可能性もありますから、かなりの関心をもっていたのでしょう。火事はしょっちゅう起こっていたようで、近いところでは5月に記事あり。



嘉永6年11月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生は書き物をし、小生も書き物。他の者は堀之内に行ったとのこと。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
堀之内としか書いてありませんが、「堀之内のお祖師様」として知られる妙法寺(現杉並区堀ノ内)でしょうかね。落語の題にもなってますし(「堀の内」)。当時かなり有名で、行ってみようということになったのでしょう。

嘉永6年11月26日(1853年)
#五郎兵衛の日記
本日は幽学先生、小生だけでなく幸左衛門殿も書き物をする。その他の者は目黒の方に行ったとのこと。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛は今日も大原幽学と共に書き物をしていますが、他の者は江戸見物。昨日は堀之内のお祖師様でしたが、今日は目黒。江戸時代の目黒は目黒不動尊を中心に風光明媚な土地でした。

嘉永6年11月27日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
幽学先生は国もとに手紙を書いた。写しも認(したた)め、武左衛門殿と読み合わせ。
荒海村の喜兵衛殿、多左衛門殿から平右衛門殿宛に手紙(公事宿の蓮屋が受領)。江戸に出府されるとのこと。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
手紙の写しの取り方。今のようなコピー機がないので、写しは当然手書き。その上で読み合わせをしています。
江戸出府中の者はへの手紙の送り方。公事宿に滞在していることがわかれば、公事宿宛に送ればよいのですね。人から人へ手渡しでちゃんと手紙が受け渡されています。

嘉永6年11月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
幽学先生、傳右衛門を連れてあちこち見物に行かれ、夕方にお帰りになる。夜には薬研堀の夜市に行かれた(小生、幸左衛門、傳右衛門同道)。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
最近書き物ばかりしていた大原幽学が外出。薬研堀(やげんぼり)は、現在の東京都中央区東日本橋にあった運河または堀周辺の通称地名。薬研堀には夜市があったのですね。見て歩くだけでも楽しそう。

嘉永6年11月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記
皆で髪結いし、昼より風呂。その後、幽学先生は幸左衛門殿らと浅草へ。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学先生、今日は浅草へ。昨日は薬研堀の夜市に行ってましたから、連日のお出かけです。

嘉永6年11月に30日はありません(小の月のため)。#五郎兵衛の日記 はお休みです。
#大原幽学刑事裁判 




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