アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数4300 ミニ・テーマで京都をめぐります 随時記事更新中

樹木のこぶ 

2016年01月31日 07時40分56秒 | まち歩き

樫原の山陰街道で  大きい

 


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蔵のある風景 213回    元誓願寺黒門 付近

2016年01月31日 07時39分31秒 | 蔵のある風景

 

 

 

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三宮神社  社号標

2016年01月31日 07時36分15秒 | 神社

 

 

 

大正元年 (1912) 10月 建立

見える範囲に 神社はない


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愛宕灯籠 36  三ノ宮神社前

2016年01月31日 07時33分00秒 | まち歩き

愛宕山  大きい彫です

天保14年 (1843) 9月 建立

 愛宕灯籠まとめ・検索 ➡   愛宕燈籠 一覧  


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大善寺  浄土宗西山深草派

2016年01月31日 07時32分04秒 | 寺院

 

 

 

 

 


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蔵のある風景  212回   桂山田南町  付近

2016年01月30日 07時20分06秒 | 蔵のある風景

 

 

 

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乙訓の西国街道と向日町

2016年01月30日 07時18分29秒 | 掲示ポスター


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樫原公会堂の石碑

2016年01月30日 07時17分42秒 | 石碑

判読しにくいのですが

左は  20周年記念

右は  大正8年・・・


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樫原陣屋跡(本陣) 玉村家住宅

2016年01月30日 07時16分55秒 | まち歩き

 

 

玉村家住宅

玉村家住宅は、近世山陰道の宿場町として栄えた樫原宿の本陣として、参勤交代の大名等の宿所にあてられていた。

本陣の関して史料的に確認できるのは18世紀末以降のことで、寛政9年(1797)12月晦日に本陣の類焼したことが当家所蔵文書から判明する。再建は丹波・丹後・但馬の12藩などからの合力銀・拝借金を得て進められ、同12年4月にはすでに完成していた。現在の主屋はこのときのものである。また主屋の後方には土蔵が配されており、これは棟札より明和3年(1766)に建てられたことが判明する。

また主屋は、内部が一部大きく手が加えられているが、復元すると東から正面にかけて土間が鍵型に配され、その西に9室が3列に並ぶ平面となる。このうち西及び正面寄りの各室は改造が少なく、なかでも西列最奥の6畳は床を一段上げて上段の間に造り、柱はすべて面皮柱として西面に床と棚を構える。上段の間の南には二の間・三の間が続き、これら3室は書院造りの構成となって本陣座敷としての体裁を整えている。伏見宿の本陣が現存していない今日、こので唯一残る本陣遺構であり、また樫原宿の近世町屋として評価される。平成4年京都市指定有形文化財

樫原陣屋跡(本陣)

山陰道の樫原は、早くから宿場町として設備も整い、丹波・山陰よりの物資の集積地として賑わいを極めていました。徳川三代将軍家光公が参勤交代制をはじめますが、この陣屋は山陰道を参勤交代で往来した諸大名が宿舎とした所です。最奥の六帖は上段の間につくり、欄間・床・違い棚のある書院造りの立派な建造物です。上段の間の横には隠れ間も存在します。玄関の間、六帖、八帖、六帖と4室が続き、その他7室の併せの構えはまことに立派の一言に尽きます。諸大名が出入りした玄関門は乳門といわれています。玄関の天井板には、筆太に書かれた「高松少将御宿」「松井伯耆守御宿」等の宿札がびっしり貼られています。大名の宿帳や関札など多くの古文書も蔵されています。この本陣は、頼まれ本陣とも口伝され、享保4年(1719)に当地の豪族廣田庄兵衛永帳が京都所司代板倉氏の依頼により経営に従事。安政2年(1855)に松尾下山田の豪族で足利直径の玉村新太郎正継が継承し、今日まで5代、大切に維持されています。伏見宿の本陣が現存しない今日、市内で唯一残る本陣遺構であり、平成4年4月1日に京都市指定有形文化財となりました。

 

 

玄関付近

建物正面の右側の様子

正面の左よりの小さな門

 


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龍淵寺 と 雲林院地蔵尊 

2016年01月30日 07時13分07秒 | 寺院

龍淵寺は 浄土宗西山深草派

 

 

辻のお地蔵さん・樫原

約400年前の帝である正親町天皇より、国内の平和と朝廷の衰微を再建せよとの命を受けた織田信長公は明智光秀に丹波・丹後の平定を命じたのである。丹波国の秦之秀治は滅亡しましたが、部下の雲林院式部承高任独り樫原に逃げ辻の平兵衛なる縁故者宅に身を寄せた。名を太郎左エ門入道と改めて、佛門に入り、信仰していた地蔵尊を小さな堂宇を建て安置し、主家の菩提と諸悪消滅を祈願、日夜念仏を唱えて修行し、108歳の長寿を全うしたといわれる。この地蔵さんを雲林院延命地蔵と呼び、無病息災・諸願成就・安産に霊験あらたかなお地蔵さんとまつっております。地蔵の前で大きな釜で湯茶を沸かし「一刻のいこい」にと、樫原の街道を行き交う旅人・商人に振る舞っておりました。霊験あらたかさが今も有名で、命日の7月23日には、樫原の人々が健康で過ごしていただけるようにとお茶の振る舞いを続けています。

 

 

 


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山陰街道  樫原付近の風景

2016年01月29日 07時21分35秒 | まち歩き

 

東から西へ向って行きます

 

 

 

 

 


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石碑  勤皇家殉難地

2016年01月29日 07時20分14秒 | 石碑

 

勤王家殉難地

岩井武俊『維新の史蹟』(1939星野書店刊)によれば,山陰街道と物集女街道の交叉点にあたるこの地樫原で,元治元(1864)年7月19日の禁門の変で敗れて逃走中の長州藩士楳本僊之助と薩摩藩士相良頼元・新八郎兄弟の3名が,幕府方の追手である小浜藩士に斬殺された。村人はこれを共同墓地に手厚く葬った。ただし薩摩藩は相良兄弟は自藩士にあらずと否定したという。

  この石標は,楳本・相良兄弟の終焉の地を示すものである。相良兄弟については薩摩藩を脱藩,宇都宮藩士と称し長州藩士と行を共にしていたという説もあり,履歴が判然としない。しかし明治33年5月5日をもって「旧鹿児島相良頼元同相良新八郎」を靖国神社へ合祀するという陸軍省告示(4月21日付)が出ているので,薩摩藩士であったことはたしかなようである。

 

 

勤王家殉難之地

山陽之玄孫頼新書

 

昭和五十四年七月   財団法人京都養正社

沢田臼太郎            建之


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正恩寺  浄土真宗本願寺派

2016年01月29日 07時18分02秒 | 寺院

平成27年12月13日 撮影

 

 

 

 

 

 


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蔵のある風景  211回   桂山田南町 付近

2016年01月29日 07時17分02秒 | 蔵のある風景

 

 

 

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愛宕灯籠  35   桂・廣見寺門前

2016年01月29日 07時15分01秒 | まち歩き

 

 

愛宕山常夜燈

 

 

天明元年(1781)8月建立

愛宕灯籠まとめ・検索 ➡   愛宕燈籠 一覧  12月10日 29 .30  .31  追加


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