かっぱblog

鍼治療のことや日々のことなどを書いてます。

治癒からの逃走5

2014年10月31日 | 鍼治療

マスコミは「自分探し」を揶揄するが、それは「風評被害」などと似ていると感じる。

国やマスコミなどが言うがまま国民に行動してもらうためには、それぞれ”自分”を確認し、自分で調べて考え始めたら困るのだろう。



親からありのままを愛され、その結果育った”自分”(自己イメージ)なら、自分を再確認する必要はあまりないだろう。

慢性的な緊張もほとんどなく、生きていく中で緊張が生じてもニュートラルな状態に戻りリラックスすることができる。

身体や心を大切にできるし、治癒力も高い(治癒力を妨げない)だろう。

根をしっかり張って育つことができる。

しかし、親や社会から植えつけられてきた自己イメージのままでは、身体を大切にできない人は多い。

治癒反応を抑えたり、休息せず頑張り過ぎてしまったり、権威に服従し盲信依存することが習慣となっている。

根がしっかり張れず、不安が生じる。



不快な記憶は習慣と自己イメージとなり、見捨てられないため、存在価値を認めてもらうため、常に頑張って緊張している。

しかし、頑張ることでは解決できないことがあり、治癒反応に身をゆだねることはそれに含まれる。

頑張って”ポジティブシンキング”してもすぐ剥がれる。

治癒から逃走してしまう場合、習慣(パターン)や記憶、そして”自分”を再確認しないといけない。

それはどこか遠くへ、外へ探しに行く必要はない。

体表の鍼治療はそのサポートとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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治癒からの逃走4 

2014年10月29日 | 鍼治療

治癒から逃走しないために、どうするか。

外の知識を学んでいくこと。

緊張型頭痛に悩んでいる人は、血流が回復する時に痛みが出て、痛み止め(消炎鎮痛剤)は血流を抑えてしまうなどの弊害を知らないことがある。

何か痛みがある毎に、深刻な病気かと悩む人はストレスが病気を引き起こすことを知らないことがある。

そして「鍼治療は東洋医学であり治癒力を高めます」と言っても様々。

風邪を引くなどすると、身体(リンパ球)はウイルスと戦うため副交感神経優位となり、熱(体温)を高める。

それに対して鍼で強い刺激をすると、身体はそちらへの対応に追われてセットポイントと自律神経が切り替わり、急速に汗が出て熱が下がることがある。

身体は一時的に楽になるが、免疫力が高まってウイルスを退治したわけではない。

慢性的な筋肉のコリも強い刺激を与えたり、電気を流して皮膚電位を乱すことで一時的に緊張が緩んだり感じにくくなるが、筋肉を緊張させていることに気づいて解除しない限り酷くなって戻ってくる。

鍼治療も短期的な視点で用いられれば、解熱剤や筋弛緩剤などの対症療法となんら異ならない。

それは治癒力を高めているわけではなく、むしろ治癒反応を止めて、後にツケを残すことになる。

 

 

そして内部の知識を学んでいくこと。

無意識の内に他者の視点を自分の視点としていることは多い。

TVや新聞、そして親との視点の同一化は根深い。

前回書いたように子供の頃に熱を出して寝込んでいても親が看病してくれない場合や、親が面倒くさいという態度を出す(と映る)場合、

『見捨てられない=その場を生き残る』

ために治癒反応を抑えつけてしまう。

最初は怒りが生じるが、それを抑えて親の「あなたという存在とその身体は大切ではない」といった視点をコピーしてしまう。

そして治癒反応を無理に抑えることが習慣となり、自分も自分の身体に同じことを繰り返してしまう。

その場合、問題を改善していくためには他者の視点と自分の視点を識別する必要がある。

結局、それは記憶を基にした習慣なのだから、それを放棄していくことになる。

その過程で怒りが出てくることもある。

毒親と境界線を引くことは必要で、相手が入り込んできたら押し出すか、離れるかすることになる。

しかし、相手と闘争する、理解させようとするのは不毛な闘いとなる。

ストレス反応はアドレナリンが分泌され交感神経が興奮した状態であり、闘争か逃走か (fight-or-flight)を呼び起こす。

しかし、闘争しても逃走しても治癒からは遠ざかることになる。

 

治癒反応から逃走(闘争)する場合、身体に慢性的な緊張がある。

身体の緊張を解いていくことで、他者の視点との混同・記憶と”自分”を識別するサポートとなり、精神の緊張も緩まる。

そして治癒から逃走する習慣が次第に弱まり、治癒力が発揮されやすくなる。

心身の治癒力や安心感を外へ求め向かうのではなく、内へ向かうこと。

治癒力はすでに備わっていて常にはたらいている。

 

 

 

 

 

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治癒からの逃走3

2014年10月24日 | 鍼治療

治癒プロセスの一部は不快な感覚を伴なう。

風邪などでウイルスと戦っている時の発熱。

慢性的な筋肉の緊張が緩むときの痛みや疼き。

溜め込んだ不要な(有害な)物質を排泄する時の痒みや痛さ。

自律神経が(副交感神経へ)切り替わる時のけだるさ。

緊張が解けて抑え込んでいた情動を感情として意識すること。

などなど。

昔はすぐ頓服や注射で熱を下げていましたが、今では逆に解熱剤を飲ませることの危険性が指摘され、消炎鎮痛剤は常用すると交感神経を緊張させ血流障害を招くことが指摘されている。

鼻水や咳も基本的には治癒反応で、すぐに風邪薬で止めるようなものではない。

しかし会社を休めず自分や子供の熱を無理やり下げてしまうことは多い。

特に子供の場合は治るまで時間が必要になる。

しかし治癒反応を無理に止めることは後にツケを残すことになる。  



 

子供の頃に治癒のプロセスを保護者に守られながら体験することは身体の免疫力を高めるだけではない。

不快な感覚を乗り越えて治癒すること、それが治癒のプロセスだと学ぶことで、精神的にもタフになる。

治癒に伴なう不快な感覚は守られているという安心感と結びつくことで緩和され、記憶に残る。

常に薬で治癒反応を抑え込んでいたり、親に看病してもらえない環境だと、治癒反応を無理やり止めるのが習慣となる。

親の都合でとにかく早く症状をなくしたいと薬を飲ませたり、親が権威主義的パーソナリティで薬を盲信し、子供にもそれを強いることで特に問題がこじれる。

そして看病してもらえないのも、2種類ある。

親が忙しくてできない場合、それを子供が感じていれば、それ程こじれることはない。

後で納得もできる。

大きな問題となるのは、親が面倒を見ようとしない場合。

自分が体調が悪いことで親がイライラしていたら子供は保護者から見捨てられないように、熱を出してはいけないなどと判断してしまう。

『見捨てられないこと=その場生き残ること』が最優先だから。

その結果、治癒反応が「悪いこと」としてインプットされてしまう。

それは深く記憶に刻み込まれ、大人になっても治癒反応を薬や強い刺激で抑え込む対症療法を繰り返してしまう。

治癒のプロセスを体験として実感として乗り越えていないから、安心してプロセスに身をゆだねる事、待つことができない。

孤独や不安が治癒反応とセットになっている。

そして怒りも抑え込む癖がつく。

しかし、守ってくれなかった保護者に対して潜在的に怒っている。

 

たとえ軽い風邪で病院に駆け込んでも、そこで「大丈夫」と言って何も処置せず「温かくしてゆっくり休んで下さい」と帰してくれる医者はまずいない。

「あなたのため」と言いつつ、注射や点滴をするかも知れないし、たくさんの薬を「念のため」多めにくれるかも知れない。

それが親切な医者だと思われる。

その場は少し楽になるが、問題はこじれていく。

血流が偏り、手足が冷えて、大きな問題となっていく。

元の抑え込んだ体験はつらく、深く刻み込まれているので、染み付いたパターンを変えていくことは容易ではない。

 

 

治癒から逃走していく基礎は子供時代に作られてしまう。

そして会社では風邪を引いても薬で抑え込み、出社することが美徳とされることが多い。

それが「強い人間」「責任ある態度」と日本の精神論では思われている。

そして更に治癒から逃走して、健康が損なわれていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

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治癒からの逃走 つづき

2014年10月22日 | 鍼治療

緊張が解けると、自覚できる範囲が広く深くなる。

身体で言えば、動きが大きくなると選択の幅が広がるが、バランスを取る範囲も広がる。

心で言えば、自由を感じる反面、それに伴なう責任や孤独も感じる。

それよりも現状のままの方がいいという人もいる。


よくなっている実感がないのに、延々と整形のリハビリや接骨院に通って電気ビリビリや湿布をする人はとても多い。

それは単に安いから、というだけではなく、本当に慢性的な緊張が変化することが怖いのだろうと思う。

それが”自分”の変化につながることを意識していなくても知っているから。

 

また、昨日書いたフロムの

権威主義的パーソナリティ

は代替医療の世界でもある。

「自分が通っていた治療院は○○社の偉い人も通っている」とか「医者も通っている」「プロ選手も通っている」

などと言う話を聞くことが以前よくあった。

大会社の偉い人が通っていることと、自分にその治療が合うことは当然イコールではない。

たとえ最初はそれを基準に選んだとしても、治療が終わってからもそういうことを言っている場合は根本的に治っていないと思う。

基準を外の権威に依存して安心感を得ようとする状態が続いている。

そういう人向けに治療院側では、マスコミに出た、芸能人が来た、偉い○○先生と個人的交流がある、などとアピールしている所は多い。

需要に対して供給することで商売が成り立つ。

それが酷くなっていくと、「自分(だけ)は特別な存在」などと教祖のように振舞う治療者を崇めたりすることになる。

 

絶対的な安心感を外へ求めると治癒とは反対の道に向かうことになる。

耳障りがよく見栄えがいいものは、本質的に有益でないからこそ魅力的に思わせてくる。

しかし治癒のために、孤独や不安を超えて自分ひとりで判断しないといけない。

 

 

 

 

 

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治癒からの逃走

2014年10月20日 | 鍼治療

何か症状があれば誰でも治りたいと思う。

しかし言ってることとやっていることが違うのが人間。

血流が悪くて足に痛みがあるのに、常にそちらの足を下にして組み、自ら血流を阻害してしまう。

緊張型頭痛があってもPCやスマホや読書の時間を減らすことができない。

などなど。

治るために新たに何か努力する、ということには積極的な人が多い。

人は基本的に”力を入れること”が好きなのだ。

逆に、何かをしないこと、力を抜くこと、は苦手な人が多い。

しかし治癒のためには不要な緊張の習慣を止めること、力を抜いて自然な状態に戻ることの方が重要となる。

身体は自然な状態で治る方向に向かう。

 

治癒の障害である緊張の習慣を解くためには、まず自分がしていることを知る必要がある。

無自覚に行っていることを検証していくには、一旦、固定観念-自分が絶対だと思っていることを外さないと難しい。

 

「自分はこう感じる」「自分はこう思う」という”自分の枠”の認識や内省ができない場合、治癒を阻害する習慣を自覚し難い。

しかし治癒のためには、自然な”自分”に戻ることが必要になる。

自分の枠である体表を意識していくことで緊張が解ける。

緊張が解けると、自覚できる範囲が広く深くなる。

そして心身が自由で楽になるのに伴ない、それまでにない責任感や孤独感、不安感も伴なう。

知らない道、新しい道を一人で進むことは勇気がいる。

しかし、その道が治癒につながる。

 

 

 

 

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秋晴れ

2014年10月19日 | 日記

気持ちよい秋晴れ。

とてもリラックスできた。

 

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排泄と治癒力

2014年10月18日 | 鍼治療

鍼灸は副交感神経を優位にすることで排泄の機能を高める。

しかし、排泄能力以上の有害物質が周囲にある場合は環境を変えるしかない。

それは心にとっての有害刺激(モラルハラスメントなど)でも同じこと。

ブラック企業や機能不全家族で我慢しても報われない。

処理能力の限界を越えるなら、そこを離れるしかない。

排泄や適応の能力は人によって様々であり、たとえ他者が「この程度なら大丈夫、問題ない」と言ったとしてもそれは全ての人に当てはまることではない。

だから「鍼灸で有害物質を排泄できるから安全」とは言えないし、「○○を食べていれば大丈夫」などとも言えない。

情報を収集するとともに、自分の身体を感じ取るしかないし家族の状態を観察するしかない。



環境を変えることは大きなストレスを伴なう。

たとえ「その方がよい」と分かっていても、慣れ親しんだ環境や関係を変えることは難しい。

周囲に理解されない個人的な決断であれば尚更。

それを後押しするのもまた治癒力であり生命力。

そして自分の状態を感じ取り、治癒力発揮をサポートするのが鍼治療。

 

 

 

 

 

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ロマン

2014年10月17日 | 鍼治療

「実に十四経は太極治療を説いた立派な経典で、第一の医学が示されてあるのです。

多分、埃及(エジプト)太古の文明の遺物が印度を経て支那に伝ったのだと思います。」

『鍼灸眞髄』 代田文誌著

 

大正から昭和のはじめに大活躍した鍼灸師である沢田健氏。

太極療法と呼ばれる治療を行っていた。

その弟子だった代田文誌氏が書いた「鍼灸眞髄」は今も多くの鍼灸師が一度は読む本となっている。

自分も鍼灸学生時代に読んだ。

上はそのなかの一文。

ピラミッドなど巨石文明の遺跡を見るのが好きで、オーパーツや「神々の指紋」などにワクワクした自分にとってはロマンを感じる一文だ。

しかしその後、丸山昌朗氏、藤木敏郎氏、石田秀美氏らの本を読み、やはり年代を追うごとに経絡の理論が完成されていったと感じている。
(丸山氏は沢田健氏の鍼灸治療を受けて、医師となり、鍼灸漢方で治療されたとのこと)

 

そして最近読んだのが、『科学の名著第二期1インド医学概論 チャラカ・サンヒター』。

チャラカ・サンヒターはアーユルヴェーダの古典代表作。もうひとつはスシュルタ・サンヒター。

この本の概説で矢野道雄氏は

「文献に忠実に語るならば、古代インド人の健康と長寿への関心がアーユルヴェーダという一つの体系としてまとめられ伝達可能な知識となったのは、それほど古いことではなく、早くても紀元前5~6世紀ごろのことであろう。」

として、チャラカ・サンヒターは紀元500年頃に今の形になったようだと書いている。

中国で馬王堆漢墓から経絡の原型が書かれた写しが出てそれが紀元前168年。

東洋医学の原典『黄帝内経』も紀元前後の編纂で(その後失われた)、その後に素問や霊枢。

インドも中国も原典が出来上がった時期はそれ程大差がなさそうだ。

そしてどちらも個人で書いたものではなく、長年に渡って改編されていること、基本的に名医との問答の形で記されているのも似ている。

脈診については、

「また古典医学書では脈のとりかたについてはまったく述べられていないが、12~3世紀にシャールンガダラが著した『シャールンガダラ・サンヒター』になってはじめて見られるようになり、現代のアーユルヴェーダでは大切な診断法の一つになっている」

と、中国からチベットを通じてインドに伝わったのだろうとしている。

また、中国ウイグル自治区クチャの仏教寺院で、バウアーという人が4世紀後半頃の写本を発見し(バウワー写本)、その中にチャラカ・サンヒターとスシュルタ・サンヒターからの引用があったとのこと。

自分も中国からチベット・インドまで陸路で旅したことがあるので、その間の行き来が昔も活発だったことはよく理解できる。

東洋医学やアーユルヴェーダ、チベット医学は様々な国の交流があってそれぞれ出来上がっていったのだと思う。

そしてインドから西も同じだ。

矢野道雄氏は

「仏教は古代の科学を居れる大きな器であり、インド科学を周辺の世界へ伝える大きな乗り物でもあった。中国・インド・チベット・中央アジア・東南アジアにインド医学が伝えられたのはすべて仏教のおかげである。初期のイスラムにおいてもギリシア系の医学が定着する以前にインド医学がペルシアのバルマク家によって伝えられたが、バルマク家の祖先は仏教徒であったと言われている。」

と書いている。

 

そしてプリンストン大学心理学教授だったジュリアン・ジェインズが「神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡」で書いた二分心も見逃せない。

3000~4000年前に世界のあちこちで現代人の考えている”自分”(自我)が現れはじめ、それ以前は内なる声に随って生きていたとしている。

もしそうなら、身体や生死の捉え方も現代人とは大きく異なっていたことだろう。

病気などあらゆる出来事が(死ぬ時も)、それを自然な定めとして受け取っていたのかも知れない。

しかし、次第に人の意識に”自分”が現れはじめたことで心身の調和がとれなくなり、自然で直感に随った手当てよりも理屈が欲しくなった。

そして理論が構築されはじめ、中国でそれが洗練されていく過程で経絡理論と発展していったのではないかと思う。

 

左薬指が心臓と直接つながっているとしたのは古代エジプト。

そこからギリシア。

経絡で言えば薬指は経絡で言えば三焦経(相火)が通っていて、「焦」は熱。

そして三焦経の原穴である手首背面の左陽池を沢田健先生はとても重視していたという。

 

今のところエジプトからは身体エネルギー(十四経やそれに類似するインドのナディやスシュムナー)に関するパピルスや石版などは出ていないようだ。

しかし、天文や建築について、とんでもない知識があった太古の失われた巨石文明。

身体に関してどんな知識があったのか興味がある。

 

 

 

 

 

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糖尿病

2014年10月07日 | 鍼治療



「医療の巨大転換(パラダイム・シフト)を加速する――糖質制限食と湿潤療法のインパクト」
江部 康二 (著), 夏井 睦 (著)


最近読んだ本。
ネットでは見ていたが、糖質制限の本を読んだのは初めて。

糖尿病の患者さんに鍼治療を続けていくと、肉は食べられるのにご飯(お米)の量が減っていくことがある。
ご飯(デンプン)を食べ過ぎると食後に気分が悪くなり、自然と糖質を抑えていくようだ。
特に退職したり、怪我をして動けなくなるなど、それまでより運動量が落ちると尚更。
そして血糖値は改善していく。

以前からそういった食事の変化の話を耳にしていて、一般的な糖尿病の食事(カロリー制限食)と異なる傾向なので不思議だった。
しかしネットで糖質制限という考え方を知り、それが自然なのだと腑に落ちた。

糖尿病の身体にとって血糖値の急激な上昇は危険なため、強いシグナルを発する。
しかし糖分摂取の習慣的な快感に依存していたり、病院で指導された食事が絶対正しいと頭でガッチリ固めていたり、食後の気分の悪さを薬で抑えると、そういったシグナルに気づくことは難しい。
それまでの習慣や思い込みを静めて身体のシグナルに耳を傾けることで自然と治癒へつながっていく。


糖質制限といっても個々のケースで気をつけることは異なる。
誰にでも、いつでもどこでもどういった状態でも当てはまる正解などない。
だから、「何を食べたらいいか?どれぐらい食べたらいいか?」などと聞かれても、
よほどのことを除いては、
「その時その場で身体の状態を感じて、それに沿って無理なく」
としか言えない。

こういった言い方は頼りないと思われることもある。
でもそれがその人にとって理にかなった選択となるし、自分で感じて判断していかなければ、いつまでも外の基準に依存することになる。
鍼治療は身体を感じ取る能力のトレーニングでもある。






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散策

2014年10月06日 | 日記

また散策してきた。

やっぱり秋はいいな。

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