クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生城”へ行きませんか?(59) ―上州の膳城と山上城―

2008年10月07日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
天正2年(1574)閏11月に羽生城が自落したのち、
羽生領を支配下に置いたのは“忍城主成田氏”だった。
いわゆる羽生領の併合である。
これによって成田氏は、その勢力を拡大したと言えよう。
ただし、羽生領全域の併合ではなかったようだ。

羽生城は自落したとはいえ、
すぐに城として機能し始めたのだろう。
「成田記」や「成田系図」によると、羽生城代として入城したのは、
成田長泰の弟“向用斎”らであった。

上杉謙信の引き取りに同行せず、
羽生に残った者たちは成田氏に属したらしい。
また、忍領から羽生領に移り住む成田氏家臣もいた。
上杉と北条が衝突する地ではなくなり、
羽生領は元亀天正期に比べて平穏に包まれていたようだ。

一方、羽生を撤退した忠朝の二男“木戸元斎”と“菅原為繁”は、
上州の膳城と山上城に配置された(『前橋風土記』)
前者は天正6年3月、後者は天正8年1月に、
“赤城神社”に羽生回復の祈願状を出している。


膳城(群馬県前橋市粕川町膳)


山上城址碑(群馬県桐生市新里町山上)


赤城神社(最初の画像も)


北埼玉から見た赤城山

元斎は、謙信の関東出陣の動きを耳にして、
羽生回復を期待したのだろう。
もし本意を遂げたならば、
川俣・志多見・常木の内3貫文の土地を寄進すると祈願している(「奈良原文書」)

しかし、謙信は同6年3月9日に春日山城で倒れ、
13日に息を引き取った。
元斎は大きな失望と共に、
謙信に属し後北条氏や成田氏と戦った羽生城時代の日々が、
その胸に去来したかもしれない。

一方、山上城の菅原為繁は、“武田勝頼”の関東出馬を聞いて、
赤城神社に祈願した(「奈良原文書」)
天正2年に羽生を撤退したとはいえ、
城を回復する夢はずっと続いていたのだろう。
菅原為繁は自落後も謙信に夢を託しており、
天正5年正月に「樽肴」の返礼を謙信から受けている(『歴代古案』)

しかし、謙信が没したあと、新たな望みの綱であった武田氏も、
“織田信長”によって滅亡した。
彼らの望みは再び失望に変わったのである。
(続く)


膳城の本丸


膳城に残る石塔


膳城の曲輪と堀


同上


膳城


同上




山上城遠景


山上城の堀と土塁


山上城の堀と曲輪


山上城内にて


夕陽に染まる山上城

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