万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

国葬が問う国家と政治家個人との関係

2022年08月11日 12時33分04秒 | 日本政治
 安部元総理の国葬問題は、法律上の議論に加え、国葬というものについて改めて考えてみる機会を与えているように思えます。国葬とは、その名の通り、国家が主催して葬儀を執り行う葬儀の形態を意味します。

国家とは異なり、人は生物である限り誰もが死を迎えますので、葬儀とは、本来、特定の人物の死に関わる私的な事柄です。ところが、国葬のみならず、しばしば、葬儀というものが公的に行われる場合があります。今日では減少傾向にありますが、例えば日本国では、社葬や学校葬といった、故人が所属していた組織が執り行う形態もありました。在任中ではなく退職後であっても、幹部職に就任した経歴を有する人が死去した場合には、組織が葬儀を挙げるのが慣例となっていたのです。‘組織葬’はごく一般的な出来事として身近に見られたことから、国葬という形態に対しても疑問に感じる人はそう多くはないのかもしれません。こうした葬儀の形態は、亡き人を悼むと言うよりは、これまでの仕事や業績に対する組織としての感謝の気持ちが込められているのでしょう。もっとも、‘組織葬’、特に、政治家の国葬については、今日、およそ3つの側面から曲がり角に来ているようにも思えます。

第一に、今日の民主的な統治制度にあっては、政治家とは、選挙による当選を経て就任し、法によって定められた任期の間のみ職務に当たる短期的な職業です。‘誰もが政治家になり得る’という民主主義の建前からすれば、落選や立候補の見送りなどによって議席を失えば、如何なる政治家も‘ただの人’となるのです。今日、政党という存在が、政治家という職を‘終身雇用化’しているのですが、制度としては選挙ごとのにポストの就任する人物が入れ替わることを想定しています。企業における社葬という形態の減少は、終身雇用制の揺らぎと無縁ではないのでしょう。

もっとも、民主主義国家であっても、大統領を務めた人物を国葬としてきたアメリカ等の事例を挙げて、日本国の首相の国葬を支持する反論もあるかもしれません。しかしながら、日本国は議院内閣制の国ですので、首相と国民との間にあって直接的な責任・信託関係が成り立っていません。国民は、普通選挙によって国会議員を選んではいても、実質的に首相を選んでいるのは政党です。この現実からすれば、元首相の葬儀は、国葬よりも党葬が望ましいと言えましょう。

それでは、議院内閣制における首相であっても、飛び抜けて国家に対する貢献度が高い人物であれば、国葬とすべきなのでしょうか。第二の側面として、政治家の国家に対する貢献度に関する評価が極めて難しい点を挙げることができます。政治的自由が保障されている民主主義国家では、政治家に対する国民の評価基準はまちまちであり、同一の人物であっても、国民の評価が分かれることも珍しくありません。

安倍元首相のケースでも、その経済政策であるアベノミクスに対しては、新自由主義に大きく傾斜したことから、左派のみならず保守層からも厳しい批判がありました。ましてや、安部元首相と元統一教会との関係が明るみに出たことにより、日本国を守る保守派の旗手としてのイメージも損なわれています。マスメディアの多くは、元統一教会の信者に対する多額寄付体質や霊感商法と言った反社会的な活動に焦点を当てて報じていますが、最大の問題点は、同新興宗教団体が、反国家、即ち、日本国の支配をもくろむ反日本国的な体質の組織であったことにありましょう。このため、元安倍首相が日本国という国家とその国民に貢献したのかと申しますと、大きな疑問符が付いてしまうのです。

また、貢献度という尺度ではなく、政権の時間的な長さを判断基準とするにしても、理由の後付けのような観は拭えません。安部元首相が銃弾に倒れなければ、国葬はあり得なかったことでしょう。また、長期政権化に価値があるならば、独裁化を肯定的に評価する前例ともなる懸念もありましょう(長ければよいというものでもない・・・)。また、岸田首相は‘世界’からの高い評価を国葬の理由として強調していますが、内外の評価が逆となる場合もあります。むしろ、海外からの賞賛される指導者の真の姿が、海外勢力の手先であるケースもあるのですから。なお、国民の誰もが納得する国葬とは、おそらく、戦争や公務の遂行に際して自らの命を捧げ、殉職された方々なのでしょう。しかしながら、元統一教会がらみの事件ですので、安部元首相は殉職でもないのです(海外勢力による暗殺であっても、その理由が判明しない限り、殉職とは判断できない・・・)。

第三の側面は、組織と個人との未分化です。かつて日本国の企業は、‘村社会’であると評されてきました。家族的なアットホームな関係であればプラス面となるのでしょうが、組織内における上司・部下の関係が私的な領域にまで及び、休日でも上司の私用のために駆り出されることもあったのです。終身雇用制が揺らぎつつある今日、組織内における関係性はよりドライとなり、職場と私的領域とを分ける傾向が強まっています。 ‘人生百年’とも言われるように寿命が伸びたこともあって、一端、組織から離れますと残りの人生は、個人として生きることとなるのです。

‘君主’などといった終身制の地位であれば、国葬は、当然のこととして国民に受け入れられるのかもしれません(もっとも今日では、君主であっても、国家との一体性が著しく希薄化している・・・)。しかしながら、安部元首相の場合、衆議院議員という公的な職にはありましたが、既に首相職からは離れています。首相を務めたという経歴が、どれほど日本国という国家と政治家個人の‘一体性’の根拠となるのか、疑問と言わざるを得ないのです(首相経験者を基準とすれば、反日政策を遂行した村山元首相や鳩山元首相も‘国家的な存在’に・・・)。

以上に主要な論点として三点ほど挙げてみましたが、国葬という葬儀の形態につきましては、今日的な視点から再考してみる必要があるように思えます。安部元首相の歴史的な評価が定まるのは、隠されてきたあらゆる事実が明らかにされた後となるのでしょうが、少なくとも、国葬を当然のこととして捉えてはならないように思えるのです。

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