アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数4300 ミニ・テーマで京都をめぐります 随時記事更新中

祠上012  松永稲荷大明神 は  聚楽第 の  鵲橋(かささぎばし)

2016年06月24日 06時59分45秒 | 聚楽第

 

石柱には 彫りが浅くて見えにくいですが 聚楽城 鵲橋(かささぎばし) と書かれています

   南堀に架けられていたいう橋のあった場所の名残 

昭和36年(1961)でこの辺りで行われた

下水道工事の時に多くの石の欄干や擬宝珠が地中から出土したとのことです。 平成28年6月23日 追加

祠 前回の記事 ➡   祠上011  多己龍神  町の小さな祠  

 


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石碑上0038  戦国時代の終わり 京都の聚楽第 武家屋敷 上杉家址  

2016年06月22日 15時18分29秒 | 聚楽第

聚楽第の周囲には武家屋敷が作られた。その1つ 上杉家

上杉屋敷址

当地は平安京一条大路のすぐ北にあたる。つまり平安遷都当初は都市域ではなかった。が、西隣地(一条大宮上ル西側一帯)に平安中期の能書家、藤原行成世尊寺を創建したと推定されており、京外ではあるが当地も早くから開発されたと思われる。

室町時代には、備中国(現岡山県)に勢力をもつ細川勝久の屋敷が営まれた。応仁の乱では一族の細川勝元に属したため、応仁元年(1467)5月、当地も洛中での最初の合戦にまきこまれた。

応仁の乱から約120年後、天下統一を進める豊臣秀吉は、京都に本拠を定めた。征夷大将軍ではなく、関白として、天皇のそばで政権維持を考えたためである。

そのため洛中に本格的な城郭を建設した。現在の一条大宮の西南一帯に位置した聚楽城である。注目すべきは、全国の大名が、秀吉の命により聚楽城のそばに大名屋敷を営んだことである。すなわち京都は単なる豊臣家の中心地ではなく、『武家国家の首都』になったのである。

当地にはその際、北国の大名、上杉(弾正少弼)景勝の屋敷がつくられた。重臣直江兼続も出入りしたことは間違いなかろう。

以上 平成28年6月22日 文追加

上杉景勝の別名の名 弾正の名のついた町名が現在も使われています 屋敷跡の名残でしょうか

 石碑前回の記事 ➡ 

  石碑上0037   皇紀2602年 大東亜建設記念 と記されています 

 

 


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名水上001  聚楽第 梅雨の井 今は荒れ果てて・・・ 

2016年06月22日 07時26分21秒 | 聚楽第

荒れてれてはいるが残っています どうなっているのでしょうか

 

 

 

 

名水上001 梅雨の井

史蹟 聚楽第遺址 豊臣秀吉造営するところの聚楽第の内のありし井戸なりと遺す此地はもと聚楽第内部の東南隅に近き處にあたる

昭和3年3月  京都府

 

梅雨ノ井 昔聚楽第御城有し時太閤秀吉公御茶の水給ふ井の深さ一丈余 岩を組みたる井筒あり、高さ二尺三寸、四方各三尺五寸あり。梅雨の入より水、井筒の上へ越して外へ流れたる。梅雨の井の東数歩に八雲神社と樹幹径二尺五寸許神木と稱せらるモチノ木あり。

平成2年1月の地上げにより、神社とモチノ木は破壊されたが、遺蹟復元の請願書は市議会で採択(平成2年12月15日)。私たちは文化と歴史の町、京都で暮らしに息づく史跡を守り復元させ生活を守ることを宣言する。

平成4年7月吉日 聚楽第遺蹟梅雨の井と住環境を守る会

説明文 平成28年6月22日 追加

これでは、案内して人を呼べる状態じゃないですね

 

鵲橋旧跡 と 赤丸が2つある場所の 右の赤丸が 梅雨の井の場所

 関連記事  ➡  各所の 手押し井戸ポンプ

 


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まち歩き上0111  聚楽第 北之丸 北堀 跡 あたりの段差 

2015年05月01日 02時45分59秒 | 聚楽第

この地点より 東で 聚楽第 堀址の石垣が発掘されています

北から 南を見ています

 

急に落ち込んでいます

 

東を見ると  

 

下から 上を 見上げると こんな感じです

 ここに 聚楽第 堀があったに違いない

 

まち歩き 前回の記事  ➡  まち歩き上0110   一条戻橋の話  (十二)  出征兵士  京で有名な橋 

この記事の近隣の記事は下記地図内のユーザー地図部分をクリックで検索できます

 

 

 


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石碑上0047  聚楽第 上杉家・直江家屋敷跡

2015年04月30日 08時39分37秒 | 聚楽第

 

当地は平安京の表記では、左京二条二坊八町にあたる「拾芥抄」によれば、

皇太子の事務を行う春宮坊の役人の住む町(東宮町)だった。

平安後期の承保4年(1077)9月、春宮権亮源師忠(みなもとのもろただ)の母が

住んでいたことが分かっている。(「水左記」)

 応仁の乱の戦禍によって首都京都は一旦壊滅したが、

天下統一を進める豊臣秀吉によって近世都市として甦った。

その中心は、居城聚楽第(大名屋敷地区)である。

当地付近もその範囲に含まれ、

北国大名の上杉景勝、およびその重臣 直江兼続の屋敷が営まれたと思われる。

直江兼続は、秀吉からみれば陪臣にあたるが、上杉景勝と同様に豊臣姓を賜るなど優遇された。

「上杉年譜」によれば、天正17年(1589)、上洛した出羽国(現山形県)の大名、

大宝寺千勝丸(のち義勝)が直江兼続屋敷を旅館に使用したとあり、

洛中の同屋敷は確実に存在した。

その位置は不明であるが、江戸中期の宝暦12年(1762)刊行の「京町鑑」は、

当地の南隣の「直江町」を直江屋敷跡と伝承する。

江戸初期に描かれた「京都図屏風」をみれば、当町はもと「なおい町」だった。

兼続屋敷跡の重要参考地といえる。

上杉景勝屋敷は天正16年(1588)に得た一条戻橋西入ルの地が知られるが、

「輝元公上洛日記」によると、

同じ頃、聚楽第の東南方向の毛利輝元屋敷の右側に宇喜多秀家屋敷があり、

左側には上杉屋敷もあった。これは一条戻橋ではありえない。

現「浮田町」・「森中町」をそれぞれ宇喜多・毛利両屋敷の遺称地と推定できるため、

その東隣地が、上杉屋敷跡(長尾は旧名字)に比定される。

すると先にふれた「直江町」(兼続屋敷推定地)と「長尾町」が近接することに気づかれる。

景勝・兼続の深い関係を鑑みれば十分ありえることだろう

 

 関連記事 ➡  石碑上0038  戦国時代の終わり 京都の聚楽第 武家屋敷 上杉家址  説明追加  

石碑 前回の記事 ➡  石碑上0046  日本盲啞学校発祥地  

 

 

 


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石碑上0043  聚楽第 (秀吉の造った城)  西堀の跡

2015年04月26日 13時06分48秒 | 聚楽第

わずか8年間しか存在しなかった 完全に破壊された  東から西を向いて撮影

平安時代の大内裏と重なっています

 

聚楽第 本丸西濠跡

 

かつてこの一帯には、平安時代に平安宮(大内裏)があったことから「内野」と呼ばれてした。安土桃山時代に平安宮跡北東部分に豊臣秀吉によって築かれた聚楽第と呼ばれる城があった。

 

秀吉は羽柴秀吉と名乗っていた天正14年(1586)に聚楽第の築城を開始し翌15年に正室の北の政所(おね) 母の大政所とともに大阪城から移り住み政務を執るようになった。その後秀吉と甥で後継者である秀次の二代にわたる関白の城として使われ豊臣家による洛中支配の象徴として機能した。

 

この城は幅20mから43m 深さ6mから8mもある水を湛えた大規模な濠と石垣に守られ白壁の土塀や多重塔で囲まれた内側に檜皮葺の本丸御殿と金箔瓦で飾られた天守や櫓がそびえるじゅんらん豪華な城郭であった。城は内郭と外郭の大きく2つに分かれ、内郭はさらに本丸 南二の丸 北の丸 西の丸に分かれる

 

これまでの考古学的な調査によりこの石碑の立つ本丸西側の濠をはじめ本丸の東側と南側の濠 南二の丸の南側と西側の濠 さらに北の丸の北濠と石垣などが明らかにされた。特に本丸東側の濠跡からは多量の金箔瓦が出土し国の重要文化財に指定されている

 

天正16年(1588)には後陽成天皇の行幸も行われたこの豪壮な城郭も秀次の失脚に伴い築城者である秀吉の命により文禄4年(1595)に破却され、わずか9年の短い歴史を閉じている

 

図の左 聚楽第石碑 となっている所が現在地

  

石碑 前回の記事 ➡  石碑右0042  陶工 野々村仁清 窯址 

 

 

 

 


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石碑上0040  聚楽第 東壕跡 

2015年04月23日 11時15分45秒 | 聚楽第

大宮通り沿いの 東堀は、深さは地表面から 8メートル以上もありました。

多量の金箔瓦が出土しました

 

 

ここは、聚楽第東壕跡石碑  と書いてある所です

 

石碑前回の記事 ➡  石碑上0039  黒田如水邸 址  

 


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石碑上0039  黒田如水邸 址 

2015年04月22日 20時07分34秒 | 聚楽第

大河ドラマ で 放映された 黒田官兵衛 のち 黒田如水に改名 の 屋敷跡

昭和4年3月 建立

関連記事  ➡

  夫人の肖像画はここに   寺院上0079  報土寺 浄土宗   門が重要文化財  

  息子 長政が亡くなった寺 

         報恩寺  鳴虎の報恩寺といわれる、古い石橋、つかずの鐘、黒田長政  話題が多い  

石碑 前回の記事  ➡ 石碑上0038  戦国時代の終わり 京都の聚楽第 武家屋敷 上杉家址 

 

 


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