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史跡伏022 淀城跡

2017年11月21日 20時59分02秒 | 史跡・旧跡

 

 

何のための石でしょう     城の礎石か

 

淀城の由来

徳川二代将軍秀忠は、元和5年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じたこの地は淀船経営者、河村与三右衛門の屋敷地で、元和9年(1623)に着工、寛永2年(1625)に竣工した。伏見城の天守閣は二条城へ、二条城の天守閣は淀城へ移築されたらしい。翌寛永3年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。

寛永10年(1633)松平定綱が国替えにより永井尚政が城主となり、寛永14年から2年がかりで木津川付け替え工事を行い、淀と納所の間の間の宇治川には「淀小橋」を架け、また淀と美豆村との間の木津川には「淀大橋」が架けられた。その後、寛文10年(1670)石川定之、宝永8年(1711)松平光煕、松平乗邑と替わり、享保8年(1723)5月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏10万2千石の居城であった。

鳥羽・伏見の戦いのとき、鳥羽街道(大阪街道)や伏見から敗走してきた幕府軍の兵士が、やっとの思いで淀までたどりつき、淀城に入ろうとしたが城門は閉ざされていた。淀藩が幕府軍の入城を拒否したのである。敗残の兵士はやむなく大阪城まで行かねばならなかった。そして慶長4年(1868)1月5日、薩長軍が淀まで進出すると、今度は城門は開かれ、薩長軍を迎え入れたのである。このとき淀藩は幕府を見限っていた。

江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし『淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると』のうたで名高い水車は直径8メートルもあり城の西南と北の二ヵ所に取付けられていた。淀城とその城下町の盛観は延享5年(1748)5月2日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を移した「聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。

昭和62年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦6年(1756)の雷火で炎上いる以前の雄姿を偲ばせるものである

なお秀吉が天正16年(1588)淀城を修築し、ここに愛妾淀君を囲ったことから、淀の地名は有名になった。淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなく、この位置から北方約500メートルの納所にあったと推定されている。

京都市

 

山城の国 淀藩主 永井尚政の指示で家老 佐川田喜六らに水車を作らせ宇治川より城内に水を引きいれるようにした。仲間として「石川丈山」「松花堂昭乗」「小堀遠州」「本阿弥光悦」などがいた。佐川田喜六は一休和尚を慕い晩年は一休寺のそばに庵を結び生涯を終えたそうだ

はすの花の名前 「淀姫」

1995年全国はすの会で淀姫と命名されました。約260年前よりこの地にあるとのことです。明治18年頃にこの堀に植えられました。淀観光協会

淀城趾 松昔嵐(しょうせきらん)  「松の木の名前」

昭和38年12月18日 棟方志功がこの地を訪れ松の名前を付け 松画に残す

淀城に徳川家よりあずかりの品

国宝 曜変天目茶碗(南宋時代)

 

 

 

高架は 京阪電車

 

城内を見下ろす

関連記事 ➡  ゆかりの地 朝鮮通信使

          まち歩き伏0656 京阪電車 淀駅前の水車

          石碑伏0140  明治天皇御駐蹕之址

          石碑伏0141  喜界・淀 姉妹提携記念

          石碑伏0142  淀城址

                   石碑伏0143  慰霊碑  淀町出身戦没者

                   石碑伏0144 田辺治之助 君記念碑

          神社伏0118  稲葉神社

          御大典伏015  紀念植樹 淀城址内

史跡 前回の記事 ➡ 史跡大津021  寺田屋 お登勢の実家は 大津にあった

五七五

初雪やはじめて見たる淀城址 /虚子

名ばかりの淀の城址や大根蒔く /暁明

枯芦に日ざしとどかず淀城址 /青峨

ことわざ

舟に刻みて剣を求む

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史跡大津021  寺田屋 お登勢の実家は 大津にあった

2017年04月11日 05時58分18秒 | 史跡・旧跡

 

升屋跡

お登勢 文政13年(1830)~明治10年(1877)

墓所 京都市伏見区鷹匠町 松林院墓地

お登勢は大津の公事宿「升屋」を経営していた山本重助の次女で、伏見の船宿「寺田屋」六代目主人寺田屋伊助の妻となった。以後、寺田屋はお登勢が切り盛りして多くの幕末志士の面倒をみた。

元治元年8月1日(1864年9月1日)京都の青蓮院塔頭「金蔵寺」でお龍と内祝言をあげた坂本龍馬は寺田屋お登勢にお龍を託す(お龍の回想録『反魂香』)。慶応2年1月23日(1866年3月9日)深夜、龍馬は寺田屋で伏見奉行所捕方の奇襲を受け手傷を負いながらも逃げのびて、以後お龍と行動を共にする。この間約1年半、お龍はお登勢のもとで暮らしていた。そのお登勢の実家「升屋」がこの地にあった。丸屋町宗門人別改帳からお登勢とその家族が確認できる。

関連記事  ➡     史跡伏019  寺田屋 坂本龍馬ゆかりの宿

           お登勢の墓所  寺院伏0307  松林院 

史跡 前回の記事  ➡  史跡東020  夢の浮橋 跡

 

五七五

診察券 今年も1枚多くなり /浜田

ことわざ

芋頭でも頭は頭(いもがしらでもかしらはかしら)

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史跡東020  夢の浮橋 跡

2017年01月28日 11時22分25秒 | 史跡・旧跡

 

 

かつて、この地に夢の浮橋が掛かっていた。この橋は、四条天皇をはじめ、歴代天皇、后妃等の墓所が多い泉涌寺に詣でる本道に架けられた橋であり、古くから大路橋若しくは落橋と呼ばれていた。夢の浮橋という名は、源氏物語・宇治十帖の「夢の浮橋」の名に因み、この娑婆世界に無常の様が、夢のごとく、また浪に漂う浮橋のごとく、はかないものでるという例えからとったと伝えられている。川の流れは泉涌寺の後ろの山から出て、今熊野の南を巡り、更に一の橋の下を流れて鴨川に入るが、今は暗渠となり橋は取りはずされている。京都市

 

ことはりや夢の浮橋心して還らぬ御幸しば止しめむ

橋はもと長さ8.2m 6.3mの木造橋であったが、川を暗渠としてからは取りはらわれ、擬宝珠勾欄の一部が路傍に保存されていたが、現在はそれも撤去され、代わりに泉涌寺長老道円が詠んだ歌碑が建っている。

ことはりや夢の浮橋心して還らぬ御幸しば止しめむ

この橋を一に落橋といわれるのは、天子葬送のときのみに架橋され、普段は腐朽するとも改修されなかったからであり、世人はむしろ天子長久を願って橋の用をなさないことを望んでいたという。応永32年(1425)7月、中山定親は泉涌寺参詣に際し、落橋が破損して渡ることができず、やむなく橋の西にて下車した旨をその日記にしるしているので、室町時代の頃から落橋とよばれていた。

史跡 前回の記事 ➡ 史跡伏019  寺田屋 坂本龍馬ゆかりの宿

 

五七五                                      

 

次は犬飼うを聞いているヒザの猫 /森本

 

ことわざ

油を売る(あぶらをうる)

仕事中に時間をつぶしてけること、また仕事中に長々とむだ話をすることをいう。

用・「いつまでも油を売ってないで、早く職場に戻れ」

知・江戸時代の油売りが客の容器に油を移すのに時間がかかったことから、髪油を売り歩く商人が婦女を相手にのんびりと話し込みながら商売したことからともいわれる。

 

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史跡伏019  寺田屋 坂本龍馬ゆかりの宿

2017年01月05日 09時02分01秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

史跡寺田屋

 寺田屋は伏見の船宿。

文久2(1862)年4月23日,薩摩藩急進派有馬新七(1825~62)以下35名が関白九条尚忠(1798~1871)と京都所司代の殺害を計画して集結した。薩摩藩は藩士を鎮圧に向かわせたが両者乱闘となり,有馬以下9名が死亡した(寺田屋騒動)。

慶応2(1866)年正月21日坂本龍馬(1836~67)も伏見奉行所の捕方に襲われたが,難を逃れた。この石標は,度々維新史の舞台となった寺田屋を示すものである。寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し,現在の建物はその後再建したものである。

 

 

坂本龍馬の碑

明治37(1904)年2月の日露戦争開戦直前,明治天皇皇后(のちの昭憲皇太后)の夢に坂本龍馬が現れ,日本海軍の勝利は確実だと告げた。皇后はこの夢を坂本の忠魂のなせるものだと,誉めたたえ,偶然に坂本の手紙を持って逓信大臣大浦兼武を訪れた寺田伊助(寺田屋とせ養子)らに手元金を下賜した。寺田伊助らはこの記念に霊山にある坂本龍馬の墓前に石碑を建立し,坂本の忠義を顕彰した。それが京都霊山護国神社にある坂本龍馬忠魂碑であるが,この碑は霊山の碑と体裁・碑文が同一で,霊山の碑の忠実な複製だと思われる。

 

 

 

寺田屋恩賜紀念碑

 明治37(1904)年2月の日露戦争開戦直前,明治天皇皇后(のちの昭憲皇太后)の夢に坂本龍馬が現れ,日本海軍の勝利は確実だと告げた。皇后はこの夢を坂本の忠魂のなせるものだと誉めたたえ,偶然に坂本の手紙を持って逓信大臣大浦兼武を訪れた寺田伊助(寺田屋とせ養子)らに坂本を援助した功により手元金を下賜した。寺田伊助らはこの記念に霊山にある坂本龍馬の墓前に忠魂碑を建立し,坂本の忠義を顕彰した。この碑は忠魂碑と同様の趣旨を寺田屋を中心にして記念したものである。

 

 

 

 

 

薩藩九烈士遺蹟表

文久2(1862)年4月23日,  薩摩藩士有馬新七らは同藩主の父島津久光が上洛したことを機に,倒幕の兵を挙げようと寺田屋に集結したが、久光は鎮圧のため同藩士を派遣,藩士同士の闘争に及んだ。世にこれを寺田屋騒動という。この事件で死んだ9名は世に九烈士と称され,伏見大黒寺に葬られた。この碑は伏見寺田屋で闘死した薩摩藩士9名を、明治維新のさきがけとして顕彰する碑である。

 

 

 

 

三十石船とは、江戸時代に淀川を上下した客船である。乗客は、まず船宿に入り、それから乗船していた。寺田屋も有名な船宿の1つで、この付近には多くの船宿が並んでいた。淀川は平安時代以来船運が盛んで豊臣秀吉、次いで徳川家康が過書船の制度を定め、運賃や営業に対し税を課すなど取締りを行い、伏見大手筋には、過書船番所を設けていた。船の大きさは二十石積から三百石積で数百隻が運航し、貨物や旅客を運んでいた。その内三十石船は長さ約17m、幅2.5m船頭4人定員28名の旅客専用船で上りは1日又は一夜下りは半日又は半夜で伏見と大阪天満の間を運航した。船賃は江戸時代中期で約50文、途中枚方に立ち寄る。そこでは船客に「くらわんか」と声をかけながら、餅を売りにきた。そうした風俗や船内の様子は、落語や講談浪曲で有名である。なお三十石船は明治4年(1871)に廃船になった。

 

 

寺田屋騒動址

文久2年(1862)4月、尊皇攘夷派の先鋒であった薩摩藩士9名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所である。当時、薩摩藩には藩主の父、島津久光を中心とする公武合体を奉ずる温和派と、勤王倒幕を主張する急進派との二派があったが、久光に急進派の動きを押さえようとして、兵千余名を率いて京都へ入洛せんとした。これを知った有馬新七ら三十余名の急進派同志は、文久2年(1862)4月23日、関白九条尚忠、所司代酒井忠義を殺害すべく、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。これを知った久光は藩士奈良原ら8名を派遣し、新七らの計画を断念さすべく説得に努めたが失敗、遂に乱闘となり新七ら7名が斬られ、2人は重傷を負い、翌日切腹した。後ろの広場にある殉難碑は明治27年(1894)の建立で、有栖川熾仁親王の筆になる篆額を掲げる。 京都市

 

 

伏見寺田屋殉難九烈士之碑

 

 

 

 

 

寺田屋の向かいにある船着き場

 

対岸には 龍馬の銅像が立っています

 

 

 坂本龍馬 寺田屋からの避難 ➡  石碑伏0097   坂本龍馬 避難の材木小屋跡

史跡 前回の記事  ➡  史跡伏018  荷田春満 旧宅  江戸時代の国学者

 

川柳                                        

 

もうとまだ60代の選択肢   /アッチ

ことわざ

空き樽は音が高い(あきだるはおとがたかい)

空の樽はたたくと高い音がすることから、中身のない、内容空疎な人間ほどよくしゃべり、周囲をうるさがらせることのたとえ。

類・浅瀬に仇浪

 

 

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史跡伏018  荷田春満 旧宅  江戸時代の国学者

2016年12月15日 13時43分18秒 | 史跡・旧跡

 史蹟 荷田東満 舊宅

旧宅・この建物は国の史蹟に指定(大正11年3月8日)された荷田春満の旧宅である。春満は、寛文9年(1669)に稲荷神社(現伏見稲荷大社)祀官荷田姓御殿預(ごてんあずかり)羽倉信詮(はくらのぶあき)の次男として生を受け、広く国学の発展に奔走した。江戸時代中期の国学者「国学四大人」の一人であり、始祖と仰がれている。この旧宅は春満生家の一部で、書院・神事舎・門・塀など旧態を留めている。

 

関連記事  ➡  人物009  荷田春満

  墓 道  ➡ 道標伏0084  左 東丸大人墓道

 

          道標伏0085  まだ

史跡 前回の記事 ➡  史跡山017  粟田口刑場跡

 

川柳

ジャングルで暮らせば変わるエライ順    /宮本

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史跡山017  粟田口刑場跡

2016年11月09日 07時45分44秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

史跡山017 粟田口刑場跡

この地は、東国から都への交通の要衝であり、粟田口に位置しています。ここは、東海道の最後の難所日岡峠につづく高みで、粟田口峠と呼ばれていました。そのために、幾度となく掘り下げが行われてきました。

元文元年(1736)には、五条坂安祥院住持の木食正禅により粟田口峠南の木橋が石橋に架け替えられると共に、切り下げられました。文化年間には、車道(くるまみち)に車石舗装がされ、人馬道には灯籠が建てられました。幕府最後の慶応3年(1867)には、急峻な日岡峠を避け、その北に新道を付け替えました。その結果、この粟田口峠が日岡峠道の最高所となったため、明治以降は粟田口峠が日岡峠と呼ばれています。

当町内にある修路碑は、その歴史を物語るものです。

 また古来、都と郊外の境界に位置するこの地には、公開処刑場が設けられていました。江戸時代には、粟田口(日岡)刑場として、この地で磔、獄門、火刑が行われました。刑場を望む山裾には、刑死者の霊を弔い慰め、供養するために宗教者によって何基もの供養塔が建てられました。明治5年(1872)には、この刑場跡地の後ろ山中腹に粟田口解剖所が設けられ、短期間ではありましたが、近代医学の発展に寄与した場所でもあります。

しかし、明治初期の廃仏毀釈や現代にいたる開発によって、供養塔や経王塔などが破壊され、道路側溝の蓋石や石垣石などにされてしまいました。さらに、明治8~10年にかけての日岡峠切り下げ工事と、昭和6~8年にかけての京津国道改良工事などによって、景観も一変しました。そのような中で、日岡擁壁には、旧舗石車石や経王塔がはめ込まれて残され、また当町の南、日ノ岡朝田町には出土した供養塔の断片が名号碑や題目碑として復元されており、当地の歴史を知るよすがとなっています。

九条山峠町町内会  京都市

 

電柱の右に堂がある

関連記事  ➡  石碑山0068  粟田口の大名号碑  木食上人遺蹟

            石碑山0069  供養塔・題目塔 周囲に車石が多数使われています

 

史跡 前回の記事 ➡  史跡滋賀016  大津城 

 

 

今回の川柳

 

レジ並ぶコツは人よりカゴのなか   /М・K

 

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史跡滋賀016  大津城  

2016年10月25日 08時22分35秒 | 史跡・旧跡

 

 

戦国時代の終わり、豊臣秀吉は坂本城を廃し、この付近一帯に大津城を築きました。築城年代は天正14年(1586)頃とされ、初代城主は坂本城主であった浅野長吉(長政)、その後、増田長盛新庄直瀬を経て、文禄4年(1595)に京極高次が就任しています。高次の妻は浅井三姉妹の次女「お初」でしたが、慶長5年(1600)の天下分け目の関ケ原の合戦においては、東軍についたため、西軍の大軍が大津城に押し寄せ、奮闘の末、関ケ原の合戦当日、開城しています。高次は西軍の大軍を引き付け、結果として関ケ原の勝敗を大きく左右したとしてその後、加増のうえ小浜藩主に転封しています。

大津城は合戦の翌年に廃城。徳川家康は、新たに膳所の地に天下普請第1号として膳所城を築いています。なお、大津城の天守は、落城しなかったという縁起をかついで彦根城に移されています。この付近は、復元された城の縄張図と照らし合わせると、西側の外堀に位置します。城が膳所に移された大津町は、その後、東海道と北国海道の分岐点として商業都市としての性格を強め、東海道五十三次の宿場町の中ではトップクラスの人口を有する町として繁栄しました。

 

三重の堀に囲まれている

史跡 前回の記事 ➡  史跡中015  名和長年 もう1つの戦死地 三条

今日の川柳

幸福な時だと思う朝御飯  /浦

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史跡向014  長岡宮大極殿跡  石碑・行幸啓地

2016年08月31日 06時42分41秒 | 史跡・旧跡

 

 

長岡宮大極殿跡

今から約1200年前の奈良の平城京と京都の平安京の間に「長岡京」という都がありました。この公園は、長岡京の中心部にあたり、発掘調査で見つかった遺跡を保存しています。

大極殿・天皇が政治をおこなう、一番重要な建物。

小安殿・後殿ともいい、天皇が大極殿に出向くための控えの間として利用されていたようです。

宝幢・元旦のお祝いの儀式の時に7基の旗をたてました。

うち発掘で見つかった2基を復元しています

 

石碑 史跡 長岡宮跡

 昭和39年4月27日 指定

 

 

長岡京は、桓武天皇が延暦3年(784)11月11日に奈良・平城京から遷した都で、

延暦13年(794)10月22日に平安京に遷るまでの約10年間、ここ向日市が日本の中心地となりました。長岡京の規模は、東西4.3㎞、南北5.3㎞を測り、現在の向日市、長岡京市、大山崎町、京都市の一部にあたります。この長岡京の中でも役所が建ち並ぶ地域を「長岡宮跡」と呼んでいます。長岡宮の内部は、いくつかの区画に分けられます。政治・儀式の場である大極殿や朝堂院、天皇の住まいである内裏、役所の日常的業務を行う曹司、宴会を行う庭園などです。大極殿は天皇の即位や元旦の朝賀(正月の儀式)、外国使節の謁見などに用いられた古代の儀礼空間として最も重要な建物でした。(長岡京の場合、桓武天皇一代の都で、即位の儀式はありませんでした)後殿は、大極殿の北側に設けられ、平安京では「小安殿」と呼ばれる建物です。平城京までの都は大極殿のすぐ北側に天皇のすまいである内裏がありましたが、長岡京では独立して離れたため天皇が

大極殿に御す時の休憩所として後殿(小安殿)が機能したようです。

このような長岡京の存在は、古くは江戸時代から知られていましたが明確な場所特定していませんでした。明治28年(1895)、平安遷都千百年記念祭に長岡宮大極殿址保存の機運がおこり、公園東側の石碑が有志金により建立されました。

 

この長岡京跡の発掘調査は、昭和29年(1954)12月末に行われ翌1月に遺跡の存在が初めて確認されました。また大極殿の調査は、昭和34・36年(1959・1961)に宅地開発を契機に確認されその後、京都府による保存整備を経て現在に至っています。

 

 

向日市では、発掘調査などにより発見された長岡京跡の中心部の重要な遺跡を「長岡宮跡」として史跡指定を受け順次買い上げ史跡公園として整備を図り、市民の皆様に広く活用して頂けるように努めています。平成18年(2006)3月現在、史跡に指定された「長岡宮跡」は約9100㎡で、90%を公園として整備しています。

今後も史跡指定地と整備地を拡大させ、皆様に親しまれるよう努めて参ります。

 

 

 

大極殿

東西(桁行)九間、南北(梁間)四間の瓦葺きの四面庇の建物です。

長岡京の廃都後に耕作などにより削られていたため、

柱の規模は明確には確定することはできませんでしたが、

建物の土台となる基壇を発見することができました。

基壇は、東西42.8m(約145尺)、南北21.6m(約73尺)、面積約924㎡(約280坪)で高さが2.4m(約8尺)であったと考えられます。南面に3つの階段、北面に2つの階段と後殿につながる軒廊(屋根付きの渡り廊下)があります。北側の公園の中央まで、コンクリートで1段高くなった部分が基壇を表しています。

後殿

大極殿の真北に建てられた、東西(桁行)7間(27.9m)、南北(梁間)2間(12.8m)、面積357㎡(約108坪)の瓦葺きの建物です。基壇は、大極殿より低く約1.1mの高さと考えられます。

宝幢

大極殿の南の前庭に、元旦朝賀(正月の儀式)の際、東西6m間隔に正確に配列された宝幢と呼ばれる7本ののぼり旗が立てられました。長岡宮の宝幢は、元旦の使用例を示す日本で唯一の遺構です。

長岡宮の大極殿・朝堂院の特徴は、奈良時代の難波宮(大阪市)を解体して移築された点です。それは、一刻も早く平城京(大和)の地を離れ、新しい都を建設するためでした。しかし、一方で、平安京の大極殿や内裏(天皇の住まい)の配置にも繋がる特徴も持っています。奈良から平安時代への過渡期の遺跡として長岡宮跡は歴史上重要な遺跡です。

平成22年(2010) 京都府向日市

 

 

史跡長岡宮跡 大極殿

約1200年前の当地一帯には、現在の東京霞が関のように国の役所が建ち並んでいました。大極殿と朝堂院は、その最も重要な施設です。長岡宮では、回廊(通路のある塀)や築地(土塀)に囲まれた大極殿と朝堂院を南北に配し、瓦葺きの立派な建物が建てられていました。

大極殿のルーツ

大極殿は、天皇が政治を司る場所です。「大極殿」の名は、中国の宮殿の正殿「太極殿」に由来します。「太極」は、万物の根源、天空の中心たる北極星を意味します。

日本の天皇は、中国の天文思想に習って、世界を支配する中心として、

地上に「大極殿」を建てました。

建物の中心には、儀式や謁見の際に天皇が着座する「高御座」(玉座)が、南向きに据えられていました。長岡京遷都の翌年、延暦4年(785)正月の元旦朝賀が行われたと記録にあり、いち早く建設を進めなければならない重要な施設だったことが伺われます。

飛鳥時代以来、歴代の都では、天皇の住まいである内裏の南に連結して大極殿を設けていました。長岡京に都が遷されれると、大極殿は内裏から完全に独立し、

「朝堂院の正殿」としての性格が強まりました。

大極殿は、主に朝堂院に出仕する官人(役人)のための天皇の謁見の場として使われるようになりました。長岡京の大極殿は、奈良時代から平安時代に移り変わる転換期の朝廷政治を我々に示してくれています。

 

 

国指定史跡

長岡宮跡

古代日本の首都・長岡京

長岡京は、桓武天皇の命により、延暦3年(874)11月11日に奈良・平城京から、山背の(城)国乙訓郡長岡村に遷された古代日本の都です。延暦13年(794)に京都・平安京に遷されるまでの10年間、当地一帯が日本の首都でした。

都の大きさは、東西4.3㎞、南北5.3kmと広大です。

地下に眠るこの遺跡を「長岡京跡」といいます。

当時の詔に「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」とあり、

地名に因んで「長岡京」と名付けられました。

長岡という地名は、古来より、向日神社のある低い丘陵(通称・向日丘陵)を中心とする一帯を指します。

「長𦊆(岡の異体字)」と墨書された飛鳥時代の土器が、

本市から出土したことがこれを裏付けています。

都の中心地・長岡宮

都は、宮城と京域に分かれます。宮城は、都の北部中央に位置し、天皇が政治を司る大極殿や天皇の住まいである内裏、国儀大礼をおこなう朝堂院、各役所など、国家の中枢部が所在したところです。長岡京の時代「長岡京」と呼ばれ、そのほぼ全域が向日市に含まれます。京域は、宮城を取り囲む街区(道路に囲まれたブロック状の区画)です。中央に朱雀大路を配し、大路と小路を縦横に通して碁盤の目状に区画していました。区画内には、貴族の邸宅や役所に勤務する役人の住宅街、東西の市などが置かれ立派な都市空間を形成していました。

史跡 長岡宮跡

昭和36年(1963)の発掘調査により確認された大極殿跡が、昭和39年(1964)に「長岡京跡」として、国の史跡に指定されました。以後、長岡宮跡に関する重要な遺跡が発見されるたびに、同一名称で追加指定が行われました。

史跡は、文化財の種類のひとつ。歴史上または学術上価値が高いと認められる遺跡は、史跡として指定されます。国が指定した史跡は、一般的に重要文化財に相当します。

 

 

 

 

 天皇皇后 両陛下 行幸啓記念碑  平成22年3月27日  向日市

 

 

石碑 長岡宮 大極殿跡

 

 

 

 

 

 

 

関連記事 ➔  1200前の京都 大極殿

       平安宮 朝堂院跡  大極殿がよみがえった

         

史跡 前回の記事 ➔ 史跡西013  勝持寺子院跡の石塁と石垣

 

今日の俳句

びいと鳴く 尻声悲し 夜の鹿 /芭蕉


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古墳04  物集女車塚古墳 石棺も出土

2016年08月14日 08時00分20秒 | 史跡・旧跡

 

 

石室からの排水溝 出口

 

 

 

 

物集女車塚古墳の横穴式石室の床面下部には、室内へ浸透した雨水などを外部へ導く、極めて入念に作られた排水溝がある。玄室では四壁沿いに、羨道部では梱石までの両壁沿いと中央部とにあり、これらは、合流して墳丘外へと抜ける。

 この構造は、玄室から梱石までは板石を逆三角形に組み合わせたもの、梱石から羨門までは素掘りの溝に板石で蓋をしたもの、前庭部から墳丘崖面までは板石をロ字形に組み合わせたものと場所によって異なる。

 

 

 

この解説版の中央下部から顔をのぞかせている排水溝は、整備工事に際して復元したものである。長雨が通津したときは、石室を除湿する水が少しずつ流れ出る。

 千数百年を経過しても機能する小さな排水溝一つとっても、古代人の英知が伺える。

横穴式石室の床面

 

 

 床面下部の排水溝

 

蓋を取った状態の排水溝

 

排水溝 平面図

 

石室断面図

 

 

 

 

 

 

 

 

今から200年ほど前、江戸幕府は歴代天皇のお墓(御陵)を定めるための調査を行った。その結果、物集女車塚古墳はまず、淳和天皇の陵の候補となる。しかし、文久年間(1860年代)の調査では、はじめて「前方後円の築たる古墳」と記録され、大原野小塩山方面に、陵の参考地は移された。こうした経緯を反映して地元では、この古墳が「淳和天皇の霊柩車を埋めた塚」と言い伝えられてきた。

1920年代の後半(昭和初年)から、前方部の崩壊が進み、古墳の保存・修景を目的に、1983年(昭和58年)から本格的な考古学調査が開始された。荒れ放題の崖をていねいに掃除すると、地盤の地層の上に古墳の土が盛られている。高台の地層を基盤に、その上に何枚もの土層を積み置く作業によって、30度をこえる急勾配の墳丘は、崩壊や雨水による寝食をまぬがれたといえる。

 

 

 

 

古墳のかたちは、墳丘の裾ののびや、後円部と前方部のつけ根(くびれ部)を見ると、対称的になっておらず、前方部の東、つまり平野側の裾は凸形にふくらみをおびている。古墳の大きさは、削られた部分を復元すると長さ43~48m、高さ7~9m程度である。墳丘面は2段の平らな面(テラス)と上下2つの急な斜面で構成されている。墳丘中程のテラスは北が広く、南が狭いが、後円部の南・西側にむけて不明瞭になる。上位の斜面の下半分には、人間の頭ぐらいの大きさの礫を使った石組み(葺石)が設けられている。一方、テラスには小形の円筒埴輪が列をなして並ぶ。

 

 

公園の北西あるいは北部では、地盤の地層を掘り込む幅6mの大きな溝が見つかっている。古墳時代中期の大形古墳のような周濠にあたるのではなく、西側の高台との間を区画する施設と見られる。古墳の南側のくびれ部の地下では、方形上に巡ると見られる埴輪列が見つかり、くびれ部位置に凸形の「つくり出し」のような施設があったとも推定される。

 

 

 

石室内部の発掘調査の際に、石組みの部分的な法界の跡がみつかり、特に石室入口(羨道部)のひずみや石材の割れがめだった。そこで、石室の解体・復元・壁材の修理をおこなうことになった。後円部南半部の墳丘の土は大きく上部層、中部層、下部層の3種に分かれている。石室は、台地に穴を掘りくぼめ、側石を積みならべ、そのすき間を中・下部層の土を充填して作っている。これらの地層は石と石をつなぐ接着剤の役目をする。下部層は羨道部の北半部と玄室を覆っており、中部層はそのまま墳丘の骨格となっている。側壁がひずんだり、はらみ出した部分では、墳丘土と石材が分離したり、空洞ができていた。

 なお、玄室の前壁外側には、長持形石棺の一部(「龍山石」製、古墳時代中期)が、転用材として使われていたことが注目される。

当古墳の整備は平成4年度から3か年をかけて、京都府の緑と文化の基金助成金を得て実施したものである。

平成7年(1995)1月

向日市教育委員会

 

 

石室と石棺

石室は石棺を納める玄室と玄室への通路にあたる羨道とからなる。石室の床面には、小さな玉砂利が敷かれているが、その下には、複雑な構造の石組の溝を設置し、排水に努めていた。玄室には3~4回の埋葬跡が認められる。最初の埋葬には、二上山から切り出した凝灰岩の板材を組み合わせて作る家形石棺を用いた。石棺の側面や蓋石には縄掛突起と呼ばれる突起が作り出され、内面にはベンガラが塗布されている。

発掘したとき石棺の前面に散乱していた2組の石材は、本来、石棺上に載せられ、副葬品の陳列棚として用いられた可能性がある。

 石棺内からは多数の副葬品が出土した。中でも特異な金銅製冠や三輪玉等の存在は、墳丘の形態や出土埴輪の特徴等と合わせて、古墳に埋葬された乙訓地方の王が、淀川沿岸~大阪湾岸、特に紀伊周辺と関係が深いことを示す。かつ、滋賀県や福井県の古墳等とも強い共通性がみられる。6世紀前半、大和朝廷の混乱の中、ここ乙訓地方には、北陸から出た継体天皇(男大迹王)の「弟国宮」がつくられる。当古墳の埋葬者も継体擁立勢力と従属関係をもち、これらの政変と無縁ではなかったようだ。

平成7年(1995)1月

向日市教育委員会

 

 

 

左の扉が石室の入り口か 

 

 古墳 前回の記事 ➔ 古墳右03 雙ケ岡1号墳


今日の俳句

灯ふたつに 照らされてゐる 守宮かな /狐月


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史跡上012  名和長年 戦没地  

2016年06月24日 06時57分05秒 | 史跡・旧跡

 名和長年  今から、700年くらい前のことです 

 

名和長年(なわながとし)

生年不詳~1336年

伯耆国名和(現在の鳥取県大山町)を拠点に海運業を行う豪族であったが、鎌倉幕府倒幕を計画して隠岐に配流されていた後醍醐天皇が島を脱出し、名和湊に上陸して以来、天皇の忠臣となった。船上山(同県琴浦町)において幕府討伐を図る後醍醐天皇を迎えて挙兵、幕府軍に勝利し、戦功をあげた長年は伯耆守に任ぜられ、帆かけ舟の家紋を与えられた。戦では、弓の名手だったと伝えられている。その後、建武の新政下において要職を担ったが、建武3年、武家政治の再興を呼びかけて挙兵した足利尊氏と戦い、当公園の地で討死を遂げたと伝えられている。

平成28年6月22日 説明追加

半分 公園になっています  鳥居は昭和10年建立、左の標中は昭和14年建立

 

これは、昭和11年建立 此付近名和長年戦死之

建立年月 不明

こちらは 昭和14年に建立されたもの

帆掛け船の家紋

 

 

ケヤキ

井戸があったのでしょうか

奉納  全日本国防婦人会 

紀元2600年 竣工記念  と書かれています

これは明治19年1月に建立された 顕彰碑  手前の石柱は 昭和10年建立

御大禮記念樹  昭和か大正か

各柱には 数々の名が刻まれています

 関連記事  ➡   もう1つの名和長年の地 

            関連0008  御大典記念のあるところ  

 史跡前回の記事 ➡  史跡西011  樫原廃寺跡  奈良時代  

 

 

 

 


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史跡西011  樫原廃寺跡  奈良時代

2016年06月21日 06時39分02秒 | 史跡・旧跡

 

史跡 樫原廃寺跡

この寺跡は昭和42年2月から4月にかけて発掘調査され、八角塔跡などが立派に残っていることから昭和46年3月に国の史跡に指定され、永久に保存されることになった。寺跡には、一辺6mの八角形の瓦積基壇の塔跡を中心に、約35m南へ離れたところに、東西(間口)20m、南北(奥行)約11mの基壇をもつ門と、その左右にそれぞれ幅(南北)5m、長さ(東西)約22mの基壇をもつ回廊が建ち、北へ折れ曲がって南北に65m以上、幅2.4 mの基壇を持つ築地塀が建てられていたことが、発掘調査によって明らかになった

そのほか、塔路の北方約39m離れた所に堂路があるらしいことが地形から想定できる。おそらく、この堂の左右にも回廊があり東西の築地塀に達していたと予想され、堂に後方にも別の堂舎があったと考えられる。

塔跡には、今の地表から深さ約2mの地下に円形の柱型を掘りくぼめた心柱の礎石がある。また出土する単弁八葉の蓮華文をもつ軒平瓦及びその瓦を使って基壇を積む手法から、7世紀半ばに造られた寺院であったと推定される。

この樫原の土地は当時高野郡に属し、葛野の地は秦氏の勢力下にあったことから、この寺院の造営に秦氏が関与している可能性がある。

山背一円には、・・・うに地域に住む豪族が創建にかかわった寺院がいくつつか知られ、発掘調査も行われている。八角の塔をもつ形式の寺院跡はこの時代においてわが国では例がなく京都市民にとって、先祖のことを知る大きな手がかりとなり、国にとっても極めて価値の高い貴重な史跡である。

 

この地は以前から奈良朝前期の遺瓦を出土することがあり、塔跡と思われる方形の土壇があって、古い寺院であったことをしのばせていた。たまたま付近が宅地造成されるにあたり、昭和42年発掘調査が行われた。また、塔の北方は未調査だが、金堂・講堂らしき堂址があって、四天王寺式伽藍配置の寺であることを推定させた。平安初期頃まで存続した寺院であることが確認された。なお、付近には廃寺に使用した瓦を焼いた窯跡があったといわれるが、破壊されて今はない。ただし背後の丘陵には、百ケ池古墳一本松古墳など、多くの前期古墳が残存し、この地方が古代文化の繁栄地であったことを偲ばせている。

 

 

史跡 前回の記事  ➡  史跡下010  俊成社  ・ここに藤原定家も住まいしていた 


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史跡下010  俊成社  ・ここに藤原定家も住まいしていた 

2016年05月18日 08時13分24秒 | 史跡・旧跡

 

俊成社

ここは、藤原俊成の邸跡といわれ後世の人が俊成の霊を祭ったものという。俊成は平安末鎌倉初期を代表する   の父で、後白河法皇の命により「千載和歌集」を撰した。謡曲俊成忠度は平忠度が歌道に執心のこと及びその最後の様を描いた修業物即ち岡部六弥太忠澄は西海の合戦で短冊を持って都に帰り、忠度の和歌の師であった俊成の邸を訪れ、その短冊を見せる。その短冊に旅宿の花という題「行暮れて木の・・宿とせば、花や今宵の宝ならまし」と書いてあった。俊成はその文武両道に勝れたの惜しみ厚く成仏を祈る。

京都市

俊成は、左京五条四坊十三町(寺町通松原北西角)に住んでいましたが、治承四年(1180)の火災で焼きだされ、「新玉津神社」のある烏丸の俊成屋敷に移り、建久3年(1192)に戻ってきています。五条京極の家(寺町松原)が、息子の藤原定家(百人一首選者)共々暮らしていた本来の住居です。烏丸の屋敷で暮らしていたころの寿永2年(1182)7月、平家都落ちに際し、平忠度が五条の二位藤原俊成の「五条の宿所」を訪ね、自詠の歌集を託した。この地の新玉津神社は、俊成が紀州和歌の浦から自邸内に勧請し、和歌の守護神として祭祀したのだと伝わる。邸宅跡はもとは民家の中にあったが、烏丸通の拡張によって今は歩道に接している。毎年11月28日の忌日には、俊成の画像と稲荷大明神の軸をかかげ、町内の人々によってお火焚祭が行われる。

俊成の墓は南明院山にある。

 

史跡 前回の記事 ➡  史跡上009  閑院宮邸址  京都御苑内


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史跡上009  閑院宮邸址  京都御苑内 ID:bgus8a

2016年05月15日 10時42分26秒 | 史跡・旧跡

中庭 

廊下

 

床に写る 木々

 

 

前回の史跡の記事 ➡  史跡右008  龍門橋 (歌詰橋)    


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史跡右008  龍門橋 (歌詰橋)

2016年04月04日 07時01分41秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

龍門橋 (歌詰橋)

つぼの内にほひし 花はうつろひて  霞ぞ残る春のしるしに

 歌人西行がこの橋のたもとにあっ酒屋で歌を詠みあい、この歌の返歌に詰まったとの伝説がある。歌詰橋は、それに因んで付けられた名。後に天龍寺ができ、その門前に当たるところから、龍門橋と呼ぶようになったといわれる。また、橋の下を流れる瀬戸川も、かつては芹川といい、昔はこのあたりに芹が繁殖していたらしい。小倉山の麓を水源に臨川寺の東で大堰川にそそぐ。 京都市

 近辺地域記事  ➡  嵐山・奥嵯峨  

史跡前回記事  ➡  史跡下007  道元が亡くなった所 

 


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天狗・太郎坊の井戸

2016年02月24日 06時52分06秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

太郎坊の井戸

太郎坊とは、愛宕山山頂の大杉に住んでいるといわれる天狗です。「天狗経」や江戸時代の天狗番付で、筆頭に挙げられるほど強い天狗であったらしく、「火伏せの神」として庶民の信仰を集めていました。ちなみに比良山(比叡山奥)には次郎坊、鞍馬山には僧正坊と、各地の信仰対象となった山には、それぞれ天狗が住んでいたといわれています。太郎坊は室町時代の軍記物「太平記」や「平家物語」の異本である「源平盛衰記」などに登場するようです。「太郎坊の井戸」と伝えられる井戸が、常磐野の太秦宮ノ前町に、なぜ在るのか、理由はわかりませんが、空を自在に飛べる天狗からしてみれば、愛宕山から常磐野も、ほんの目と鼻の先であるのかもしれません。

 

 

天狗・関連記事 ➡  浄福寺 赤門 天狗が主役  その四・最終

              西林寺  天台宗  木槿地蔵があります

  


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