万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

国民の“自由な選択”が国民を縛る民主主義のパラドクス

2017年09月30日 16時32分24秒 | 日本政治
自民34%、希望19%…比例投票先・読売調査
 昨今の日本国の政治状況と混乱ぶりは、現行の政治システムの欠陥を自ずと浮かび上がらせているように思えます。その一つは、政党主導型の選挙方式では、民主的選挙が国民を一定の方向に誘導する非民主的手段となるという、民主主義のパラドクスです。

 通常、憲法において国民の参政権と政治的自由が保障されており、多党制の下での普通選挙が実施されている国家であれば、民主主義国家のカテゴリーに分類されています。民主主義諸国のカテゴリーに入る諸国ではこれらの要件を満たしており、国民も、自国が民主的国家であることに疑いを抱きません。しかしながら、民主主義を“国民の、国民による、国民のための政治”と述べたアブラハム・リンカーンの言葉を思い浮かべますと、実のところ、上述した要件のみでは、民主主義が実現したとは言い難いように思えます。

 民主主義とは、被統治者の一部が、被統治者の信託を受けて統治権を預かる自治体制です。選挙とは、統治権を行使する公職、即ち、政治家を選ぶ制度であり、普通選挙が民主主義の要となるのも、それが自治を実現するためには必要不可欠であるからです。民主主義の基本的な流れは、「国民⇒政治」なのです。ところが、現行の政党政治のシステムでは、この流れは逆方向を向いています。政治家、否、政党が自ら率先して政策を国民に立案し、国民に選択を迫る「政治(政党)⇒国民」となっているのです。

 一般の国民は統治のプロではありませんので、専門家としの政治家が政策を立案すること自体は理に適っており、取り立てて批判すべきことでもありません。しかしながら、国民の要望や要請(「国民⇒政治」)、あるいは、必要性が存在しないにも拘わらず、唐突に政党側が政策を並べて公約とし、一括方式で国民に選択を迫るとしますと、そこには、一方的に政策を国民に強要する非民主的で傲慢な支配者の顔が見えてきます(「政治(政党)⇒国民」)。

すなわち、すべての政党が、特定のイデオロギーや思想をバックにしており、外国や内外の特定組織への利益誘導を目的とし、公約の一括方式を悪用して悪しき政策を混ぜ込んでいる場合には、教科書的には‘選挙とは、国民の自由な政治的な意思を表示する手段’でありながら、実質的には‘選挙とは、国民が、自らの首を自らの手で絞める手段’に過ぎなくなるのです。

例えば、二大政党制の場合には、A党もB党も、社会改造主義に基づく諸政策を公約として掲げれば、国民は、どちらを選んでも、政府による上からの改造計画の対象にされてしまいます。しかも、民主的国家では、選挙結果は政権の正統性を支えますので、国民に著しい不利益を与えたり、国民の生活基盤を破壊したり、国民性や常識に反する政策であっても、議論らしい議論を経ることもなく、それは、国民が自らの自由意思で選択したということにされてしまうのです。実際には、政党による選択の強要であるにも拘わらず…。

 現行の政党政治の仕組みは、明らかに政治プロセスに問題があるように思えます。このパラドクスを解くためには、まずは、「国民⇒政治」という本来の流れを取り戻すべきなのではないでしょうか。民主的選挙を重ねれば重ねるほど、国民が政党によって一方的に政策を押し付けられ、自治から遠ざかる仕組みは、真の民主主義ではないと思うのです。

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2 コメント

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Unknown (オカブ)
2017-09-30 17:27:33
倉西先生
いつもご指導ありがとうございます。
先生ご指摘の、間接民主制におけるパラドックスと弊害は、以前からネットでも指摘されており、ITテクノロジーの進歩の先には直接民主制が大規模国家でも実現するのではないかと真面目になって発言する者も居ります。
その実現可能性とデメリットはさておき、間接民主制=政党政治の害悪は、今回の政界再編騒動で露呈しており、いずれかの機会にその本質的問題点が批判の対象となることと思います。
一方で、政治を動かしているメカニズムは為政者=有権者によるものであり、それを決するのは投票行動である、という欺瞞はもはや隠し切れないものがあります。
近年の選挙に見られる棄権率の高さからして、有権者は自らの利害を決定するプロセスとして、公的な選挙はあまり意味を持たないと感じていると思います。
多くの有権者は職業人であり、その職場内での政治(オフィス・プリティックス)や属する企業の業績、自らの昇進などの方が、クリティカルな利害に結びついているので、国家や自治体の政治にはあまり関心を示さなくなっています。
一方で、公的機関の意思を決定するのは選挙結果だけかというと、そんなことはないわけで、企業はもとより、様々な圧力団体、NPO、NGO、労組、宗教団体、市民団体、経済団体、さらには外国人団体などが日常的に、国家や自治体の意思決定に権力を行使しており、一般庶民の有権者はそのことを見抜いて、選挙を通じての政治参加があまり有効かつ意味のあることではないと感じているのではないでしょうか?(横道に逸れますが、上記の文脈で日本は既に外国人は"参政権"を有していると私は考えています)
そして上記のような団体があまりに日常的に強大な権力を行使しているので、一般庶民は最早、政治参加の意欲すら失っていると言わざるを得ません。
先生、ご指摘のパラドックスに加えて、このようなパラドックスもありますので、これをどのように解消していくかが、21世紀を通じての近代国家の課題になるのではないかと思います。
もちろん為政者が問題を問題として認識することこそがまずは先決なのですが、余りにも事が民主政治の根幹にかかわる矛盾なので、問題が顕在化することは難しいかもしれません。
まずは学壇で、このあたりの問題をきちんと研究し、議論することが端緒なのではないでしょうか?
オカブさま (kuranishi masako)
2017-09-30 20:52:48
 コメントをいただきまして、ありがとうございました。

 オカブさまのおっしゃられますように、様々な利益団体が政治過程に影響を及ぼし、その一方で、参政権を有する一般の国民が無力感に襲われる現象は、我が国のみなず、全世界的な現象なのではないかと思います。本記事では、この側面に加えまして、私には、水面下にあって新自由主義、並びに、社会・共産主義が目指す人間改造計画や社会改造計画が着々と歩を進めているのではないかと推察しております。これは、左派勢力のみならず、ドイツのCDUにも観察されるように、保守系政党にも浸透しておりまして、どの政党に投票しようとも、、国民には、選択の余地が殆ど残されていないのです(ドイツの場合には、一先ずは、AFDがまさに”ドイツのための選択肢”を残していたわけですが、この政党の背後にも、”挟み撃ち戦略”が潜んでいるかもしれない・・・)。直接民主主義にも重大な短所がりますので、全面的な導入は困難ですが、せめて、既存の制度としては国民投票やイニシャチブ、さらに願わくば、アラカルトで政策を選択できる制度や国民が望ましくないと判断した法案を拒否できる制度など、政治制度に改良を加えてゆきませんと、気が付いた時には、一部国際勢力によって、国民国家体系が破壊され、人類は、単一化されたグローバルなスラム文化に染められると共に、家畜レベルまで劣化させられるのではないかと懸念しております。

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