「実に十四経は太極治療を説いた立派な経典で、第一の医学が示されてあるのです。
多分、埃及(エジプト)太古の文明の遺物が印度を経て支那に伝ったのだと思います。」
『鍼灸眞髄』 代田文誌著
大正から昭和のはじめに大活躍した鍼灸師である沢田健氏。
太極療法と呼ばれる治療を行っていた。
その弟子だった代田文誌氏が書いた「鍼灸眞髄」は今も多くの鍼灸師が一度は読む本となっている。
自分も鍼灸学生時代に読んだ。
上はそのなかの一文。
ピラミッドなど巨石文明の遺跡を見るのが好きで、オーパーツや「神々の指紋」などにワクワクした自分にとってはロマンを感じる一文だ。
しかしその後、丸山昌朗氏、藤木敏郎氏、石田秀美氏らの本を読み、やはり年代を追うごとに経絡の理論が完成されていったと感じている。
(丸山氏は沢田健氏の鍼灸治療を受けて、医師となり、鍼灸漢方で治療されたとのこと)
そして最近読んだのが、『科学の名著第二期1インド医学概論 チャラカ・サンヒター』。
チャラカ・サンヒターはアーユルヴェーダの古典代表作。もうひとつはスシュルタ・サンヒター。
この本の概説で矢野道雄氏は
「文献に忠実に語るならば、古代インド人の健康と長寿への関心がアーユルヴェーダという一つの体系としてまとめられ伝達可能な知識となったのは、それほど古いことではなく、早くても紀元前5~6世紀ごろのことであろう。」
として、チャラカ・サンヒターは紀元500年頃に今の形になったようだと書いている。
中国で馬王堆漢墓から経絡の原型が書かれた写しが出てそれが紀元前168年。
東洋医学の原典『黄帝内経』も紀元前後の編纂で(その後失われた)、その後に素問や霊枢。
インドも中国も原典が出来上がった時期はそれ程大差がなさそうだ。
そしてどちらも個人で書いたものではなく、長年に渡って改編されていること、基本的に名医との問答の形で記されているのも似ている。
脈診については、
「また古典医学書では脈のとりかたについてはまったく述べられていないが、12~3世紀にシャールンガダラが著した『シャールンガダラ・サンヒター』になってはじめて見られるようになり、現代のアーユルヴェーダでは大切な診断法の一つになっている」
と、中国からチベットを通じてインドに伝わったのだろうとしている。
また、中国ウイグル自治区クチャの仏教寺院で、バウアーという人が4世紀後半頃の写本を発見し(バウワー写本)、その中にチャラカ・サンヒターとスシュルタ・サンヒターからの引用があったとのこと。
自分も中国からチベット・インドまで陸路で旅したことがあるので、その間の行き来が昔も活発だったことはよく理解できる。
東洋医学やアーユルヴェーダ、チベット医学は様々な国の交流があってそれぞれ出来上がっていったのだと思う。
そしてインドから西も同じだ。
矢野道雄氏は
「仏教は古代の科学を居れる大きな器であり、インド科学を周辺の世界へ伝える大きな乗り物でもあった。中国・インド・チベット・中央アジア・東南アジアにインド医学が伝えられたのはすべて仏教のおかげである。初期のイスラムにおいてもギリシア系の医学が定着する以前にインド医学がペルシアのバルマク家によって伝えられたが、バルマク家の祖先は仏教徒であったと言われている。」
と書いている。
そしてプリンストン大学心理学教授だったジュリアン・ジェインズが「神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡」で書いた二分心も見逃せない。
3000~4000年前に世界のあちこちで現代人の考えている”自分”(自我)が現れはじめ、それ以前は内なる声に随って生きていたとしている。
もしそうなら、身体や生死の捉え方も現代人とは大きく異なっていたことだろう。
病気などあらゆる出来事が(死ぬ時も)、それを自然な定めとして受け取っていたのかも知れない。
しかし、次第に人の意識に”自分”が現れはじめたことで心身の調和がとれなくなり、自然で直感に随った手当てよりも理屈が欲しくなった。
そして理論が構築されはじめ、中国でそれが洗練されていく過程で経絡理論と発展していったのではないかと思う。
左薬指が心臓と直接つながっているとしたのは古代エジプト。
そこからギリシア。
経絡で言えば薬指は経絡で言えば三焦経(相火)が通っていて、「焦」は熱。
そして三焦経の原穴である手首背面の左陽池を沢田健先生はとても重視していたという。
今のところエジプトからは身体エネルギー(十四経やそれに類似するインドのナディやスシュムナー)に関するパピルスや石版などは出ていないようだ。
しかし、天文や建築について、とんでもない知識があった太古の失われた巨石文明。
身体に関してどんな知識があったのか興味がある。