南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

BC級戦犯横浜裁判で、千葉県内が現場となった事件

2022年04月25日 | 横浜BC級戦犯裁判
BC級戦犯横浜裁判で、千葉県内が現場となった事件は大別すると以下の3件です(事件番号は法務省がふったもので、国立公文書館でもこの番号で管理されています)。
1 長生郡日吉村事件(茂原事件とも呼ばれている事件ですが、茂原は現場ではなく不正確)(日吉村は現在長生郡長柄町)
①23号事件(武士道事件)⇒過去記事
②112号事件
③210号事件

2 佐原町事件
①260号事件
②275号事件
(佐原町は現在香取市)

3 西畑村事件(245号事件)
(西畑村は現在夷隅郡大多喜町)

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩川隆「神を信ぜず」と井上忠男

2022年01月27日 | 横浜BC級戦犯裁判
(岩川隆)
「神を信ぜずーBC級戦犯の墓碑銘」という本があります。
 著者は、ノンフィクション作家の岩川隆。
私が手にしたのは、中公文庫版(1978年)です。もともとは、1975年に週間文春誌上に連載されたものです。立風書房から1976年に出版されたのですが、その後中公文庫からの発刊となっています。
 岩川さんは、BC級戦犯について熱心に取り組んでおられて、この著作を筆頭に、
「多くを語らず 生きている戦犯」
「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」
を著しています。

(武士道裁判)
「神を信ぜず」では、BC級戦犯横浜裁判に取材し、3件の事件を取り上げておりますが、トップに取り上げられているのが、武士道裁判と呼ばれている事件です。
岩川さんは、BC級戦犯に興味を持ったきっかけについて書いています。
「最初は古来の武士道がはじめて西欧の論理によって裁かれたいわゆる『武士道裁判』に興味をもったのがきっかけだった」(同書あとがき)
 最初のきっかけだけあり、「神を信ぜず」では、武士道裁判だけで100頁もほボリュームがあります。

(資料の収集)
 岩川さんがBC級戦犯について書こうとしたときに、まず驚いたのが、資料の少なさでした。
「まず驚いたのはBC級戦犯裁判に関する正確な記録がほとんど残されていないことである」(同書あとがき)
 岩川さんが資料収集の取っ掛かりとしたのは研究者でしたが、情報はジャーナリストらしく足で稼がれたようです。
「私はこの分野の数少ない研究者である井上忠男氏や筑波常治氏などのご指導を得て資料を蒐めるいっぽう、体験者たちをまず足で訪ね歩くことからはじめた」
 ここで名前のあがっている井上忠男さんという方は、元軍人(陸軍中佐)で、戦後は法務省参与として、戦犯裁判の資料の収集にあたっていた方です。
 武士道裁判の資料を見るために、国立公文書館に行って、所蔵資料を読んだのですが、その中に井上さんが、戦犯裁判の被告人だった方に聴き取りをされた記録が入っていました。
 聴き取り調査は、A級戦犯についても行われており、法務省の事業だったようです
「聞き取り調査は法務省の事業として戦犯裁判資料の収集作業を続けてきた豊田隈雄元海軍大佐、井上忠男元陸軍中佐らが行った。木戸幸一元内大臣、畑俊六元陸軍大臣ら生存していたA級戦犯12人全員から話を聞いたという。」(2010年8月18日日経新聞)

武士道裁判の概要については、以前書いたものもありますので(過去記事)、ご興味のある方はご参照ください。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立公文書館でBC級戦犯横浜裁判の資料を閲覧してみました

2022年01月11日 | 横浜BC級戦犯裁判

(国立公文書館を利用してみました)
 昨年(2021年)は、国立公文書館でBC級戦犯裁判の行政文書を読むことをはじめました。
 国立公文書館というところには足を踏み入れたことがなかったので、入館までに勇気が入りましたが、利用してみると、図書館みたいなものです。セキュリティが普通の図書館よりは厳しいですが、本人確認をするだけなので、運転免許証があれば問題なく入れます。閲覧するだけなら、利用料もいりません。
 図書館と違うのは開架資料がないことです。資料が陳列されていないので、開架資料を見て、それを手に取るということができません。
 目的の資料を請求して初めて資料に接することができます。
 ここが普通の図書館と違って、ハードルが高いところです。

(国立公文書館の戦争犯罪裁判資料)
 国立公文書館には、平成11年度に法務省から戦争犯罪裁判に関係する次のような資料が移管されています。
(1) A級極東国際軍事裁判記録・A級極東国際軍事裁判速記録
(2) A級の記録関係,日誌,新聞切り抜き資料等,極東国際軍事裁判資料目録,豊田・田村裁判記録
(3) A級極東国際軍事裁判弁護関係資料,A級弁護研究資料,ニュ-ルンベルク裁判(独・ナチス)関係
(4) BC級マニラ裁判記録,調査表,BC級事件ファイル
(5) 厚生省移管資料(A級裁判,BC級裁判,復員援護関係等資料)
(6) 司法法制調査部研究・調査資料,各裁判国別参考資料,戦争受刑者世話会関係資料等 
 「BC級事件ファイル」と一言で言われていますが、横浜裁判では起訴された事件は327件で、被起訴人員は1037人とされており、全てではないにしても相当数の事件ファイルがありますから、それだけでも膨大な数です。
 国立公文書館のホームページによると、次のとおりです。
アメリカ裁判関係 514冊
イギリス裁判関係 269冊
オーストラリア裁判関係 228冊
オランダ裁判関係 442冊
フィリピン裁判関係 83冊
フランス裁判関係 40冊 
中華民国裁判関係 361冊
 横浜裁判は、上記の「アメリカ裁判関係」に位置づけられます。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦後ハイパーインフレとBC級戦犯の弁護費用

2021年11月18日 | 横浜BC級戦犯裁判
(ある弁護士の回想)
 BC級戦犯の弁護にあたる日本人弁護士への報酬について、ある弁護士は次のように回想していました。
ア 日額150円であったが、当時でも安いといえた。
イ 昭和20年ころといえば、経済違反の事件が多数あり、その弁護は何千円、何万円になって、それ専門で一財産作った人もいる。
ウ BC級戦犯裁判は日額150円で徹夜続きだ。間尺にあわない。
エ 担当する弁護士は、ほとんどが義務として一つの事件をやって、それが終わるともう来ないという人ばかりでした。
 さて、以上の回想のうち、日額150円というのが本当であったのかどうかについて考えてみました。

(弁護費用は日額150円であったのか)
 政府の正式報告書によれば「弁護人の手当は、最初一日150円(予審から結審の日まで)であったが、物価の変動につれ昭和22年8月、日額500円に増額、さらに23年8月、日額700円に改められた」とあります(参考文献1)。日額150円であったのは、昭和22年8月までであり、それ以降は増額されています。ある弁護士は増額されたことについては発言していないので、この点で正確性を欠いています。
 ところで、政府の公式報告では、増額された理由は「物価の変動につれ」と素っ気なく記載されているだけです。しかし、値上げするかどうかについては、弁護士会と米軍との間でシビアな交渉があったようです。NHK記者(清永聡)はこの点を明らかにしています(参考文献2)。
 昭和22年7月21日(このときはまだ日額150円)、横浜弁護士会が米軍に対して増額要求した史料が残っており、そこでは次のような弁護士会の要求が書かれています。
・昭和21年12月の日額150円という決定は、最近の我が国の経済状況から見て、甚だしく不当なものになりました。
・横浜商工会議所の資料によれば、物価指数は、昨年12月に比べて約2.6倍になっています。
・そうすると、弁護費用は日額390円になりますが、この7月には交通費・通信費が引き上げられて3倍になっており、その他諸物価も上がっています。そこで、日額500円にすることを希望致します。
 この点について米軍は、最終的には日額500円案を受け入れたようです。
それにしても、物価がほんの7ヶ月で2.6倍になるというのは、すごいインフレです。
 今の日本はデフレなので、インフレを思い出すことすら難しいですから。
 ハイパーインフレを裏付けるエピソードは、昭和23年8月の弁護士会の陳情によってもでてきます。
 此の時には、日額1000円を求めているのですが、その理由の一つとして、「配給主食のみについて見るに、五人家族で昨年8月、月額480円であったのが、現在では935円となっております。米価についてみても、昨年8月現在10キロ99円であったのが、現在では266円となっております。」といずれも2倍の物価になっていることを挙げています。
  
(当時の修習生の給与)
 司法修習生というのは、司法試験に合格して、まだ法曹資格、即ち裁判官、検察官、弁護士になる資格がない者が、裁判所のもとにおいて司法の「修習」、つまり勉強をする期間の身分です。
 司法修習生には昭和22年から給与が支払われており、月額200円~300円であったとする回想があります(参考文献3)。米価(10キロ)が昭和23年8月時点で266円であったということですから、これと変わらないことになりますから、信用できるかどうか自信がありません。

参考文献1 「戦争裁判と諸対策並びに海外における戦犯受刑者の引揚」(厚生省引揚援護局法務調査室編集、昭和29年)
参考文献2 「戦犯を救え」(清永聡著、2015年、新潮新書)
参考文献3 「千葉県弁護士会史」(千葉県弁護士会編、1995年)




  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武士道裁判-横浜BC級戦犯23号事件  (千葉県で起きた事件)

2021年11月15日 | 横浜BC級戦犯裁判
(事件の概要)
 1945年5月25日夜、米軍B29機が千葉県長生郡日吉村(現・長柄町)に撃墜された。日吉村の長栄寺に駐屯していた東部第426部隊第1大隊第1挺身中隊が処理にあたった。中隊長はM中尉(当時)(以下、「M中隊長」)であった。B29の搭乗員11人であり、4人は墜落現場で死亡が確認された。翌26日、残りの7人のうち、5人は捕虜として茂原憲兵隊員によって連行されたが、残り2人は瀕死の重傷を負っていたこともあり、第1挺身中隊に預けられた。
 2人の米兵のうち、1人は間もなく死亡した。もう1人のダーウィン・T・エムリー少尉(以下、「エムリー少尉」)も重傷であったところ、M中隊長は、同人の命が助かる見込みはないとして、S曹長に命じて斬首させた。その後、K見習士官の指示によって、エムリー少尉の死体は初年兵の刺突演習の材料とされた。
 エムリー少尉の斬首につき、M中隊長は、武士道に基づく介錯であったと主張したことから、本件は武士道裁判ともいわれている。

<事件の概要についてのコメント>
 概ね争いのない事実をもとに事件の概要を書きました。
 本件事件は「茂原事件」とも呼ばれていますが、被告人となった者や被害者エムリー少尉も茂原には赴いていません。事件は、日吉村内で起きていますので、日吉村事件と呼ばれるべきでしょう。POW研究会も「千葉県日吉村事件」としていますし、長柄町史でも茂原事件とするのは正確ではないとしています。
 ところで、長柄町史では、本件について5月24日にB29が墜落、翌25日に本件事件が起きたとしています。しかし、他の参考文献はいずれも5月25日墜落、26日本件事件発生としていますので、この点長柄町史は間違っています。

(M中隊長の起訴内容)
 M中隊長は、以下の罪状項目で1946年3月に起訴されました。
1 昭和20年5月26日前後、被告人Mは己が指揮下の兵たるSに対し、B29の爆撃手エムリー少尉と認定せられたる負傷せる一米軍俘虜を殺害するを命じたり。ここにおいてSは、前記不法なる命令に随い、残忍かつ非道にも刀を以て該米軍俘虜の脊柱を頚部にて切断し、殺害せり。
2 昭和20年5月26日前後、被告人Mは、己が部下の部隊により抑留中なりしB29の爆撃手エムリー少尉と認定せられたる負傷せる一米軍俘虜に対し、適当かつ十分なる医療を施すを怠りしにより、前記挺身中隊隊長として己が職責を不法にも無視しかつ怠った
3 昭和20年5月26日前後、被告人Mは、己が部下の部隊により抑留中なりしB29の爆撃手エムリー少尉と認定せられたる一米軍俘虜の死体をあるいは部下の銃剣にて刺突し、あるいはこれを切断するを許容せることにより部下を取締り抑制すべきを怠り、前記挺身中隊隊長として己が職責を不法にも無視しかつ怠った。

(K見習士官の起訴内容)
 K見習士官は、以下の罪状項目で1946年3月に起訴されました。
 被告人Kは、昭和20年5月26日ころ、B29の爆撃手エムリー少尉と認められる米俘虜の死体を、故意且つ不法に銃剣を以て刺突し、以てこれを損壊したるものである。

<起訴内容についてのコメント>
 23号事件で起訴されたのは、M中隊長及びK見習士官の2人です。2人は、1946年3月に起訴され、共同被告人として、審理されています。
 M中隊長は、①俘虜の殺害、②適切な医療を施さなかった、③部下が行った死体の刺突・切断を許容したという3点で起訴され、K見習士官は被害者の死体の損壊で起訴されています。
 本件は、横浜裁判で、B29乗員に関するものとしては初めてのケースです。
 本件事件はM中隊長が起訴された23号事件を含めて3裁判に分かれています。23号の次に起訴されたのが、死体の刺突等を実行した兵士たちであり、最後に起訴されたのがエムリー少尉を斬首したSです。斬首の実行行為者であったSが最後に起訴されたのは、Sが逃走していたからです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BC級戦犯横浜裁判で弁護人となった日本人弁護士

2021年11月11日 | 横浜BC級戦犯裁判
(横浜BC級戦犯裁判での日本人弁護人)
 日本国内では、BC級戦犯裁判は主に横浜で行われました。そのため、この戦犯裁判を「横浜裁判」と呼ぶこともあります。横浜裁判では、331件、1039人が起訴されました(参考文献1)。裁判ではアメリカ人の弁護人がつけられましたが、日本人の弁護士も弁護人となりました。
 横浜が裁判地となったため、神奈川県内の弁護士のうち44人が担当しました。当時、神奈川県内にいた弁護士は118人であり、戦争の影響で実際に活動していた弁護士はその半分ともいわれています(参考文献1)。44人という人数は、実働していた弁護士が概ね横浜裁判を担当したといってよい数です。

(横浜弁護士会の決議)
 これは横浜弁護士会(当時;現在は神奈川県弁護士会)が同会に登録している弁護士の義務として横浜戦犯裁判を引き受けることを義務とする旨の決議をしていたことが関係しています(昭和22年1月28日決議)。
 この決議の提案理由は、「当裁判所法廷で行われている戦犯裁判は、近く急速に且つ大規模に進展する傾向にあるが、これら裁判の対象である被告人の弁護士は、対外的見地からしても又国内的見地からしても、将来当会に課せられた重大な事業であり、これを完遂するためには会員各位の絶大なる協力と、且つある程度の義務制を定める必要があると思料し、この臨時大会を召集した。」というものでした(横浜弁護士会史(下))。」
 この決議がなされたこともあり、横浜戦犯裁判は、横浜弁護士会(当時)に登録されていた弁護士、すなわち、事務所所在地が神奈川県内の弁護士によって担われたのです。

(神奈川県内の弁護士の担当件数)
 起訴件数331件、被告人1039人にもなったので、全ての事件を神奈川県内の弁護士が担当したというわけではないようです。東京の弁護士会も支援体制を整え、大阪、福岡等各地の弁護士も弁護活動を引き受けたとされています(参考文献1)。
もっとも、地元であった神奈川県内の弁護士が担当した事件数は多かったことは想像に難くありません。
1人で8件を担当したものもいるそうですし(参考文献1)、飛鳥田一雄弁護士は7件務めたと回想しています。同弁護士は、小池金市軍法務官事件の弁護を担当したほか、池上宇一中尉の弁護も担当したと語っています(参考文献2)(飛鳥田一雄が担当した小池金市軍法務官の事件にご興味のある方は、過去記事もご参照ください)。

参考文献1 「戦犯を救え」(清永聡著、2015年、新潮新書)
参考文献2 「飛鳥田一雄回想録」(1987年、朝日新聞社)

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦犯裁判中、教誨を行った花山信勝

2021年10月25日 | 横浜BC級戦犯裁判
(戦犯裁判中、教誨を行った花山信勝)
 花山信勝(はなやま しんしょう)は、東京裁判及び横浜BC級戦犯裁判の教誨師を務めた人物です。
 戦犯裁判では、未決・既決の区別なくの教誨が行われていたようです。
 死刑判決が多数でたこともあり、教誨師の役割は非常に重要でした。

(BC級戦犯についても教誨を行う)
 花山は、「巣鴨の生と死ーある教誨師の記録」(中公文庫)という著作を残しています。
 ウィキペディアでは、「1946年(昭和21年)2月から巣鴨拘置所の教誨師となり、東條英機ら七人のA級戦犯の処刑に立ち会った」と記されており、A級戦犯の教誨を務めたという点のみ指摘されておりますが、BC級戦犯の教誨も行っていることも見過ごすことはできません。花山は、横浜BC級戦犯において死刑を宣告されたうち27人について付き添いを行っています。前掲書では1章を割いて27人の死刑前後の様子について記録しています(前掲書第4章「二十七死刑囚の記録」)。

(教誨師となった経緯)
 花山は、1898年金沢市生まれ、1924年東京大学大学院修了、1946~1959年、東京大学教授。退官後は、本願寺派の北米開教区開教総長を十年務める、との経歴を有しており、1995年3月に没しております(前掲書)。
 東京大学の教授を務めながら、教誨師を務めたことになります。
 花山は、教誨師となった経緯を次のように記しています。
 1946年(昭和21年)1月下旬のある日に花山は友人から「ある話」を聞きます。花山が聞いた話というのは、米軍が、巣鴨の拘置所で、日本の仏教僧を一人送ることを政府に対して要求している、司法省行刑局の第一課長中尾文策氏がその選考にあたって、仏教各界から物色しているというものでした。
 花山は、「では、君と二人で、二人三脚でやってみょうか」と気軽に話をしたのですが、その友人とやらは教誨師を受けなかったのでしょう、花山一人が教誨師の職につくこととなったのです。
 ところで、このエピソードからは、教誨師は、米軍が要求していたことがわかります。これは、米軍には従軍教誨師がいることと関係があるのでしょう。
 日本軍には教誨師がいたのかどうか…。そのようなことを聞いたことがなありませんが、いなかったとすれば、やはり彼我の文化の違いを感じざるを得ません。

(キリスト教の教誨師は米軍が行っていた)
 花山は仏教僧として教誨師となりましたが、キリスト教はどうだったのかというと、米軍が担当していたようです。
 「キリスト教徒の戦犯者については、米軍の従軍教誨師であるチャプレンがいるから、その人によって司式し、説教は、2世の通訳をつければ足るのだけれども、仏教については未知であるから、どうしても仏教の僧侶がいるということになったわけである。」と花山は記しています。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横浜BC級戦犯裁判での日本人弁護人選任の経緯と渡邊治湟弁護士

2021年10月21日 | 横浜BC級戦犯裁判
(横浜BC級戦犯裁判での日本人弁護人選任の経緯)
 横浜BC級戦犯裁判は、横浜地方裁判所の法廷で1945(昭和20)年12月17日に、その第1号事件の審理が開始されたのですが(第1号事件は、ティーズ一等兵が被害者の事件です。過去記事参照)、日本人弁護人として渡邊治湟弁護士が決まったのは、その2日前である12月15日でした。
 12月15日、新聞は17日から横浜で軍事裁判を行うと報じました。
 この後の経緯については、史料により異なります。
 一つは、鈴木九萬外交官の昭和20年12月16日付本省宛報告書であり、もう一つは、横浜弁護士会史(上巻)です。
 前者には、新聞で横浜軍事法廷の開始が報じられた12月15日午後、第一復員省(元陸軍省)法務局担当官が鈴木九萬外交官と会い、「第1号事件の弁護人を東京弁護士会に依頼したが間に合わなかったので、弁護人選任を横浜弁護士会に一任したい」との話しがあり、鈴木外交官が当時横浜弁護士会の会長であった渡邊弁護士と会い、同弁護士が日本人弁護人になることの了解を取り付けたとあります。
 後者、即ち横浜弁護士会史によれば、渡邊弁護士のもとに来たのは、大日本弁護士連合会の林逸郎会長の使いの若い弁護士で、「明後日、日本で初の戦犯裁判が横浜で始まるので、弁護人をつけろといってきた。横浜弁護士会が引き受けるか否かで、永久に日本人弁護人が締め出しを食うかもしれん。兎も角引き受けろ。」と要請してきたからであるとなっています。
 参考文献1は、以上の両説をあげるだけで、どちらの説が信用できるのかについての考察を行っていません。
 以上、参考文献1により日本人弁護人選任の経緯について紹介しました。

(いずれの経緯が信用できるのか)
 このように参考文献1によれば、2通りの説があるという紹介のみがなされています。
 なぜ日本人弁護人が選任されるに至ったのかという経緯を解明することは、なぜ日本人弁護人が選任されなければならなかったのか、いったいどこがそのような発案をし、日本人弁護人をいつ選任しようということになったのかという問題点につながるものであり、重要であると考えます。
 しかし、この点については参考文献1においても問題意識がなく、両説を併記するにとどまっています。
 史料の質からすれば、前者、すなわち鈴木九萬外交官の報告書に軍配をあげざるをえません。鈴木九萬外交官の報告書は、本省宛の正式な報告書であり、報告書の作成日も12月16日であって、直後に作成されたものです。
 後者は、1980年に出版されており、渡邊弁護士は1973(昭和48)年にお亡くなりになっています。渡邊弁護士が書いたものが残されていたのか、口頭でのものを誰かが書き残したのかは不明ですが、いずれにせよ当事者が後で回想したものである可能性が高いと思われます。
 であれば、鈴木九萬報告書の方が信用性が高いのではないかと思われます。

(渡邊弁護士の経歴)
 最後に渡邊治湟弁護士の経歴等を記しておきます(参考文献2、3)。
明治32年生まれ。
大正11年10月20日は、横浜弁護士会に入会(弁護士として稼働)。
昭和20年横浜弁護士会会長。同年横浜BC級戦犯裁判第1号事件の日本人弁護人となる。
昭和48年1月31日、横浜弁護士会の登録を取消す。同年7月31日死去。
同弁護士の著作。
「戦犯弁護第一陣」(法律新報昭和21年2月号)
「公事方御定書の研究」(昭和58年:国立国会図書館蔵)

追記:参考文献3には、渡邊の経歴につき次のように記しています(同文献3では、「渡辺」としていますので、そのまま引用しました)。
「渡辺は小学校卒業した後、横浜地裁の職員として働いていた。その後中学の修了試験に合格し、苦学して弁護士の登用試験に合格した経歴を持つ。まだ大正時代である二十三歳の時から、横浜で事務所を開業していた。横浜弁護士会の会長をしていたのも、まじめで研究熱心なところと、請われれば人の先頭に立つことを厭わない性格が、多くの弁護士から支持されたためだった。」

参考文献1 「法廷の星条旗〜BC級戦犯横浜裁判の記録」(横浜弁護士会)
参考文献2 「会長渡邊の決断ー戦後70年と横浜軍事裁判」(間部俊明:神奈川県弁護士会新聞2015年6月号)
参考文献3 「戦犯を救えーBC級「横浜裁判」秘録」(清永聡:新潮新書)


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小池金市弁護士の経歴と戦犯裁判後のこと

2021年10月18日 | 横浜BC級戦犯裁判
(飛鳥田一雄回想録による小池金市軍法務官の裁判)
 前回の記事で小池金市軍法務官が戦犯裁判の被告人となった事件をとりあげました。
 参考文献1から同事件をとりあげたのですが、今回、別の文献(参考文献2)を参考にすることができたので、その点から事件を補足しておきます。
 参考文献2は、小池金市軍法務官の弁護人を務めた飛鳥田一雄弁護士の回想録です。
 飛鳥田は大正4年4月生まれ。昭和14年に高等試験司法官試験に合格し、東京弁護士会所属の弁護士試補、16年7月1日には横浜弁護士会に登録しています。
 この弁護士試補の時代の同期生が小池金市でした。
 「忘れられないのは戦後のBC級先般の弁護だね。A級は東京だったけど、BC級は横浜地裁。あそこの特号法廷っていう一番でかい部屋で審理したの。ボクもかり出されて、七つばかり、事件を受け持ったよ。先般の中に、修習時代の同期生で小池金市ってやつがいてね。法務将校として入隊したんだけど、配属された台湾で、アメリカ兵十四人を起訴して死刑を言い渡した、その責任を問われたんだ。」(参考文献2)
 飛鳥田は、小池が「アメリカ兵十四人を起訴して死刑を言い渡した」と述べていますが、参考文献1によれば、起訴されたのはそのうちのアメリカ兵3人だけとされています。
 飛鳥田と小池はだいぶ親しかったようです。
「修習時代から「金ちゃん」「いちを君」って呼び合うすごく仲の良かった友達だったし、オレ頑張ったよ。」(参考文献2)
 飛鳥田が頑張ったとする弁護活動は、死刑となったアメリカ兵は、無差別爆撃をしていたという事実の立証を行ったことです。無差別爆撃は国際法違反であり、戦争犯罪となります。戦争犯罪を行ったアメリカ兵を、正当な手続きに則って行った小池軍法務官は何ら法に触れていないという論陣を張ったのです。
 飛鳥田は、「これが立証されたらアメリカも困るわけよ。こっちの作戦が分かると、検事が折れてきてね。有罪を認めてくれさえすれば、重労働三年の求刑で手を打とうっていうんだ。」(参考文献2)
 結局、この流れで、小池は事実を認め、重労働三年の求刑となったのです(もっとも、判決では重労働四年)。

(小池金市の経歴)
 参考文献3には小池金市の軍法務官に至るまでの経歴が記載されています。
 明治43年生まれ。出身は島根県出雲市。小学校卒業後、16歳で大阪に出て阪急電車の車掌として働く。法律家になることを目指して24歳のときに上京。中央大学の夜間専門部に入る。その後司法科の試験に合格し、昭和16年に弁護士を開業した。
 昭和19年、自ら志願して、法務見習士官となる。激戦のフィリピン赴任を希望したが、同年12月に台湾についた時には、既にフィリピンまで飛行機は飛ぶことができなくなっており、昭和20年1月に台湾軍へ臨時転属された。
 この台湾軍への配属のときに、戦犯裁判となったアメリカ兵への軍律裁判が行われたのです。
 
(小池金市の戦犯裁判後)
 参考文献1では、「小池は、釈放後弁護士に復帰して活躍し、東京および関東周辺十県の弁護士会の連合組織である関東弁護士連合会理事長などを歴任している」と簡潔な記載があるだけです。
 小池が釈放されたのは、昭和24年だったようです。小池の子息が生まれたのは、「3年の服役を経て巣鴨プリズンを出所した翌年の昭和25年だった。」(参考文献3)とあるからです。
 ここからは、①未決勾留されていたのと同じ巣鴨プリズンで、重労働の刑の執行も行われたこと、②小池にとって仮釈放はなかったか、あってもほとんどなかったことがわかります。
 もっとも、この点については、参考文献には明確に書いていることではなく、断片的な記載から推論したものなので、他の文献から補う必要があるところです。
 小池が関東弁護士連合会理事長となったのは、昭和49年度ですが(参考文献4)、その前に司法研修所の弁護教官を3年間(昭和37年4月から昭和40年4月)務めています。
 司法研修所教官のときには、修習生に対して、次のような話をしていたそうです(参考文献5)。
「民弁の故小池金市教官からは,財産三分法をアドバイスされた。報酬が入ったら全部使わず、3分の1は老後のため、3分の1は不時の出費のため蓄えろというものだった」
 非常に手堅い蓄財法をも教える良き教官であったことが窺えます。
 小池の没年は今のところ尋ねあたりませんが、105歳のときに参考文献3の著者の取材を受けており、長命であったことが知られています(参考文献3)。


参考文献
1 横浜弁護士会「法廷の星条旗〜BC級戦犯横浜裁判の記録」
2 「飛鳥田一雄回想録」(1987年、朝日新聞社)
3 「戦犯を救え」(清永聡著、2015年、新潮新書)
4 「残された課題ー戦後70年と横浜軍事裁判」(間部俊明著、2016年12月号神奈川県弁護士会新聞)
5 神山美智子「昔々の物語」LIBRA2020年7・8月合併号






  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軍法務官が戦犯として訴追されたケース-横浜BC級戦犯裁判170号事件

2021年10月14日 | 横浜BC級戦犯裁判
(概要)
 本件の被告人は小池金市法務大尉です。小池大尉は、当時台湾軍の法務部に所属し、検察官の職務を行っていました。本件はその職務に関するものです。
 小池大尉は、台湾で捕虜になったアメリカ人飛行士を起訴しました。起訴されたアメリカ人飛行士は死刑の判決を受けて、処刑されたため、捕虜を違法に死亡させたという点が問題とされたのです。
 そのため、検察官のみならず、裁判官を務めたものも戦犯に問われました。台湾軍法務部の将校8人は上海のアメリカ裁判で裁かれましたが、小池金市法務大尉のみは横浜裁判で裁かれ、懲役4年の判決を受けました。

(起訴理由の概要)
 参考文献1によれば、起訴理由の概要は次のとおりです。
「小池金市は、台湾台北市所在の台湾軍法務官であったが、同軍軍法会議検察官に指名され、昭和20年5月21日ころ、虚偽活詐害的な証拠に基づいて米軍飛行機搭乗員3名を故意かつ不法に訴追して同年6月19日ころこの3名の不法殺害に寄与したこと、台湾軍軍法会議判士に指名されて同年5月21日ころ虚偽活詐害的な証拠に基づいて訴追された米軍搭乗員3名の審理に当たり搭乗員らに抗弁の機会を与えず、かつ公正なる審理を怠って死刑の判決を宣告し、もって同年6月19日ころ、この3名の不法殺害に寄与しこたこと、並びに同年2月より同年5月に至る間、米軍搭乗員3名の捜査を命じられ、周到かつ公正無私の捜査をなすことを故意かつ不法に怠って、同年6月19日ころ、この3名の不法殺害に寄与した。」
 なお、参考文献1は、ここに「軍法会議」とあるのは、「軍律会議」の誤りではないかと指摘しています。

(経過)
1947年
6月25日 被告人、軍事委員会から訴追される
9月9日 第1回公判
参考文献1には、本件の裁判官、検察官、アメリカ人弁護人の名前はなく不明。日本人弁護人は飛鳥田一雄弁護士です。
9月12日 第2回公判、判決 重労働4年
 被告人はこの判決に対して異議申し立て。
1948年
6月9日 被告人側、異議申立書を提出。
9月12日 異議申立てに対する決定。重労働4年という判決は承認するが、被告人の判決前の収容期間を考慮し、重労働期間中11か月半は免除する、との内容。

 (軍法務官とは)
 本件は、軍法務官が戦犯に問われたものです。
 戦前の日本には、特別裁判所として、軍法会議というものが存在していました。「会議」という名前がついていますが、会議を行うのではなく、これで軍事の裁判所という意味になります。根拠法令としては、陸軍軍法会議法、海軍軍法会議法があり、いずれも1921(大正10)年成立、1922(大正11)年4月に施行されています。
 この軍法会議の裁判官役は、「判士」と呼ばれる武官(4名)と法務官という文官(1名)で構成されていました。武官は、法律のプロではありませんから、法律のプロは法務官のみということになります。検察官役も法務官が行いました。もっとも、検察官役を務めた場合は、その事件ではその法務官は裁判官役は務めず、別の法務官が裁判官役になります。
 法務官は検察官役、裁判官役が固定ではなく、ある事件では検察官役、別の事件では裁判官役というように、事件ごとにどちらかの役目を務めていたのです。
 軍法務官については、参考文献2および3があり、上記の記載もこの参考文献を参考にさせていただきました。

参考文献
1 横浜弁護士会「法廷の星条旗〜BC級戦犯横浜裁判の記録」
2 西川伸一「軍法務官研究序説ー軍と司法のインターフェイスの接近ー」(2013年)
3 西川伸一「戦前期日本の軍法務官の実態的研究ー軍法務官193人の実名とその配属先をめぐって」(2014年)」


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする