かっぱblog

鍼治療のことや日々のことなどを書いてます。

大晦日

2010年12月31日 | 日記

今日は朝から雪が降って、少し積もった。
久しぶりに妹が家に遊びに来て、今年旅行してきた国々の話を聞いたりして楽しく過ごした。

今年も残すところあと3時間。
いろいろあったような、なかったような一年だった。

それでは皆様、よいお年を。

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「モモ」

2010年12月30日 | 鍼治療

こないだ子供を連れて図書館に行った。

子供向けの本を見ていたら、エンデの『モモ』があった。
エンデといえば子供の頃、映画「ネバーエンディングストーリー」を観た。
その後、モモという本があることは知っていたが、今までしっかり読んだことがなかったので借りることにした。


読みはじめたら面白かった。
子供向けに書かれているが、大人が読んでも楽しく、そして考えさせられる内容だった。
あとで思い出したが、以前、「エンデの遺言」という番組も見たことがあった。
彼は哲学者であり経済学者であり、予言者だった。

モモの中の言葉↓

『人間が時間を節約すればするほど、生活はやせ細ってなくなってしまうのです』



世間で常識と考えられている価値観、結局それを「そのように」思っているのは自分自身に過ぎない。
思わされていると言ってもいいかも知れない。
その代表が「時間を節約すること」だと思う。
それに気づかす、自分に「こうしなければならない」「こうでないといけない」と考えたりして、常に時間に追われていることになる。

時にはそれを他者に押し付けたり、押し付けることができなければイライラしたり悲しんだりして、ストレスを溜め込んだり疲れたりする。
そういったことを積み重ねていくと心身が病んでくる。

そういう人に対して、

「己の身体感覚を再認識し、学び直し、その感覚を中心に周囲や世界をとらえ直していくこと」

のきっかけを鍼で作ることができると考えている。
それが治癒(過程)となる。

それは「手っ取り早く治す」とか「一発で治す」とか世間に受け入れられやすい言葉や考えとは相反する。
そういった考えは自分の考える「治癒」とはどうも相性が悪いし、まさにエンデの言う”やせ細っていく”考えだと思う。

そしてまたそういった考えや要求に従っていくと、僕自身が鍼施術をすることが楽しくなくなってしまう。
だからそのようなことを求めてくる人には「うちではできません」と最初からお断りするようにしている。

手っ取り早い変化(特に強い刺激を伴なうもの)は、とりあえずその症状は一旦治まる。
しかし、しばらくして(よりこじれて)出てきたり、形(症状)を変えて出てきたりすることが多いように思う。
それは根本が変わっていないからだと思う。
そこを変えていくのが東洋医学でいう本治だ。

たとえば工場から汚染物質が河に流され汚染されて様々な問題が生じているとして、

 1.汚染物質を取り除く、
 2.汚染物質を流した工場を特定し、取り締まる、
 3.汚染物質を流させない社会の仕組みを作る。

この場合、本治は3だ。

1だけではその工場は汚染物質は流し続ける。
1と2をやっても他の工場が同じ事をやるかも知れない。
1や2は大切だが、その上に3がある。3がないと繰り返される。
鍼による施術も1や2も大切にする。ただ、目指すところは3だ。
もちろん、3までやってもそれで完全に終わりではない。
チェックは続ける必要がある。
自分の心身を学ぶのに終わりはない。
ただ、「区切り」はある。
施術を重ねてあるところで終わるのは区切りだ。
そこからは自分自身でチェックしコントロールしていけるようにする。

自分自身が鍼施術をすること自体が楽しく、鍼を受けた人は心身の変化を楽しみながら、少しずつ、ゆっくり変わっていく。
そんな鍼を目指している。 

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大学生時代のアパート

2010年12月23日 | 日記

こないだ大学生時代の知人から電話があった。

大学を卒業してから音信不通だったので声を聞いたのは15年ぶりぐらいだろうか。
彼とは1,2回生の頃、同じアパートに住んでいた。
他のメンバーから僕が鍼師になったと聞いて電話をしたとのことだった。
久々に話をして、アパート時代の記憶が蘇ってきた。

 


僕らが住んでいたアパートは京都の、今では多少開けてきているようだがかなりの田舎にあった学生専用のボロアパートだった。
後ろはかなり古くからある広い小学校、前は田んぼが広がっていて夏はカエルの大合唱だった。

そこのアパートには大学生の男ばかり、30人ぐらいが住んでいた。
共同風呂(4,5人は入れる)、共同トイレ、共同キッチン(10円入れてガス使用)、隙間だらけのドア。
電話は共通回線、部屋は4畳半、窓は小さいのが1つ。
家賃1万2千円、共益費3千円。
部屋に入った第一印象は「独房」だった。

僕は入学式まで学校がそんな田舎にあることを知らなかった。
1,2回生は京都の“ちょっと南”で、その2年を過ぎれば3,4回生は京都御所の隣という最高のロケーションという認識だった。
その「ちょっと南」というのがくせものだった。
入学前の準備のために母親と始めて大学に行くことになった時、京都駅から近鉄電車であまりに南へ下っていくので何か間違えていないかと何回も路線図を確認した。
そして最寄の駅に着いた後、駅から遥か山の上にそびえたつ茶色の建物を見て、その学校を選んだことを激しく後悔した。

そのアパートは大学の下宿案内で見つけた。
ワンルームマンションに憧れはあったものの、家庭の経済状況からできるだけ安いところを探していた。
母親は坂を登ったことで疲れ果て、あまり下宿を見て回りたくないようだった。
そこで安い所を2つか3つぐらいしか物件を見学しなかった。

帰りに真っ暗な道を駅まで歩き近鉄に乗ったものの、疲れて気分が沈みこみ母親と全く会話がなかったことをよく覚えている。
そして家に帰った後、結局学校から近くて安くて風呂付というのが決め手になってそのアパートに入ることが決まった。

 

はじめはホームシックもあって気が塞いだものの、「住めば都」とはよく言ったもので慣れてしまえばそこでの下宿生活は楽しかった。

みんな同じ大学生で風呂もトイレも共同なので、すぐ話すようになった。
特にその内の7、8人は毎晩こないだ電話をくれた知人の部屋に集まり、語り合ったり、ギターを弾いて歌ったり、マージャンやゲームに明け暮れた。
毎日楽しく、青春だった。
 
この頃のマージャンに関してのエピソードで忘れられないのが最初の試験中の事件だ。
僕は大学に入ってすぐの頃、学校に対して絶望していた。
講義はほとんどが大教室で、全く熱意が感じられなかった。
おまけになんの苦労もなく入学してきた(ように見える)大量の付属高校あがりの人たちを見て、受験勉強ってなんだったんだろう。。。と社会の仕組みにひねくれていた。
 
それに加えてよく覚えているのが今は学長になっている教授が一般教養講義「経済学」のなかで、一発目に「君らは会社に入ったらトップの国立大学出身者に一生使われる立場だ」などと言っていた。
よくあんな人物が学長になれたものだと思ったが、政治力なのだろう。

そこで一念発起して何かまっとうに努力すればいいものを僕は同じアパートの住人Tと「日本は腐っている。大学を受けなおして官僚になろう。」とか、アホ全開で非現実的なことばかり話していた。
そんな中、夏休み前最初の前期試験に入った。
僕とTは「大学を辞めよう」という結論に達しつつあったのでまるでやる気がなかった。
いつもと変わらず毎晩マージャンをやろうとした。
マージャンは当然あと2人必要だ。
他のメンバーは重要な試験の前日などは外して、入れ替わり立ち代りだった。
今思うとみんな若かったので「試験なんて屁でもねーよ」みたいな態度を取るのが少し格好いいと考えて僕らに付き合っていたのだろう。
そんな中、Tは翌日最も重要な試験がある中で負けが込んでいた。
その時は彼と同じ学部のJ君が勝っていて、夜遅くなって「そろそろ抜けたい」と言った。
そうすると彼はいきなり部屋を出て、戻ってきたら手に包丁を持っていた。
そして畳に軽くさくっと刺して、楽しそうなそれでいて血走った目で「抜けたら刺す」と言った。
僕はすぐにジョークだと思ったがJ君ともう1人は本気と受け取ったらしく、そこから無言で朝までマージャンを打った。。。。。
明け方J君と二人で風呂に入ったとき彼は「あの時は本当に怖かった」と言っていた。
それから彼は僕らと一緒にマージャンを打たなくなった気がする。
 
 
結局、夏休みに帰省して亡き父がやっていた工場で油にまみれてアルバイトをしながら考えた結果、大学をやめようという気持ちはなくなった。
「時間がある大学生のうちに外国を旅してみよう」
と決めた。
まずはインド。
高校の時の世界史の先生(唯一まともに見えた先生)やサークルの先輩が「インドはよかった」と言っていたから。
 
そして、夏休みが終わってアパートに戻ると生活は更に楽しくなっていった。
 
 
 
そんな楽しいアパート生活は管理人さんの奇行によって終わりを告げることになった。
アパートの管理人は当時45~50歳ぐらいの男性で独身だった。
彼はアパートの前でよくバットで素振りをしていた。
引越しの際アパートに来た妹が素振りをしている管理人を見て、「あの人、大豊(野球選手)に似てる」と言った。
おとなしい人というのが彼の第一印象だった。

彼は大地主の息子だったようで、たいして利益が上がるとも思えないアパートの管理人をしていた。
ほぼ毎日お酒を飲んでいた。
そして彼はポルシェに乗っていた。田舎にはとても不釣合いな車だった。
彼は自費で本も出していた。
詩集や旅行記「俺のアメリカ」など。
時々「読んでみてください」とアパートの住人に勧めていた。
穏やかでいい人だが、ちょっと危うい感じがあるというのが当時の印象だった。
 
僕がアパートに入って2年目の夏ぐらいから少しずつ危うさはエスカレートしていった。
僕らがマージャンをやっている時、いきなり怒りながらバットを持って部屋に入ってきたこともあった。
酔っぱらっていたが、その時はみんなでなだめて事なきを得た。
2年目の冬頃になると僕らがトイレに行くたびに、後ろから付いて来て窓を閉めたか確認していた。
「なんでそんなことをしているのですか?」
と聞いたら
「オウムが毒ガスを撒きますから」
と言っていた。
もう彼は別世界にいってしまったと思った。

結局、そのアパートは閉鎖されることになった。
アパートの住人が入居を紹介した大学生協に彼の奇行を伝えたのと、何より彼自身が限界だった。
ただ、学期末の3月末まではやるとのことだった。
僕らは皆引っ越すことになった。
元々文系の僕は念願の街中へ校舎が変わるので、引っ越しを考えていたところだった。
ただ、街中には行きたいものの、アパートでの生活がとても楽しくなっていたので本当に引っ越すか迷っていた。
しかし閉鎖されるということで踏ん切りがついて探し始めた。

その頃には管理人はかなりおかしくなっていたので、皆先を争うように出た。
アパートの住人が残り2,3人になった頃は管理人さんの奇行もエスカレートしていて、自分も怖くなって普段はかけない部屋の鍵をかけて寝ていた。
引越す当日、多分自分は最後の一人だったが、彼はそれまでにない、とても穏やかな顔をしていた。
 

アパートは僕らが出てしばらくして取り壊された。
アパートを出てから10年ぐらい経って、跡地を見に行ったら草が生い茂っていた。
昔、たんぼだったところには家が建ち並んでいた。

あのアパートでの2年間はとても楽しかったが、今となってはあまり現実感のない御伽噺のような感じだ。
 
 
 
 
 
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『自分のすることを愛せ』

2010年12月10日 | 日記

鍼の往診先で、とても映画好きな方がいる。

以前はよく映画館にも足を運んでいたようだが、今は自宅に大きなTVと素晴らしいオーディオ機器をつないでDVDで楽しんでいる。
その方に「ニュー・シネマ・パラダイス」の完全オリジナル版DVDをお借りした。
大分前に借りていたのだが、一人で観たかったのでチャンスを待っていたところ、こないだ嫁さんが子供を連れて実家に泊まりに行ったので、ようやく観ることができた。

「ニュー・シネマ・パラダイス」は僕が高校生の頃公開された。
ちょっと大人びた映画好きな友人が「良かった」と言っていたのを良く覚えている。
それから20年、遅ればせながら今回が初めての鑑賞となった。

感想は「すごくよかった」。
最近、あまり映画やDVDを観ていなかったのだが、これは久々に感動した。
175分の長さを感じさせず、引き込まれた。

 


『自分のすることを愛せ』


トトを送り出すとき、アルフレードが言った言葉。
高校生の頃、この映画を観ていても感動しなかったかも知れないし、上の言葉も聞き流していたかも知れない。
でも、もし今、高校生の頃の自分と会えるなら、観ることを勧める。
そんな映画だった。







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2010年12月05日 | 日記

今日は天気がよかったので、ながら川ふれあいの森に行ってきた。

こないだ行った一宮の極楽寺公園と迷ったが、今回はちょっと足を伸ばして木曽川、長良川を越えて三田洞まで行った。

ここは近くに温泉もあり、山のにおいが濃くて、好きな場所のひとつだ。

今まで何度か行っているが、まだ全部を歩いてはいない。
特に子供を連れて行くようになったので、抱っこして歩ける範囲だけだ。

でも、ちょっと散策するだけでも、すごく気持ちが良い。
広場の木の下で寝転がって、山を眺めているといると、すごく時間がゆっくり感じられて、何となくネパールのポカラを思い出す。
これで湖とあの山々の向こうにヒマラヤがあったらなぁと行く度に思う。

子供も大満足だったようで、よく歩いて、よく遊んで、よく食べていた。
今夜はぐっすり寝てくれることだろう。





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