アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

墓下005 源為義   源頼朝の祖父

2017年06月22日 13時41分19秒 | 墓所

 

源為義の墓

為義は世に六条判官とよばれ、源氏の棟梁であったが、保元の乱に敗れ、朱雀野において処刑された。この墓は権現寺の北にあったが、明治45年(1912)国鉄山陰線の敷設によって移された。

源為義の後裔と称する人が、貞享年間(1684~88)頃に建立した。保元の乱には崇徳上皇に加担し、後白河天皇の軍と戦って敗れた。乱後、捕えられ、息子の義朝の助命嘆願にかかわらず、処刑されたという悲劇的な人物であったので、後の世の同情を得るに至った。為義の塚が現在の中央卸売市場の地に当たることが、当時の絵に残されている。

本当の墓は円覚寺といわれている。現在の岡崎公園北部の地にあったといわれている。室町時代の頃には愛宕山の西麓の水尾に移された。水尾の円覚寺にある貞純親王塔の傍らには、源氏一族の供養塔といわれる石塔数基がある。いずれも岡崎の円覚寺から移したという伝承かある。

建立年 1912年

建立者 京都府

源為義(1096~1156)は平安時代の武将。保元の乱で崇徳上皇方に味方したが敗れ,長男義朝のもとへ降伏し『保元物語』によれば「七条朱雀」で斬首された。

  「七条朱雀」すなわち千本七条附近(山城国葛野郡朱雀村)にあった塚と塔が為義の墓所であるという伝承を生み,江戸時代の地誌に記されることが多い。「源為義塔 按保元物語,源為義入道義法,於七条朱雀被斬首,則納円覚寺云々,今朱雀権現堂前竹林,塔之所存則古円覚寺之跡乎」(『雍州府志』巻十),「源為義の塚は権現堂の前[朱雀の六軒町といふ]民家の間にあり」(『都名所図会』巻四)などの記事がある。また『都名所図会』には18世紀中ごろの為義塚周辺を描いたさし絵を載せる。

  しかし明治末からの梅小路貨物ヤード整備にともない,権現寺とともに現在地に移転を余儀なくされた。旧地は現山陰線軌道敷内,七条通より少し北の地点であろう。移建の経緯を記したのがこの碑である。現在は塔(五輪塔)および江戸時代初期に建立されたとみられる碑,本碑,および石標六条判官源為義公塚が権現寺門前の一区画に集められている。

 

 源為義旧址在葛野郡大内村大字朱雀

 小字堂口二十二番地石塔在焉明治壬

 子官有京都停車場擴張之事其塔入域

 内因移此地以保存焉旧址在東偏八十

 壱度三十四分相距実百三十八間六分

 因建石以表之

    明治四十五年三月      京都府

建立年 1910年

建立者 高沢虎之助

 六条判官源為義公塚

 明治四十三年九月建之

 広島県高田郡生桑村住人

    高澤虎之助建之

 

 

平家物語 ➡  義経・弁慶 伝説  源平物語 

墓所 前回の記事 ➡  墓伏004  元政上人御廟

五七五

ふるさとを 守ってくれる みかんの木 /坂根

ことわざ

鯖を読む



最新の画像もっと見る