南斗屋のブログ

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窃盗の被害が5両以下は笞50回、10両以下は笞100回。仮刑律的例 23 刑律問合

2024年01月29日 | 仮刑律的例
窃盗の被害が5両以下は笞50回、10両以下は笞100回。仮刑律的例 23 刑律問合

(明治元年十一月四日、京都府からの伺)
昨日(11/3)、行政官から以下のような達を受けました。
新しい律を公布されるまでは、幕府が制定した刑律(公事方御定書)に基いて行うが、死刑は天皇の御勅裁を経ること、追放刑・所払い刑は徒刑へと変更すること、流刑は蝦夷地に限ること、窃盗については旧例のとおり被害額百両以下は死刑にしないとの達。
府は、以下の点に疑問を持ちましたので、どのように取り計らうべきかお伺い致します。

【伺い①】その場で盗心を生じて窃盗に及び大金を取得した者、計画的な犯行でない者については死刑でよいでしょうか。それとも減軽してもよろしいものでしょうか。
【返答】ふと悪心を生じて窃盗した者の刑罰は一等軽くしてよい。

【伺い②】笞刑は廃止でしょうか。これまでどおり笞刑を行う場合は、金額の多少と笞数を教えてください。
【返答】新しい律が定められるまでは、幕府が制定した刑律(公事方御定書)のとおり重敲、軽敲といった笞刑を行う。もっとも、金銀の相場が制定当時と変わっているので、以下のとおり仮に定める。
5両以下は笞50回
10両以下は笞100回
20両以下は徒1年
40両以下は徒1年半
60両以下は徒2年
80両以下は徒2年半
100両以下は徒3年


【伺い③】徒刑は被害額の多少で刑の日数を変えるのでしょうか。また、徒刑は盗賊に対してだけに科すものでしょうか。盗賊以外にも徒刑を科して良いのであれば、その犯罪を予めお教えください。
【返答】徒刑は盗賊に対してだけ科すものではない。どのような犯罪でも徒刑を科してよいので、その犯罪を予め教えるというのは難しい。なお、刑の軽重は、死刑、流刑、徒刑の順である。

【伺い④】流刑につきましては、遠・中・近の区別がありますが、どのような犯罪の場合に、どのような刑を行えばよいか予めお教えください。
【返答】漢土(中国)では流刑は、3000里、2500里、2000里の区別があるが、故幕府律(公事方御定書)では、遠・中・近の区別はない。京・大阪からは何島、江戸からは何島に流刑にせよとの定めのみがある。
流刑にすべき者:追放刑にしたのに追放場所から戻った者、女犯の僧、15歳以下で死罪にあたる罪を犯した者。それ以外は一つ一つ答えることはできない。

【伺い⑤】強盗、追剥、追落はいずれも重罪であり、金額の多少にかかわらずに取り扱うということでよろしいでしょうか。また、この三者に違いがあるのかもお教え願えますか。
【返答】故幕府の律書(公事方御定書)では、追剥は獄門、追落は死罪と区別している。それ以外は、強盗、追剥、追落はいずれも重罪であり、金額の多少で取り扱いを変える必要はない。

【伺い⑥】盗物と知っていながら、又は怪しい品と気がつきながら、盗賊から買い取った者の刑律について伺います。
【返答】故幕府の律書(公事方御定書)では、盗賊と知りながら買い取った者は、所払いとある。

【伺い⑦】盗賊と知りながら、宿を貸した者の処置につき伺います。
【返答】死罪になるべき盗人に宿を貸した物は田畑取り上げの上で所払い。村役人、名主、組頭、五人組はいずれも過料を申し付ける。死罪とはならない盗人に宿を貸した場合は、一等軽くすべきである。


【コメント】
・京都府からの伺いです。具体的な事件についての問い合わせではありません。法律上の問題といった体の質問です。
・【伺い①】は、計画的でない窃盗の量刑についての質問。計画的でない窃盗は一等減じて刑を量定すべきというのが明治政府の方針です。
・【伺い②】は笞刑についてのもの。京都府は笞刑は廃止か?と考えていたようですが、明治政府は、この時点では笞刑は存続する意向です。窃盗の被害額が5両以下は笞50回、10両以下は笞100回と仮に定めています。それ以上の額は徒刑にすべきとの考えです。
・【伺い③】は徒刑についてのもの。徒刑は、公事方御定書には規定がなく、明治になってから新しく導入された刑ですので、京都府がその適用に戸惑うのも無理はありません。明治政府の布令(明治元年十月晦日)は、概略次のように規定していました。
①新律の布令までは幕府に委任していた刑律(公事方御定書)によるべきであるが、追放・所払は徒刑に換えるべき。
②徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。この点はいずれ新律制定により制度設計を明らかにする。
追放・所払は徒刑に置き換えよとの指示はなされていますが、それ以外に徒刑を科してよいかどうかは不明なことから、京都府は政府に伺いを行ったのでしょう。
明治政府は、徒刑は盗賊に対してだけ科すものではなく、どのような犯罪でも徒刑を科すことはできるという立場を取っています。
・【伺い④】は流刑についてのもの。流刑は島流しのことです。京都府は「流刑は遠・中・近の区別がある」としていますが、これはそういう慣習となっていたもので、公事方御定書にはそのような規定はありません(明治政府の返答でもこの点を指摘)。
明治政府は、流刑は蝦夷地に限るとして、流罪を限定する方針を打ち出しておりました。
・【伺い⑤】は強盗、追剥、追落についてのもの。これらは「重罪」とされ、いずれも死罪以上の刑。現代の感覚からすると、死罪よりも上があることが分かりづらいのですが、この時代は犯罪者の死なせ方、その後の遺体の処理の方法により、死罪よりも重い刑があると考えていました。
・【伺い⑥】は、盗んだ物と知っていながら、又は怪しい品と気がつきながら、盗賊から買い取った者の刑律について。今の「盗品等関与罪」ですね。公事方御定書では、所払いにしていたのですね。もっとも、明治政府は所払いの刑は徒刑に変更せよという方針でした。
・【伺い⑦】盗賊と知りながら、宿を貸した者の処置。死罪になるべき盗人か否かで区別し、死罪になるべき場合は重く処罰されます。村役人、名主、組頭、五人組は、宿を貸した者が出たこと自体の責任を取らされるというのも、この時代の特徴。村内で宿泊する者はちゃんと管理しておかないといけないことになっており、管理不行届により処罰されてしまいます。


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山田大路陸奥を禁錮にせよ 仮刑律的例22 禁錮

2024年01月25日 | 仮刑律的例

山田大路陸奥を禁錮にせよ #仮刑律的例22 禁錮


#仮刑律的例 #22 禁錮

(超訳)

【度会府からの伺い】明治元年十月

先月16日に伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊したのですが、当度会府の御用掛である山田大路陸奥が「これはただ事ではないので、今上天皇の江戸への御出輦の可否とも関係する神慮ではないか」と考え、正式な手続きを経ずに京都の友人にその旨を書き送りました。以前から姦雄といわれていたこの者の今回の所業いかなる処置といたしましょうか。

【返答】

今上天皇の江戸への御出輦のときに、決められた手続きを経ずに妄説を説いたのは不届きである。官爵を解き、禁錮を申し付けるべきである。


(詳しい訳)

【度会府からの伺い】明治元年十月(辰年)

当度会府の御用掛である山田大路陸奥の件、どのように処理しましょうか。早急にご判断いただくようお願い致します。

〈度会府の見解〉

先月16日に伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊しました。鳥居は朽廃が原因で倒壊したのですが、

山田大路陸奥は、この災異に付会して、今般の明治天皇の御東幸の盛挙をみだりに誹議し、所見を陳じたものです。

この者、すこぶる才名があり、交際範囲も広く、以前から姦雄といわれておりましたが、今回、度会府、祭主、禰宜、大宮司にも知らせず、京師に密使を走らせております。

このことは、祭主・宮司の怠慢をあばき、己の忠義を売って僥倖を計ろうとしたに相違ありません。

鳥居の倒壊の原因につき、よくよく見分することもなく、巷談を信じ軽易建言に及んで衆聴を驚かそうとしたこと、不届きというほかありません。いかが処理すべきかお伺いします。

なお、山田大路陸奥には当度会府の御用掛を申し付けてありますが、任用を続けてよいか否かも合わせてご指示ください。


〈山田大路陸奥の口上〉

先月16日に内宮冠木御鳥居が倒壊した件ですが、私が知りましたのは翌17日です。17日は持病の疝痛で終日引きこもっており、夜になってようやく持ち直してきました。深更になってから、司中前政所の岩淵修理から話したいことがあるとの連絡があり、大宮司家に行きました。

祭主様(大中臣教忠)と政所にお会いし、用向きも済みましたので、帰ろうかと思っていたところ、公文所に前政所岩淵修理、権政所上部令使の三室戸様、雑掌の林筑後の三人がおりました。この方々から、昨日内宮の由基御撰調進の時刻に、冠木御鳥居が倒壊し、その後に大きな穴ができてしまったことを聞きました。このことは17日朝に、禰宜中から祭主様に届けがあったとのことですが、司中にはまだ届けがされていないとのことでした。

本件のようなことは、書面で御総官へ申達するのが通例ですが、御総官は東京へご参行中とのことでした。

祭主様は「(明治天皇が)東京へまもなくご出輦されるとのことであるから、ご帰京された後に神祇官衆中へご相談することとしょう。」と仰り、ご報告を留保されるご意向を示していました。

以上のような話しをして、帰宅いたしましたが、考えてみますと、少しも風が吹いていなかったのに理由もなく、鳥居が倒壊したということは、何か神霊に関わるようなこと、神慮を何か問うようなことがあるようにも思われます。

そういえば、近日中には、(明治天皇の東京への)ご出輦の可否につき恩給勅使により、伊勢神宮に神慮をお窺いするとも聞いておりました。

だとすれば、これは容易ならざることです。私のような小民が私見を申し上げるのも恐れ多いことです。そこで、私見を京都にいる相職にお知らせし、その取り扱いについては、友人たちの相談に任せようと思いまして、書面を書き、18日の昼に師岡豊輔宛に発送したのです。師岡がいないときは、樹下石見守、権田直助、落合一郎らに披見するように申しつかわしております。

師岡は不在であったため、樹下らがこれを取り扱ってくれたとのことでございます。

今回のことは、あくまでも玉体の御安泰を祈念して行ったものでありますが、鳥居が腐朽して倒壊したという可能性も考えず、かような御迷惑をおかけしましたことは、今更ながらではありますが、恐縮し後悔しているところです。

この段よろしくご恕察願い奉ります。


【返答】

山田陸奥のこと、決められた手続きを経ず、鳥居の倒壊という容易ならざる事件について妄説をなし、(明治天皇の東京への)ご出輦に際して、衆聴を驚かせたのであるから、不届きである。よって、官爵を解き、禁錮を申し付けるべきである。


【コメント】

・度会府からはこれまで2回伺いが仮刑律的例に取り上げられています(17&18)。今回の伺いで3回目となります。度会府は慶応4年7月6日に設置され、伊勢国内の天領(旧・幕府領、旧・旗本領)および伊勢神宮領などを管轄。明治元年時点では、現在の三重県は度会府と大津県に管轄が分かれていました。度会府は明治2年7月(1869年)に、度会県に改称。「府」は東京・京都・大阪に限るとした太政官布告によるものです。

・本件で問題となっているのは、「山田大路陸奥」という人物です。度会府の職員をしており、これまで紹介してきた事例に出てくる無宿人等とは全く違うタイプです。

・犯罪とされた事案を見ても、伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊したことを、正式なルート外で外部に漏らしたというもので、現代風にいえば公務員の守秘義務違反というよあにしか見えません。このようなことを理由として、「官爵を解き、禁錮を申し付ける」とするのは、いかにも行き過ぎのように思われます。

・このような過酷すぎる刑となったのは、明治天皇の東京への出輦が絡んでいるのでしょう。

明治天皇は、明治元年9月20日に京都を出発、10月3日東京着。12月22日に京都に帰着しています。伊勢神宮内宮の鳥居が倒壊したのは9月16日であり、京都出発の直前という時期でした。

明治天皇の東幸(東京への行幸)は、首都をどこにするかとも関わる政治的に重要な行事であり、明治政府としては邪魔が入らないように気を遣っていたはずです。

政府としては、山田大路陸奥が何らかの謀略を企てたと考えたのかもしれません。

・山田大路陸奥は、幕末に様々な活動に加わっていたようであり、『三重県下幕末維新勤王事蹟資料展覧会目録』中の『山田大路親彦事蹟資料』には、「師檀関係により薩藩の俊傑と交わり、又諸国の勤王の士と相往復し、文久三年五月捕らわれて入獄。後解放さる。」との記載も見えます。度会府の伺いに、「この者、すこぶる才名があり、交際範囲も広く、以前から姦雄といわれておりました」とあるのは、このような経歴を指すものと思われます。

・しかし、それにしても山田大路陸奥が謀略を企てたとまでは立証できていません。政府の回答も、「鳥居の倒壊という容易ならざる事件について妄説をなし、(明治天皇の東京への)ご出輦に際して、衆聴を驚かせ」たと認定しているに過ぎず、謀略を企てたことにはなっておりません。

それなのに、懲戒免職・禁錮というのは、いくら何でも重すぎると言わざるをえません。

・山田大路陸奥は、本件で禁錮となり、まもなく亡くなってしまいました。『山田大路親彦事蹟資料』には、「東京遷都の議あるや、意見書を上る。事、当局の忌諱に触れ、度会府より禁錮せらる。明治二年二月二十日歿。年五十五。」とあります。明治政府の回答からはわずか4ヶ月後のことでありました。



━━━━━━━━━━━━━

2024年2月1日追記

本ブログをアップしてから、千田稔『伊勢神宮』(中公新書)に以下の記載があることを知りました。明治元年9月20日の明治天皇が東京に行幸する際に、大津駅で京都に戻るよう権中納言大原重徳が権言をするという事件があったのです。同書てわは『明治天皇紀』(第一)からとして以下のように述べています。


〈辰の刻(午前八時)、紫宸殿を出発。輔相岩倉具視をはじめ議定中山忠脳らが供奉したが、護衛の者を含めると三千三百余人からなる列をなした。沿道の老若男女は天皇の一行を見送り、粛然として拍手の音が絶えることがなかった。(中略) 三条通を東に向かい、粟田口の青蓮院(京都市東山区)で昼食とした。(中略)未の半刻(午後三時)に大津駅に到着。このとき権中納言大原重徳(1801-79)という人物が馬を馳せ てきて、天皇が京都に還行することを建言する。大原重徳は尊攘派公家としてその 名を知られていた。馬を馳せてまで京都還幸を建言した理由は去る十六日夜、豊受大神宮 (外宮)の大祭をとりおこなっていた最中に皇大神宮(内宮)の大鳥居が転倒してお り、神職らが皇大神の警告とみなし急使を派遣して京都に報告したためであった。大原重徳はもとより東京を皇都とすることに反対の立場であったので、東京行幸を阻止するためにこの挙にでたのであった。しかし、岩倉具視は、この建議をしりぞけ、誓書を神明に奉るべきことを大原重徳に約束て、京都に帰らせて、ようやく事なきを得た。〉







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雪の降る中での行商 文政12年1月中旬・色川三中「家事志」

2024年01月22日 | 色川三中
文政12年1月中旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政12年1月11日(1829年)晴
〈行商中〉居合(鹿嶋市居合)泊。夜、少々雪降る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商八日目。汲上(鹿嶋市汲上)を出立し、居合(鹿嶋市居合)に泊まりです。北浦の東岸、海沿いの道を鹿島方向に向かって営業しています。なお、昨年の1月11日も居合に泊まっていました。

汲上 to 居合田園都市センター

汲上 to 居合田園都市センター



文政12年1月12日(1829年)
〈行商中〉居合を出立。鹿嶋泊、滞留なし。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商九日目。居合(鹿嶋市居合)⇒鹿嶋(鹿嶋市)。「滞留なし」とわざわざ書いているのは、いつもの行商では、鹿嶋に滞留(連泊)しているからです。今回は鹿嶋は一泊のみ。

文政12年1月13日(1829年)
〈行商中〉鹿嶋を出立。鉾田へ帰り泊まる。玄長老からの催促があった為。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商十日目。一度通り過ぎた鉾田に戻ってきました。鉾田に戻ってきてくれとのリクエストがあったようです。

文政12年1月14日(1829年)晴
〈行商中〉大雪で鉾田に滞留。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商十一日目。大雪。こうなっては動けませんので、鉾田にもう一泊するほかありません。

文政12年1月15日(1829年)晴 西風
〈行商中〉鉾田を出立。吉川(行方市吉川)の田中周安様に泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商十二日目。鉾田から吉川(行方市吉川)に来ました。「田中周安」は医師の名前でしょうか。

吉川 · 〒311-1711 茨城県行方市

〒311-1711 茨城県行方市

吉川 · 〒311-1711 茨城県行方市


文政12年1月16日(1829年)
〈行商中〉吉川(行方市吉川)を出立。牛堀(潮来市牛堀)に泊まる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商十三日目。本日は牛堀(潮来市牛堀)泊。前回7月の行商でも訪れています。営業によりこの地域にお得意様を増やしているようです。
牛堀は、葛飾北斎の富嶽三十六景で取り上げられています。富嶽三十六景の中では一番東。

文政12年1月17日(1829年)晴
〈行商中〉牛堀(潮来市牛堀)を出立し、本日は玉造(かすみがうら市玉造)に泊まる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商十四日目。玉造は霞ヶ浦に接しており、水運もある町。明治の町村制施行以来、玉造町でしたが、2005年9月2日、麻生町・北浦町と合併し行方市となりました。

文政12年1月18日(1829年)
〈行商終了〉玉造を出立。昼過ぎから雪。夜になって土浦に戻る。夜にまた雪。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商十五日目。本日にて行商終了です。またも雪。14日には大雪で鉾田に連泊せざるを得なくなっております。数日のうちに何回も雪になることは、最近の関東ではないので、随分と気候が違うものです。

文政12年1月19日(1829年)晴また曇
中惣(中村屋惣左衛門)に酒一升を贈る。行商中に、こんにゃくやの件で動いてもらい、世話になったので。
#色川三中 #家事志
(コメント)
中惣こと中村屋惣左衛門さんとは、家に泊まって酒を酌み交わすほどの仲です。三中が行商に出ている間に、動いてくれたので、そのお礼に酒一升を贈っています。

文政12年1月20日(1829年)
・左官利兵衛から金銭を借入れることにつき、昨日、入江(名主)と話す。本日、叔父の利兵衛殿に組合(五人組)に話しを通してもらった。
・本日、えびす講。
#色川三中 #家事志
(コメント)
夷(えびす)講は、えびすを祀る庶民信仰。10月20日と1月20日の年2回またはいずれかに年1回開催する地域が多いとされています。昨年10月20日にもえびす講についての記事がありましたので、土浦では年2回開催なのでしょう。







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追放刑をやめて徒刑にせよ 仮刑律的例21 徒刑

2024年01月18日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #21 徒刑
(要約)
【堺県からの伺い】明治元年十一月八日
従前の追放刑を徒刑(懲役刑)にするようにとのご布令は承知致しました。今後、人別に加わっていた者については徒刑に致します。ところで、無宿人についてはどのようにしたらよろしいでしょうか。追放刑でよいでしょうか。他所で出生して無宿となった者には焼印を押すことでよろしいでしょうか。
【返答】無宿人であっても徒刑にすべきである。なお、焼印はすべきではない。

(詳しい訳)
【堺県からの伺い】明治元年十一月八日(辰年)
御仕置の件につきまして、追放・所払いを徒刑(懲役刑)に換えるという御布令については承知致しました。
旧幕府法で人別に加わっていた者については、今後追放・所払いではなく、徒刑を申し付けますが、なお不明な点がありますので、お問合せさせていただきます。
無宿人が盗みをいたした場合、どのように処置したらよろしいでしょうか。これまでのように敲(たたき)の上で追放してもよろしいでしょうか。
管轄地で出生の者である場合は、徒罪を申し付けた上で、満期となった後、元在所に引渡して人別に加えさせるのがよいでしょうか。
他所出生で無宿となった者は、これまでどおり敲の上で追放してよいでしょうか。追放する際は、内股に「サ」の字の焼印を押しておりますが、それでよろしいでしょうか。
以上、ご相談致します。
【返答】管轄所で出生して無宿となった者、他所で出生し無宿となった者のいずれも徒罪とすべきであって、追放・所払いとすべきではない。この点については、そのうちに規定も整えるので、処置の仕方も分かるようになるであろう。
なお、焼印については見合わせるべきである。

【コメント】
・堺県からの伺いです。堺県は、慶応4年(=明治元年;1868年)〜明治14年(1881年)まで存続した県です。
・今回の伺いは、追放・所払いの刑はやめて、それを徒刑(懲役刑)にしなさいという明治政府の布令に関する伺いです。
・追放刑は、犯罪者を一定地域への立入を禁止するものです。立入禁止地域を「御構場所」といい、公事方御定書では、重追放、中追放、軽追放、江戸十里四方追放、江戸払、所払に区分されていました。
・明治政府の布令(明治元年十月晦日)は、追放について、概略次のように規定しています。
①刑律制定は重要であるが、新律制定の暇がないので、新律の布令までは幕府に委任していた刑律(公事方御定書)によるべきである
②もっとも追放・所払は徒刑に換えよ。
③徒刑は、その地域の特性にもよるであろうから、当面府藩県はそれぞれの考えによって徒刑の執行を行われたい。この点はいずれ新律制定により制度設計を明らかにする。
・それでは、明治政府の布令を無宿人にどのように適用したらよいのでしょうか。無宿人が盗みをした場合、これまでは敲(たたき)+追放という処置をしていました。追放刑⇒徒刑と単純に置き換えると、敲+徒刑となってしまいますが、これでは刑が却って重くならないだろうかというのが堺県の問題意識にあるようです。
・この点についての明治政府の返答は、「管轄所で出生して無宿となった者、他所で出生し無宿となった者のいずれも徒罪とすべきであって、追放・所払いとすべきではない。」
というものでした。どのような場合であっても追放刑を行わないということはこれで明らかになりました。
・堺県からの伺いには、身体刑も問題にされています。伺いでは、「追放する際は、内股に「サ」の字の焼印を押しております」とあり、これまでは焼印を押していたことが分かります。明治政府は「焼印については見合わせるべきである」とし、焼印の廃止を明らかにしました。



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新年となり恒例の行商に出発 文政12年1月上旬・色川三中「家事志」

2024年01月15日 | 色川三中
文政12年1月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政12年1月1日(朔)(1829年)晴 節分
初春、富士の山を臨みて。
「富士の嶺は 去年(こぞ)のままなる 白雪を 霞残して 春は来にけり」
#色川三中 #家事志
(コメント)
あけましておめでとうございます。三中も28歳(数え)になりました。この年末年始は体調を崩すこともなく平穏に過ごせたようです(一昨年は体調を崩していました)。富士山を見て、歌を詠む三中、土浦からも富士山見えるんですね。

文政12年1月2日(1829年)晴
下高津の甚左衛門という者が、「惣三郎さんから畑を借りて耕作してたんで、年貢を収めに来ました」といって、二年分の年貢を持ってきた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は薬種商が家業ですが、高持百姓でもあり、田畑は小作に貸しています。下高津(土浦市下高津)の畑を色川家→惣三郎と小作に出していたようですが、更に惣三郎→甚左衛門と貸していたようです。三中は、実際に誰が耕作しているかまでは把握していなかったのでしょう。いきなり年貢を持って来られてびっくりです。

文政12年1月3日(1829年)
(編集より)本日は三中先生、ご休筆です。
#色川三中 #家事志


文政12年1月4日(1829年)晴
〈行商出立〉朝、奇夢を見る。夢の内容は略す。与兵衛と共に、土浦より東方面の行商に出立。安食村の松倉屋に泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
新年の行商です。正月の挨拶回りを兼ねているのか、正月4日から行商を始めます(昨年は体調不良で1月5日出立でした)。同行者与兵衛、初日は安食村(茨城県かすみがうら市)泊も前年どおりです。

文政12年1月5日(1829年)晴 西風
〈行商中〉安食を出立。本日は高浜宿で泊まり。凶夢を見る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
今回の宿泊先は高浜宿(現石岡市高浜)。高浜「宿」と書いているので、宿に泊まったのでしょう。行商二日目が安食⇒高浜も昨年の行商と同じです。

安食の道祖神 to 高浜

安食の道祖神 to 高浜


文政12年1月6日(1829年)晴
〈行商中〉天気静か。高浜宿を出立し、本日は玉造泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商三日目。本日は高浜(石岡市高浜)を出発して、玉造(現かすみがうら市玉造)で泊(昨年年初の行商と同じ旅程)。霞ヶ浦東岸を行商しています。
高浜⇒玉造

高浜 to 行方市役所玉造庁舎

高浜 to 行方市役所玉造庁舎



文政12年1月7日(1829年)晴
〈行商中〉
本日は玉造(かすみがうら市玉造)に滞留。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商四日目。玉造宿に連泊。これもまた昨年の行商と同じです。同じパターンを繰り返しているということは、回る先が決まっていて、安定しているのでしょうね。


文政12年1月8日(1829年)西風
〈行商中〉
玉造を出立。青柳村を経て、鉾田宿に泊。
「里の名に のどけさしるき 青柳の 枝ういそえて 春は来にけり」
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商五日目。玉造(かすみがうら市玉造)から鉾田(鉾田市鉾田)へ。これまた昨年と同じ。青柳村(鉾田市青柳)を通ったことを記しており、青柳を織り込んで歌を詠んでいます。
玉造⇒鉾田

玉造 to 鉾田駅(バス)

玉造 to 鉾田駅(バス)



文政12年1月9日(1829年)
〈行商中〉本日は鉾田宿に滞留。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商六日目。鉾田宿に連泊。昨年の正月は鉾田宿は一泊でしたが、7月の行商から鉾田連泊となっています。鉾田周辺での顧客が増えたのでしょう。


文政12年1月10日(1829年)
〈行商中〉鉾田宿を出立し、汲上に泊まる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
行商七日目。鉾田宿を出立し、汲上で泊。汲上は鉾田から鹿島に行く途中にあります。鉾田や鹿島といったそれなりに大きな村だけでなく、その間も開拓をしているようです。
鉾田:鉾田市鉾田
汲上:鉾田市汲上
鉾田-汲上

鉾田 to 汲上

鉾田 to 汲上








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刑罰・拷問をしてはならない日はいつですか 仮刑律的例 20刑罰拷問可除定日

2024年01月11日 | 仮刑律的例
刑罰・拷問をしてはならない日はいつですか 仮刑律的例 #20刑罰拷問可除定日

【倉敷県からの伺い】明治元年十月(辰年)
断獄(刑事裁判)を避けなければならない日は、いつになりましょうか。この点をお伺いしたく申し上げます。
【返答】
今上御誕辰(明治天皇誕生日) 9月22日
神武天皇御忌 3月11日
仁孝天皇御忌 2月6日
孝明天皇御忌 12月25日
以上の日は刑罰・拷問をしてはならない。

(コメント)
・倉敷県は倉敷(現岡山県倉敷市)を中心とする県。1868年(慶応4年)-1871年(明治4年)。
・倉敷県は、断獄(刑事裁判)をしてはならない日について伺いをしているのですが、明治政府は「刑罰・拷問をしてはならない日」を回答しており、伺いと回答がズレています。政府は、刑事裁判を避ける日は考えていないのかもしれません。
・明治政府の回答は、現在の天皇の誕生日及び三名の天皇の御忌(忌日=命日)です。御忌については、神武天皇のほかは、明治天皇の先々代及び先代になります。仁孝天皇(明治天皇の祖父)、孝明天皇(明治天皇の父)。
・この回答がなされた明治元年は、いまだ太陽暦ではありませんので、いずれも太陰暦の月日です。
・神武天皇御忌を返答では3月11日としており、『日本書紀』を典拠としています。現在では神武天皇祭は4月3日とされていますが、これは神武天皇崩御は同天皇76年=紀元前586年とし、これをグレゴリオ暦に換算したからです。
・仁孝天皇御忌は2月6日とされていますが、
同天皇が崩御したのは、弘化3年1月26日です。2月6日は発喪日です。
・孝明天皇の崩御は12月25日であり、孝明天皇御忌と同じ日です。
・返答では、刑罰だけでなく、「拷問をしてはならない」とされており、拷問を行うことが当然の前提とされています。 刑罰と拷問が何の留保もなく、並列されており、この時代の刑罰・拷問についての考え方も表れています。
・現代では、土日祝、年末年始(12月29日〜1月3日)は死刑を執行しません(刑事収容施設法178条2項)。




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窃盗と殺人を犯した者には梟首 仮刑律的例 の19 梟首

2024年01月08日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #19 梟首
(要約)
【久美浜県からの伺い】明治元年十月
卯吉は、他の者と共に、昨年3月、播州のある村の農家から麦三斗、米五升を盗み、所払いの刑を受けました。
その後、①他の者と共に、同年10月21日夜、播州小佐村の家から金子・銀札を盗み、②10月22日に但州石原村の番人重太郎に見咎められ、他の者2名と連行されたのですが、途中の山中で、その者らと共に重太郎を絞殺しました。
この者の刑について伺います。
【返答】梟首

(詳しい訳)
【久美浜県からの伺い】明治元年十月(辰年)
野非人の卯吉が盗みと殺しをした件について、吟味しました結果は以下のとおりです。
「私は、備後福山辺りで出生した野非人です。幼いときに両親を亡くし、「こと」という姉に連れられて諸国を袖乞いして歩きましたが、そのうち姉とも別れてしまいました。」
〈前歴〉
「去年(卯年)3月、無宿四方吉らと龍野領播州のある村(村の名は忘れました)の百姓の家から麦三斗、米五升を盗みました。その月のうちに召し捕られ、吟味を受けて、所払いの刑となりました。」
〈犯行に至る経緯〉
「この年8月に播州宍栗郡で無宿人仙太郎と出会い、一緒に但州に行きました。そこで、無宿人の伊之助や元吉と出会いました。10月になって仙之助とは別れてしまいました。」
〈本件犯行〉
「①同年10月21日夜、伊之助や元吉と、但州小佐村の文三郎の家の入口の戸を開け、金子・銀札類を一同で盗みました。合計いくらを盗んだのかはわからないのですが、私の分け前は金3歩と銀札20匁でした。伊之助か、博奕をしたときの借金があったので、分け前は全て伊之助に払ってしまいました。
②10月21日暮れ六つころ、但州石原村地内辻堂で、同村の番非人の重太郎から見咎められ、引き立てられる途中の山中で、伊之助や元吉と一緒に重太郎を襲いました。重太郎も十手で立ち向かってきたのですが、こちらは三人なので重太郎を取り押さえ、持っていた縄で重太郎の首を縛って絞殺したのです。」
〈犯行後の経緯〉
その後は、皆ばらばらに逃げましたので、伊之助や元吉がどこへ逃げたのかはわかりません。私は宍栗郡辺りをうろうろしているところを召し捕らえられました。
仙太郎につきましては、途中で別れましたので、本件には関わっておりません。
以上のとおり間違いございません。」
【返答】梟首

【コメント】
・久美浜県からの伺いです。
久美浜県は、慶応4年(=明治元年)閏4月〜明治4年11月まで存続した県。県庁は旧久美浜代官所(現京都府京丹後市)に置かれました。
・本件の犯人は卯吉。備後福山(現広島県福山市)の出身。両親を早くに亡くし、姉と流浪生活。姉とも別れてしまい、無宿人らと付き合うようになってから犯罪に手を染めてしまいます。
・最初の犯行は、無宿人の四方吉らと共謀した窃盗事件。播州のある村の農家から麦三斗、米五升を盗んでいます。これにより所払いの刑を受けています。追放刑ですね。追放刑は厄介者を他の場所に行かせるだけなので、犯罪者の更生には役立ちません。近代刑法では追放刑はなくなりました。
・卯吉の本件犯行は、①住居侵入・窃盗、②殺人です。犯行場所は、①が但馬国小佐村、②が同国石原村です。
・①の犯行場所である但馬国小佐村は、現在の兵庫県養父市八鹿町小佐。八鹿は「ようか」と読みます。

八鹿町小佐 · 〒667-0053 兵庫県養父市

〒667-0053 兵庫県養父市

八鹿町小佐 · 〒667-0053 兵庫県養父市


・②の犯行場所である但馬国石原村は、小佐村の隣の村です。現在の養父市八鹿町石原。小佐村から石原村に向かったということは、街道を通るルートは避けて、山中のルートで逃走しようとしたのでしょう。それを、同村の番非人の重太郎から見咎められてしまいました。

八鹿町小佐 to 八鹿町石原

八鹿町小佐 to 八鹿町石原


・被害者は非人番(ひにんばん)の重太郎。非人番とは、江戸時代に農村の治安維持の任務を与えられていた生業です。人を指すときは本史料にあるように「番非人」と呼んでいたのでしょう。
・重太郎は石原村地内辻堂で番をしており、見咎めた三名(加害者)を引っ立てようとするときに、加害者の反抗にあってしまいました。重太郎は十手を持って抵抗したのですが、絞殺されてしまいました。
・加害者は別れて逃走。卯吉は宍栗郡にまで逃走していました。宍栗郡は、概ね現在の兵庫県宍粟市。当時は久美浜県に所属していました。
・それにしても、本件についての明治政府の返答は素っ気無いことこの上ないです。一言「梟首」、これだけです。
・梟首というのは、梟して衆に示すことで、つまりは晒し首。梟首はこの時代〈極刑〉に分類されていました。死刑と極刑は異なるものであり、死刑よりも重いのが、極刑。
・返答に一言だけ「梟首」とあり、極刑を言い渡すのに、理由もなく、躊躇もないように見えてしまうのが、かなり怖いように感じてしまうのは私だけでしょうか。




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裁判所構成法を読む 裁判所書記、執達吏、廷丁 第2編第4章-第6章

2024年01月06日 | 治罪法・裁判所構成法
公布:明治23年2月10日
施行:明治23年11月1日(上諭)

裁判所構成法を読む 裁判所書記、執達吏、廷丁 第2編第4章-第6章

第2編 裁判所及ビ檢事局ノ官吏
第4章 裁判所書記
#裁判所構成法
第85条 裁判所ニ第八條ニ從ヒ相應ナル員數ノ書記ヲ置ク。
2 區裁判所ノ各判事及ビ合議裁判所ノ各部ノ爲、少クトモ一人ノ書記ヲ置ク。
(コメント)
裁判所構成法8条は、「各裁判所ニ書記課ヲ設ク」と規定しており、書記課には「書記」が置かれる。現行法(裁判所法)では「裁判所書記官」という呼称であり、異なった呼称である。

#裁判所構成法
第86条 地方裁判所ノ書記課ニ、監督書記ヲ置ク。控訴院及ビ大審院ノ書記課ニ、書記長ヲ置ク。
2 區裁判所及ビ檢事局ノ書記課ニ、二人以上ノ書記ヲ置キタルトキハ、其ノ一人ヲ監督書記トス。
3 監督書記及ビ書記長ハ、各々其ノ上官ノ命令ニ服從シテ、書記課ノ事務ヲ指揮監督ス。
(コメント)
地裁の書記課は「監督書記」と呼ばれ、控訴院・大審院の書記課では「書記長」と呼ばれる(1項)。上官の命令に服従して、書記課の事務を指揮監督するのが、その職務である(3項)。

#裁判所構成法
第87条 書記、其ノ職務ノ範圍内ニ於テ、取扱ヒタル事ハ、既ニ定マリタル事務分配上、其ノ事他ノ書記ニ屬シタリトノ事實ノミニ因リ、其ノ効力ヲ失フコトナシ。
(コメント)
書記が取り扱ったことは、事務分配で他の書記に属するとなっていたとしても、そのことで効力を失わないとの規定。

#裁判所構成法
第88条 書記ハ、司法大臣之ヲ任ジ及ビ之ヲ補ス。
2 書記長ハ奏任トス。
3 書記長ノ職ハ、司法大臣之ヲ補ス。
(コメント)
書記及び書記長の任命権限者及び補職者についての規定。書記長は奏任。判事・検事が勅任又は奏任であるから、一段階差をつけている。「奏任官」とは、天皇への上奏を経て任ずる官職をいい、高等官三等から九等に相当する。

#裁判所構成法
第89条 書記ニ任ゼラルルニハ、勅令ノ定ムル所ニ依リ、試驗ヲ經ルコトヲ要ス。
2 志願者、前項ノ試驗ヲ受ケ得ルニ必要ナル資格、竝ビニ此ノ試驗、及ビ試驗ヲ經タル後爲スべキ修習ニ關ル細則ハ、裁判所書記登用試驗規則中ニ司法大臣之ヲ定ム。
(コメント)
書記も試験にパスする必要がある(1項)。試験を経た後には「修習」が行われるが、修習の内容等は裁判所書記登用試驗規則において定められる(2項)。

#裁判所構成法
第90条 書記ニ任ゼラレタル者、闕位ナキ間ハ豫備書記ニ補ス。
2 豫備書記ハ、書記トシテ臨時勤務ヲ命ゼラルルコトヲ得。
(コメント)
予備書記に関する規定。予備判検事については63条が規定しており、同趣旨。書記に任命されることと、職に補されることが区別されていたので、このギャップを埋めるために「予備」の概念が必要になっていると思われる。

#裁判所構成法
第91条 書記ハ、其ノ上官ノ命令ニ從フ。
2 裁判所ノ開廷ニ於テハ、裁判長ノ命令ニ從ヒ、又判事一人ナルトキハ其ノ判事ノ命令ニ從フ。
3 書記ハ、檢事局ニ勤務スルトキ又ハ特別ノ事務ニ付キ、判事若ハ檢事ニ附屬シタルトキモ、亦其ノ檢事局又ハ判事若ハ檢事ノ命令ニ從フ。
4 前二項ノ命令ニシテ口述ノ書取ニ關ルカ、又ハ書類記録ノ調製若ハ變更ニ關ル場合ニ於テ、其ノ調製若ハ變更ヲ正當ナラズト認ムルトキ、書記ハ自己ノ意見ヲ記シテ之ニ添フルコトヲ得。
5 前四項ニ掲ゲタルモノヲ除ク外、書記ノ職務及ビ其ノ事務取扱方法ハ、書記ニ關ル規則中ニ司法大臣之ヲ定ム。
(コメント)
書記は上官の命令に従わなければならない。判事にはこの旨の規定がないが、検事には判事には同様の規定がある。

#裁判所構成法
第92条 合議裁判所長、又ハ區裁判所ノ判事、若ハ監督判事ハ、其ノ裁判所ニ於テ修習中ノ試補ニ、書記ノ事務ヲ臨時取扱ハシムルコトヲ得。
2 前項ノ場合ニ於テ、職務上署名ヲ要スルトキハ、特別ノ許可ヲ得テ署名スル旨ヲ記ス。
(コメント)
「試補」は第一回試験に合格し、裁判所及ビ検事局で三年間修習を行っている者(58条2項)。この試補に書記の事務を臨時で取り扱わせることができるとする規定。

#裁判所構成法
第93条 豫備書記ハ、事務ノ取扱ニ於テハ書記ニ同ジ。但シ、書記規則中ニ制限ヲ設ケタルモノハ、此ノ限ニ在ラズ。
(コメント)
本条は、予備書記であっても事務の取り扱いは、通常の書記と同様であると規定する。予備書記に関する規定は90条にあり、書記に任命されたが、欠位がない場合に予備書記に補職される。

第5章 執達吏
#裁判所構成法
第94条 各區裁判所ニ、第九條ニ從ヒ、相應ナル員數ノ執達吏ヲ置ク。
(コメント)
執達吏に関する規定。執達吏は区裁判所に置かれることは9条で規定されている。執達吏の職務についても同条が規定している。

#裁判所構成法
第95条 執達吏ハ、司法大臣之ヲ任ジ及ビ之ヲ補ス。
2 司法大臣ハ、控訴院長ニ其ノ管轄區域内ノ裁判所ノ執達吏ヲ任ジ及ビ補スルノ權ヲ委任スルコトヲ得。
3 執達吏ニ任ゼラルルニ必要ナル資格、竝ビニ試驗ニ關ル規則ハ、司法大臣之ヲ定ム。
(コメント)
執達吏を任命し、補職するのは司法大臣であり、その権限を控訴院長に委任することができる。執達吏に任命される為に必要な資格及試験関係の規則として、「執達吏登用規則」(明治23年司法省令第2号)が制定された。

#裁判所構成法
第96条 執達吏ハ手數料ヲ受ク。其ノ手數料一定ノ額ニ達セザルトキ、補助金ヲ受ク。
(コメント)
執達吏の収入は給与ではなく、手数料及び補助金による。手数料の詳細は、「執達吏手数料規則」(明治23年法律第52号)が規定している。

#裁判所構成法
第97条 執達吏ハ、其ノ所屬區裁判所ヲ管轄スル地方裁判所管轄區域内ノ、何レノ場所ニ於テモ其ノ職務ヲ行フ。
(コメント)
執達吏は区裁判所に所属しているが、その区裁判所を管轄する地方裁判所の管轄区域では職務を行うことができる。

#裁判所構成法
第98条 裁判所ヨリ發スル文書ニシテ、送達ヲ要スルモノハ、執達吏ヲ以テ之ヲ送達ス。但シ、書記ヨリ直接ニ若ハ郵便ヲ以テ送達スルコトヲ法律ノ許ス場合ハ、此ノ限ニ在ラス
2 執達吏ハ刑事ニ付、警察官ヲ以テ執行ヲ爲サザル場合ニ限リ、裁判所ノ裁判ヲ執行ス。
3 前二項ニ掲ゲタルモノヲ除ク外、執達吏ノ權限ハ、訴訟法又ハ特別法ノ定ムル所ニ依ル。
(コメント)
送達は原則として執達吏が行う。また、執達吏は刑事事件で、警察官が執行するものを除いて、裁判の執行をする。

#裁判所構成法
第99条 執達吏ハ其ノ職務ヲ適實ニ行フ爲、保證金ヲ出スコトヲ要ス。
2 執達吏ノ職務細則竝ビニ保證金ニ關ル規則ハ、司法大臣之ヲ定ム。
(コメント)
執達吏の収入は給与ではなく、手数料及び補助金によるので(96条)、職務の適正さを確保するために、保証金を納付するという制度が採用されたのであろう。

#裁判所構成法
第100条 執達吏ハ、其ノ所屬裁判所ノ上官ノ命ヲ受ケタル書記、及ビ其ノ裁判所ヲ管轄スル地方裁判所ノ上官ノ命ヲ受ケタル書記、及ビ其ノ書記ノ上官ノ命令ニ從フ。
(コメント)
書記は上官の命令に従わなければならないが(91条)、執達吏には上官がいない。そこで本条により、誰の命令に従わなければならないかが規定された。
以上で執達吏の章を終える。
執達吏研究の参考文献
川口由彦『帝都の法社会史 明治日本の執達吏・観解吏・代言人群像』

第6章 廷丁
#裁判所構成法
第101条 廷丁ハ、大審院・控訴院及ビ地方裁判所ニ於テハ裁判所長、區裁判所ニ於テハ地方裁判所長之ヲ雇ヒ、及ビ其ノ雇ヲ解ク。
(コメント)
廷丁(ていてい)は、廷吏の旧称。法廷での事務その他の雑務に従事する裁判所職員。裁判所長が雇用するという位置づけである。

#裁判所構成法
第102条 廷丁ハ開廷ニ出頭セシメ、及ビ司法大臣ノ發シタル一般ノ規則中ニ定メタル事務ヲ取扱ハシム。
2 區裁判所ハ、執達吏ヲ用ヰルコト能ハザルトキハ、其ノ裁判所所在地ニ於テ、書類ヲ送達スル爲、廷丁ヲ用ヰルコトヲ得。
(コメント)
廷丁の職務。送達は執達吏送達が原則ですが、例外的に廷丁による送達も認められている。

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年末の帰村は大雪でタイヘン 嘉永6年12月下旬・大原幽学刑事裁判

2024年01月04日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年12月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年12月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幸左衛門殿、源兵衛殿、良祐殿は御地頭へ帰村の届けをしに行った。小生は、平右衛門殿と蓮屋(公事宿)へ御礼及び暇乞いの挨拶。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
裁判関係者の帰村手続きは、①奉行所での帰村許可、②村の領主・地頭への届けの二段階が必要です。五郎兵衛以外は本日②の手続き。五郎兵衛は昨日②を済ませてしまいましたので、今日は公事宿への挨拶です。

嘉永6年12月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に幸左衛門殿と二人で高松様方へ挨拶に行く。力蔵様はお留守。正午過ぎ戻る。
髪結いしてから、勘定調べ。深夜までかかる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
帰村間近なため、五郎兵衛らは高松家へ挨拶。午後からは勘定調べ(経費の帳面作成)。五郎兵衛はこういうのは苦手なのでしょう。深夜までかかってしまっています。

嘉永6年12月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝より掃除。幽学先生と伊兵衛父は村に戻らず、借家に残ることに。小生らは帰村のため昼前に出立(幸左衛門殿、源兵衛殿、良祐殿、平右衛門殿同道)。扇橋から船で行徳へ。「しがらき」で泊まる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学は江戸に居残り。奉行所からは「村の預り」とされているので、ホントはダメなはずですが。五郎兵衛らは江戸を出立。扇橋⇒行徳ルートで、行徳の「しがらき」泊。
昨年末の帰村時も同じ宿でした(嘉永5年12月14日条)。



嘉永6年12月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝起きると大雪。行徳を昼前に出立したが、嵐になり、誠に難渋。やむなく八幡の中村屋で火を焚きしばらく暖まり、昼飯。白井には夕方に着き、藤屋泊。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
朝起きると大雪!昼に八幡までしか辿りつけず、暖をとらないといけないほどの寒さ。白井で宿泊せざるを得ませんでした(昨年は昼までに白井宿についてました)。


白井宿の藤屋には本年10月3日にも泊まっています。渡辺崋山も同宿に宿泊したことあり。


嘉永6年12月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼前に白井を立つ。大森まで駄賃を頼み、正午着。小生は大森の御役所で手続きし、他の者は木下まで先に行ってもらった。御役所にご返翰を出したが、いつまで経っても御沙汰なし。
やむなく宿まで戻り、木下まで飛脚で書面を遣わして、幸左衛門らには先に帰ってもらうことにした。夕方に大森の御役所の用向きがようやく終わる。一人で帰り、五つ半(午後9時)に帰宅。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日が大雪だったので、道には残雪があったことでしょう。淀藩の役所がある大森宿までは駄賃を払って馬を頼んだのでしょう。五郎兵衛が役所での手続きを引き受けたものの、役所の手続きが遅く、一人で夜道を帰らなければならなくなりました。今回はついてない五郎兵衛です。


五郎兵衛は嘉永6年12月26日(1853年)〜嘉永7年1月27日まで日記を付けていません(帰村しているときは日記をつけていないため)。
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 は1月28日から再開となります。









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年末の穏やかな日々。しかし、最後の記事凶悪犯罪。これも世相でしょうか。 文政11年12月下旬・色川三中「家事志」

2024年01月01日 | 色川三中
文政11年12月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年12月21日(1828年)
今月11日からこの方、毎朝血痰がでている。今朝は特に多い。どうも良くないので、参連湯を服す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は結構病気がちで、この年の8月にはぎゃく【瘧】(寒さやふるえや高熱が一定の時間をおいて繰りかえされる病気)にかかっていました。今月には血痰が出ていたようです。薬種商なので、自己診断し漢方薬を服用しています。

文政11年12月22日(1828年)
このところ、左官利兵衛の件や「すや」の
件でトラブったので、随分いろんな人に相談し、動いてもらった(細かいことは略す)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
日記にはどのようなトラブルがあったか書かれていないのですが、このところ細かいトラブルがあったようです。左官利兵衛については12月17日条で言及されています。「すや」は女性の名前ではなく、「すや藤兵衛」という人のこと。


文政11年12月23日(1828年)晴
今月は2日に雨が降ったが、それ以降は雨降らず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
現代でも天気は気にかかるもの。江戸時代は天気予報もありませんから、今後の見通しが立ちにくく、いつもとは違うといろいろと気になるのでしょう。


文政11年12月24日(1828年)晴
今年の御年貢は201俵余りであった。小作との取り分も決めた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は高持百姓なので、年貢を納める義務があります。その上で、小作人と分配することとなります。残りが高持百姓の取り分。こう書くと、高持百姓は働きもせずに小作人の耕作したものを取れるように見えますが、他の商売をやっていればそちらのリスクもあるわけでして、そう簡単なものではないようです。


文政11年12月25日(1828年)
夜、与兵衛と佐助が鹿嶋の出張から戻ってきた。鹿嶋郡では23日に雷が鳴り、雹が降ったという。
#色川三中 #家事志
(コメント)
一昨日の日記では、「今月は2日に雨が降ったが、それ以降は雨降らず」と書いていましたが、鹿嶋では冬なのに雹が降ったとのこと。鹿嶋に出張に出かけていた与兵衛らは大変だったことでしょう。

文政11年12月26日(1828年)
中高津の栄吉に田地の世話を頼んだので、歳暮として数の子を贈った。
#色川三中 #家事志
(コメント)
中高津の栄吉には、今月から中高津の田畑山林の世話をお願いしています(12月10日条)。お歳暮は数の子。三中の日記にも年末感が濃くなってきましたね。



文政11年12月27日(1828年)曇
本日、餅つき。
#色川三中 #家事志
(コメント)
年末の恒例行事、餅つきです。昨年も27日に行っていますので、この日に餅つきをすることが恒例なのでしょう。


文政11年12月28日(1828年)
前代未聞の犯罪起こる。26日未明、府中(現石岡市)の陣屋に盗賊が押し入り、四人家族のうち二人を殺害、一人を半死半生の目に合わせ、金を奪った。一人(同家の嫁)だけ隠れていたため無傷。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三人を殺傷する強盗殺人事件発生。土浦ではなく、府中(現石岡市)で発生したものですが、「前代未聞のこと」と書いているほどの凶悪犯罪。三中も震えあがったことでしょう。


文政11年12月29日(1828年)
26日の夜、潮来の梅田元重医師のところに、二人の者が来て、「病気で伏せっている者がいるので、治療をお願いしたい」といい、乗ってきた船に医師を乗せた。川の中まで来たところてわ、医師の衣類を剥ぎ取り、金まで奪った。元重医師は裸で川岸に捨てられ、凍え震えて近村に助けを求めたという。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日は府中(現石岡市)の強盗殺人事件でしたが、今日は潮来(現潮来市)での強盗事件。医師の職責につけ込んで、衣類を剥ぎ取り、金まで奪うとはこれまた悪質。悪質な犯罪者が跋扈する世の中になっているようです。
潮来。
川瀬巴水による版画は美しいですね。

川瀬巴水 HKS15潮来の夕 ありがとうございました。 | 銀座の浮世絵、版画専門店「渡邊木版美術画舗」



文政11年に12月30日、31日はありません。
#色川三中 #家事志 は年始までお休みです。



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